「少年法って大事だよね」
私の思春期は少しだけ遅かった。
「付き合ってください!」
目の前にいる男は、ルックスも良く、運動神経も悪くない。バスケ部の4番。バスケの4番って偉いの?勉強は知らないけれど、まあそんなことはどうでもいい。
「ごめん、無理」
もう丁寧に返すのも飽きてしまった。このやりとりのために、靴箱の中に手紙が溜まり、机の中に溜まり、ポストに溜まり(母親がキレる)、なんと面倒なことか。
だいたい、勘弁してほしい。
春日がどうしてもって言うから来たのになんでこんなことで大事なオフを使わなきゃいけないの。5分でももったいない。
「じゃあ、せめてとも・・」
「サヨナラ。
「ぽぶこ?」
フランス語の罵りもわからないカスめ。時間の無駄。
帰りに迎えの車に乗ろうとすると春日を見つけた。一生懸命ランニングしてる。
「なんで・・・そんな怒ってんの?」
仁王立ちで道を塞ぐと、ゆっくりとスピードを落とし、止まる春日。
「怒るわよ!アンタはオフなのにランニングマンだし、なんであんなのと私が付き合わなきゃいけないわけ!?」
「いや、えっと、頼まれた?」
「おい。お前は頼まれたらなんでもやんのか。私の貴重なオフはどうなる・・・」
「違うけど!すぐ終わったじゃん?」
「ごめんなさい、って言ってみ?フランス語で」
「なんでフランス語限定!?せめてイタリア語にしようよ?」
春日は好きなチームがイタリアにあるという理由でイタリア語は少し勉強している。
「知ってるでしょ。ほら早く」
「・・・
「殺すわよ」
「えーっと、あー。
「よし。謝ったわね。今すぐ着替えてきなさい。5分だけ待つわ。5分以内に来なかったら、アンタに犯されたって勇護のお父さんのところに駆け込むから」
「少年法って大事だよね」
「まあ、その前にお父さんが殺るわ。アンタを」
中2の秋。春日は相変わらず、だ。少しだけ大人になったかもしれない。
車に乗って春日を待つ。
「お母さん、ごめん、春日と出かけるからちょっと待って」
「あら。どこに行くの?」
「決めてない。今5時?じゃあ8時半には連絡するから迎えに来て」
「8時ね。9時から練習しなくちゃ」
バイオリンは好きだ。
練習すればするだけ良い音色が出る。色んな曲を弾ける。キレイなドレスを着て、私だけの世界になる。みんな、私に惹きこまれる。
同じくらい、春日のことが好きだ。
私が彼を好きになったのは小6の夏だった。正確にはもっと前から好きだっただろうが、そのことに気が付いたのがあの夏だった。
春日は私のことをどう思っているのか。勇護や誠に聞いてみてもらうと、必ず「好きだよ?」と言われてる。だけど、「真央とどっちが好きなの?」と質問を変えると、「わからない」と笑うそうだ。
真央と春日は小5の冬から仲良くなった。自分で春日を好きなことに気づいていない真央を春日と二人っきりにさせた。ぴったりすぎてびっくりするほど仲良くなっていった。私の勘は外れない、が胸の奥がチクチクした。嫉妬という針が刺さっていることに気づくのは遅かった。気付いてなかったのは真央だけではなかったのだ。
もし、もう少し思春期が早かったら、真央に紹介をしなかっただろうか?
