童子、三股淵の大蛇の噂を聞く
「童子様は
「田子とな? うむ。ここ吉原からすぐ目と鼻の先ではありませぬか。かの山部赤人が富士の句を詠んだ場所ですな」
「はい。その湊には深い淵があるそうです」
「おお、
田子の浦湊は、万葉集にも収められた歌、「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」でも有名な駿河の国の港だ。
この田子の浦には、
「はい。その三股淵とやらに、最近、
「なんと。この天正の世になって、いまだに
「はい。実は
おあじは、そこまで話すと一息をついた。意識をしてかしないでか、しきりに猫の背を撫でている。
「翌朝、目が覚めると、皆がなにやら騒いでおります。旅籠の屋根に白羽の矢が立っていたのです。すぐに
「なんと」
「私共にとっては、寝耳に水でございました。しかし、一番上のお姉さんが話を着け、一両日の猶予をいただいたのです。私共は、相談をしました。このまま大人しく籤を引くか、それとも、いっそのこと逃げ出してしまおうか、と。
しかし逃げると言っても、7人もの巫女姿の女子が出歩けば、嫌でも目立ちますゆえに、出来かねます。かといって、籤による神の御差配だとしても、誰かひとりが犠牲になるというのも無体な話でございます。堂々巡りの不毛な議論が続きました。そこで私は――」
おあじは一旦言葉を切り、一呼吸おいて続けた。
「そこで私は、自らが残ると申し出たのでございます」
「おあじ殿が自ら犠牲にとな?」
「犠牲……そうでございますね。正直な所を申し上げますと、堂々巡りを繰り返し、お姉さん方の間の空気が険悪になってゆくのに堪えられなかったのでございます。
ましてや、私めは7人の中でも一番の
おあじは真っ直ぐな目でそう言い切った。
「なんともはや。それで、
「いえ。そこで私は一計を案じました。この左目を、自ら突いたのでございます」
「なんと……」
「古来より神は、二つ目より一つ目のものを好むと伝え聞いております。なんでも、そのほうが神の御姿に近いとか。ゆえに、私が片目を失えば、
童子は胡坐をかいて聞いていたのだが、居住まいを正してこう言った。
「おあじどの、方々は納得したのではありますまい。おあじ殿のお覚悟に敬意を表したのでございましょう。それはそうと、方々は今いずこに?」
童子は室内をきょろきょろと見回したが、部屋にいるのは童子とあおじ、それとすっかり丸くなっている曾良ばかりである。部屋の隅に纏められている荷を見ても、
「はい。お姉さん方は、私を村長様に預け、
「そうでありましたか。何か
「国許の神社に当り、大蛇を祓うことができる神主様を連れてくるとの事です。それまで、ゆめゆめ贄の儀式なぞ執り行わぬようにと申しつけられておりまする」
「ふむ。大蛇を祓うと」
「はい」
そこまで話し終えると、おあじは気が楽になったのか、にっこりと微笑んで、猫を抱き上げ膝の上に置き、その喉をくすぐり始めた。猫は目をつぶり、そうされて当然といった顔をしながらも、ごろごろと喉を鳴らしている。
「そういったわけで童子様。この曾良さんは、おそらくは私を憐れみ、何くれとなく運んで来るのでございます。おわかりいただけましたでしょうか。とはいえ猫のこと。単に自慢をしに来ているだけかもしれませぬが」
おあじは袖で口を隠すと、ふふふ、と笑った。すると、斜め刺しに焚いていた香がぽとりと落ちた。
「あら、私の話ばかりを聞いていただいているうちに、すっかり夜も更けてしまいましたね。童子様、今宵はこちらへお泊り下さい。明日になったら、元のねぐらへとお連れします。燕や
「いやいや、それには及びませぬ」
「いいえ。ご迷惑をおかけしたのです。明日、自らお帰りになるとしても、今宵は足をお安め下さい。そうだ。湯を頂いて参りますわ。童子様であれば、手桶を湯船代わりに使っていただけます事でしょう」
おあじは、童子が制するよりも早く立ち上がると、いそいそと旅籠の奥の方へと消えて行った。
「やれやれ。これは参ったことになったぞ。関わってしまったからには、このまま帰るというわけにもいくまい。第一、妙な事が多すぎる。ううむ」
童子は正座を崩して胡坐をかくと、腕を組んで考えた。そして猫を見ると、恨めしそうにつぶやいた。
「これ、曾良殿、おぬし、いったいどこまで解って私をここに連れてきたのだ。本当の所を教えてはくれぬものかのう」
猫はちらりと童子を見た。しかし、何も答えず尻尾を一振りすると、それっきり丸くなって寝てしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます