1.住良木大和
「よーう、住良木ー」
自分を呼ぶ軽快な声に、住良木は眉一つ動かさずに振り向いた。彼は他人にさほど興味がなく、そのため声をかけられる事がずいぶん久しぶりのように感じられた。
彼の背後には彼の知らない女子が一人、にんまり笑った上機嫌な顔を彼に向けていた。住良木は自分より頭一つ分低いその彼女が上級生と分かり、彼女に尋ねる。
「……何か?」
「ずっとアンタに目を付けてたんだ。頼みがあるけど聞いてくれない?」
この発言に、住良木は眉一つ動かさずこう応じた。
「いいでしょう。私が目当てと言われれば、聞かない訳にもいきません」
これを聞いて、誘った側の上級生が目を丸くした。あっさりと要求を受け入れられたのに驚いたらしく、しげしげと彼を見る。
「聞き分けいいね」
「悪い気はしないので」
つまらなそうに言う彼に、彼女はぽかんとした後、はっはっは、と大きく笑った。
「いいね、話が早くて。私と世のため人のため、カッコよく頑張らない?」
「……?どういった意味でしょうか?」
言葉の意味が分からず、住良木はわずかに眉をひそめた。
「アンタ賢そうだから、見せた方が早いかなー。とりあえず、あたしと一緒に来てよ」
そう言って廊下の先を指差す彼女に、住良木は黙って頷いた。
「私に期待する事は?」
「ずばり頭脳労働さ。よろしく頼むよ、頭脳派君」
そう言って、彼女はにんまりと笑った。
中央公園は、名前の通り空坂市の中央にある。市内で祭りや催し物が行われる時期には決まって用いられる場所で、ひと月後には町内祭での使用が控えられていた。広いスペースに敷き詰められたタイルは放射線状に並んでおり、見事な幾何学模様を成している。公園の周りをぐるっと囲むように並んだ段差のある植え込みには桜の木が均等に並んでおり、今はほぼ全ての花を散らせ葉桜となっていた。当然と言うべきか、公園一帯には桜の花びらが散乱しており、前日の雨のせいもあって公園の景観を大きく損ねていた。雨に濡れた花びらがタイルに貼り付き汚れている様は、誰が見ても見苦しいものである。
人通りもまばらなその公園で、利他部の五人はせっせと掃除にあたっていた。纏は竹箒でタイルからこそぐようにして花びらを剥がしながら、他の四人の様子に目を向ける。全員が別々の場所で、黙々と手を動かしていた。
利他部の部活動とは、要するにボランティア活動なのだな、と纏は思った。生徒の誰も知らないような地下室が部室なのは不可解だったが、やっている事だけを見れば平凡そのものだ。
「……ま、学費立て替えてくれるんだし、いっか」
そう一人ごち、彼女は再び掃除を再開した。竹箒で積んだ花びらをの山を竹製のざるに乗せ、それを持参したゴミ袋に移す。掃除した跡を振り返ると一目できれいになっているのが分かり、纏はささやかな達成感に口元を緩めた。
「困った事はないか?」
纏は声に気付き、前方に目を戻す。そこにはいつ来たのか、住良木が竹箒を持って立っていた。すでに自分の受け持った場所の掃除を終えたらしく、持っているゴミ袋が汚れた花びらで膨れている。
「あ、副部長」
「普通に呼んで結構だ。その呼び方は慣れる気がしない」
住良木は眉一つ動かさずにそう言った。
「できるなら先輩と呼んでほしい。その方が萌える」
にこりともせずに出された発言に纏はうなずきかけ、すぐに耳を疑った。
「……へ?もえる?」
纏は何かの聞き間違いかと思い、住良木の顔を見た。彼の表情は初対面の時と同様の、つまらないものを見るような顔のままである。その表情からは、纏が抱く疑問に対しての、肯定か否定かも読み取る事が出来ない。何を言っても眼鏡越しのつまらなそうな目付きが変わるとは思えず、彼女は恐る恐る呼んでみた。
「え、えーと、じゃあ、先輩?」
「うむ。やはり、来るものがあるな。だが、苗字を付けて呼んでもらえると更に良い」
纏は再度、耳を疑った。発言内容だけなら、とても目の前にいる人物が言っている台詞とは思えない。しかし内容に反して、住良木の口調はちっとも面白くないと言わんばかりに平坦な上、表情にも変化はない。にこりともせずに反応に困る発言をする住良木の意図が全く読めず、纏は大いに戸惑った。
「えと、住良木、先輩?」
「何だ?」
簡素な返答を聞き、纏は話題を変えた。
「他の皆も終わったんですか?」
「それは知らん。ごみをまとめたら、後は現地解散としている」
「皆で集まったりは?」
「しないな」
