まとまれレスキューメイト

コモン

プロローグ

 校長室の真ん中で、相原纏は背筋を伸ばしたまま緊張していた。足元に敷かれた絨毯の柔い感触も、今の彼女には居心地の悪いものでしかない。

 彼女の前には机があり、その向こうには年配の男性がいた。オールバックの髪型と上唇の上で揃えた髭が特徴的なその男性は、纏の通う空坂高校の校長である。彼は彼女に厳しい目を向けたまま、静かに口を開いた。

「確かなのかい?」

 その問いかけに咎めるような響きを感じ、彼女は視線を下げた。年齢の割に小柄な体が、さらに縮こまる。小さな体をより小柄に見られないようにと肩にかかる程度まで短く切った髪のさら、と揺れる音までが自分を責めているように思え、彼女はかすれた声で小さく答えた。

「はい……」

「ああいや、君が悪いんじゃないよ。かしこまらなくてもいいから」

「いえ、ご迷惑をおかけするのは事実ですから……」

 そう言う事しか彼女にはできず、うなだれるばかりだった。今すぐ学校から帰りたいとすら思っていたが、ここから立ち去る理由には足らない。

 彼女を不憫に思うような視線を向けながら、校長はふう、と重くため息をついた。

「同情するよ。まさか入学後に、学費が払えないと分かるなんてねぇ」

 事実を改めて確認するように呟く校長に、彼女ははい、と小さく答えた。

 纏の母親が学費のために作った口座に入っている額が学費に満たないと分かったのが昨日の事。それを纏が校長に直接報告したのが、つい五分前の出来事である。彼女が担任ではなく直接校長に言ったのは、何かの拍子で同級生にこの事実を知られかねなかったからだ。

「お母さんが自分の仕事用に作った口座と間違えたんです。通帳やカードも丸々間違えて持って行っちゃて、三年は帰ってこないって言ってて。で、その仕事用の口座の額を見たら三年分の学費には足らなくて……」

 しどろもどろになりながら弁明する彼女を、校長は片手を上げて制した。

「分かっているよ。海外での仕事となれば仕方ないからね。母子家庭だし。となると……、ふむ」

 考え込む仕草を取った後、校長は何かを思いついたようにぽんと手を叩いた。彼女が驚いた顔で彼を見ると、校長は彼女の顔をじっと見てこう尋ねた。

「ええと、相原くん、だったね」

 尋ねられた纏は戸惑いながらもはい、と答えた。目を丸くする彼女に校長はこう言う。

「心配はいらない。学費は私が一旦立て替えておこう」

「本当ですか!」

 纏の顔がぱっ、と明るくなった。校長が自分を見上げてきた纏に、満足げに頷く。

「うむ。もちろん、払えるようになったら、きちんと払ってもらうよ。その代わりと言っては何だが、君に頼みたい事がある」

「何ですか?」

 尋ねる纏。彼女は何を言われても「はい」と答えるつもりだった。今の彼女にとって、これ以上の助け舟はない。

 続きを待つ纏に、校長は少し間を持たせた後、こう言った。

「君には利他部に入ってもらおう」

「……?りた部、ですか?」

 耳慣れない単語に、纏は思わず復唱した。彼女の知る限り、そんな名前の部はこの高校にはない。

 纏の戸惑いを余所に、校長は説明を続けた。

「君はそこに所属して、部活動に勤しんで欲しい。ただし、利他部の活動については誰にも言わないでもらいたい」

「え、なぜですか?」

 纏が尋ねると、校長は静かに後ろを振り返った。その視線の先には外に面した窓があり、そこからは校舎と正門とをつなぐ、長く広い道を一望する事ができた。形の整えられた街路樹が、その道に沿っていくつも規則正しく並んでいる。朝や夕方なら登下校する生徒でごったがえす道だが、昼休み時とあって人気は全くなかった。

「それは副部長から直接聞いて欲しい。部室に呼んでおくから、今から会ってきなさい」

 纏は事情が見えず、首をひねるばかりだった。部長ではなく、副部長というのもひっかかる。

とはいえ、纏に断るつもりはなかった。校長の申し出を拒否すれば、学校にいられなくなるのは分かっていたからだ。

「分かりました。部室はどこですか?」

 校長は視線を外に向けたまま、片手でそこを指差す。

「正門までの道に並ぶ街路樹の、ここから見て右側の手前から七番目の木の陰だ」

「……はい?」

 纏には、校長の言う意味がまるで分からなかった。街路樹の列の近くには建造物などない。ただただ広い芝生が広がっているだけだ。

「とにかく、そこに行けば分かるから今から行きなさい。それと、復唱はここでだけだよ、いい?」

「え、え?あ、はあ……」

 訳が分からないまま纏は頷いた。

「ええと、校舎から見て右の、七番目、ですよね?」

「そうだ、分かったら行きなさい。静かにね」

 校長に強い口調で言われ、纏は再び畏まって背すじを伸ばした。自分に目を向ける校長に慌てて失礼します、と礼をし、纏は逃げるように校長室を出ていった。

 一人になった校長はじっと動かず、彼女の足音が遠ざかるのを聞いていた。ようやく静寂が訪れた頃、彼は鼻からふう、と大きく息をつく。

「ようやく新入生が入ったか。さて、あの子がうまくやってくれるといいんだが……」

 言いながら彼は窓の前に行き、この場にいない纏に向かって静かに呟いた。

「君が彼等をまとめてくれると信じているよ、相原くん。利他部を……いや」

 そこまで言うと校長は踵を揃え、やにわに胸元へ寄せた手を、素早く前へ出した。

「レスキューメイトを一任する!」

 朗々と言い放った一言が、校長室に響いた。

纏に向かっての言葉だが、今この場に彼女はいない。当然返事はなく、やがて訪れた静寂に耐えきれなくなったように、彼はぽつりと呟いた。

「……一度、言ってみたかったんだ。こういう台詞」


 纏は空坂高校の校舎から出ると、携帯電話で母へと電話をかけてみた。何度目かのコールの後、受話器の取られる音が上がる。

『あ、纏?どーだった?』

 携帯電話のスピーカーから上がった母の能天気な声に、纏は大きく顔をしかめた。舗装された道を歩きながら、むくれて返す。

「もー、大変だったんだよ?ちゃんとしてよね」

『ごめんごめん、どーもお母さん、昔っから抜けてる所があってねー。ホーントごめん』

 そう言う声にはちっとも悪びれた様子がなく、あっけらかんとした言いぐさに纏は小さく唸った。文句の一つも言ってやりたくなるが、国際電話となれば通話代も馬鹿にならない。生活費用の口座が無事だっただけでも、纏としては喜ぶべきだった。

「お仕事忙しいのは分かるけど、気を付けてよね。ちゃんとそっちでうまくやれてるの?」

『モチのロンよー。アラビアでもアラスカでも、お母さんは病気した事ないんだからね』

「今どこだっけ?」

『エジプトー。強い日差しにお肌が焼かれて、びっくりするほど小麦色。今度会うのが楽しみね』

 冗談のような事ばかり言い、反省した様子は微塵もない。しかし纏は、そんな母親が嫌いではなかった。

「はいはい。調査隊の人達に迷惑かけないでよ」

『大丈夫、あたしがリーダーなんだから。しかも考古学者だし』

「分かってるならなおさらだよ。熱中症とか虫とか、怖いものは多いんだから」

『分かってるってば、もう。そっちこそ、高校で気をつけなさいよ。そこは十一年前何かがあって……』

 母親がそこまで言った時、にわかに受話器の向こうが騒がしくなった。母親の周囲で、何人もの人間が大きく動揺しているのが纏にも分かる。

『やば、お母さんピンチ!』

「どうしたの一体!?」

『お母さん今ちょっと悪の組織に追われてるの!』

「はい?」

 纏は耳を疑った。

『いやね?一昨日あたしの見つけたブツが、どーもこっちの学会で幅効かせてる学者さんの学説を否定するものらしくてね?公表されるとまずいってんで、今テッポー持った人達に追い回されてるのよ、これが』

 彼女の発言を肯定するように、だだんと強い音が受話器越しにいくつも上がった。言っていた事が事実なら、これは銃声という事になる。

「……その言い訳、何回目?」

『確か六回目。でもホントなの、これ』

 銃弾が土や岩を蹴散らす音が立て続けに上がり、英語ではない外国の言葉で悲鳴や怒号が飛び交う。音だけでも、現場の鬼気迫る状態が伝わってきた。

「やば、来た!纏ー、お金の事は迷惑かけてごめんね!何とかなったなら後で説明して!落ち着いたらこっちから電話かけるから!愛してるからねー!」

 ぶつん、と唐突に通話は途切れた。纏は耳を澄ませるが、通話が切れた事を表す電子音が規則正しく鳴るだけだ。先ほどまでの喧騒のせいか、その音はひどく静かに聞こえた。

 纏には焦りも、動揺もない。こうした事態は纏やその母にとって一度や二度ではなかったからだ。どうせ今回も無事だろうと、纏は高をくくっていた。

「ま、いっか」

 纏は携帯電話をポケットにしまった。

「それより、早く行かないと。こうしてチャンスをもらえた以上、私が自分で頑張らないとね」

そう自分に言い聞かせ、纏は自分の頬を両手で叩いた。頬に残るひりりとした痛みや頭の芯のくらっと揺れる感覚が、今の彼女にやる気を奮い立たせた。

『放火に注意』というポスターの張られた屋外掲示板の前を過ぎ、正門への道に差し掛かると、彼女は右手の街路樹を指で差し数えつつ、歩みを進めた。

「えーと四、五、六、と……、あ、ここだ」

 纏は校長から言われた通り、正門まで伸びる道に沿って並ぶ街路樹の、校舎側から見て右側の手前から七番目の木の前へ辿り着いた。立ち止まって木を見上げるが、他の木と比べて別段おかしな点はない。青々とした常緑樹の葉をつけたその木の周りを回って見てみても、特に新しい発見はなかった。

「この木の陰って言ってたけど……?」

 首をひねりながら、彼女は木の裏へ回ってみた。建築物など一切なく、敷地中に広がる芝生が見えるだけだ。何かないかと木の根元へ視線を落とし、そこでようやく不自然なものを発見した。

芝生や落ち葉の隙間から見えるのは、灰色の四角い角だ。それがコンクリートでできたものだと気付き、纏は屈んで落ち葉を払ってみる。現れたのは、マンホールを思わせる四角い鉄の蓋だった。街路樹が根元に近い高さまで枝葉を生い茂らせているため、それは常に陰になって見つかりにくい位置にあったのだ。引き開けられるようにできており、纏でも力を込めれば開けそうだ。

「え、これ?」

 纏は首を捻った。説明と実態が噛み合わっていないような気がして、纏が状況を整理しようと考え始めた時だった。

 扉からごん、と音が上がった。纏の心臓が大きく跳ね上がる。

 下から何かに突き上げられて上がったその音は鉄の蓋を揺らし、その蓋がわずかに持ち上がる。その後、蓋は静かに下から持ち上げられ、出来た隙間からは階段と、その上に立つ一人の男子学生の顔が覗いた。

 細身で肌は白く、眼鏡をかけた顔はつまらないものを見るような表情だ。しかし眼鏡越しの目だけは鋭く、自分を探ってくるようなその目に纏は面食らった。

「……一年の、相原纏か」

 静かに尋ねるその声に、纏は黙って頷いた。顔のつくりが良いせいか陰気な印象は受けないが、その代わり感情の篭ってない声が一層硬質的な響きを持って纏の鼓膜を震わせた。纏が頷き「初めまして」と言おうとした直後、男子学生はそれを遮った。

「返事は結構だ。誰かに聞かれかねん」

 そういう学生の声は小さいが、反論を許さない強い響きがあった。纏は言うべき言葉に迷ったが、結局何も言えず黙ってこれに頷く。纏の感じる不安をよそに、学生は表情を変えないまま静かに続けた。

「校長から話は聞いている。入ってくるといい」

 それだけ言うと、学生は蓋を大きく持ち上げた。纏が侵入を促しているのだと分かり蓋の裏側に手をかけると、学生は蓋から手を離し、彼女を先導するように階段を降り始めた。階段の奥に、明かりの類は見当たらない。纏が慌てて暗がりに向かう学生を追おうとすると、すぐに彼が足を止めた。

「悪いが、すぐに閉めて欲しい。ここが見つかると面倒だ」

 振り返りもされずにそう言われ、纏は慌てて階段を降りた。見た目の割りに軽いその蓋を降ろしながら階段を下りていくと、蓋は階段への入口を完全にふさいでしまった。

 辺りが完全に暗くなって少し経った頃、パチッ、と音が上がった。纏が何かのスイッチの入るその音に気付いた直後、にわかに辺りが明るくなった。

 現れた光景を見て、纏は驚く。白い壁と天井、床に囲まれた広い通路。天井に並んだ蛍光灯によって照らされたその一本道の奥には、両開きの引き戸がある。

 ぽかんとする纏に、住良木は分かり切った事をあえて言わされているような口調で説明した。

「階段を最後まで降りきればセンサーが作動して、電気が点く。間違って迷い込んだ者なら不信がってここまでは降りんからな。地下室の場所を知られないために、あえてそうしている」

「え、地下室があるんですか?」

 纏は思わず学生に尋ねた。彼女の知る限り、この学校に地下室はない。

「質問は後だ。部室に入れば分かる」

 またも学生は振り返らずに答えた。彼に歩みを止める様子はなく、纏は置いて行かれまいとその後を追う。

「三年の住良木だ。利他部の副部長をしている」

 いきなり言われた纏はこれが自己紹介だと気付き、校長の言う副部長が彼の事だと分かった。

「じゃあ、校長先生から」

「事情は聞いた。利他部は今、私を含めて四人いる。全員が上級生だが、よろしく頼む。何か質問は?」

「はい、お願いします。ええと、でしたら、何で部室が地下にあるんですか?」

「秘密だ」

 ばっさり切られ、纏は反応に窮した。もったいぶっている、というよりは、話す気がないと言わんばかりの態度である。

「え、ええと、だったら、利他部って初めて聞いたんですけど……」

「マイナーな部活だからな。新入部員も募集していない。ただし、部室のない部としているから、この場所は誰にも言わないでもらいたい」

「は、はい。校長先生も、している事は誰にも言うなって言ってました」

「それだけ分かれば問題ない」

 住良木はそれだけ言うと、何も言わなくなった。通路は長く、纏は訪れた沈黙を持て余して気まずさを覚える。何とか間を持たそうと、纏は思い付きを口にした。

「そ、そういえば、ここって、秘密基地みたいですよね!何だかヒーローみたいって言うか……」

 纏がそこまで言った時、住良木の足が止まった。纏も合わせて立ち止まる。彼女が何事かと住良木を見上げると、彼は眼鏡越しの目を一層細めて纏を見下ろしていた。

「……勘がいいな」

「え?」

「何でもない。思うのは自由だ」

 住良木は再び歩き出した。彼女は彼の態度に疑問を持ったが、聞いたところで答えてもらえないだろうと渋々後を追った。

 二人が扉の前に辿り着くと、住良木がその扉を開けた。纏は住良木の後ろから部屋の様子を覗き込む。

 そこには、教室一つ分の広いスペースがあった。窓はなく、左右の壁には扉が一つずつあり、右の壁には灰色のロッカーが五つ並んでいるのが見える。部屋の中心には円形の大きな白い机があり、それを囲むように背もたれの無い椅子が並んでいた。さらに二人がいる入口の対面にある壁には、壁面を隠すように大きなモニタがかけられている。それは教室に置かれる黒板よりも大きい。

 それだけならただ整然としただけの部屋に見えただろうが、そこにはものが多すぎた。広い部屋の四つの角には、実に雑多に家具や道具が置かれているのだ。

 広い部屋の左奥の角には、どこから持ち出したのか畳が四枚敷かれており、小さなちゃぶ台がその上に置かれている。骨とう品のような桐箪笥や茶道の道具が並ぶその様は、まるで茶道部の部室のそれである。

 手前の左側にある角にはダンベルやチューブなどのトレーニング用具が並ぶ金属製のラックが置かれていた。黒いマットのついたトレーニング用のベンチまで完備されており、まるでトレーニングジムの一角である。

 手前の右側には、まるで漫画喫茶のような角があった。オレンジ色の椅子と机を、背の高い本棚が三方から囲んでいる。どの本棚も漫画やファッション雑誌などが隙間なく詰め込まれており、くつろぐための本しか置かれていないというのが一目で分かった。

 残る右奥の角には、教員が使うような灰色の事務机が置かれていた。机の上には電気スタンドやパソコン、分厚い本を立てるブックエンドといったものが整然と置かれており、他の三つの角と比べると見る者に肩の凝りを感じさせる。一目では、教員の席にしか見えない。

 一室に詰め込むにしては異様に多い道具の数々に、纏は目を疑った。乱雑としか言いようのない部屋の様子からは、部の活動を想像する事がまるでできなかった。

「……?あの、ここは?」

 住良木に尋ねるが、彼は答えず、部屋の中央にある机に歩み寄ってその表面に手を置いた。

「ここで好きにくつろぐといい。後から他の部員も来る」

 それだけ言うと、彼はさっさと事務机のある角へ行き、椅子に腰を下ろした。堅物に見える住良木と事務机の取り合わせが自然なものに見えて、纏は尋ねる。

「えと、もしかして、部屋の角にあるものは全部……」

「部員の私物だ。繰り返すが、うちには今、私を含めて四人いる」

 部屋の角の数と合い、纏は合点がいった。部屋の角に置かれたものが持ち主の個性を表していると思えば、部屋全体の雑然とした様子にも納得がいく。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 纏は部屋の中心にある机を囲む椅子の一つに腰かけた。

 机の上には何もなく、纏は何となく手持無沙汰になる。どうしようかと住良木に目を向けるが、彼は彼女の視線に気付かずパソコンに向かって黙々とキーボードを叩いていた。今の住良木からは話しかける余地が感じられず、部屋にはカタカタという音だけが静かに響く。纏はする事が見つからず、部屋の中で視線をさまよわせた。

 そこで、彼女は向かいの椅子に何かが置かれているのに気付いた。何だろうかと立ち上がり、その席へ回ってみる。

 その席にはバスケットボールよりも二回り大きな、丸いぬいぐるみが置かれていた。短い足を畳み、眠そうに目を閉じたそのシベリアンハスキーは「ねむ犬」と呼ばれる人気キャラクターのぬいぐるみだ。犬種になぞらえたバリエーションがあり、纏が見たのはシロと呼ばれるねむ犬だった。

「あ、シロちゃんだ。よいしょっと」

纏はぬいぐるみを両手で抱えると、手近な椅子に座り直した。大人しく他の部員が来るのを待つことにし、彼女は黙って顎をぬいぐるみの頭に乗せた。何とはなしに大きなモニタに目を向け、他の誰かが来るのを黙って待つ。

 時間が経つのを知らせるように、キーボードを叩く音が部屋で静かに流れ続けた。


 時期は四月の半ば。新入生といえどもその頃には顔なじみを作り、グループで行動する者が大半だ。たとえ馴染めていないとしても、同級生の顔ぶれもある程度分かるようになる。そういう時期だ。

 なので、どの一年生から見ても彼は異質だった。

「だから、二組の相原っていう子やけど、誰か知らんかや?」

 廊下にいる新入生達に土佐弁でそう尋ねて回っているのは、身長の高い男子学生だ。長めの髪をまとめて後頭部で縛っており、広い額を惜しげもなく晒している。新入生を見下ろす目は、どこか相手を小馬鹿にしているようなものだ。下級生からすれば、上級生からそんな目で見下ろされては、委縮して何も答えられなくなるものだ。彼に尋ねられた一年生の女子グループもその例に漏れず、「知らないです」と怯えたように答えて彼から離れていった。男子学生は足早に帰っていく彼女等を見送りながら、あてが外れたように嘆息した。

「何じゃ、知らんがか。ほやったら、大人しく部室で待っちょった方がマシやったにゃあ」

 頭を掻きながら来た道を戻ろうとする。その矢先、彼は自分の知る女子学生が向かいから来たのに気付いた。長い髪を揺らして歩く彼女に、彼はぞんざいに声をかける。

「清原、いたがかや?」

 そう聞かれた女子学生は、彼を見て露骨に眉をひそめた。立ち止まり、腕を組んで彼を睨む。その女子学生も長身であり、迫力という点ではその男子学生にも引けは取っていない。長いスカートの縁が、足首より少し高い位置で小さく揺れた。

