4.衙門通久
「あ、不良だ」
背後で上がった不躾な声に、衙門は露骨に眉をひそめた。元から目付きの悪い彼がそうすると、それだけで気の弱い人間ならすくみ上る表情になる。振り向いた彼が見たのは、そんな彼に動じた様子を微塵も見せない女子だった。手には竹刀を持っており、胸元のリボンの色で上級生と分かる。空坂高校の敷地の隅、人けのない林の中で自分と対峙して危機感を感じさせない彼女の表情を、衙門は怪訝に思った。
「……何の用スか?」
押し殺したような低い声にも、彼女の余裕は揺らがない。
「用というか、アレだ。アンタ強いっしょ?」
彼女の言う「強い」の意味が分からず、衙門の目がさらに細まった。
「それは喧嘩って意味でスか?」
「おうともよ。ここに、竹刀がある」
そう言って、彼女は手にした竹刀を肩に担いだ。
「あたしは腕力枠が欲しいの。だけど一人いれば充分。だから、見た感じ強そうでロンリーな衙門君に白羽の矢が立ったって訳。お分かり?」
「言ってる事はさっぱり分からんが、アンタが言いたい放題言ってるのは分かった」
「充分。だからさ、あたしと勝負しない?負けた方が言う事聞くの」
彼女は竹刀の先を衙門に向けた。その行為の意味を察し、衙門の神経が尖った。
「……本気で言ってんのか先輩?」
言葉から、元からおざなりだった敬語のニュアンスが抜ける。
「モチのロンよ。あ、これは借り物だからあんまり傷つけないでよ」
明け透けな言いぐさに、衙門は口の端をわずかに上げた。衙門は彼女の物怖じしない態度を、少なからず気に入ったのだ。
「……よえー奴にばっか絡むしょーもねーのしか見なかったからかな。アンタみたいなのがいて心底嬉しいと思えてきた」
「お、意外と正義漢?いいねいいね、ますます欲しくなってきた」
嬉々として言いながら、彼女は竹刀を構え直した。
「男女平等、剣道三倍段。遠慮はいらないよ」
頼もしい発言に、衙門は笑った。
「俺が素手でようやく公平だな」
彼は深く息を吐き、腰を落として身構えた。
「まーちゃん、言っといてくれた?」
昼休み、篠田が纏にそう尋ねた。纏は彼女に言われた事を思い出し、頷いてみせる。
「うん、言っといたよ。反省してるかどうかは微妙だったけど」
「あー、だろうねぇ。注意しても直しそうにないもん」
纏は言い過ぎだろうと思ったが、篠田のこう言う気持ちにも同意はできた。篠田も、御深山に口説かれた一人なのである。
「ま、篠ちゃんはともかく、私には関係ない話だけどね」
「まーちゃんは小さいからねぇ」
「小さい言いたいだけでしょそれ」
纏がむくれると、篠田はその反応を楽しむように笑った後、ふと思い出したように彼女に尋ねた。
「そういえばさー、清原先輩も利他部でしょ?彼氏とかいないの?」
「えぇ?うーん、知らないけどそういう人のいる感じはないと思うよ」
「ホントに?じゃあさ、同じ部活にそれっぽい人は?」
纏は利他部の三人の男子を振り返り、うぅん、と首を捻った。
「……まだよく知らないけど、多分全員違うと思う」
「えーホントー?じゃあ教えてよ、男子はどんな人がいるの?」
この質問に纏は躊躇したが、部室の事を言わなければ問題はないだろうと思い教える事にした。纏本人にとっても、改めて今の利他部の面子を把握するのに必要な事だった。ふと、昨日御深山に聞かされた話を思い出す。
「……」
利他部。
それは空坂高校で学外でのボランティア活動を行う部活である。しかし同時にそれは、空坂で正義の味方として市民権を得ている集団レスキューメイトの正体でもあるのである。纏は自分が部長として顔を隠した正義の味方を率いる姿を想像し、眩暈を覚えた。夢占いにでも照らし合わせてみたくなるような、現実感のない光景である。
「どうしたの、まーちゃん」
「ううん、なんでもない。……部には全部で五人いて、男子は三人いるの」