住良木は纏の方を見もせずに質問に答えていった。纏からすれば未だ住良木には掴みどころがなかったが、聞かれた質問にはすぐに答えてくれるという点にだけは安心感があった。
気を抜いた纏の前で住良木が足を止める。纏も何事かと止まり、彼の視線を追った。
彼のすぐ傍には、路駐自転車が何台も並んでいた。公園の隅とはいえ通行の邪魔になっているのは明らかだ。住良木は道具と袋を離れた所に置くと、手近な自転車のハンドルを掴み、それを強引に引っ張り出し始めた。
「あの、何を?」
「下を見ろ」
言われた通り纏は自転車の下を見た。そこにはオレンジ色のラインで囲まれた消火栓の蓋があった。先ほどどけた自転車がちょうどその上に駐車されていたのだと分かり、纏も彼に倣った。荷物を置いて消火栓の上にある自転車をどかしにかかりながら、住良木に尋ねる。
「これも利他部の仕事なんですか?」
「そうだ。有事の際、消火活動の邪魔になるからな」
そう言いながら、住良木がどかした自転車を他の自転車の隣に並べようとした時だった。
「おい、何やってんだ!?」
怒鳴り声にも近い、血相を変えた声が二人の背後で上がった。纏は驚いて手を止め、背後を見る。駆けつけたのは自転車の持ち主らしき中年の男だった。くたびれたジャンパーと乱れた頭髪、汚れたジャージという男の風体に纏は警戒心を抱く。纏が何の用かと聞くより先に、男ががなり声を上げた。
「人の自転車どうする気だ!」
高圧的な言い方に纏がしり込みするが、住良木は平然とこれに応じた。
「置き場所を変えるだけです。窃盗ではありません」
そう言って、彼は自分の左腕を軽く叩いた。彼の二の腕には腕章が巻かれており、空坂高校の校章と利他部の名前が印刷されている。学生の学外活動を証明するもので、利他部の全員がしているものだ。
「そんなもん、信用できるか!」
男がいきなり住良木の詰襟を掴んだ。住良木の細身が大きく揺られ、彼は間近で敵意の籠った視線を向けられる。纏は気が気でなかったが、当の住良木は眉一つ動かさなかった。
「やめましょう、学生に手を上げると後で面倒くさい事になりますよ」
事実を告げるだけの淡々とした物言いに、男がますます憤りを募らせる。
「大人をなめてんのか、ああ!?」
「大人は子供と喧嘩しません」
男の形相がますます険しくなる。纏は住良木がすぐ殴られるのかとヒヤヒヤしていたが、住良木の表情に変化はなかった。男は住良木の言う面倒くさい事が分かっているからか殴りかかるのを堪えているようだったが、それも時間の問題のようである。
纏が人を呼ぼうか迷ったその時、近くの茂みの陰から衙門が現れた。
「何やってんだ、オメー等」
男が衙門を見て、途端に表情を変えた。衙門は小柄ではあるが、茶髪で人相が悪いので一目では不良にしか見えない。背こそ住良木や御深山よりも低いが、体格は住良木よりもがっしりしたもので、それが見る者に喧嘩慣れした印象を与えていた。竹箒も、彼が持つと得物に見える。
男は衙門の腕章を見て、自分が掴んだ相手の仲間と分かったらしく、舌打ちして住良木から手を離した。住良木は乱れた襟元を直し、表情を変えずに男を見た。
「ここは本来駐輪禁止です。近場に地下駐輪場がありますから、今後はそちらに駐輪願います」
先ほどまで胸倉を掴まれていたとは思えない冷静さで言う。住良木のその様子を不気味に感じたのか、男は「お、おう」と頷いてその場を去っていった。衙門が睨みを利かせていたせいか、その足取りは速かった。
男の姿が消えた後、住良木は衙門に向かってこう言った。
「お前がいると話が早い」
「礼を言え」
衙門は仏頂面で返し、来た道を戻っていった。纏はそれを見て、慌てて彼を呼び止めた。
「あ、あの!」
衙門が足を止めた。目だけを彼女に向け、迷惑そうに眉をひそめる。その目は、気に入らないものを見る目のままだ。
「何だ?」
纏は衙門の視線に怯む。それでも、彼女は言うべきだと思った事を口にした。
「あの、ありがとうございます。こっちを気遣って来てくれたんですよね」
衙門はこれにすぐには答えず、ついと視線を前へ戻した。
「……気のせいだ」
それだけ言って、彼はその場を去っていった。纏は衙門を見送り、住良木に振り返る。
「お礼は言わないと駄目ですよ」
「機会があればな。それより、礼はあいつにだけか?」
「え?」
纏は辺りを見回した。よく見れば、公園を囲む茂みや木々の陰に清原や御深山の姿がある。どちらも隠れてこちらを見ているようだったが、見つかったのに気付くと自分達から姿を現して二人に駆け寄った。