「一応先輩なんやけん、呼び捨てはやめんかえ」

 清原と呼ばれた彼女の口調は今治弁だ。それも独特のイントネーションが強く、聞く者に老人めいた印象を与える。清原の態度に、土佐弁の男子学生は忌々しそうに眉をひそめた。

「こっちから探しに行こうて言うたのはそっちじゃが」

「御深山が勝手についてきたんやろ。こっちのせいにするんじゃないぞね」

 土佐弁と今治弁で言い合う二人の迫力に、近くにいた一年生達がそそくさと離れていった。二人は周囲の様子になど目もくれずににらみ合う。

 やがて御深山と呼ばれた男子学生の方がチッ、と舌打ちして目を逸らした。

「衙門は?」

「知らんよ。大方、校舎裏にいるんやない?」

 清原の投げやりな返答に、御深山は窓の外に目を向けた。そして、自分が見たものに眉をひそめた。

 一階に位置する一年生の教室の廊下からは、校舎裏に続く道を植え込み越しに見る事が出来る。そこを、四人の学生が走っていった。いずれも不良である事が一目瞭然だが、全員が傷だらけで、みっともない声を上げながら何かから逃げているのも見て明らかだった。

 清原も何事かと外を見て、通り過ぎる不良達にああ、と納得の声を上げた。

「衙門やね」

「衙門じゃな」

 二人が認識を共有すると、彼等の知る顔が校舎裏から現れた。茶色の短髪で粗暴な顔付きをしているその男子学生は、左の頬に痣があるのを除けば無傷と言っても良い。その表情は憮然としたものだ。

 御深山が窓を開き、馬鹿にしたような口調で茶髪の男子学生に声をかけた。

「一発もらったがか?」

 衙門と呼ばれたその学生は足を止め、御深山を見て表情を更に険しくした。

「……うるせぇよ」

 それだけ言うと、衙門は再び歩き始めた。御深山から遠ざかりながら、ぽつりと呟く。

「くそっ、功夫が足りねぇ」

 小声でのその呟きを、御深山はしっかりと聞いていた。御深山は聞き慣れた台詞を鼻で笑い窓を閉める。

「そういや、衙門は知っちょるんか?」

「何がよ?」

「何がて、新入部員に決まっちょるろうが」

「私が知る訳ないろ。校長が言いよるんやろうから、知っとんやない?」

 投げやりに言って、清原は踵を返した。

「どこに行く気じゃ」

「部室よえ。これだけ探していないなら、もう来とると思うけんね」

 清原は早足でその場を去った。御深山はそれを見送ると、仕方ないといった体で彼女の後を追いかけた。


 纏はねむ犬に顎を乗せたまま、タッチパネル式の携帯電話の画面を見た。四時半を過ぎた今も、他の部員が来る気配がない。住良木は相変わらずキーボードを叩いており、一度たりとも画面から目を離していなかった。依然として話しかけられるような隙はまるでなく、それがますます纏を落ち着かない気分にさせた。

 ここは何なのか。利他部とは一体何をする所なのか。

 聞きたい事は多かったが、住良木からは質問を投げかけてもそれに応じようという雰囲気が微塵もなかった。仕方なく纏は携帯電話の画面を閉じ、再びねむ犬に両手を回して頬をぬいぐるみの頭にうずめた。手持無沙汰なまま、自分が入ってきた出口を見る。いつになったら人が来るんだろうと思ううち、纏は次第に眠気を覚えてきた。ねむ犬のぬいぐるみが腹を温める上、枕の役割まで果たしていたからだ。

 不意に、扉が開く。纏の眠気が一気に飛んだ。

 彼女が目にしたのは、髪の長い長身の女子学生だった。彼女の目が纏を見て、途端に丸くなる。

「まぁ」

 驚きとも呆れとも取れるその声に、纏は慌てて立ちあがった。

「あ、す、すいません!利他部の方ですか?」

「ほうよ。一年生?」

 尋ねる女子生徒は、小柄な纏よりも頭一つ分背が高い。しかし彼女に威圧感はまるで無く、問いかけもおっとりしたものだ。表情も穏やかで、纏は彼女に対して安心感を覚えた。

「は、はい、初めまして。一年の相原です。校長先生に呼ばれて来ました」

「ああー、あなたがそうなん?そっかそっか、うん」

 彼女は弾んだ声で頷き、何やら満足した様子を見せた。そして和室のような一角へ向かうと靴を脱ぎ、畳の上に座る。彼女の佇まいと和室のような一角とが見事に調和しており、纏は彼女がその角の主である事が一目で分かった。

女子学生が桐箪笥を引き開けて菓子の袋を取り出し、相原に尋ねる。

「私は三年の清原。お菓子食べる?」

 お菓子と聞いて、纏の顔がぱっ、と明るくなった。

「食べます!」

 纏は嬉々として、ねむ犬を抱えたまま畳に上がった。清原の好意的な態度と同性の気安さからか、纏の緊張は先ほどよりもほぐれていた。

「何がええろうか?瓦煎餅と、金つばと、おかきと……、あ、若い子はたまごボーロなんかがいいかいねぇ?」

 清原の整った顔に浮かぶ表情は緩んだもので、口ぶりもまるで娘か孫にでも話しかけるようなものだ。

「じゃあ、それお願いします」

 纏は喜んでたまごボーロの袋を受け取った。ねむ犬を離し、封を切って食べようとする纏を、清原は緩んだ顔で見る。

「変わっとるねぇ」

「え?」

「ほら、言うと何だけど、若い子向きのお菓子やないでしょ?私は好きなんやけんど、てっきり嫌がるのかと思うてねぇ」

 下級生を若い子と呼ぶのもおかしな話だが、不思議と清原にはそういう呼び方が似合っていた。纏も違和感を抱かずこれに答える。

「好きですよ、こういうの。お母さんが時々持って来るお土産よりもずっとおいしいですし。それに、出してくれたものに文句を言うなんておかしいじゃないですか」

 そう言って、纏はたまごボーロをもそもそと食べ始めた。満足げな纏の表情に、清原の口元が緩む。

「ええ子やねぇ。おいしいお店の芋けんぴもあげよ」

「わ、ありがとうございます」

 清原はにこにこしながら桐箪笥を開け、芋けんぴの袋を取り出した。纏に差し出そうとして、その手がふと止まる。何だろうと纏が口をもそもそさせながら見上げると、清原の目は纏を見ていなかった。