説明に戻り、纏はそれぞれの特徴を振り返ってみた。
住良木は顔付きだけなら知性的な印象を受けるが、表情を変える事がほとんどない。質疑応答以外の無駄口をあまり叩かないので人間味がないのかと思いきや、不意ににこりともせずに反応に困る発言をかましてくる。なまじ利他部で一番見てくれが良いだけに、そのギャップは大きかった。纏にとっては何回も話をした相手ではあるが、未だに彼に対しては理解に困る部分が多かった。
「三年の住良木先輩は、なんていうか言い様がない人だね」
「イケメン?」
「ん?うーん、かっこいいとは思うよ。でも何だろ、何考えてるかよく分かんない人なの」
はっきりしている事といえば、いわゆるオタク趣味を持っている事くらいだ。だが纏にはそれを説明する気は起らなかった。
「じゃあ、他は?」
「後は、両方二年生だね。御深山先輩もそう」
御深山は男子の中でも相当背が高く、そのせいか周りの人間を見下ろす事に慣れたような言動が目立っていた。しょっちゅう憎まれ口を叩いては、清原や衙門とよく険悪な空気になっている。纏からすれば、最近こそ慣れてきたが、彼がいるだけで喧嘩になるのを危惧してしまう程だ。ただ、キャラメルの事もあり、纏は以前ほど御深山に悪い印象を持ってはいなかった。
「まあ、シノちゃんの思っているような人……なのかなぁ」
異性にモテない事を気にしているようでファッション誌を読んでいる事が多いが、昨日などはガラクタとしか思えない雑貨の山を工具を持っていじっていた。これについては説明が付かず、纏は彼についても知らない事が多いのに気付いた。
「御深山先輩はいいや。どうせ違うだろうし」
「シノちゃんばっさりいくね」
「興味ないもん。で、もう一人は?」
篠田の御深山に対する容赦の無さに、女の子だなぁと纏は苦笑した。
「後は、衙門先輩だね。あの人は不良っぽい……のかなぁ?」
纏は衙門を説明しようとして、不意に不良という言葉が彼に似合わないように思えた。
衙門は見た目からして不良のようではあるが、纏の知る限り、彼が自分から問題を起こした事はない。問題を起こすのは、どちらかと言えば御深山の方だ。当の衙門はというと、絡まれた住良木に加勢に来たり、黙々とトレーニングに励む等、外見に反して素行が良い。しかし口を開くと、ぶっきらぼうな物言いのせいでどうしても不良じみて見えるのである。纏はまだ彼とはあまり意識して会話しようとした経験がないのを思い出し、彼についてはまだ憶測でしか語れなかった。
「ん、どうしたの?」
「ごめん、衙門先輩はちょっと説明できないや」
「訳分かんない感じ?」
「んーん。何だろ、見た目と中身がなーんか違う気がする。意外と真面目なのかな?」
「まあ、衙門先輩だしね」
「あれ、知ってるの?」
「会った事はないけどさ、噂はたまに聞くの。多分、浮いた話の出る人じゃないよ」
「そうなんだ……。やっぱ、喧嘩してるとか?」
「してるねー」
纏はこれ以上を聞く勇気がなかった。篠田も衙門への興味はすでに失せたらしく、聞いた限りの話を吟味してふーむ、と唸った。
「……言っちゃ悪いけどさ、全員残念な感じっぽい?」
「そんな事言っちゃ駄目だよ」
咎めはしたが、纏にも否定はできなかった。ともあれ、同じ部の中で浮いた話がなさそうだと分かりほっとしたのも事実である。纏にとって恋愛沙汰の話は手に余る。
篠田は纏の反応を見ながら、納得したように背を椅子の背もたれに預けた。
「何にしても、清原先輩に彼氏はいなさそうだね」
「うん、多分ね。でもさ、何でシノちゃんがそんなの気にするの?」
「決まってんじゃん」
篠田は真面目な顔になって纏に顔を近づけた。
「うちの部活の男子がうるさいからよ。いないってはっきり言ったら、少なくとも私には聞きに来なくなるでしょ」