「あいちゃん、大丈夫かえ?」
「あ、いえ、私は大丈夫です。心配してくれたんですね、ありがとうございます」
「いえいえ」
好ましいものを見る目で清原が纏を見下ろす。そんな彼女の様子を見て、纏はようやく肩の力を抜く事ができた。
「それより、住良木先輩の方が」
「問題ない」
住良木はそれだけ言うと、先ほどの自転車のハンドルを持ち、スタンドを蹴り上げた。纏も作業の再開を見て、他の自転車を置き換えにかかる。
「えと、駐輪禁止って言ってましたけど、じゃあ地下に持っていくんですか?」
「いや、今は列の並びを変えるだけだ。あまり離れた所に置くと、後で持ち主に盗まれたと騒がれかねん」
先ほどの男を思い出し、纏は納得した。
「これとか錆びだらけやぞ、どうするつもりなが?」
御深山が手近な自転車を指差して尋ねる。長い間放置されたのが一目で分かるそれを見て、住良木は当たり前のようにこう言い切った。
「撤去はシルバー人材センターの仕事だ」
彼の言葉を証明するように、公園の向こう側に面する道路から車の動く音と共にアナウンスが流れてきた。
「只今より放置自転車等の撤去を開始します。指定駐車場以外の場所に駐車されていた自転車は、空坂市の条例により撤去します。繰り返します。只今より……」
纏は初めて聞くアナウンスに道路の様子を見に行こうとしたが、自転車の並び替えが済んでいないのを思い出し、しぶしぶ作業に戻った。
「思ったより来るのが早いな」
「早うせんと爺さん等が来るぞ。捕まると、話が長いきにゃあ」
住良木と御深山が言い合うのを聞きながら、纏は黙々と手を動かす。清原と御深山の二人が加わった事もあり、並び替えはすぐに終わった。結果、ずらりと並んだ自転車の間は開けられ、地面の消火栓を開くのに支障のないスペースが出来上がった。手を付ける前と比べれば、整然としたものだ。
纏が作業を終えて一息つくと、オレンジ色のトラックが公園の前で止まったのが見えた。それを見て、住良木と清原、御深山がその場を離れる。纏は、自分達の役目は終わったとばかりに去る三人を追おうとしたが、制服らしき蛍光色の上着と帽子をかぶった老人二人が纏に近づいてきて、一人が彼女に声をかけた。
「君、空坂高校の子?」
尋ねた老人の穏やかな物腰に、纏は足を止めた。無碍に出来ず、軽く頭を下げながら質問に答える。
「はい、そうです」
「そうか、新しい子だねぇ。他の子等と仲良くできてる?」
老人が利他部を知っていると分かり、途端に纏は話しやすくなった。
「はい、良くしてもらってますよ」
「そうかい、よかったねぇ」
老人は満足そうに頷きながら放置自転車の列に目を向けた。もう一人の老人が、少し前に御深山が指差した錆びだらけの自転車に近づいて針金で警告の札を括り付け始めた。先の老人も、他の放置自転車がないか見回る為ゆっくりと歩き始めた。纏は何とはなしにその老人に並んで歩く。
「利他部をご存じなんですか?」
「ああ、十年くらい前からね。年によって二人だったり三人だったり、一人しかいないなんて事もあったね。でも、去年は五人もいたんだよ」
初めて聞く話に、纏は興味が湧いてきた。住良木と清原が三年生、御深山と衙門が二年生なので、去年という事は彼等の他にあと一人いた事になる。
「どんな人がいたんですか?」
「んー、悪いけど名前まではね。けど、皆仲が良かったんだよ」
纏はこれに驚いた。部室でのやり取りを見る限り、住良木達四人の仲が良いとは思えなかったからだ。
「お嬢ちゃんと一緒にいた子等にも、私は覚えがあるんだ。見たのは半年ぶりかなぁ」
「半年ぶり、ですか?」
「皆仲が良くてねえ。いつもきゃあきゃあ言いながら集まって掃除をしていたんだよ」
「へえ……」
纏にはその様子が想像できなかった。
今日の掃除では、四人全員が散らばって掃除にあたっていた。纏に対する言葉以外では、全員が最低限のやり取りか、罵り合いしか口にしていない。心配してやってくる程度には情は厚いのだろうが、纏には彼等の間に老人の言うような関係があるとは思えなかった。
「ちょっと、きゃあきゃあまでは想像できません」
「まあ、そんな日もあるだろうね。……ん?」
老人がいきなり立ち止まった。纏も何事かと足を止める。
「どうかしたんですか?」
「いやね……何だか臭くないかい?」
「え?」
