2.清原美音

「清原さん、ちょっといい?」

 清原は自分を呼ぶ声に振り返り、声の主を目の当たりにした。清原より背の低い、同性の上級生がにこにこしながら清原を見上げている。声をかけたその上級生の溌剌とした表情に、清原の頬が緩んだ。彼女は膝を軽く曲げ、相手と視線の高さを合わせて尋ねた。

「どうしたんです、先輩?」

 幼い娘に話しかけるような口調に、その上級生がむっとしたように口を結んだ。

「失礼だなー、二年生。もっとカッコよく対応してよ」

 そう言われて、清原は他の生徒達に自分がどう思われているかを思い出した。

清原は女子にしては身長が高く、しゅっとした顔立ちと相まって男子よりもむしろ女子に人気がある。本人としては年頃の女性らしく見られたいという本音があったが、だからと言って今さら持ち物の趣味を変えたり、媚びたような言動を覚えたりする気もなかった。一人っ子なせいもあって、年下に好かれるのもまんざら悪い気はしていない。

 なので、清原は夢を壊すまいと表情を取り繕い、彼女に謝った。目の前にいるのは上級生なのだが、彼女の容姿や物腰が下級生のようでもあり、清原の態度は自然と年下に対するそれになっていた。

「ああ、すいません。どうしても気が緩んでしもうて……。それで、ご用件は?」

「おっと、そうだった。私は勧誘に来たの」

「勧誘?」

 清原は首を傾げた。上級生も同じ方向に首を傾けて、清原の目をじっと見た。

「そ。背が高くてカッコいい清原さんに、是非ともカッコいい事を手伝ってもらいたいの」

 上級生がそう言うと、清原の表情がわずかに曇った。

「……本当はあんまりそういう風に言われるの、好きやないんですよね」

「あ、そうなの?ごめんね。美人だなって思ったからずーっとチェックしてたの。もし嫌だったら断ってもいいけど、どう?」

 さっぱりした謝罪に、清原は視線を上に傾けた。んー、と悩むように唸ると、やがて彼女は上級生にこう言った。

「いいですよ。褒めてもらえて悪い気はしませんし。……ただ、条件があります」

「条件?」

 固唾を呑む上級生に、清原は真面目な顔でこう言った。

「お姉ちゃんって呼んでください」

「あたしが先輩だよ?」


 相原纏の朝はベルの音で始まる。時計の針が六時半なのを確かめると彼女は目覚ましを叩いて黙らせ、その後いそいそと制服に着替えた。起こしてくれる人間はいないので、迂闊に二度寝はできない。朝は必ず何か食べろと母に言われて以来、彼女が朝に寝る時間を伸ばした事はなかった。

 トースターにパンを入れてから家を出、ポストから朝刊を取って引き返す。新聞を抱えたままキッチンに向かい、コンロに火を入れてフライパンにハムと卵を入れる。白身の色が変わったところで火を止めると、トースターからパンが跳ね上がった。

「さーてご飯ご飯」

 いそいそと焼いたものをパンに乗せると、それで食事の用意が終わる。纏は椅子に座って新聞を広げ、いざ食べようと大きく口を開けた。パンを持った手が彼女の口へと近づけられる。

 しかし新聞に落とされた目が見出しに向けられた瞬間、纏の手は止まった。彼女は食事を忘れ、パンを置いて新聞を持ち上げる。

“レスキューメイト機能不全?”

 見出しにはそう書かれていた。

 概要はこうだ。一昨日に起きた火事の現場、ちょうど纏が中央公園で目撃した場所にレスキューメイトが現れた。人数は四人。いずれも装備に身を包み、消火活動にあたろうとしていたようであったが、野次馬一人押しのけられず現場の喧騒に翻弄される有様であった。かつての活躍が嘘のようであり、消火活動において彼等の貢献は全くなかった。

 纏の注意をなにより引いたのは記事の内容ではなく、その記事に載せられた写真だった。窓や換気扇の孔からもうもうと煙を吹く木造家屋の前に人ごみができており、纏の目から見ても彼等が消火の妨げになっているのは明らかだった。その群がる人の群れの中に、異彩を放っている存在がある。

 オレンジ色の上下に身を包み、ヘルメットをかぶっているその姿は消防隊員に似ている。しかし装備やヘルメットの形状にいくつも違いがあり、纏は写真の中のそのヘルメットの形状に見覚えがあった。

 纏は記事を食い入るように見ていたが、そこで壁に賭けられた鳩時計が一声あげた。我に返った纏は時間が経った事に気付き、慌てて食事に戻った。鳩の仕掛けの鳴き声は、彼女にとって遅刻しないぎりぎりの時間を知らせる警鐘だ。食べながらも新聞にざっと目を通し続け、母に関係していそうな記事を探す。完食した頃には相原千代のあの字もないのを確認できた。

 遅刻するまいと、纏は早々に家を出た。学校に向かって自転車を走らせる内、同じ高校の生徒の姿を見かけるようになる。その人数の多さを見て、纏は普段よりも家を出るのが遅れたのを改めて感じ、速度を上げた。

「あれ、あいちゃん?」

 ふと覚えのある声を聞き、纏は横を見た。彼女の走らせる自転車の隣で一台の自転車が並走している。乗っていたのは清原だった。

「あ、キヨさん」

「おはよ」

 彼女は全力でペダルをこぐ纏に並びながら、涼しい顔でそう挨拶した。

「おはようございます」

「いつもこの時間なん?」

「いえ、今日は遅くなっちゃいました」

「あー、ほやったら気をつけんといかんねぇ。お母さんおらんのやろ?」

「はい。一人だから自分でしっかりしないと駄目ですね」

 ほうやねぇ、と清原が相槌を打った頃には、二人は高校の正門をくぐっていた。纏は今朝の朝刊の内容について聞こうか迷ったが、そんな暇はなかった。街路樹に挟まれた長い一本道を渡って右に曲がり、校舎の横に位置する駐輪場まで行くとようやく彼女達は自転車を降りる事ができた。

「じゃあ、またね」

 清原は纏に手を振り、早足で駐輪場を出て行った。三年生の教室は三階にあるので、清原に限らず走って校舎に入っていく生徒は多い。学年によって足並みの速さが違い、纏を含む一年生達の歩みは、当然のろいものになっていた。

 歩いて校舎へ入ろうとする纏を、後ろから呼び止める声が上がった。

「あの、相原さん?」

 何だろうと纏が振り向くと、同学年らしき女子がすぐ傍にいた。

「何でしょう?」

「さっきの人って、三年の清原先輩でしょ?一昨日も相原さんを探してたけど、どういう関係?」

 尋ねる女子学生の顔は真剣で、間近で見下ろされる纏には迫力すら感じられた。気圧されながらも纏は答えた。

「え、同じ部活ってだけですよ」

「部活?何部?」

「利他部っていうんですけど……」

 女子学生はこれを聞いて目を丸くした。

「利他部って、あの雑用ボランティアの?」

 無遠慮な言葉に纏は面食らったが、黙ってこれに首肯した。やっている活動は、確かに他に言い様がない。

「えー、もったいない!なんで?」

「いえ、それは私にも……」

 纏の言葉を遮るように、予鈴が鳴った。二人ともがはっと我に返り、急いで教室に向かった。

「あ、後でちゃんと聞かせてよー!」

 女子学生はそう言って三組の教室へと入っていった。纏も自分の、二組の教室へと駆けこんだ。始業のチャイムが鳴ったのは、纏が席について三分後の事だった。


「まーちゃん大変だったね」

 纏に話しかけたのは、彼女の同級生である篠田由紀だ。纏にとって篠田は気を使わずに話せる友人であり、纏は篠田に対して思いきり渋面を作ってみせた。彼女は纏が駐輪場で話しかけられていたのを見ており、纏も篠田の姿を駐輪場で見かけていたのだ。纏は自分のすぐ後ろの席に座る彼女を振り返り、座ったままで言葉を返した。

「見てたんなら来てよ」

「やー、だってあたしもちょっと悔しいもん。清原先輩だよ?かっこいいじゃん。どうやって仲良くなったのさ」

 纏は篠田の反応に曖昧に笑った。

 昨日纏は登校した早々、清原や御深山に探された事で多くの同級生に質問攻めにされており、清原の名前が挙がる度に「羨ましい」と散々言われた。駐輪場で話しかけてきた彼女も、例に漏れず清原のファンだったのである。彼等彼女等の言いたい事は、纏にも理解できた。