篠田の所属する陸上部で清原の話題が出たのだろうとすぐに分かり、纏は納得できた。清原の話を聞き出そうとする貪欲な男子学生の群れを相手にする様を想像し、篠田に同情する。
「まぁキヨさん美人だからね。……ん?」
纏の目が、教室の窓の向こうに見覚えのある姿を見つけた。それがもし清原だったら纏は今ほど驚かなかっただろう。
「あれ、衙門先輩?」
纏の視線を追って、篠田も彼の姿に気付いた。
「あ、ホントだ」
衙門に、二人の視線に気付いた様子はない。彼は中庭の中央に生えた桜の木を囲むように設けられたベンチに腰掛け、大福のような形のパンを黙々と咀嚼していた。中庭にはこの他に六本ほどの桜の木が植えられており、数人の生徒が思い思いの場所に集まって自由にしているのだが、衙門の半径三メートル程には誰も近づこうとしていなかった。彼を避ける生徒の顔ぶれは様々で、頭の黒い優等生もいれば頭の黒くない一団もいた。
「あれ、衙門先輩、不良にも怖がられてる……?」
「あー、やっぱり噂通りみたいだねー」
篠田の呑気な言いぐさに、纏は彼女の言う噂の内容が気になった。
「どんなの?」
「ほら、うちの学校でもさ、隠れてカツアゲやってるのとかいるらしいじゃん」
纏の表情がすぐに強張った。まさか衙門がそれに加担してるのではと勘ぐり、緊張して説明の続きを待つ。聞かされた答えが悪いものだった場合はどうしようかと彼女が思索を巡らせ緊張していると、篠田はあっけらかんとこう言った。
「そういうのの現場に割り込んで、全員やっつけちゃうんだってさ。助けられたって言う人もちょいちょいいるよ」
纏は最初、呆気に取られた。篠田の言葉を理解した瞬間、彼女は篠田をまじまじと見、次いで衙門のいる方向を見た。
衙門は相変わらず黙って食事を続けていたが、食べ終わるとすっくと立ち上がった。彼の挙動に、中庭にいる数人の生徒の目が集まる。衙門は視線を気にした風でもなく、静かに中庭を出ていった。生徒達は彼が出ていくのを見送ると、揃ってほっとしたように息をついていた。誰もかれもが、彼を恐れていたのだ。
「……ホントに?」
「私だって聞いた話でしか知らないよ」
篠田に渋い顔を向けられ、纏も渋面を浮かべた。篠田の目は、「自分で聞いてよ」と言っていたのである。
放課後、篠田と別れた纏は校舎裏へと向かう事にした。一年生の教室の並ぶ廊下を歩くと職員室に面した丁字路に行き当たり、左に行けば上級生のいる二階や三階へ登る階段に、右に行けば校舎の入口につながる通路に出る。 纏は外に出ようと丁字路を右に曲がる。そこで彼女は、見覚えのある人物の姿を目にした。下駄箱の並ぶ玄関に足を踏み出しているのは、利他部の三年生だ。
「あれ、住良木先輩?」
纏の呼ぶ声に気付いたのか、彼は足を止め纏の方を振り向いた。
「部長か。……ふむ」
何を考え込みだしたのか彼は動きを止めた。纏は彼の反応を奇妙に思いながら彼に近づく。
「どうかしたんですか?」
「いや、何。女の後輩に先輩などと呼び止められるのがなかなか貴重な体験でな。感慨深いと思っただけだ」
「……私はとっても無駄な時間を過ごした気がします」
纏はにこりともせずにおかしな事を言う住良木に、白けた目を向けて言った。
「言うようになったな」
「おかげさまで。先輩も部し……ごほん、あそこに行くんですか?」
「そうだな。今日の活動予定はないが、あそこは落ち着くからな」
住良木は下駄箱から靴を取り、靴を履き替え始めた。纏も彼を追おうと一年の下駄箱に向かい、急いで靴を替えると彼の前に出た。
「部長もあそこに行くのか?」
住良木が歩きながら纏に尋ねる。纏も彼と並びながら、これに答えた。
「誰かが来るかもしれませんから。何せ部長なので」
纏の返事を聞いて、住良木はまたもふむ、と唸った。
「熱心な事だ」
まさか学費が理由だとは言えず、纏は返事をごまかすつもりで曖昧に笑った。そこでふと、纏は好奇心が湧いて小声でこう呟いた。