纏は周囲の臭いを嗅いでみた。鼻孔に流れる空気は冷たいが、纏は確かに何かが焼ける臭いがするのに気付いた。臭いの強い方向を見て、纏は目にしたものに驚いた。
空に夕焼けの赤が差し込もうとするこの時間、まばらに浮かぶ雲の影が重い色に変わりどんよりとした印象を見る者に与える。道路の向こうに立ち並ぶビルの陰で、雲ではない黒いものが下から上へと立ち昇っていた。
それが煙と気付いた瞬間、纏の声は裏返った。
「あれ火事!?」
纏はすぐに上着のポケットから携帯電話を出そうとした。しかし携帯電話の角がポケットの中で引っかかりうまく取れない。
「しょ、消防車って、119でしたよね?」
「え、うん、そう、そうだよ!」
ようやく携帯電話を取り出せた纏は、すぐに画面に指先で触れた。タッチパネル式の携帯電話にテンキーが表示される。纏の目が「1」を探して画面をさまよう。一刻も早く押そうと焦りが募り彼女の動揺が極まった時だった。
公園の傍にある道路を、赤い大型車が通りかかる。赤い回転灯を光らせながら走るその車体を見て、纏は消防車が来たのだとほっ、と一息ついた。しかしその直後、彼女は目にした車体の特徴に違和感を抱く。
二階建てバスより一回り大きな車体は、消防車にしては大きすぎる。凹凸が多すぎる。車体の大きさに反して、フロントガラスが異様に小さい。そして何より、車体の側面に消防局のロゴがない。
[Rescue Mates]
車体に書かれていたのは、そんなロゴだった。
纏は曲がり角に消えたその車体を呆然と見送った。遠ざかるサイレンの音が、纏の見たものが現実だと主張するように彼女の耳に響き続けた。
「……何、あれ?」
我知らず呟く彼女に、老人が落ち着いた声でこう言った。
「あれはレスキューメイトだよ」
「レスキューメイト?あれがですか?」
纏は首を傾げた。老人は彼女の反応におや、と声を上げる。
「見た事ないかい?ああいうのは、若い子の方が好きそうなんだけどねえ」
「初めて見ました。聞いた話でしか知らないんです」
「有名なんだけどねぇ」
纏が謝ると、老人は自分の知っている事を彼女に話した。
レスキューメイトというのは、十年前から空坂にだけ現れるという集団である。例えば交通事故や火事など、有事の際に現れ救助活動にあたるのだという。そんな活動を行っていながら、国や市からの干渉は一切受け付けていないらしい。
纏にはまるでぴんと来ない話だった。母の言いつけで危険な騒ぎには近づかないように育った彼女は、空坂で生まれ育っていながらレスキューメイトを直に見た事がないのである。聞き手の纏の様子に反して、老人の語りぶりには熱がこもっていた。今のも火事を見て出動したのだろうとも老人は言った。
「まるで正義の味方みたいですね」
「そんな感じだね。素性のはっきり知れない辺り、まさにそうだよ。……本当に見た事ないのかい?」
「はい。『人の災難を面白がって見に行くな』ってお母さんに言われてて」
「そうか、いいお母さんだね」
老人は再びレスキューメイトの話題に戻った。
「彼等の活動は常に無償で、そして良心的だ。表彰されてもいいくらいだと私は思う。だけど彼等は、警察や消防車なんかが来るとすぐに退散するんだよ。邪魔にならないようにって言ってね。あの火事も、きっと彼等が鎮火してくれるだろうさ」
老人はそこまで言って、本題である利他部の事から話がそれていた事に気付いた。
「すまんね、脱線しちゃって」
「いえ。面白かったです。ありがとうございました」
纏は小さく頭を下げ、では、とその場に置かれていた竹箒とざるとを拾い上げた。すでに夕日が半分以上、立ち並ぶビルの陰に隠れつつあり、夕焼けの赤が完全に夜の青さに呑み込まれようとしている。ゴミ袋はすでに誰かが持ち去ったのか、どこにも見当たらない。
「遅くならないうちに帰りなさい」
纏は老人に頷くと、足早に帰路についた。
纏が学校に着いた頃には、すでに校門は閉まっていた。敷地に入れないとなると、利他部の部室につながる入口にも近づけない。なので、纏は門前で、自転車のかごに乗せた竹箒とざるとをどうしようかと途方に暮れていた。家に持って帰ろうかとも考えたが、翌日学校にこれらを持って行くのを考えると、悪目立ちしてしまうのは明らかである。とうに日は暮れており、塀の向こうに見える校庭には運動部員の一人もいない。守衛の姿も見当たらない。火事を見かけてからさほど時間は経っていないが、先に戻ったはずの住良木達の姿もなかった。
「どうしよう……」