たった一つの後悔がいつも頭によぎる。
◇◆◇
長い休みはいつも外国に連れていかれた。ヨーロッパに行くのは嫌いじゃなかった。でも春日のことが好きだとわかってからは、行きたくなくなった。
ミラノに行く、と決まっていた小6の夏休み。後にも先にも春日が私に「お願い」をしたのはこの時だけだ。
「り、りおん!お願いがあるんだけど!」
「なに?春日。それ昨日も一昨日も言ってた。なんでもない!って言うやつでしょ。いい加減にしてよ」
そう。春日は何日も、「お願い」⇒「なんでもない」を繰り返すから何かのゲームかと思ってた。
「ハ!」
「は?」
「ハビエル・チャネッティ選手のサインが欲しい!」
「はあ?まあ、いいけど、それ、誰?なんか言いづらい名前」
家に帰って、誠に聞いても「誰?メッツィじゃないの?ミラノだからカッチャと間違えたのかな?」と言われたので調べてみた。
なんか、そこそこ有名らしいけど、そんなに有名じゃない選手のサインを求められて、春日の趣味ってわからないなあと思いながら、お母さんに伝えた。
ミラノではオペラを観たり、ドレスや宝石などを見て、良い街だなあと思った。
例の選手のチームがミラノにあり、そのスタジアムのショップでサイン入りユニフォームを買った。10万円だったので、お母さんにお願いしたら「誕生日プレゼント」として買ってくれた。プレゼントをプレゼントするなんておかしいけど、気にせず買った。これで春日の笑顔が見れる!どんな風に笑うかな。今まで春日にお願いなんてされたことないからな。きっとすごいふわふわして笑うだろうな。
そう思っていたら、本人が来た。
「誰かと思ったらこんな小さな日本人の女の子が買うなんて嬉しいなあ!」
イタリア語だったので、違うと言っておいた。
「サッカーが好きな友達にあげるんです。あなたのサインが欲しいって言われたから」
「イタリア語喋れるのかい?!そうか!それじゃあこれとこれもあげようか!ちょっとペン出して。あ、その子の名前は?」
「ハルカ・タイラって言います。今度は連れてきますね」
「よろしく言っておいてくれ!」
現地ではすごく人気のある選手みたいだ。ひとりひとりに丁寧にあいさつしてる。サインもしてる。
なんとなく、春日に似ているな、と思った。
日本に帰って、「もらってきたやつ渡すから一日遊ぼう」と連絡すると春日は飛んできた。
ぶっきらぼうに、ハイっと渡すと、春日は目を丸くした。
「すごい!え、え、これ、ユニフォーム!しかも額縁!いくらしたの・・これ」
「10万だったかな?」
春日が凍った。動かない。
「どうしたの?え、なに」
「ごめんなさい!!」
お金が払えない、と言われたのだ。
そしてそのままお母さんのところに行って謝っていた。
お母さんがなにこれ?という感じで私に目を向ける。
「えっと、春日、お金なんてべつにいらないんだけど」
「でも!こんな高いもの、もらえない!」
「いや、だからね?プレゼントだってば」
玄関で揉めていると、うちの
「なにを揉めとる」
私が事情を説明すると、お爺ちゃんが大笑いをした。
「坊主、値段知らなかったのか?」
「違います!もっとこう・・サイン色紙的な・・やつを・・」
「ん?梨音、お前、間違えたのか?」
「いや、サインって言われたからこれでいいかなって」
お爺ちゃんがまた笑う。
「ほうか。じゃあ、坊主。それは持ってけ」
ぶんぶん、と首を振る。
「いいんだ。持っていきなさい。梨音にはその価値がわからんのだから。ただ、梨音の、坊主にプレゼントしたかった気持ちはわかるな?」
「はい」
「そのお返しをしてあげれば良いのだ。梨音、遠慮なく坊主から欲しいものをもらえ」
うん、と首を縦に振る。
「しかしな、梨音。坊主に金を求めちゃいかん。高いものもだ。梨音もだが、花梨くん、お主も最近ちょっと勘違いしとるの。物事の本質が見えておらん」
心当たりがあるのか、お母さんも少し顔を赤らめ、恥じている。
「梨音、坊主から何が欲しい。言ってみなさい」
欲しいもの?春日から?
「一緒に遊びたい。ご飯食べたい。うーん、あ!バイオリン聞いてほしい」
「時間、じゃな。それだけか。まだあるだろう。梨音はなんでそれを買ってきた?」
「うーんと、春日が笑ったらどんな顔するのかなって思ってた」
「よし。坊主、梨音に時間と笑顔をあげなさい」
「え、笑顔?」
どうしたらいいのかわからず困る春日。
「素直に喜べということだな。良いかな、花梨くん。坊主と梨音の遊びを邪魔しちゃいかんぞ」
春日と遊んで、夕飯になった。珍しくお爺ちゃんが一緒にいる。
「梨音、今日はどうじゃった」
「楽しかった!」
「ほうか。良かったの。いいか、梨音。あの子は真っすぐで良い子だ。間違えない。良い眼もしていた。友達としても、恋人としても、ああいう子と付き合うんだ。良いな」
「はい!」
「お義父さん!」
「花梨くん。君にはもう一度言っておく。これは絶対、だ。理由なく、あの坊主と梨音が一緒にいることを妨げてはならん。光にはもうさっき電話してやったわ。儂はの、たくさんの弟子を見てきたし、外で若い坊主もいっぱい見てきた。音大で二人に教えてたのだから覚えておろう」
お母さんも、お爺ちゃんには頭が上がらない。
「だがの、あんなに真っすぐな良い子はなかなかおらん。梨音の見る目は素晴らしいぞ。10万円をちゃんと大金だとわかっておる。そして、それをただでもらえると思ったら、誰でもただでもらうところを、あの子は謝って返しに来た。そんなことができる人間はしばらく見とらんのだ。儂は」
うんうん、と一人で頷くお爺ちゃん。
「梨音。また坊主を連れてきて良いぞ。この爺に少し時間をくれたら嬉しいが、そんなにたくさんはいらん。坊主と梨音の大切な時間は大切な時間だからの」
ガーッハッハッハと大笑いしていた。
◇◆◇
「お爺ちゃん、春日のところ行ってくるね!良いよね?」
「良い良い。行っといで。遅くなる前には帰りなさい」
「そうだ。お爺ちゃん、将棋できるよね?春日、強いみたいだよ」
「なんと!楽しみが一個増えてしまったの」
「きっと、春日もやりたいって言うと思うよ。じゃあ行ってきます」
夏休みもあと二日しかない。急にレッスンが中止になったから今日はラッキーだ!