「……レスキューメイトの出動もありそうですし」
横目でちらりと住良木を見る。彼の表情に変化はなかったが、踏み出そうとした足が止まった事が何より彼の動揺を表していた。
「……誰に聞いた?」
「御深山先輩からです。あの人は正直で助かりました」
纏は嫌味っぽく言って住良木を見上げた。住良木はやはり表情を変えなかったが、その視線は右に逸れていた。
「……生来、嘘が下手でな」
「それでもコスプレはどうかと思います。何で嘘をついたんですか」
住良木は口を開きかけた。しかし何も言わぬうちに、再び口を閉じた。
「ひょっとして、私にずっと隠すつもりだったんですか?」
住良木はすぐには答えなかった。図星か、と纏が視線で問うと、住良木は誤魔化すように口を開いた。
「……なら聞くが、部長はレスキューメイトを率いる立場になりたいか?」
「正直言うと遠慮したいですが、やれと言われればやらざるを得ません」
纏は正直に胸中を述べた。レスキューメイトとしてやる事はさっぱり想像できなかったが、正義の味方をやれと言われて素直にしようと思う程、纏は夢見がちではない。
「するつもりはあるのか」
「でないと色々おかしいんです」
気は進まなかったが、纏に断るつもりはなかった。校長が自分を利他部の部長に指名した理由が、これにあると思ったからだ。
「……どうも部長にも事情があるらしいな」
「ええ、まあ」
「ならば言うが、私達にも事情がある。詮索は互いの為にならんと思うが、どうだ?」
纏としても、学費の事を知られるのはあまり気分の良いものではなかった。
「……そう、ですね。でしたら、後で部活についてもっと教えてください」
「利他部のか?」
「できればレスキューメイトも」
「それは駄目だ」
「なぜですか?」
纏が尋ねると、住良木は強い口調でこう言った。
「当代でレスキューメイトは終わるだろうからだ」
纏は結局、利他部の部室には行かなかった。今日は活動の予定がなく、且つ、部室に行き辛くなったからだ。駐輪場に向かいながら先ほど別れたばかりの住良木の言葉を思い出し、纏は気分が重くなった。
「どういうつもりなんだろ?」
レスキューメイトが終わる。その事実と、纏に情報を与えない事とは簡単につながる。後輩にする事を教えなければ、それだけで部活動に支障をきたす。住良木達全員が何も言わずに卒業してしまえば、それは簡単に実現されるのである。纏に分からなかったのは、住良木達がレスキューメイトを存続させるつもりがない理由だ。
「何か嫌な事でもあったのかな?……あ」
纏は気付いた。利他部にはまだ一つ、分かっていない事がある。かつての部長、つまり今はいない五人目のメンバーの事だ。その人物が、何かしらレスキューメイトについて関わっているのは明白だ。
「……校長先生に聞こう」
纏は即断し、踵を返した。校長室に向かおうと再び校舎の玄関に向かい、下駄箱の前に差しかかる。すると下駄箱の陰から、纏と鉢合わせになるように誰かが現れた。その胸にぶつかりそうになり、纏は慌てて立ち止まった。
「あわ、すいませ……」
纏は視線を上げ、直後見た顔に身を竦ませた。鋭い眼光と睨みつけるような表情は、至近距離で見るには心臓に悪いものだった。
「……正直過ぎんぞ、その反応」
纏を睨みつけたまま、衙門が呟いた。纏は我に返り、咄嗟に一歩下がって謝る。
「す、すいません。いきなりだったので、つい」
「ついと言える辺り、俺に慣れてはいるんだな」
衙門が呆れたように言うと、纏はこれに曖昧に笑った。見た目にある程度慣れたとはいえ、纏にとっては利他部の面子の中で一番会話の少ない相手である。纏は視線を下げると、衙門の着ている服が制服ではなく、学校指定のジャージなのに気付いた。
「衙門先輩、掛け持ちしてる部活があるんですか?」