纏は街路樹の並ぶ校舎までの道を見ながら、校門の前で右往左往する。すると、彼女の背後で声が上がった。
「どうした、部長?」
纏は驚いて後ろを振り返った。そこには、住良木が自分の自転車にまたがった姿勢でいた。竹箒やザルは持っていない。
「あ、住良木先輩。これ……」
纏が自分の竹箒を指差すと、住良木は彼女の言いたい事をすぐに察した。
「別口がある。案内しよう」
そう言って彼は自転車を押し始めた。纏はすぐに彼を追う。
「どこですか?」
「こっちだ」
校舎を囲む煉瓦造りの塀に沿って、二人は移動する。角を曲がってしばらく歩いた頃、塀を作る煉瓦の色が新しいものに変わった。校舎裏に位置するその辺りの塀は一部を改築したものなのだと纏には分かる。更に進むと、新しい煉瓦の詰まれた塀に設けられた、裏口らしき扉の前に行きついた。
「ここから入るんですか?」
「そうだ」
住良木はそう言って、門に鍵を差した。鍵がひねられ、錠の外れる音が上がる。
開いた扉のすぐ裏には芝生に挟まれた短い通路があり、奥にはすぐに物置と分かる小さな小屋があった。小屋の白い壁は長年の風雨によってあちこち黒ずんでおり、雨水の染みた跡からは細かいヒビがいくつも走っている。壁面の一部が剥げて灰色の建材が露出している箇所まであり、築年数の長さが如実に表れていた。
「あれが物置ですか?」
「そうだ。表向きはな」
言いながら住良木は自転車を押して塀の内側に入った。纏もこれを追う。住良木は物置の横に回ると、そこに自転車を止めた。纏はすぐ済むだろうと踏んで、倉庫の前で自転車のスタンドを下ろそうとした。
「待て」
いきなり住良木が彼女を呼び止めた。表情こそ変わっていなかったが、続く言葉は語気の強いものだった。
「そこは良くない。絶対そこには止めないでくれ」
「す、すいません」
纏は慌てて従った。通路から自転車が完全に離れるまで、彼の目は纏に向けられたままだった。
スタンドを立てると、纏はようやく自転車から手を離し籠の荷物を持った。住良木がそれを確認して倉庫の扉のノブを回す。きい、と音を立てて扉が開き、纏はそこを覗き込んで、あ、と声を上げた。物置の床にはぽっかりと四角い穴があり、歯のように並んだ段差が穴の奥へと伸びている。
「階段、ですね……」
「ここも部室につながっている」
言われて纏は納得し、御深山がジュースを買ってきた時の事を思い出した。その時の御深山は、纏が通った、正門までの道に並ぶ街路樹の校舎側から見て右側の手前から七番目の木の陰につながる扉とは違う入口から部室を出ていき、そして戻ってきていた。
「出入り口は全部で二つだ。校門の街路樹とこことがそれぞれ部室に通じている」
言いながら、住良木は階段を下りていった。纏も倉庫に入りながら扉を閉め、彼を追う。明かりの類は一つもないので、足元どころかすぐ目の前も見えなくなった。なので二人は壁に手を付け、一段一段ゆっくりと階段を下りていった。
「真っ暗ですね」
「降りきらないと電気は点かん。間違って入った部外者が奥まで入り込まないようにとの事だ」
住良木がそう言った時、辺りが不意に明るくなった。先頭を行く住良木が、階段を降りきったのだ。纏は目がくらみ、思わず立ち止まる。目が慣れた頃、住良木がすでに先に進んでいるのを見て再び歩みを進め、自分も階段を降りきった。纏が住良木に追い付いた頃、彼は廊下を歩き切った先にある部室へとたどり着いていた。明かりの灯った部室に人影はない。
「そこのロッカーが君のだ」
住良木が入口横に立ち並ぶロッカーのうち、右端のものを指差した。ロッカーの戸には、全て名札が付けられており、左から「衙門」「御深山」「清原」「住良木」と並んでいた。纏のものと指されたものには名札がない。
ロッカーの中は空で、ようやく纏は竹箒とざるとを片付ける事ができた。自由になった手でロッカーを閉じて住良木を見ると、彼は彼女が早く帰るのを待つかのように入口で待っていた。彼女は急いで帰ろうとして、はたと思う。
今、この部室には彼と自分しかいない。何を聞いても平然としそうな彼なら、他のメンバーには聞きにくい事も尋ねられそうだ。そう考え、纏は住良木に尋ねた。
「あの、部の皆さんは仲が良かったんですか?」
住良木は眉一つ動かさずこれに答えた。
「……その言い方だと、今は悪いように取れるな」
「す、すいません。でも、昔は良かったって聞きまして……」