春日と誠のサッカーを見に行く。お母さんが車で連れて行ってくれた。
「誠、勝ったら全国大会に出れるって言ってたわ」
「すごいじゃん!誠は出てるの?」
「ベンチにはいるみたいだけど出れない、って言ってたわよ」
「春日と一緒のところなんて選ぶからでしょ」
「そうね。彼、すごいものね」
お母さんはお爺ちゃんの一件から春日を認めたみたいで、前より嫌な感じじゃなくなった。前はよく春日と門限を破ったから嫌がられていた。
試合は、正直よくわからなかったけど、負けてしまったらしい。
春日が一点とって、やった勝てるじゃん、と思っていたら三点取られてた。
春日の周りに何人もいて、ずるいやつらな気がした。いつの間にか試合が終わっていた。
皆が泣いていた。春日は泣いてなかった。着替えながら無表情だった。
春日のところに行こうとすると、春日のお母さんと春日となんだか変なジャージ来たおじさんが話していた。
「あれ、マリナーズのコーチじゃない?」「スカウトだ!すげー!ハルカすげーなー」「サインもらっておく?」とか言っている他の選手に、そんなこと言ってないで練習しなさいよへたくそ、と思ったことは誰にも言わなかった。私が見ても、春日と比べたら他のやつらは下手だった。
一度帰った後、春日の家に行ってみた。
「あら!梨音ちゃん!今日は応援ありがとね。春日ちょっと外行っちゃったのよ」
「どこですか?」
「それがね、さっきまでグランドに行ってたのよ。帰ってきてからまた出かけて、またボール持っていったからどこかしらね。お財布も持って行ってないから遠くには行ってないと思うけど。真央ちゃんのところかしら」
真央や千秋、勇護の家に電話したが、どこにもいなかった。そもそも真央はお墓参りに行っているらしい。
「外、探してきます」
心当たりがなかったので、いろんなところに回った。もうどこ行ってんの!今日は一緒に遊ぼうと思ってたのに!もう時間なくなっちゃうよ。
河原に、いた。
またボール蹴ってる。「HORRY e BENJI」じゃないんだから。
「いつまで蹴ってるの!探しちゃったわよ!」
大きな声で遠くから叫ぶと、小さく、春日らしくない手の振り方で返事をくれた。
違和感に気づいた私は、携帯でお爺ちゃんに電話する。
「お爺ちゃん、今5時だよね」
「そうだな。どうした?迎えをやろうか?」
「ちょっと遅くなったら怒る?」
「理由を言ってみなさい」
「春日が変なの」
「ほう。どうしてだ?」
「わかんない」
「心配なのか?」と聞かれて、自分が春日を心配していたことに気が付いた。
「どこにおるのかだけ言いなさい。儂が近くにいく。そうすれば花梨も文句は言えんよ」
「・・・ありがとう、お爺ちゃん」
本当はお爺ちゃんにも来てほしくはないんだけどね。
「探したんだからね!」ともう一度怒ると、「ごめん」と一言。
元気がない。春日らしくなかった。
春日はとことこ歩いていくと、靴下を脱いで川の水に足をつけて座っていた。
「負けちゃった」
「うん。見てたよ」
黙る春日。やっぱり元気がない。こういう時、どうしてあげたら良いんだろう。
「春日はすごかったと思うけど」
こんな言葉しか浮かばない。サッカーはわからないから。
「負けちゃった」
「そう、だね」
また春日は黙ってしまった。とりあえず隣に座った。
少し時間が経つと、ことん、と私の肩の上に春日の頭が乗った。
「ごめん」
「なにが?」
「重たい?」
「べつに。平気だよ」
なんでかわからないけれど、重たいよ!バカ!とは言えなかった。春日がこんなに落ち込んでいるのを初めてみたんだ。
手を握ってあげたいな、と思った。
「みんな泣いてたのに、俺だけ涙が出ないんだ」