「あ?あー……、いや、走り込みだ」
衙門の歯切れの悪い答えに、纏は含んでいるものを感じた。二日前のトレーニングの様子から、走り込み自体が嘘ではないのは分かる。しかし何か、他の目的がある気がして纏はじっと彼を見た。一方、衙門は自分を黙って見上げている纏の視線に、次第に落ち着きをなくし始めた。
「……な、なんだ?まだ用か?」
「何か隠してません?」
「べ、別に、いいだろ。お前には関係……」
「部長です。部活に関する事ならきちんと教えてください」
纏は距離を詰め、衙門を間近で見上げた。間合いを詰められた衙門の顔に、途端に狼狽の色が現れる。初めて見る彼の表情に纏が更に注目し、ついに衙門は彼女から視線を逸らせた。
「わ、分かった、言う!言うから離れろ!」
みるみる間に彼の顔が赤くなる。声を大きくした衙門に、纏は少し驚いて彼から離れた。彼の態度の変化がまるで分からず、彼女は首を傾げる。
「何なんですか一体?そんなに焦って……」
纏は思い当たる理由を探そうとして、ふと御深山の言葉を思い出した。
『女が怖い功夫馬鹿は黙っちょれ』
「あ、え?って事は」
纏は改めて衙門を見、目を丸くした。
「衙門先輩、女子が苦手なんですか!?」
「わ、悪いかよ!」
衙門は否定しなかった。
「えー……。全然そんな素振りなかったじゃないですか」
「長い時間は目を見れねーだけだ、そんなの普通だろ」
言われて纏は、彼が纏や清原と長く目を合わせていた事がないのに気付いた。いつもすぐに纏と目を逸らしていたのもこれが理由と分かり、彼女はそれまで抱いていた、彼への恐れが微塵もなくなる。
「……それで、隠し事なんですけど」
「お、おお。学校中を回るんだよ。走り込みを兼ねてな」
ようやく調子を取り戻した衙門が、襟元を整えながら答えた。
「それってつまり、見回りって事ですよね。……パトロール?」
「別にそういう訳じゃねえけどよ……」
衙門は続く言葉に迷うようにごにょごにょと口を濁した。否定しないという事は、つまり肯定したも同然である。篠田から聞いた噂が本当だとすれば、彼は自発的にパトロールをしている事になる。
纏は少し考えた後、彼に尋ねた。
「一緒に回っていいですか?」
「は?」
衙門が怪訝な顔をして纏を見た。しかし、じっと自分を見上げる纏の視線からすぐに目を逸らす。
「私まだ衙門先輩の事よく知らないんです。なので、今日だけ何をやっているのか見せてもらいたいんです」
「つまんねーからやめとけ」
「嫌です」
「何でだ」
「先輩を信用したいんです」
衙門がはあ?と声を上げて纏を見るが、すぐに纏から目を逸らした。彼女はそれを咎めず、話を続ける。
「お母さんが言ってました。『仲良くなりたい相手と同じことをしろ』って。衙門先輩とはあまり話していませんでしたから、今日から付き合わせてほしいんです」
纏がそう言った時、二人の周りで空気の質が一気に変わった。自分に向けられたいくつもの視線に気付き、纏が周りを見回す。帰ろうとしていた数人の生徒達が動きを止め、全員が我が目を疑うように目を見開いて二人を見ていた。どうしたんだろう、と纏が衙門を見上げると、彼の顔は赤かった。
「お、おま、おま……」
喘ぐようにぱくぱくと口を動かす衙門。纏は彼の変化がまるで理解できず、首を捻るばかりだった。
「……、紛らわしい事言うな、馬鹿!」
衙門は逃げるようにその場を去った。その足が思いのほか速く、纏は慌てて後を追った。
「え、ま、待ってくださいよー!何が紛らわしいんですかー!?」
衙門を追う纏。その様子をたまたま見ていた篠田由紀は、思わず正直な感想を口にした。
「……まーちゃん、男の趣味悪っ」