「……趣味が悪いぞね、住良木」

「え?」

 纏が清原の視線を追うと、住良木がパソコンのモニタの影から二人をじっと見ているのが見えた。キーボードを打つ手も、今は止まっている。

「何、聖母モードを見るのも久しぶりでな、手が止まった」

「聖母?」

「その呼び方やめや。恥ずかしい」

 全く、と忌々しげにつぶやく清原に対し、住良木は眉一つ動かさなかった。

「他の後輩にも同じ態度を取れればな」

「あれ等には可愛げがないけん無理ぞね」

 それだけ言うと清原は纏の方へ目を戻し、寄せた眉根を緩ませた。

「あいちゃん、誰ぞに変な事されたら私に言いよ?そこらの男より私は強いけんねぇ」

 がらりと変わった清原の態度に、纏は戸惑いながらも頷いた。いつのまにかあいちゃん、などと仇名で呼ばれているのも驚きである。もしや今の上機嫌な状態が住良木の言う聖母モードなのかと思いながら、纏は口の中のものを急いで呑み込んだ。

「あ、は、はい。ありがとうございます……。えーと、お二人は、仲、良くないんですか?」

「あー、良くない、ゆうか、ね……」

 清原は言いにくそうに口を濁し始めた。何か後ろめたいものを抱えているような態度に、纏は自分が失言したのかと焦る。

「ご、ごめんなさい!いきなりこんな事聞いて……」

「あ、構んよ、気にせんと。こっちもごめんね。雰囲気悪うしてねぇ」

「いえ、こっちこそ……」

 二人で頭を下げ合っていると、部室の入り口が再び開いた。今度はどんな人かと、纏はそこを見る。現れたのは長髪を後ろで結んだ、長身の男子学生だった。

「おー、おるんか!その子が相原かや!」

 開口一番、男子学生は纏を見てそう言った。不躾な言いぐさと声量の大きさ、土佐弁の威圧的な響きに纏はすくみ上る。清原は彼を見て露骨に表情を歪めた。

「御深山、おらばれん。あいちゃんが怖がるろ」

 御深山と呼ばれたその学生は、清原を見て露骨に嫌な顔をした。

「あーはいはい、悪かったっちゃ、気をつけますー」

 ぞんざいな言い方で謝ると、彼は中央の机を囲む椅子の一つに座り、机越しに纏と清原とを視界に収めた。纏は居心地が悪くなり、御深山から目を逸らしてたまごボーロの袋に手を入れた。

「しっかし、小さい子じゃなー、こんなんで大丈夫がか?」

「新入生の面倒を見るのが上級生ぞね」

「へーへー、分かっちゅうき。にしても相原、ようそんな古い菓子が食えるのう」

 御深山がそう言った時、たまごボーロをつまむ纏の手が止まった。纏の表情が硬いものに変わり、その目が御深山に向けられる。

「……いけませんか?」

「いけん言うこたないがやけど、もっとマシなのを……」

「マシとはなんですか!」

 纏がちゃぶ台を叩いた。先ほどまでの物怖じした雰囲気がまるで無くなり、御深山や清原、そして住良木までもがその変貌に目を見張る。

「あ、あいちゃん?」

 呆気に取られる清原の前で、纏は膝で立って御深山を睨んだ。呆気に取られている御深山を見据え、彼女は言う。

「お母さんが言ってました。『食べ物を笑うのは、それを食べる人を馬鹿にする事だ』って。……言って良い事と悪い事の区別くらい、自分でつけてください」

 それだけ言うと、纏は再び畳に座ってたまごボーロを食み始めた。御深山の方を見ず、むすっとした表情で口だけを動かす。その様は、御深山や清原から見れば、子供が拗ねたようにしか見えなった。

 しかし、御深山はそんな纏に次第に引け目を感じ始めていた。言われた事にも間違いがあるようには思えず、なまじ感情を露骨に表されただけに自分に非があるように思えたのである。

「……あの、なんか、そのー……、すいません、でした」

 纏は答えず、再びたまごボーロの入った袋に手を伸ばした。御深山は居心地の悪さを覚え、座りを良くしようと椅子の上で尻の位置を直す。纏を見る目も、彼女の反応を伺うものに変わっていた。

 二人の反応を見て、やがて清原がふふっ、と微笑んだ。

「あいちゃん、お茶入れようか?」

 纏は口の中のものを租借しながら、黙ってこれに頷く。それを見て、御深山が慌てたように席を立った。

「ちゃ、茶よりジュースやろが。俺買うてくる!」

 彼は、先ほど自分が入ってきたのとは別の出口から部室を後にした。閉まった扉の向こうから彼が駆け足で遠ざかっていく音が部室に響く。それを聞きながら、住良木がパソコンのモニタを見たまま纏に言った。

「すまないな。悪い奴じゃないから、許してやって欲しい」

「別に怒ってゆうた訳やないろ?ね、あいちゃん」

 清原が優しい口調でそう尋ねると、纏は気まずそうな顔をして口の中のものを飲み込んだ。

「ごめんなさい。ついカッとなっちゃって……」

「ええんよ。アレにとってもええ薬になったやろうし。あいちゃんはええお母さんを持っとるんやねぇ」

 清原はにこにこしながら纏に言って、桐箪笥の陰に置かれた棚から急須と茶葉の入った缶とを取り出した。茶葉を急須に入れ、棚の上にある電気ポットから湯を注いでちゃぶ台の上に置き、急須の蓋をずらす。そして湯呑を二つ取り出した時、御深山が出ていった部室の戸が再び開いた。

「あれ、ずいぶん早く……」

 纏が言いながら扉を振り返ると、彼女は思わず上ずった声を上げそうになった。

 部屋に入ってきたのは御深山ではない。茶髪な上に相手を射殺そうとしているような、凶悪な目付きをした男子学生だったのだ。一目で不良と分かる外観な上、左の頬には痣がある。喧嘩をした跡だとすぐに分かり、纏は反射的に清原を見た。

「大丈夫よ、あいちゃん。一応アレに害はないけんね」

 纏には悪い冗談のように聞こえた。本人を前にしての清原の砕けた物言いが、明らかに見知った人間に対してのそれなのだ。考えられる理由は、その不良にしか見えない男子学生が利他部の部員だからに他ならない。