「どうして?」
「どうしてだろう。泣いたことってないの」
「悲しくないの?負けちゃったのに」
本当は悔しい、なんだろうけど、その言葉と感情はまだリンクしていなかった。
「悲しいよ。悲しいけど、涙が出ないの。終わってから練習したいなって皆に言ったら、今日は皆で残念会するんだって。だからさっきまでグランドで一人で練習してた」
一人で練習してた。そうだ、ここに来た時も一人で練習していた。
よく見ると、砂だらけで草だらけだ。ボールの元の色を思い出して、全然青くなくなってることに気が付いた。
春日はすごい。
一番上手だったのに負けて、悲しくて、それでも練習しようとしていたんだ。
他の連中は春日がどうとか、スカウトがどうとか言ってたけれど、春日は純粋に嫌だったんだ。負けたことが。
いつも一番、練習している。いつも一番、走ってる。誰とでも仲良くするし、誰にでも優しい。間違ったことを間違ってる!と言って、すごいことをすごい!と言える。
どうして気が付かなかったんだろう。違うじゃん。真央にプレゼントなんてしちゃいけなかったんだ。春日が欲しいのは、私だった。
春日の手を握る。握った手を、春日は握り返してくれた。
「どうして、誰も練習してくれないんだろう。負けちゃったのに」
「春日は、悪くないよ」
春日の気持ちは、わかる気がした。バイオリンをずっと弾いているから。
下手なやつに限って、練習しない。私に練習しないでできるもんね!すごいね!なんて言い始める。毎朝、毎晩どれだけ練習してるかなんて家族しか知らない。才能があるわ!なんて、言った人間がバカにしか見えなかった。大人でも。
「春日もバイオリンにしたら良いのに」
個人競技にしたら良いのにという意味だったのだが、その辺の言葉は足りなかった。
「弾けない。梨音みたいには弾けないよ」
「できるって。春日ならすぐできる」
「無理だよ。お昼休みに頑張ったり、遊びたいのにすぐ帰ったりできないもん」
・・・え?・・おひる・・やすみ?
「どうしたの?」
・・・どうしたの、じゃないよ!
「なんでお昼休みに楽譜読んでるの、知ってるの!?」
「え。だって、音楽室でなんかやってたから?」
見ていてくれた。知っていてくれた。
「コーナーキックの時に、音楽室が見えるの。梨音が一生懸命なにか見てるの知ってるよ?あれ楽譜なんだ?」
「・・う・・ん」
「夜だって、ランニングしてたら梨音の家からバイオリンの音がするし。あれ、梨音だよね?梨音、すごいなあ、って思ってた。みんな梨音と遊びたい!って言うけど、なんか梨音と遊びたいって言えなくなっちゃった」
「嫌だ!」
立ち上がった私に、春日が驚いた顔をした。
「春日といたい!遊びたい!遊びたいって言ってくれないなんて嫌だ!嫌だ!」
「え、え、ごめん?ごめんね?」
ふと冷静になって、もう一度座る。春日を励ましに来たのに!
二人とも言葉が出なくなった。
春日はぼーっとしてる。気付いたら疲れてしまったのか、眠そうだった。また少しすると、頭がカクン、カクンとしていて、川に落ちそうだったから肩に頭を乗せてあげた。すぐにスー、スーと寝息が聞こえてきた。
見ていてくれた。知っていてくれた。私のことを。
誰かに見せたくて頑張っていたわけじゃない。でも、誰かに知ってもらえたことがこんなに嬉しいことなんだと知らなかった。そして、それが春日だったことが余計に幸せをもたらした。
頑張ろう。そう心から思った。ただ好きで、ただ言われたからやって、気付いたら当たり前になっていた。でも、春日が見ててくれるなんてこんなに嬉しいことはなかった。頑張ったら春日が知っていてくれる。有名になったら、春日は好きになってくれるかもしれない!
