レインボウ・クエスチョン

うさぎもどき

第1話

授業終了のチャイムーーおそらく、だがーーが甲高く鳴り響いた。


「……………………………………………」


高校。屋上。次の授業が移動教室なのだろうか、慌ただしく同級生達が行き交う校舎を見下ろしつつ、乾沙月はタバコの白い煙を口から吐き出した。


「……………………………………………」


花のJK沙月は今まで留年したことがない。すなわちまだ十代後半なわけだが、彼女がタバコを咥える様は妙に似合っていた。


学校指定の制服に、黒地のパーカー。校則違反かどうかは気にもしていなかった。もっとも、校則違反だからといって気にする沙月でもないが。


とにかく、沙月は授業をサボって屋上でタバコをふかしているのであった。


「おや、先客か」


カツン、と背後で足音。軽く視線だけ動かしてそちらを見ると、そこには長身白衣の男がいた。


根岸晴康。年齢はおそらく二十代前半で、化学の教師……だったはずだ。不良少女沙月は教師の顔などいちいち記憶していないが、きょうび白衣を着込んでいる教師というのもなかなか珍しいのでぼんやりとだが覚えていた。


沙月は小さく笑って手元のタバコを軽く揺すった。


「何よセンセ、没収する?」


「生憎俺は他人のを奪ってまで吸うほどのヘビィスモーカーじゃない」


そう言って懐から取り出したタバコを咥え、その先端に火をつける根岸を、沙月はキョトンとした表情で見た。


「いいの? 教師として」


「それを没収してどうなる。俺が書かなきゃならない報告書が一枚増えるだけだろ」


根岸がそう言った以上、沙月は追求しなかった。没収しないというのなら、それはそれで好都合なのだから。


「……………………………………………」


「……………………………………………」


静寂と白煙が屋上を埋める。


先に口を開いたのは根岸だった。


「乾、空を見てみろ」


「……?」


彷徨っていた視線が、スッと上を向く。


空には鮮やかな虹がかかっていた。


「わぁ……」


感嘆の息を漏らしつつ、すかさずスマートフォンを取り出す沙月。写真を撮ってSNSにアップするためだ。


その様を眺めながら、最近の若い奴はすぐこれか、と(年齢はさほど変わらないくせに)小さくため息をつく根岸。


折角なので化学の教師らしい一面を見せておくことにした。


「乾、虹がどうやってできるか、知ってるか」


「……空気中の水分で太陽光が七色に分解されてできる、だっけ?」


ドヤ顔の企みは一瞬で打ち砕かれた。


「……よく知ってたな」


「そんな驚くことじゃないっしょ。教科書に載ってるんだし」


「ほう。お前が教科書の内容を記憶しているとは」


「別に。教科書が配られたその日になんとなく眺めて、たまたま気になったから覚えてただけ」


そもそも沙月が教科書を開いたことがあるのすら根岸にとっては驚きだったが、決して表情には出さなかった。


「他に覚えてることとかないのか?」


「さあね。パッと出てこないしないんじゃない?」


「そうか……」


短くなったタバコを携帯灰皿に入れ、すぐさま二本目に火をつける二人。つかの間晴れた白煙は、すぐに濃度を戻した。


次の静寂を破ったのも根岸だった。


「乾、お前は将来、どうするつもりなんだ」


デリケートなところに土足で踏み込んだ根岸に、沙月は即座に反応した。


「あんたに関係ないでしょ」


「俺は教師だ。そこを聞いておくのも仕事なものでね」


「……………………」


根岸の言葉が気に食わなかったのか、沙月はため息とともにひときわ大きな白煙の塊を吐き出した。


が、それで多少頭が冷めたのか、やがてポツリポツリと話し出した。


「…………親に、大学に行けって言われてる。それで、普通に就職しろって」


「素晴らしいな。是非ともそうしなさい」


無遠慮な言葉を投げてくる根岸に鋭い視線を向ける。細身の理系教師はわずかにたじろいだが、視線は沙月に向けたままだった。


根岸は、さらに一歩踏み込むことにした。


「お前は不満げだが。何が嫌なんだ」


「それは教師に言わなきゃいけないこと?」


「個人的な興味だ」


答えはしばらくなかった。根岸の二本目のタバコが携帯灰皿にねじ込まれて、それからだった。


「……だって。そんなんつまんないじゃん。普通すぎる、っていうか。そんなん、楽しいわけない」


「そうか? 案外お前が思うより普通というのはいいもんだが」


「一度きりの人生を無駄にしたくない」


「いい言葉だな。だが理系教師の俺には少々合理性に欠けて聞こえる。……いいか、乾」


三本目のタバコを空に向け、化学教師の特別講義が始まる。


「虹は何色だ」


「は? ……虹色、じゃないの」


「では虹色とは何色だ」


「何色って……虹色は虹色でしょ? 赤とか青とかが合わさってできた……」


「まあそうだな。日本では一般的に七色と言われるが、国や地域によっては六色とも五色とも、時には二色とも言われる。まあそんなことはどうでもいいんだ。重要なのはそこじゃない」