「アレとはずいぶんだなオイ」

 男子学生はドスの利いた声で清原に言い捨て、大股でトレーニングベンチのある角へと歩きそれに腰を下ろした。それを見て纏がぽつりと呟く。

「あ、そっちなんだ……」

「あ?」

 男子学生の目が纏を見た。

「あ、ごめんなさい!角にあるものは私物って聞いてましたから、その、てっきりあの角の人なのかなって思って……」

 纏は娯楽用の本の詰まった本棚のある角を指差した。男子学生がそこを見てハッ、と鼻で笑う。

「あそこは御深山のだ。奴の本なんざ、読む気しねーよ。ていうか、お前誰だ?」

「え?」

「衙門、あんた聞いてなかったん?」

 清原が呆れたように聞くと、衙門と呼ばれた男子学生は眉をひそめて視線を上へ傾けた。

「……?あー、思い出した。なんかウチに一人入るっつってたな」

「それがこの子よえ。挨拶くらいしいや」

 衙門は面倒くさいとばかりに唸ると、敵を見るような目を纏に向けた。

「二年の衙門だ。なんでここに来た?」

 怯みながらも纏は答える。

「あ、えっと。一年の相原です。初めまして。ここには校長先生に言われて来たんです。地下室があるなんて知らなかったんですけど……」

「まあ、おおっぴらには言えねーからな。秘密も多いし、面倒だらけだ」

 面倒、という言葉に纏が疑問を持った瞬間、声が上がった。

「衙門!」

 鋭い叫びに場が凍る。声をあげたのは、清原だった。

 清原は纏に目もくれず、険しい顔で衙門をにらんでいる。纏はおっとりした彼女が大声を上げるとは思わず、彼女の剣幕に息を呑んだ。先ほどまでの柔和な雰囲気は、まるでない。衙門は清原のその変貌に動じた様子を一切見せず、清原を睨み返した。

「良いだろ別に。どーせあのオッサンが全部言うんだ、知っとくのも早い方がいいだろ」

「……何もかんも一度に教えたら、あいちゃんが混乱するぞね」

 二人の間に、険悪な空気が満ちる。

 纏には事情は分からない。しかし話題に上げられているせいで彼女は責任を感じ、急いで二人の間に割って入った。清原に背を向け、衙門を見るようにして畳の上に膝で立つ。

「お、落ち着いてください。事情は分かりませんけど、後で、その、ゆっくり教えてもらいますから!問題ない範囲で!」

 必死になって言う纏。彼女を見て清原の顔から張りつめたものが抜け、衙門は纏に眉をひそめる。睨み合いの緊張が次第に無くなり、やがてぽつりと、衙門が呟いた。

「……お前、変な奴だな」

「へ?」

 纏は衙門を見て首を傾げた。

「お前みたいなのは、俺が怖いと思うモンじゃねーのか?よく口がきけたな」

 纏は衙門が自分の風貌に自覚があるのに面食らったが、構わず問いかけに応じた。

「そ、その、それは……確かに怖いですけど」

「ほお?」

 衙門の相槌に纏はひるむが、それでも必死で彼女は続けた。

「でも、私の事で揉めてるんなら無関係じゃないですもん。清原先輩には良くしてもらってるし、喧嘩なんて嫌だし……」

 次第に纏は言葉に詰まり出したが、それでも衙門から退こうとはしなかった。

「あいちゃん……」

 清原が感慨深げな目で纏を見る。後輩というよりは、まるで成長した娘を見るような目だ。その視線を背で受けた纏は、これが聖母モードかと頭の冷静な部分で納得してしまった。

 衙門はじっと纏を見ていたが、やがて興が削がれたように彼女から視線を逸らした。

「……あー、まあいいか。そう急ぐ必要もねーかもな」

 そう言って衙門が矛を収めると、部室の出入り口が大きく開いた。

「買うてきたぞ相原!好きなの選びや!」

 御深山が缶ジュースを三本抱えて現れた。部室の四人の視線が彼に集中し、対する御深山は面子が一人増えた事に気付いて衙門を見た。たちまち、両者の眉間に深い皺が刻まれる。

「……衙門、来ちょったんか」

「来ちゃ悪りーかよ。てめーこそ、どこで油売ってた?」

「買うて来たんじゃ。後輩に差し入れくらい、するのが普通じゃろ?」

「俺が手ぶらな事への嫌味か?」

「分かっちょるやないか」

 二人の間にある空気が先ほどの、清原と衙門との睨み合いよりも険悪なものになる。見下したような薄ら笑いを浮かべる御深山と、憎い仇を見る目をする衙門。浮かべる表情こそ違うが、両者の顔には互いに相手への敵意が満ちていた。

 纏は清原と住良木とを見たが、どちらも二人の争いに割って入る様子はない。住良木はパソコンから目を離さず、清原は涼しい顔で二つ並んだ湯呑に茶を注ぎ始めていた。どちらも争いにまるで関心がない。とぽとぽという音が緊張感を削ぐが、纏だけは一触即発な二人の雰囲気に耐え切れず、どうすべきか迷った末、靴を履いて御深山に駆け寄った。

「じ、ジュースありがとうございます!えーと、三つあるのは何でですか?」

 明るい声で尋ねる纏に二人の目が向けられる。緊張する纏だったが、御深山が彼女を見て手にしたものを思い出し、敵意を解いた。

「お、おおそうじゃった。何が好きか分からんかったき、選べるように見繕ったんじゃ。全部でもかまんぞ」

「で、でしたらえーっと、どうしよう……」

 御深山の持つ缶ジュースの品定めを始める纏。衙門はそれを見て、やりづらくなったのか、纏と御深山から目を逸らしてベンチに寝転がった。纏はジュースを選びながら、目論見通り争いを回避できた事に内心で胸を撫で下ろした。

 部室にある大きなモニターに光が灯ったのは、その時だった。

『おお、皆揃っているね』

 突然上がった声に、纏が驚いてモニタを見た。黒板よりも大きなモニタに大写しになっているのは、校長の顔だ。

「こ、校長先生!何で!?」

 画面の中の校長の目が、纏の方を見た。

『おっと、驚かせたかな相原君?まずは落ち着いて欲しい。今から事情を話そう』

 纏は背筋を伸ばしてモニタと対峙した。しかしその後、自分がずっとねむ犬を抱えたままなのに気付き、慌てて手近な椅子にそれを置いた。

『はっはっは、自由にして構わんよ。他の皆もそうしているだろう?』

 まるでこちらの様子が見えているかのように話す校長に、纏はあたりを見回してカメラを探した。しかしまるで見当たらない。

『はっはっは、いい反応だ。彼等はもうこの程度じゃ驚かないからね』

 言われて纏は周りを見、四人が校長の言うようにくつろいだ姿勢でモニタを見ているのに気付いた。突然モニタが点いた事にも、校長の顔が不意に現れた事に対しても慣れきっているという体だ。モニタを見上げる目にも、揃って呆れが浮かんでいる。

『まずはようこそ、と言うべきかな相原君。君が今いるその場所が、私の言った利他部の部室だ』

 住良木達四人がこれを聞いて軽く頷いた。住良木が校長に尋ねる。

「活動内容は話したんですか?」

『いや、全く。君達から話してくれれば、私が楽になるからね』

「相変わらずですね」

 口調こそ相変わらず平坦であったが、言葉には諦観が滲んでいる。校長は気にした様子もなく、得意げにこう言った。

『当事者達から聞いた方が分かりやすかろう。よろしく頼むよ』

 住良木は少しの間沈黙すると、立ち上がり、纏の方へ歩み寄って彼女を見下ろした。纏も聞く姿勢を作って彼を見上げた。

「これから君には、利他部の面子として一緒に活動してもらいたい。前にも言ったが、私が副部長だ。分からない事があれば後で聞く。現在部長は欠番で、利他部には私を入れて四人いる。君が入れば五人だ」