寝ている春日の手を握り、反対の手で肩をぎゅっと抑えた。離すもんか!真央にももうあげたりしない。春日は大切な大切な私の・・・春日だ!
気付くと橋の上でお爺ちゃんが笑っていた。
慌てて手を離したら、春日が川に落ちてびしょ濡れになってしまった。ごめんね!
お爺ちゃんとびしょ濡れの春日を連れて春日の家に行くと、春日はまた嘘をついた。真央の話も聞いてけど、春日は噓つきだ。お爺ちゃんは真っすぐだ!なんて言ってたけど、それはちょっと違う気がする。
「ボールが落ちたから拾ったら濡れちゃった!」
「うわー。春ちゃんびしょびしょだー」
妹の圭ちゃんが指を指して笑う。この頃はまだ「春兄」ではなかった。正直に話そうかとお爺ちゃんの方を振り向くと隣で「しー」っと口に指を当てる。
「圭ー!机の上の赤い袋、持ってきて!」
「やー」と言う圭ちゃんに、春日のお母さんが「優しくない子には砂肝なんてあげられないなあ」と呟くと、フェラーリもびっくりの速度で走っていく。部屋から戻ってきた。春日が受け取った小さな袋を私にくれた。
「これ。梨音の誕生日プレゼント。俺、お小遣い少ないからごめん」
突然のことでびっくりした私は受け取って、焦った。
「え、え、いいよ!」
「良くないよ。それじゃ、また学校でね!」
照れたようにドアを閉める春日が隙間から手を振って、気づいたらドアが閉まった。
「春ちゃんはりーちゃんとちゅーだ!」
圭ちゃんのその言葉が聞こえて、今すぐそうしたいと思ってしまった。
「人を守るために自分を下げることができる。簡単ではないことだぞ。男が格好つけた時は、後からお礼をすれば良い」
頷いた後、お爺ちゃんに促され、車に乗った。
車中で開けた包みの中には、松脂が入っていた。
笑ってしまった。女の子へのプレゼントが松脂だなんて。しかも10万円のお返しが!今までいろんなものを貰ってきたが、松脂をもらったのは初めて。普通、シルバーとかアクセサリーとかバッグなんかなのに。お爺ちゃんも隣で笑っている。
「ほほほほほ。これは良いの!坊主、やるな」
「お爺ちゃん?そんなに良い松脂?」
「梨音。お前、教えたか?松脂がバイオリンに必要なこと」
あ、と思った。そうだ。そんなこと教えたことがない。
「調べたのだろうな。お前のために」
急に、嬉しくなった。なんでちゃんとお礼を言わなかったのだろう。失敗した!
「良いか。梨音。この間、お金以外に大事なことがあると話をしたな。覚えとるな?」
「うん。覚えてるよ」
「坊主は相手のことを考えておる。しっかりと調べとる」
そうだ。なんとなく、楽器屋さんでウロウロする春日を想像したらおかしくなった。
「着飾るための服ではない。鞄や光ものでもない。あんなものは外見を繕うためのものだ。あって困りはしないが、なくても困らん。坊主は・・」
「頑張れ!って言ってくれてるんだ。バイオリン」
思いついた答えを告げると、お爺ちゃんが驚いた顔をする。そしてすぐにまた笑う。
「好い哉、良い哉。梨音、ふさわしい女子になりなさい。彼に」
「そんな安っぽい松脂、どこで手に入れたの?捨てたら?」なんてお母さんには言われたけれど、私はもらって以来、これしか使ったことがない。なくなったら、また春日に買ってもらう。決めている。
◇◆◇
紅葉が散り始めた。最近の私はおかしい。
春日が真央や千秋に優しくしている姿を見て、すごく嫌な気持ちになった。
春日を独り占めしたいのだ。学校を休んでコンサートに行くような日はバイオリンへの集中ができなくなってきた。失敗はしない。でも調子はあまり良くない。お母さんが時々、「集中しなさい」と怒る。お爺ちゃんもお母さんが正しい時は何も言わない。ある日、春日が雨で練習が休みになったからみんなで真央や千秋、勇護、誠と水族館に遊びに行くと言っていた。すぐに練習を休んで一緒に行きたいとお爺ちゃんに電話をしたが、反対にその場で怒られてしまった。
次の日の夜、お爺ちゃんの部屋に呼ばれた。
「梨音。そこに座りなさい。どうして呼ばれたかはわかるな?」
「ごめんなさい・・・」
私は、お爺ちゃんが好きだ。両親よりも。お爺ちゃんはいつも正しいことを言っているからだ。変な怒られ方をすることもない。だから素直に謝ることもできる。