三本目を咥え、ライターで先端に火をつける。


「虹の出来方は知っているな」


「だから、太陽光が空気中の水滴に分解されて……」


「そう。すなわち、あの七色の元は無色透明の太陽光なわけだ。そして、虹というのは現代社会によく似ている」


「何が言いたいの」


「つまり、だ」


ニィッと口角を上げ、根岸は核心を叩き込む。


「人間には多種多様な生き様がある。だが、それらを統合して見てみると、最終的に無色透明の光になる。……要するに、お前が望む『普通でない生き方』も、大きなくくりで見てしまえば『平凡』の範疇というわけだ」


さすがに堪忍袋の尾が切れた。


沙月の右手が、根岸の白衣の襟首を掴んだ。


グンッ! と根岸と沙月の距離が縮まり、根岸の首が圧迫される。しかし理系教師のつり上がった口角は角度を一切変えなかった。


「……舐めてんの?」


「だが事実だろう。例えばマラソンの世界記録が更新されたとして。大概の人間は、それを新聞やニュースでちらっと見て終わりだ。そいつに影響を受けてマラソンを始める奴もいるかもしれんが、その結果は履歴書の趣味・特技欄の空白が減るだけ。……世界クラスの人間ですらそうやって無色の一部に溶けているのに、お前は一体どう『普通じゃない』生き方をするつもりだったんだ?」


襟首を掴む手に力がこもる。視線が一層鋭くなる。


だが言い返せなかった。沙月自身、どこかで納得している自分を感じていた。


「……まあ、強いていうなら、非行にでも走れば光以外にはなれるだろうが。その先に待っているのは無限の転落だけだ」


「………………じゃあ、どうすればいいの。無色の人生なんて、何の意味があるの?」


「……………………」


ようやっと、自分が少々厳しい言葉をかけていたことに気づいた根岸。


どうしたもんかと頬をかいた後、根岸は沙月の頭に手を乗せた。


「……確かに、どんな生き様であれ大きなくくりで見てしまえば平凡だ。が、逆に言えば、どんな生き方であれ個々で見れば別々の輝きを持っているわけだ。……だから、まずは普通に生きてみろ。その中に何の楽しさも感じられなければ、その時もう一度『普通じゃない生き方』について考えてみればいい」


「センセ……」


もちろんこれは根岸のほんの二十数年の人生から組み上げた自論だが、停滞した生徒に発破をかけるにはちょうどいい。大事なのはほんのちょっとでも信じられるだけの整合性だ。


そして、それに少しだけ動かされた少女は、


「………………………………っ」


「痛っ!?」


頭に乗せられた手を強く掴んだ。


「……セクハラで訴えていい?」


「……タバコ見逃してやってるんだ。大目に見てくれよ」


数秒の沈黙の後、根岸の右手が解放された。すかさず時計を見て時間を確認した理系教師は、半分ほど残っているタバコを携帯灰皿につっこんで沙月に背を向けた。


「時間だ。俺は次の授業の準備があるからな」


沙月もそちらを見なかった。二人の距離が一気に離れる。


その両者を、沙月の背中越しの声が束の間つなぎとめた。


「……ねえ、センセ。アタシわかんない。この先、どう生きればいいと思う?」


「…………………………」


足を止め、視線を空に向ける根岸。


虹色の輝きが、次の言葉を出させた。


「……よければ、だが。俺と同じ道に来てみないか」


「…………………………………………は?」


「だから、お前も理系教師になってみないか、と言っているんだ」


「…………………………………………………………………………………………………………………………」


呆然。あまりに予想外の言葉に、沙月の思考は確かに数秒停止した。


次に沙月の口から出たのは、


「……ふふ、あはははははは!」


笑いだった。


「あた、アタシが、ふふっ、教師に? ありえないって、流石にないっしょ、センセ!」


「そうかな。案外、ナシではないと思うが」


「無理無理、アタシバカだし!」


「……ただのバカなら、気になったという理由だけで教科書で一度見ただけの内容をいつまでも覚えていたりしないと思うが」


そう言い残して、根岸は屋上を出た。


屋上に一人残った沙月は、柵に体を預けて空を見た。


「……ははっ、ないない、アタシが教師なんて……」


七色は答えない。


「ない……よね?」


七色は答えない。否定も肯定もしない。


「…………………………ははっ」


だからこそ、少女は自分の足で歩き出した。無色透明の未来に向かって。


久しぶりに教室で聞いた授業開始のチャイムは、存外悪いものではなかった。

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レインボウ・クエスチョン うさぎもどき @Usagi_Modoki

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