「部長さんがいないんですか?」

 纏がそう尋ねた時、住良木の目が細まった。纏の死角にいる清原や御深山、衙門までが一様に表情を曇らせる。纏は、また聞いてはいけない事を聞いたのかと身を竦ませる。

「それは……」

 住良木が何かを言いかける。しかしその直前、校長の声が彼の返事を遮った。

『君が部長になるからさ』

 ああなるほど、と部室の全員が納得した。

 しかし直後、全員がその理屈に疑問を持つ。改めて言葉の意味を考え直し、理解した瞬間五人は驚きの声をあげた。

「え、えぇぇ!?」

 纏が言葉の意味に動転する。いきなり入部したての一年生に部長を任せるなど、彼女からすれば前代未聞だ。他の四人も同様で、全員が纏と校長を見比べて校長の正気を疑った。

「え、この子が、ですか?」

「あいちゃんが部長!?」

「おい一年やぞ!」

「こいつがやるのかよ!」

 騒然となる部室。画面の中の校長は、全員を見回しながら満足そうな笑みを浮かべていた。その表情に、五人の視線が集まる。

「うーん、いい反応」

「「「校長!」」」

 清原と御深山、衙門の声が重なった。住良木だけは真意を測りかねたようにわずかに眉をひそめており、纏はというと校長の態度が、校長室で会った時とはまるで違う、ひょうきんなものである事に呆気に取られていた。

『あーあー、落ち着いて。どうどうどう。……よーし、落ち着いた。とにかく、その子をレス……ごほん、利他部の部長にするのは決定事項だ。嫌だと言っても変えないよ』

「れす?」

「ですが、無謀です。彼女に何ができるんですか?」

 住良木の問いかけに、校長はこともなげに答えた。

『君達にはできない事さ』

 住良木達が一斉に纏を見た。注目された纏は視線に戸惑い、校長に期待される心当たりが全くない事に困り果てていた。その様子を見て、住良木が眉をひそめる。

「……とてもそうは思えませんが」

『その内分かるよ。何てったって、あの相原千代の娘さんだ』

 住良木以外の利他部の面子が、耳慣れない名前に眉をひそめる。纏は母の名を言われ、驚いてモニタを見上げた。

「お母さんを知ってるんですか?」

『有名じゃないか。既存の学説をひっくり返す大発見をいくつもしてきた、稀代の女性考古学者だ。おかげで何かと物騒な噂の絶えないお方だ』

 校長が言うのを聞き、住良木がパソコンを睨みキーボードを叩いた。彼はインターネットで名前を検索すると、すぐに表示された記事やニュースのいくつかを黙読し終えた。

「……記事を確認しました。仰る通りの人物で、娘が一人いる事にも言及しています。少し前に彼女が言っていた事と、同じ発言をしている記事もあります」

「あいちゃんのお母さん、すごい人やったんやねぇ」

 清原の感心した呟きに、纏は面映ゆくなって俯きあいまいに笑った。

「しかし、それは理由になりません。彼女をこの部の部長に据えるのは極めて無謀かと」

 住良木がなおも難色を示すが、校長の態度は変わらない。

『それは君達次第さ。後輩の能力を伸ばすのも、先輩のつとめだろう?』

 したり顔で言う校長に、衙門が横柄な態度で口を開いた。

「校長、アンタ適当な事言ってこいつを押し付けようとしてねーか?」

『……そんな事ないよ?』

「こっち見て言いや」

 清原がそっぽを向く校長に厳しい口調で言った。

『ともかく、その子の面倒を頼むよ。それと、そろそろ君達授業の時間だよ。放課後はちゃんと空坂の中央公園に行って活動してきなさい。じゃあね』

 校長が片手を軽く上げてみせた直後、モニタから光が失せた。暗い画面に映る自分の顔と部室の様子を見て、纏はようやく通信が切れたのだと分かった。

「……」

 部室に静寂が横たわる。纏は恐る恐る首を巡らし、自分を見つめる四人の視線を見回した。

 住良木は依然としてつまらないものを見るような表情のままだが、眼鏡越しの眼光は先ほどまでよりも鋭い。御深山は纏を部長とする事に肯定も否定もせず、口元をひきつらせるばかりだった。衙門は上半身を起こして顎を引き、凶悪さを一層増した表情で纏をねめつけている。さながら、敵を見る顔である。

 男三人の視線に耐え兼ね、纏は助けを求めるように清原を見たが、彼女の顔は他の三人よりも固く険しいものだった。信じがたい現実を前にして理解を拒むようなその表情は、怒りすら滲んでいるようである。

 四人の視線が自分を責めているように思え、纏はすっかり委縮してしまった。

「あ、あの……?」

 恐る恐る纏が口を開く。その声に、清原が我に返ったように眼を見開いた。

「……え?あ、あ、ごめん。ごめんあいちゃん、怖かったろうねえ」

 清原は思い出したように慌ただしく動き、桐箪笥から芋けんぴの袋を取り出した。

「ほら、これ言いよった芋けんぴ。今食べんかえ?」

 纏は少し前に言われた事を思い出し、誘いに乗った。

「い、いただきます!わーい!」

 ことさらに明るい声を上げて畳に駆け寄り、靴を脱いで上がりこむ。二人がいそいそとお茶会を始めようとするのを見て、男達三人はようやく彼女等から視線をそらした。住良木は目をパソコンモニタに戻し、御深山は中央の机を囲む椅子に腰を下ろして肘をつき、衙門は再びトレーニングベンチに背中に預けて天井を見上げる。

「……で、どうするつもりなが?」

 口を開いたのは御深山だった。全員の目が彼に集まる。

「どの道、今の利他部に部長はおらん。がやったら、お飾りでええき、そいつをそこに据えても問題ないがやないか?」

 纏はお飾りと言われた事にむっとしたが、反論はしなかった。彼以外の三人の反応を見たかったからだ。

「なるほど、形だけでも部長としておけば、校長からの指示には従えているな」

 住良木がモニタから目を離さずに御深山の案に同調する。これに清原が目を剥いた。

「私は反対ぞね」

「怒るな。全権を譲渡する訳ではない」

「ほうやのうて、この子を部長にしとうないんよ」

「安心しろ清原。言わない」

 住良木がそう言うと、清原は言葉を詰まらせ、黙り込んだ。纏は何も言えなくなったらしき清原の態度に疑問を抱くが、疑問を口に出来る空気でないのを察して言葉を呑み込んだ。

 なおも躊躇いを見せる清原に、再び住良木が尋ねる。

「ならば清原、聞くぞ」

 住良木は一拍間を置き、ついと視線を逸らした。彼の視線の先には、御深山と衙門がいる。

「お前にそこの二人を仕切れるか?」

 途端に清原は渋面を作った。

「……これらの面倒見るとか嫌ぞね」

「「あ?」」

 異口同音に、御深山と衙門の目が清原に向けられた。清原は二人の視線を真っ向から受け、黙って冷たい視線を向け返した。険悪な空気が漂い始めた所で、纏はすかさず口を開いた。