悪い事を聞いてしまったかと纏がうろたえると、住良木は纏から視線を逸らした。何かを思い出すように視線を下げると、やがて彼はぽつりと呟く。
「……そう、かもしれんな」
「え?」
「部長」
住良木は顔を上げた。彼の眼差しは真剣そのもので、初めてそれを真っ向から見た纏は息を呑む。
「それ以上は聞くな。誰にでも、聞かれたくない事はある」
それだけ言うと、彼は踵を返した。
纏は何も言えず、遠ざかる彼を追おうとして、それをためらった。思いもよらない住良木の反応に、纏は自分がとても不躾な質問をしてしまったのかと思ったからだ。彼女がどう声をかけるべきか迷う間にも、彼との距離は離れていく。規則正しい彼の足音が殊更大きく廊下に反響して聞こえ、それがますます纏に責任を感じさせた。自然と彼女の視線は下がり、喉の奥に痛みを覚える。
「ああそうだ部長」
住良木が立ち止まり、思い出したように呟いた。何事かと纏が顔を上げる。
「明日からでいい。私を呼ぶ時はもう少し甘えた声で頼む」
はっきりと言われたその言葉は、一言一句違わず纏の耳に入った。纏の頭から先ほどまで感じていた負い目が吹っ飛び、代わりに、中央公園で聞いた冗談のような発言が聞き間違いでないと分かって、彼女は眩暈を覚えた。
住良木は再び歩きだし、「帰る時は鍵を頼む」と、義務のように言い残して姿を消した。纏は何も言えず、遠ざかる彼の背を見送る。
一人取り残された纏は部室に残り、中央の椅子に座った。無人の静けさが彼女に落ち着きを与え、彼女は何とはなしに物思いにふけり、四人の仲が良かったと聞いたのを思い出した。にわかには信じられなかったが、老人の話が嘘だとも思えなかった。
纏は、部長になったからには部の問題を解決したいと思っていた。ただ、今の彼女には知らない事が多すぎる。纏自身もそれを自覚していたので、今自分が知る限りの情報をまとめ、必要な情報が何かを探ろうとした。
半年前までは利他部の全員は仲が良かったという。その時の部員は五人、つまり住良木達四人とあと一人という事になる。四人の特徴やアクの強い性格を考えると、纏には四人が利他部の部員になる前からそれぞれと面識があったとは思えなかった。
「五人目の人が問題なのかな?」
纏は自分の知らない、かつての利他部員に思索を巡らせた。その人物が四人をまとめていたと考えれば辻褄が合う。どんな人物だろうと想像しようとした時、纏は自分のロッカーに気付いた。
「そっか、これだ!」
纏はロッカーの扉を確認した。名札のすでに取り払われた、灰色の古いロッカーだ。今は纏のロッカーだが、以前の持ち主は間違いなくその五人目だ。
「何か、前の人のヒントがあるのかも」
纏はロッカーの中を隅々まで見ようとロッカーに近づき、それを開いた。屋外用の掃除道具の入ったロッカーに頭を突っ込み、片手をロッカーの奥につける。
がたん、と音が上がった。冷たい金属の表面に触れたその手が、さらに奥へと進んだのだ。
「え?」
纏の体が大きく前に傾く。伸びきった両足は踏ん張りが効かず、体を支えようと伸ばしていた手は今、彼女を前方へと引き寄せる。彼女は咄嗟にもう片方の手でロッカーの縁を掴もうとしたが、そうするには一瞬遅かった。その手は空を切り、結果、彼女の体はロッカーの奥へと倒れ込んでしまった。
がらんがらん、と派手な音があがった。掃除道具が倒れた彼女の上に次々と倒れる。最後に倒れた竹箒の長い柄が、とどめのように纏の後頭部を打った。
「あいたっ!もー……っ、いたっ」
立ち上がろうと曲げた肘に痛みが走り、纏は呻く。何が起こったのかと顔を上げた時、彼女は自分の目を疑った。
彼女を今囲んでいるのはロッカーの狭い空間ではない。壁も、叩けばへこむような薄い金属板ではない。セメントと鉄筋とでできたものだ。さっきまで彼女の目の前を阻んでいたロッカーの壁は、今は彼女の後ろで扉のように左右に揺れていた。
ロッカーの、どうにか立って入れるような狭い空間の更に奥には、彼女が倒れられるほどのスペースができていたのだ。幅や高さこそ変わらないが、収納スペースが格段に広くなっている。だから纏も床に倒れてしまえたのだった。
「これ、隠し部屋?なんでこんな……ん?」
纏は空間の奥にある壁に気付いた。
壁にはハンガーがかけられてあり、それにはベスト型の黒いハーネスがかけられていた。あちこちに金属の輪や小さなポケットなどが設けられており、左胸にはトランシーバーを入れるホルダー型の小箱までついていた。まるで救助隊の扱うもののようである。ハンガーのすぐ下の床には金属製のトランクが安置されていたが、今の彼女の目を引いたのは、ハンガーの上にあるものだ。