練習が大事なことはわかる。だけど、真央と千秋、それに藤田さんもそうだ。女の子に笑顔で接している春日を見ると、ムズムズする。嫌な気持ちになり、邪魔をしたい!と思ってしまう。
「話してみなさい。思っていることを」
考える。何を話せば、伝わるのか。自分が嫌な人間になってきている。お爺ちゃんにそれを話したら、怒られる気がする。
「・・春日が・・他の人と話していると不安になります」
「ほう。それは、女の子ということか」
「はい」
「いつもの、お前や坊主の仲の良いあの喋れない子や眼鏡の子と話していても、か?」
「・・・はい」
「それはの、嫉妬と言う」
「嫉妬」
「そうだ。嫉妬だ。良いものでも、悪いものでもある」
良いものでもある?どういうことだろう。
「お前は、坊主が好きなのだろう。坊主が取られるかもしれないと不安なのだろう?」
頷く。そうだ。不安だ。今、この瞬間にも春日が真央や千秋と仲良くしていたらどうしよう、と思う。自分が泣いていることに、涙を拭ってから気付く。
「坊主が好き、独り占めしたい、ということは良いことだ。そんなに好きになるということは大事なことだ。しかしな、梨音。坊主が他の人と仲良くすることを嫌がってはいけない。悪意で邪魔してはいけないのだ。何故だと思う」
「・・わかりません」
「坊主がそんな人間を好きになるのか。友達と楽しんでいるのを邪魔するような女子を好きになるか。そんな男か」
違う。首を振る。絶対に春日はそんな人ではない。
「どうしても難しいことを言ってしまうな。年寄りだからな。我慢してくれ、梨音」
「どうしたらいいの、お爺ちゃん。私は、私がわからない!」
「悩みなさい。しっかりと。だが、坊主は一生懸命練習をしているお前をよく知っている。昨日の夜、うちに来たからの」
うちに来た?昨日?昨日は私は夜までオーケストラの練習だった。
「遊んだ帰りなのだろう。謝りに来たぞ。梨音を無理に誘ってしまってごめんなさい、とな」
「無理に誘われてない!」
「そうだ。わかっとる。これからも誘ってやってくれと言っておいた。だが練習を休ませることはしないぞ。坊主との約束を破るわけにはいかん」
「え?え?何の約束をしたの?」
「坊主は梨音の邪魔をしたくない、と言った。梨音はすごいバイオリニストになるからそれを絶対に邪魔しちゃいけないんです、とな。信用されとるの?」
春日がそんなこと思ってるなんて知らなかった。
「もし練習をサボって俺と遊んでたら教えてください、とな。その代わり断られても何度も誘います、と。のう?梨音。坊主は、練習をサボるようなやつを好きになるのか?」
首を振る。ちがう。そんなはずない。むしろそういう人が嫌いなはずだ。
「見てる。あの坊主はよく人を見てるな。梨音が頑張れば頑張るだけ、見てる。だがサボればサボっているところも、だ。ライバルは多いだろうな。だが、自分を磨くこと以外では坊主は振り向くまい。怠けたり、人を貶めるようでは振り向きはしないだろう」
「でも!もし、もし春日が私の前からいなくなったら。他の人を好きになっちゃったら!?」
「それは仕方がないのだ、梨音。選ぶのは坊主だ。坊主が選んでくれるような、そんな人になるしかない。そのためにお前ができることは、なんだ」
「バイオリンを頑張ること・・・?」
「それもだ。お前は今まで周りの子に良くしてきたのだろうな。坊主もすごく良いところだと言っていた。お爺ちゃんもそう思うぞ。今まで通りでいい気がするがの」
頑張ること。頑張ること・・。
「そうか。一つだけ伝えておこう。あの坊主は強い。お前と一緒だ。強いからこそ、孤独になりやすい。本当に崩れた時は強い者のほうが脆いのだ。今のお前もそうだ」
川で二人きりになった時のことを思い出す。そうだった。あの時、春日は・・。
「崩れた時に支えてあげることが大事なのだ。この間のお前は最高の女子だった」
思い出して、恥ずかしくなってきた。
お爺ちゃんのアドバイスのお陰で少しわかった気がした。
ありがとう。お爺ちゃん。
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