「まあ確かにキヨさんはきれいだけどね」

「え、キヨさんって呼ぶの?なーんかおばあちゃんみたい」

 纏は思わず笑ってしまった。昨日自分が清原に言ったのと、同じ台詞を言われたからだ。

「ははっ、まあ本人も気に入ってるみたいだしいいんじゃない?」

「その馴れ馴れしさがまた忌々しい。おチビにはもったいないっての」

「あー、チビって言うー?ひどいなもう」

「うーりうり、悔しかったら大きくなりな」

 むくれる纏の頭に篠田が無遠慮に手を伸ばし、くしゃくしゃと撫でまわした。

 篠田の体格は、同年代の少女と何ら変わりはない。それでも彼女が年上であるかのように振る舞えるのは、ひとえに纏が同年代の者よりも小さいからである。

「もーやめてよー」

「嫉妬してるのは多いんだっつーの。そーらそら思い知るがいいわー」

 篠田は手を止めず、両手の指で纏の髪を乱し続けた。纏は抵抗しようとしたが、結局はされるがままになっていた。篠田はもちろん、纏自身もこの状況を楽しんでいたのである。

 ひとしきり纏の髪を乱し終えると、ようやく篠田は手を離した。纏はすぐにごわごわに広がった髪を手櫛で直しにかかる。

「あ、そうだ。二年の御深山先輩も利他部だったよね?」

 唐突に篠田がそんな事を言いだした。

「ん?うん、そうだけど」

「なら言っといてくんない?一年生何人か口説きにかかるのやめてって」


「御深山先輩」

 纏は御深山の前に立ち、胡乱げな目で彼を睨みつけた。当の御深山は自分の本棚に囲まれた席で釣り雑誌を読みふけっている。御深山は視線を上げず纏に応じた。

「何じゃ部長?」

 興味なさげな彼の態度に、纏の眉根がさらに寄る。

「何じゃじゃないですよ。一年生を脅かすのをやめてください」

 そこでようやく御深山は雑誌から目を離し、纏の顔を見て彼女が怒っているのに気付いた。しかし彼は怒られる覚えが思い出せず、困った顔で首を捻った。

「話が見えんがやが?」

「一昨日ですよ、友達に聞いたんですけど、一年生の教室で私を探してましたよね?」

「おお、そうじゃが」

「で、そのついでみたいに色んな女子に声をかけたって聞きました」

 ああ、と御深山は相槌を打った。

 清原について行って纏を探した際、彼は様々な一年生に纏の事を聞いて回った。その際、彼が声をかける相手には、ある基準があったのだ。

「とりあえず好みの子にはそうするもんやないが?」

 当たり前のように言い放つ御深山に、纏ははあ、とため息をついた。

「皆迷惑がってました」

「マジかや」

 御深山は今さらのように驚き、その後慣れた調子で肩を竦めた。

「どうも俺は、一年からの受けは悪いにゃあ」

「一年の、女子から、です」

 纏はわざと女子、の部分を強調して言った。

 清原と御深山が纏を探していた際、清原が男女問わず聞いて回ったのに対し、御深山は女子の、それもいわゆる美少女ばかりに狙いを絞っていたのである。纏の周りで清原の名前ばかりが挙げられていたのは、一重に御深山が嫌われていたからでもある。