そこにはヘルメットがぶら下げられていた。その形も、ただの安全用のものではない。頬や耳を守るように表面積が広くなっており、兜を思わせる形になっている。ヘルメットの額に位置する部分にはアルファベットのRとMとを連想させる記号が刻まれており、側面には「01」と大きなロゴが貼られていた。
彼女は箒やざるなどの掃除道具を背中から落としながら立ち上がり、それを手にしてみる。大きさに反して軽く、質感や造りから見ても、纏には玩具の類とは思えなかった。
「これ、何……?」
まるで用途の読めない道具の数々に、纏は首を捻る他なかった。
翌日、纏は一人で利他部の部室に来ていた。住良木に教えられた物置の入口は生徒のほとんど寄り付かない焼却炉のすぐ近くにあったので、うまく移動すれば彼女だけでも人目につかずに部室へ入る事が出来たのだった。放課後すぐに来たこともあって、部室には彼女以外誰もいない。纏は部屋の中心にある椅子に腰かけ、机に肘を乗せて暗いままのモニタを眺めていた。
部長になった纏だったが、部活動をどう進めるかについてはまだ教えられていない。今のままでは、まさにお飾り同然である。
「何をすればいいんだろ?」
考えてみても、纏にはそれらしい方法が思い浮かばない。考えに行き詰まり、ついに彼女は机に突っ伏した。
そこで、物置につながる方の扉が開いた。現れたのは清原だ。
「あ、あいちゃん来とったん?」
今治弁で尋ねる清原の声は弾んだもので、彼女は嬉々として纏の隣に座った。纏も話しやすい相手が来た事に安堵を覚え身を起こす。
「清原先輩、こんにちは」
「こんにちは。そんな固い呼び方せんでもええんよ」
「え、でも……」
「あいちゃんは部長やろ?どう呼んでも怒らんけん、好きに呼びよ」
清原は終始上機嫌で、にこにこしながら纏に言う。纏も、清原のその態度に親しみやすさを感じていた。
「んー、じゃあ、キヨさんとかは?」
「ええよ、友達にもそう呼ばれとるし。おばあちゃんみたいってよう言われるんよー」
纏は納得した瞬間、思わず吹き出した。清原と接する時に感じる感覚は、まさに祖母か、でなければ老人を前にした時のそれなのだ。清原も纏につられて笑い出した。
「何で笑うんよー」
「えふっ、あの、ごめん、なさい。ふふっ、何か、分かっちゃって」
「ええよ、慣れとるけんね」
清原自身もおばあちゃん呼ばわりに悪い気はしていないらしく、怒った様子は微塵もない。それで纏は清原に気安さを抱く事ができた。
「えーと、じゃあキヨさん」
「なぁに?」
目線を合わせ、小首を傾げる清原。長い髪がさらりとこぼれ、同性ながら纏はこれを綺麗だと思った。その後、照れをごまかすように、纏は早口で尋ねる。
「去年卒業された利他部の人って、どんな方ですか?」
纏からすれば、軽い質問をしたつもりである。
しかし、彼女が尋ねた瞬間、清原の表情は凍った。
「……誰の事言いよん?」
その声に、纏の背筋に冷たいものが走った。
「え、その……」
清原の変化に気付き、纏は口ごもった。清原の微笑みは変わっていないが、目は笑っていない。先ほどまでの親しみやすさが、今や完全に失せていた。聞く勇気が無くなり、危機感から纏は話題を変える。
「そ、その、ロッカーの奥に部屋があったんです!隠し部屋が!」
声を張った相原の言葉に、清原の目が丸くなった。瞬きした後、清原の眼差しから固いものが失せる。
「ほうなん?」
「そうなんです!ほら!」
纏は席を立ち、自分のロッカーへと向かった。ロッカーを開き、奥の壁を押し込む。がこん、と音を立てて壁は扉のように開いた。清原がそれを見て、無言になる。
「ね?で、奥に、こんなのが」
言いながら纏はロッカーの奥に入り、ハーネスのかかったハンガーとヘルメットとを取り出して見せた。それらを見た清原の顔がこわばり、視線が纏から逸れた。 先の威圧的なものとは違い、顔には狼狽が表れている。纏はこれを見て、清原が何かを知っているのだと分かった。
「これも私物なんですか?」
「あー……、と、ねぇ」
纏が答えを待ってじっと清原を見、清原は答えに窮する。清原が沈黙に耐えきれなくなって何かを言おうとした矢先、物置からの扉が開いた。
「何だ、二人も来ていたか」