「じゃ、じゃあ、他の人!例えばですけど、えーと、御深山先輩が部長になるのはどうですか?」

 四人が纏の提案にきょとんとする。その後、当の御深山が衙門を見、はっ、と鼻で笑った。

「こいつが俺の言う事聞かんちゃ」

「たりめーだ。仮に逆なら、お前が俺の指示聞かねーだろ」

「分かっちょるやないかや」

 せせら笑う御深山だが、その目は笑っていない。衙門もまた、ベンチから身を起こし口の端を吊り上げて御深山を睨んでいた。共に笑みを浮かべているようだが、その実、清原を睨んでいた時よりも、二人の顔には敵意が満ちていた。それこそ、切っ掛けの一つでもあれば殴り合いに発展してもおかしくない空気である。

「け、喧嘩は駄目ですよ……」

 不安げに言う纏。二人はじっと睨み合っていたが、やがてどちらからともなく視線を外し、ふん、と同時に鼻を鳴らした。どちらもここで争う気は失せたらしく、ようやく纏は胸を撫で下ろす。安心して喉が渇くと、彼女は清原のいる畳の敷き詰められた角へと戻った。靴を脱いで座り、ぬるくなった自分の茶を飲み干しふう、と一息つく。それを見て、清原が尋ねた。

「お茶いる?」

「いただきます」

 纏の湯呑に、清原の手で急須の細い口からとぽとぽと茶が注がれる。この様子を見ていた御深山は、自分が買ってきた缶ジュースが結局受け取られていないのに気付き、仕方なく黙って部室中央の机にそれらを置いた。

 湯呑から立ち昇る湯気が身をよじらせながら大気に溶け、上品な香りを辺りに漂わせる。香りのおかげか、ようやく纏は落ち着きを取り戻す事ができた。

「……あのー」

「ん、なぁに?」

 清原が笑顔を浮かべて首を傾げる。纏はその表情をこれから崩す事を申し訳なく思いながら、改めて聞くべき質問を口にした。

「利他部って何をする部なんですか?」

 この質問に、四人全員が目を丸くした。この台詞が言葉通りの意味ではないと、全員が気付いたからだ。清原が固い表情になって纏を見る。

「あいちゃん、本気で部長になる気なん?」

 清原の咎めるような剣幕に纏は怯むが、構わず彼女は言った。

「どっちみち決められた事ですし、私も事情があって断れないんです。厚かましいとは思いますが、足を引っ張らないよう頑張ります。だから、どうかお願いします」

 纏は立ち上がり、四人に頭を下げた。この態度に四人は顔を見合わせる。

 互いに言葉は交わさないが、思うことが同じと分かり相手の動向を探っている。そういう沈黙だった。纏は四人の無言の談義を、固唾を呑んで見守る。

最初に視線を纏に戻したのは、住良木だった。

「忙しくなるぞ」

 言葉の意味に、纏が顔を明るくした。対して、他の三人が目を剥く。

「住良木、本気か!?」

 衙門が住良木に詰め寄った。これに纏が身を竦ませ、清原が衙門を睨んだ。

「おらばれん、衙門。怖がらせるんじゃないぞね」

「オメーが一番不満持ってんだろーが」

 図星を突かれ、清原が息を詰まらせた。彼女のその反応を見て、御深山が薄ら笑いを浮かべる。

「俺はええぞ。どうせ、誰がやっても同じやきな」

 投げやりな言いぐさに、清原と、そして衙門が御深山を見る。

「テメーも本気で言ってんのか?ぽっと出の、一年の下につくんだぞ?」

「ほやったらお前、部長やるか?そしたら俺は、お前の言う事聞かんけどにゃあ」

「それは元からだろうが馬鹿が」

 再び睨み合う二人。住良木が白けた目で彼等を一瞥し、改めて纏を見た。

「と、ごらんの有様だ。こちらにも、君が部長になる以外に建設的な案はない」

「あ、ありがとうございます……」

纏の発言に、他の三人が彼女を見る。そして互いに顔を見合わせると、三人はほぼ同時に項垂れた。抗議しようにも代案が見つからない、といった風だった。消極的な了承を得た事に纏は引け目を感じるが、自分が言い出した手前何も言えない。訪れた沈黙を、住良木の事務的な説明が埋めた。

「快諾に感謝する。危険な目にも会うかもしれないが、改めてよろしく頼む」

「はい。……ん、危険?」

「言葉の綾だ。空坂はにぎやかな街だからな」

 間髪を容れず住良木はそう答えた。

「改めて、全員の紹介だ。私は三年の住良木大和。副部長だ」

そう言って、彼は自分の眼鏡を指で軽く持ち上げた。他の三人が顔を上げて纏を見る。やがて清原が、仕方ないという風に軽く纏に笑いかけた。

「私は清原美音。三年やけん、何でも聞きよ」

 今治弁の柔らかい響きと彼女の雰囲気に、纏も思わず笑いかけた。男の数が多いこの場で、同性の彼女の存在は纏にとって非常にありがたかった。

「御深山喜介じゃ、覚えちょき。二年じゃぞ、二年」

 御深山は自分を指差し、二年、の部分を殊更強調して纏を見下ろした。彼が五人の中で一番背が高いのに対し、纏は一番小さいので対峙すると自然とそうなるのだが、彼の優越感を湛えた顔が纏にはどうしても自分を見下しているようにしか思えなかった。

「……衙門通久、二年だ」

 彼だけは露骨に顔に不満を表していた。座ったまま纏を見る目には苛立ちと敵意とが湛えられており、頭髪の色と相まって彼の凶暴さを一層引き立てている。纏は腰が引けたが、全員から自己紹介を受けた事もあり、立ち上がって背筋を伸ばした。

「あ、相原纏、一年です。あらためてよろしくお願いします」

 再び纏は小さく頭を下げた。四人の上級生をまとめる立場になってしまった事に気後れしてはいたが、自分でそうする事を決めた手前、纏に撤回するつもりはない。

住良木が眉一つ動かさず、こほん、と軽く咳をした。

「では部長、今日から利他部部長として部活動に参加してもらおう。うちは基本的に学内ではなく、学校の外で主な活動を行っている」

「そういえば、校長先生も空坂の中央公園に行くようにって言ってましたね」

「他にも、町内のあちこちに出かける事になる」

「その先で、何をするんですか?」

「町内清掃だ」

 その一言で、纏はぽんと手を叩いた。

「あ、社会奉仕をするから利他部なんですね」

 これに四人は一斉に眉をひそめた。

「……まあ、間違ってはねーな」

 呟いたのは衙門だった。他の三人は何も言わず、黙ってこれに頷いた。

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