「セクハラですよ、もう」

「なーんでやろうにゃあ」

 御深山は心底不思議そうに言って背もたれに背を預け、はーあ、と残念そうにため息をついた。反省のかけらもない彼の振る舞いに、纏は自分がため息をつきたくなった。

「御深山先輩って軟派な人なんですね」

「軟派言う事はないやろう。男はみーんな、これくらいが普通やき」

 御深山は当たり前のように言ったが、纏の物言いたげな表情は晴れなかった。そこで扉の開く音が上がり、二人の目が物置につながる扉に向けられる。

「あ、二人とももう居ったん?」

 そう言ったのは清原で、纏はすぐに彼女に駆け寄っていった。

「キヨさん、御深山さんがひどいんです」

「何かされたん?」

「一年生の女子を脅かして回ったんです」

「その言い方はどうかと思うがやが」

 御深山がそう言うと、清原はにわかに情けない顔になって彼を見た。

「アンタ、またナンパしよったん?嫌な思いをさせるけん、いい加減やめや」

「そうもいかんきに。俺は絶対高校で彼女作るて決めとんがじゃ」

 纏はうわあ、と言いかけた。彼がすでに二年生や三年生相手にも同じように声をかけて回った事があるのを察し、さらに彼に対する印象が悪くなった。

「……モテたいのなら他にもっとする事があると思うんですけど」

「そうじゃな。俺かって、利他部やのうてもっとウケのいい部に入りたかったわ。サッカーとか、バスケとかな」

「いやそういう事じゃなくて……」

 纏は素行の事を指摘しようとしたのだが、そこでふと思った。

「御深山先輩って、なんでこの部に入ったんです?」

 尋ねた瞬間、御深山の表情が凍った。浮ついた雰囲気が失せ、閉じられた口元が強張る。御深山は纏をじっと見た後、視線を落としてぽつりと呟いた。

「……誘われたんじゃ」

「誰にです?」

「御深山」

 清原が静かに口を開いた。纏が清原を見ると、清原の顔も硬いものになっていた。纏は二人の沈黙が重いものになったのが分かり、戸惑いを覚える。答えを求める空気ではなく、口を開くのにも抵抗を感じた。

 やがて沈黙を破ったのは、御深山のこんな一言だった。

「教えんちゃ」

「え?」

 纏が御深山を見る。先ほどまでと違い、今の彼は纏を小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。

「とうに学校におらんくなった人間の事を言うてもしゃあないやろ。教えて何が変わる訳でもあるまいし、一年に言うても無駄やきなあ」

「なっ……」

 纏は反論しようとしたが、返す言葉がなかった。それでも御深山の無神経な物言いに腹が立ち、噛みつくように言う。

「無駄ってなんですか」

「ほやったら言うが、俺が一年の時に三年やった人やぞ?今一年の相原がその人の事言うたち、分からんちゃ」

 御深山の言い分に、纏は言い返せなかった。歯噛みする彼女の肩に、清原がぽんと手を置く。なだめるようにそうすると、彼女は御深山を見てこう言う。

「そのくらいにしとき御深山。あいちゃんは悪うないろう」

「へーへー、分かっちゅう。いちいち言わんでええき」

 心底五月蠅そうに御深山が手をひらひらさせる。そこで、物置からの扉が開いた。そこから住良木と、続いて衙門が現れ部室に入った。

「全員いるな」

 開口一番そう言う住良木に、纏達三人の目が一斉に向けられた。住良木はこれを見て、何かを察してふむ、と顎に手を当てる。

「御深山、またひんしゅくを買ったようだな」

「店に入った覚えもないがやけどな」

 大げさに肩を竦める御深山を、衙門がハッと鼻で笑った。

「だからテメーはモテねぇんだよ。いい加減言葉を覚えたらどうだ」

「女が怖い功夫馬鹿は黙っちょれ」

「あ?」

 衙門が鞄をトレーニングベンチに置いた。彼は両手を空け御深山を睨む。御深山が衙門を睨み返し、腰を浮かせる。一触即発の空気が生まれるが、住良木が二人の間を平然と通り、纏に一枚の紙を差し出した。纏も反射的にそれを受け取り、紙面に目を落とす。

 そこには直線で区切られた表があり、日付と、見覚えのある場所の名前がいくつも書かれていた。空坂中央公園や空坂アーケード等の名前を見て、纏はぴんと来た。

「あ、出かける先の予定表ですね」

「そうだ。基本的には校長が決めているが、気になる所があれば部長がこれに書き足してもいい」

「結構自由なんですね」

「生徒の自主性を優先した結果だそうだ」

 纏の住良木の呑気なやり取りに、御深山と衙門の表情が曇った。先ほどまであった険悪な空気が抜け、喧嘩をするのも馬鹿らしい、とばかりに二人は自分の席に座り込んだ。

「……で、今日はどこなが?」

 御深山の問いかけに、纏はすぐに今日の日付に目を向けた。

「えーと、今日は……、あ、あったあった。近所の国道沿いの歩道ですね」

「うえ、マジかや。あそこでやると、晒しものにされちょるみたいで嫌がやけど」

 纏は国道を通る車の列から向けられる視線を想像し、御深山の言いたい事を理解した。交通量の多い道路なので、当然車道から清掃にあたる利他部に向けられる目も多い。

「考え過ぎな気もしますけどね。とりあえず、今日は今日の予定をこなしましょう」

 四人は少し黙った後、揃ってこれに頷いた。纏は彼等の反応の悪さを怪訝に思ったが、すぐに自分が上級生に指示を出していたのに気付き自分の発言を反省した。


 国道沿いの歩道の清掃を終えたのは、空に紅みが差した頃だった。纏は軍手をはめた手の甲で薄く浮かんだ額の汗をぬぐった。金属製のトングとゴミ袋とを同じ手で持ち、後ろを振り返って掃除の跡を見る。拾うのを空き缶に限定したためゴミ袋は中央公園の時ほど膨れていないが、纏は歩道から清掃の成果を見て取り頬をほころばせた。風は冷たいが、今の彼女にとっては心地の良いものだった。