現れたのは、住良木だった。纏と清原が彼を見る。住良木の目が纏の持つハーネスとヘルメットとに向いた途端、清原の眉間に皺が寄り、住良木を咎めるような顔になった。
「何で教えたん?」
住良木はその一言で事情を察したらしく、これに平然と対応した。
「知らん。部長が自分で見つけたようだ」
「はい、偶然ですけど。これは何ですか?」
住良木は纏の質問に答えず、彼女のすぐ近くにある自分のロッカーに近づいた。そして扉を開け、ぞんざいに片足をロッカーに突っ込んだ。ロッカーの金属板を蹴る音に、がこんという音が重なる。その音は、少し前に纏のロッカーから上がったものと同じだった。纏が住良木のロッカーを覗き込むと、纏のロッカーと同じ隠し部屋があり、ハーネスやトランク、ヘルメットもあった。
「驚くことはない。全てのロッカーにある」
纏は住良木を見上げた。彼の表情は昨日と同様、つまらないものを見るようなものだ。住良木は自分の隠し部屋に入ると、自分のヘルメットを持ってきて纏に見せた。ヘルメットの側面には纏のものとは違い、ロゴが「02」とある。纏は隠し部屋にあるものが私物でないのを察した。
しかし、未だに用途が読めない事に変わりはない。
「あの、これは?」
「備品だ」
それだけ言って、彼はヘルメットを戻した。ロッカーの壁を戻して、扉を閉める。そうした後で、住良木は清原の方を見た。彼女は視線の意味に気付いたらしく、彼に小さく頷いた。纏は二人の様子から、自分に秘密にされている事があると分かり尋ねた。
「何に使うんですかこれ?」
「コスプレだ」
「はい?」
「コスプレだ」
纏は住良木の正気を疑った。顔をまじまじと見るが、住良木の顔に変化はない。清原を見ると、彼女も反応に困っているらしく口の端をひきつらせていた。住良木を見る彼女の目は、明らかに「他に言い様があったろう」と言わんばかりのものだった。
「納得したなら、これで終わりだ」
住良木は自分のコーナーに戻り、事務椅子に座った。そしてパソコンモニタを見つめたまま、キーボードを叩き始める。これ以上の質問は受け付けない、と暗に言っているかのようだった。
当然、纏は納得していなかった。
「それじゃ納得できません」
「おいおい説明する」
纏は住良木に説明する気がないと分かった。
纏は住良木のこの態度に、次第に腹が立ってきた。ボランティア清掃をするだけの部活に、秘密の部室や隠し部屋、用途の読めない備品などが必要とは思えない。 何より、住良木は隠し部屋と一連の装備を見て、全てのロッカーにあると言っている。つまり彼がコスプレと呼んだものは、人数分あるのだ。遊びや悪ふざけにしては、手が込み過ぎている。
「ちゃんと理由を説明してください、副部長。私は部長ですよ」
住良木が手を止めた。纏の方を見もせずに口を開く。
「先輩と呼べと頼んだはずだ」
「教えてくれるまでは呼びません」
「斬新な脅しだな。悔しいが有効だ」
「アンタ何言いよん?」
清原が住良木の発言に呆れる。纏は住良木に近づき、彼の後ろに回った。
「何をしてるか知りませんけど、ちゃんと話しをしてくださ……」
纏の言葉は、彼女の目がパソコンの画面を見た瞬間止まった。
纏は住良木が、調べものをしているか、レポートを書いているかのどちらかだと思っていた。しかし目にしたのは、そのどちらでもない。
パソコン画面に映っていたのは、漫画だったのだ。髪を二つに括った、目の大きな少女が画面の前の住良木に手を振って微笑んでいる。
纏は怒りを忘れ、呆けたように尋ねた。
「……何見てるんです?」
「自作の漫画だ」
纏は耳を疑った。その後、目を疑った。
「え、これ自作、え?」
「趣味でな。家では時間が取れんので、時々ここで書いている」
住良木に言われ、纏は初めてパソコンの画面が画像編集ソフトを開いているものだという事に気付いた。
「……キーボードを叩いてたのは?」
「台詞を入れていた。それと効果音の仮置きだ」
住良木は再び手を動かし始めた。パソコンに向かい黙々と手を動かす彼に纏は何も言えなくなり、渋々と清原の元に戻っていった。
「お帰り」
「ただいま。……はあ」
纏は質問する意欲が失せ、住良木を見ながら清原にこぼす。
「私、住良木先輩が分かりません」
「それは私もよえ」
纏に同情するように清原は言った。
二人の視線をよそに、住良木はなおも退屈そうな顔で熱心にキーボードを叩いていた。
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