衙門のしている事は、まさに走り込みだった。背筋を伸ばし、一定のペースを保ちながら学校の敷地を塀沿いに自分の足でぐるりと周るのである。纏はそのペースに決して追い付けなくはなかったが、長い時間続く運動に、次第に息が荒れてきた。衙門は彼女の呼吸のリズムが乱れたのに気付き、迷惑そうな顔をして後ろを振り返る。
「もういいから帰れ部長、辛そうだぞ」
「ひぃ、くひっ、ひい、まだまだ」
「慣れてねーなら無理すんな。倒れても知らねーぞ」
言いながら、彼はペースを落とし始めた。纏も彼に合わせ、そのおかげで息を整える余裕が生まれる。ようやく落ち着いた纏は、自分達が今、利他部につながる物置のある校舎裏の辺りにいる事に気付いた。足を止めようと決めた場所を目の前にしての焦りから、纏の動悸が速くなる。自分の呼吸を落ちつけるつもりで、纏は衙門に話しかけた。
「そういえば、衙門さん」
「あ?」
答える衙門の声に、疲れはない。
「衙門さんの噂を聞きました。喧嘩してるって」
「あー……、まあな」
曖昧な返事に、纏は彼から引け目のようなものを感じとった。動機は立派だとは思うが、それでも纏には乱暴な真似を良しとはできなかった。
「何でそんな事するんですか?」
衙門はすぐには答えず、黙ったままだった。黙々と走り続けるその様子は言うべき言葉を探っているようで、纏は黙って答えを待つ。やがてぽつりと、彼はこう呟いた。
「……性分だ」
纏は衙門の隣に回り、その顔を覗き込んだ。
彼の顔は、痛みを堪えているようなものだった。まるで思い出したくないものを思い出そうとするまいとしているようで、纏は他にも理由があると感じたが、それ以上を追及する気にはなれなかった。
纏は一人で部室に入ると、誰もいない事を確認しモニタに声をかけた。
「校長先生」
すぐにモニタに校長の顔が表示された。
『何だい、相原くん』
「いっつもそこにいますね」
『偉いからね』
校長の軽口に、纏は相槌を打つように笑った。その後、部室中央の机を囲む椅子に座り、机に肘を乗せる。彼女の表情は神妙なもので、校長は彼女の様子に気付き真面目な声で尋ねた。
『どうしたんだい?何だか、悩んでいるようだけど』
纏は顔を上げ、モニタに映る校長を見上げた。
「……教えてもらったんです。利他部がレスキューメイトっていう、正義の味方みたいなものをしてるって」
『知られちゃったか』
「教えてもらいました」
纏は校長の反応から、彼がレスキューメイト結成に一枚噛んでいるのだというのを確信した。
「別にそれはいいんです。やってる事は良く知りませんけど、立派な事だと思いますし、私が否定する事じゃありません」
『それはありがたいね』
「ただ、私が思っているのは別の事です」
『何だい?』
纏は話すべきか迷ったが、利他部の他の誰にも言えない話だと思い話す事にした。
「私は今、なんだか探っちゃいけない事を探っている気がします。でも、私に隠している事のせいで皆が元気をなくしているんじゃないかとも思うんです」
『……』
校長は何も言わず、彼女の言葉の続きを待った。
「私は部長です。部員の先輩達だって、仲は悪そうだけど一人一人はいい人ですし、きっと何かあったからいつもいがみ合ってると思うんです。だから、何があったのか教えてください。部のために出来る事をしたいんです」
纏はそこまで言って、じっとモニタを見上げた。纏を見下ろす校長の表情は固かったが、その目は彼女の熱意を拒むものではなかった。
『君は不躾かもしれないが、とても気の付く子だね』
纏は固唾を呑み、校長の返事を待った。
『この件については、私からは彼等に干渉し難かった。私のせいだと言われても反論できない。君に話す事が私の責務なら、きちんと話さないとね』
いよいよ知りたかった事が聞けると、纏は居住まいを正した。
『今から校長室に来なさい。君に会わせたい人がいる』
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