「あいちゃん満足そうやねぇ」

 たまたますぐ近くにいた清原が纏に声をかけた。彼女も軍手をした手で、トングとゴミ袋とを持っている。彼女のゴミ袋には煙草の吸殻や新聞の切れ端など、燃えるごみが入っていた。分別の手間を省くため、それぞれで拾うゴミの種類を分けていたのである。

「はい、何だか性に合ってるみたいです。……腕章がちょっと邪魔ですけど」

 そう言って纏は左の二の腕に巻いた腕章をつまみ上げて見せた。安全ピンで止められたそれは、纏が動くたびに彼女の腋の下に干渉して彼女の注意を逸らしていたのである。腕章自体が固い素材でできているせいで、時折服越しにあばらにちくちくと痛みを与えてくるのも纏にとっては悩みの種だった。

「あはは、それは慣れんとね」

 纏は部活動の終了を予感し、来た道を戻り始めた。清原も、纏が通り過ぎた後に彼女を追った。自然と二人の肩が並び、足並みも揃いだす。道路を通る車の数は少なくないが、すし詰めという程でもない。歩道には利他部の他の三人はおろか、人影一つ見当たらなかった。

「ねえキヨさん」

「なぁに?」

 小首を傾げる清原に、纏は尋ねた。

「何か私に隠してません?」

 纏は暗に、先日見たおかしな形のヘルメットの事を差していた。ハーネスやトランク、それにロッカー奥の隠し部屋。不可解なもの全てについて聞こうとしていたのである。

「あ、おやつ買い足したん分かったん?」

「いやそっちじゃなくて」

 言われて纏は、清原がお菓子を詰めた箪笥の棚にかりんとうや飴の詰まった袋を新しく詰めていた事を思い出した。しかもその飴はがんがん玉という、ざらざらした表面が特徴的な纏の好物だった。

「あ、あの飴大好きなんです!舐めてる内につるつるになるのが好きなんですよ」

「ほうなん?ほやったら、もっと多く買っとくんやったかねぇ」

 清原がにこにこしながら纏に頷くと、纏は今さらながら自分がたかっているように思え、バツが悪そうに頭を掻いた。清原は好ましそうに頬を緩ませ、更に話しかける。

「あいちゃん、学校は慣れたん?」

 話題を逸らされているのは分かったが、纏はこれに答えた。

「はい、何とか。ただ、一人暮らしなので買い出しなんかが面倒なんですよね」

「ほうなん?いつから?」

「三日前からですねー。お母さん、今度は三年くらい帰ってこれないらしくて」

「ああ、お母さん考古学者なんやっけね。今までもよく家を空けたりしてたん?」

「ええ、まあ。ただ今回は長くなるそうで、今は悪の組織に追われてるそうです」

 途端に清原が吹き出した。立ち止まって口を押え、身を折って笑いを堪えだす。

「な、何よそれ……っ、ぷふっ、本当なん?」

 纏としては、面白い事を言ったつもりはなかった。清原の反応を不思議に思いながら、彼女も足を止めた。

「みたいです。昨日電話した時も銃声が聞こえて」

「ぶぶぅっ、あいちゃん、冗談言われん……」

 清原は腹を押さえてうずくまり、笑いを堪えようとしてくくく、と鳴きだした。傍から見れば腹痛で苦しんでいるようにしか見えず、纏は慌てて周りを見回した。人影がないのは、この場合纏にとっては幸いと言えた。手の出し様もなく、途方に暮れる他ない。

 ようやく清原は、腹を抱えながらもゆっくりと立ち上がった。

「ひーひひっ、ははっ……。ごめん、あいちゃん。冗談言われると思わんけん、笑うてしまうんよ」

 清原が話を聞けそうになったのを見て、纏は誤解を解こうとした。

「いえ、一応事実……」

「そんな無理して面白い事言われん。笑うてしもうたけど、あんまり言いよると、もっと面白い事を無理やり言わされるか分からんよ?そんなんつまらんけん、やめや。ね?」

 清原は膝に手をついて纏と視線を合わせ、教え諭すようにと言って首を傾けた。彼女の顔には笑いが残っているが、眼差しは本心から纏を心配しているものだ。纏は話を聞いてもらえない事が心外だったが、清原が彼女なりに自分を心配しているのが分かり、黙って頷いた。清原が再び歩き始めたのに合わせ、纏も足を進める。

 そこで纏は、あるものを目にした。慌てて清原の袖を掴むと、清原は怪訝な顔をして纏を見た。

「どうしたん?」

「キヨさん、あれ」

 纏が指差す先には、壊れかけの工事看板があった。実際に工事されている場所から少し離れた位置に置かれるものだ。歩道の利用者に道路工事を行っている事を知らせるためのもので、昼間に自動車にぶつけられたのか、真ん中から大きくひしゃげていた。看板の二本足のうち片方を大きく上げた形で電柱にもたれており、風でも吹けば今にも飛ばされそうな状態だった。

「あー、あれ危ないねぇ」

「でしょ?ああいうのを直したりはしないんですか?」

「あれは業者さんが来たら交換すると思うけん、私等は触らんでもええんよ」

「そうなんですか?でも……」

 纏は心配を募らせた。看板が何かの拍子で歩道や道路にでも転がれば通行の邪魔になる。自動車にぶつかれば事故だ。看板は針金を電柱に巻きつけて倒れないようにしてあるが、それが申し訳程度のものなのは見て明らかであり、纏は不安になった。

「ちょっと様子を見てきます」

 早足で向かう彼女。それを清原は仕方ない、といった顔で追いかけた。自動車の列が、向かう先の赤信号のせいか次々と間を詰めて停止し始めた。

 不意に、突風が起こった。ごう、と大気が辺り一帯を押し流そうとするように唸り、車道沿いに並ぶ街路樹の枝を一斉にしならせる。纏は顔に吹き付けられたその風に思わず足を止め、目を閉じた。ガコン、と乱暴な音が上がったのもその時だった。

 以下の一連の出来事は、纏には見えなかった。

 電柱に巻き付いていた針金が切れ、金属製の看板が宙を舞う。看板は風に乗って大きく跳ねながら、纏に向かって突っ込んできた。彼女と彼女の顔に迫る看板とを遮るものは、何もない。

 纏の背後で、清原が看板のその動きを見た。彼女の表情が一瞬で変わる。思考するよりも早く、彼女の手が動いた。

 ゴミ袋とトングを手放して上着の下にしまったものを掴み、そのまま腕を引き抜く。その勢いで思いきり体ごと腕をしならせ、手にしたものを看板に向けて振り切った。清原の手にしたものが、するすると上着の下から伸びていく。それは長いロープのようなものであり、ようやく先端が引き抜かれた時、しなっていた中ほどの部分が纏の頭上を抜け、空中の看板を横から叩いた。

 風が止み、ようやく纏の目が開く。直後、彼女は自分の隣で上がったがしゃんという音に身を竦ませた。驚いてそこを見ると、歩道沿いに並ぶ塀の前で工事看板が身を折って転がっているのを見つけた。その看板には、彼女の見覚えのないへこみが側面にできていた。

 纏は何が起こったのか清原に聞こうとして、後ろを振り返った。そこで彼女は、初めて清原の様子に気付いた。清原が高く掲げた手に持つひも状のものが、ひゅんひゅんと鳴りながら清原の頭上で渦を巻いている。

「え?」

 戸惑う纏の前で、清原が腕を引いた。長いものは勢いのままに彼女の手元へと巻き込まれていき、最後には彼女の手によって小さく束ねられる。その後、清原は何事もなかったかのようにそれを上着の下にしまった。

「あいちゃん、怪我はないかいねぇ」

 おっとりした口調で尋ねる清原に、纏は何が何だか分からず、黙って頷いた。先ほど見た細いものが何かを聞こうとしたが、彼女が口を開くより先に清原はゴミ袋とトングとを拾い、纏の先を歩き始めた。自動車の列も何事もなかったかのように前進を始めており、纏は置いて行かれたように感じ、慌てて後を追った。

「キヨさん、今のって……?」

「あいちゃん」

 清原は澄ました顔を纏に向け、得意げに笑う。

「芸の一つも持っておくんが女の知恵よ」

 それだけ言って清原は早足でその場を離れた。纏は未だ理解が追い付いておらず、清原に質問も、礼を言う余裕もなかった。

 ただ、自分を守ってくれたのだけは分かり、纏の清原を追う足は自然と速くなった。

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