「は」「り」「ち」「お」


 私の声が出なくなって、もう13年が経つ。

 ストレス性失声症。それが私の病気だ。

 ずっと、ではなかった。小2の冬に失った言葉は、小5の冬に少しだけ戻ったことがあった。すぐにまた失ってしまったけれど。

 「は」「り」「ち」「お」の4文字だけ声が出た。

 はるか、りおん、ちあきの頭文字。そして、お母さん。

 声が出せるようになったのは、間違えなく春ちゃんのおかげだ。


 私がみんなと同じ学校に転校してきたのは、小学校3年生の時だ。お父さんが亡くなってお母さんの地元に引っ越した。

 お父さんのいない家にお母さんと二人で暮らすには辛すぎたんだ。「失声症の治療にも良いかもしれませんね」とカウンセリングの先生が言っていた。

 クラスの自己紹介で喋ることができない私を見て、何人かが笑っていた。

「声も聞こえねーのかな?」「目も見えないんじゃね?」なんて言われてもいた。先生が注意をしてくれたが、それ以上に隣の席のりっちゃんが助けてくれた。

「声が出なくても関係ない。冬野さんは冬野さんでしょ。今日から友達だからね!」

 筆談で何度も話しかけた。一番面白かったのは、

<こうやって手紙のやりとりしても怒られないなんて、お得だね!!>というりっちゃんの手紙だ。声が出なくて良いことなんて初めて考えた。

 りっちゃんは時々学校を休んだ。バイオリンを弾いていて、長い時は2週間お休みしていた。その時は、誰かにからかわれたり、嫌がられたりした。いじめられもした。

 いじめがひどくなったのは、転校して一ヶ月が過ぎた日からだった。

 りっちゃんやちーちゃんが仲良くしてくれているのに、私は正直に話さなくて良いのだろうかと怖くなり、お父さんのことを書いた。

<お父さんを殺したのは私なの>

 りっちゃんやちーちゃんは驚いていた。当然だよね。その手紙を盗み見た子が広めて回ってしまった。私はそれを本気で思っていたから、こんな私を友達だと言ってくれたりっちゃんに隠したくなかった。

 ひっとごろし、ひっとごろし、ひっとごろし・・・と大勢から責められた。先生が止めてくれたが、次の日からもずっと続いた。


「今から帰るからなー!待ってろよ。真央」

 小2の冬。私の誕生日。お父さんは電話をしてくれた。いつも遅くまで働いているが、毎年この日は早く帰ってきてくれる。

「お父さん、早く!早く!」

 次の瞬間、聞こえてきたのは大きな、大きな音だった。

 お父さんの声は聞こえなくなり、叫び声や救急車のサイレンが聞こえた。

 お母さんと急いで車に乗り、お父さんの会社の近くの事故現場にたどり着いた。

 お父さんと真っ赤に染まって、中身が弾け出ていたクマのぬいぐるみは同じ姿をしていた。


 私と電話なんてしていなければ、お父さんは暴走するトラックに気づいて逃げられたんだ。

 私と話をしなければ、お父さんは少しでも避けて死なずに済んだんだ。

 私が生まれなければ、お父さんとお母さんは幸せなままいられたんだ。

 泣いた。泣き続けた。お母さんも泣いていた。数日経って、声が出ないことに気が付いた。泣いている声さえ出ない。

 これは私の罰なんだ。

 私は、大事な大事な人を殺した、人殺しだ。


 迎えに来たお母さんは、泣いて私を抱きしめた。

 りっちゃんとちーちゃんは下足箱のところで待っていてくれた。

「あの!真央のお母さん!」

「ええっと、真央のお友達?かしら?」

「真央は本当に、その、ええっと」

 涙が零れてくる。もう、きっとりっちゃんとも友達ではいられない。

 「違うの。あのね」とお母さんが説明をしてくれた。

 どんなにごまかしたって、私のせいでお父さんが死んだことには変わりない。

 りっちゃんが私に近づいてきた。

 怒ってる。そうだ。私はひと月近くも騙していたんだ。黙ってることも、騙していたことと変わらない。突然、バチン!と頬をはたかれた。

「そんなに悲しいことがあったのに、なんで悪く言うの!」

 まだ小学生で言葉が足りていないりっちゃんは泣いていた。

「真央は悪くない!でも、わかんなかったから!次からちゃんと書いてね!」

 言ってる意味がわからない。でも、涙が出てきた。頬の痛みより、違う理由だった。

 ちゃんと書いてね、と言われた。次から、と言われた。次なんてあると思ってなかった。

 でも一つだけ、聞きたかった。

<お友達でいてくれるの>

 もう一度、頬をはたかれた。それと同時にりっちゃんが飛び込んできた。りっちゃんもちーちゃんも、お母さんも私も、みんな泣いていた。

 

 お父さんが3ヶ月も遅れて、本当の誕生日プレゼントを届けてくれた。そんな気がした。


◇◆◇


 いじめはひどくなっていった。説明のできない私に代わってりっちゃんはいつも説明してくれた。でもそんなことは関係なく、りっちゃんとちーちゃんがいてくれれば私は十分だった。

 5年生の春。始業式の日。りっちゃんともちーちゃんともクラスが分かれてしまった私は教室に入るとすぐに席がわかった。りっちゃんがいないなら存分にとばかりにひどい机と椅子だった。

 春ちゃんが私の机と椅子を新しく持ってきてくれた。その途端、涙が溢れて止まらなかったのだけれど、おろおろする春ちゃんを見てほんのちょっとだけおかしくなったことも覚えてる。

 それから、春ちゃんとすぐに仲良くなれたわけではなかった。

 りっちゃんと春ちゃんが2年生まで友達だったことを知って驚いたけれど、春ちゃんはぐるぐるぐるぐる動き回っていたからあまり関わることができなかった。

 りっちゃんと春ちゃん、ちーちゃん、勇くんで一緒に帰れるようになって私は嬉しかった。基本的に春ちゃんとりっちゃんがずっと先頭で喋っていた。

 春ちゃんが私のせいで怒られたことは何度かあった。絵の具セット事件の時に春ちゃんの家ではじめて一緒にご飯を食べて、すっかり嬉しくなった私は次の日の図工で絵の具を使うことなど完全に忘れていた。


 その冬の誕生日は生涯忘れられないものになった。

 忙しく働いていたお母さんがどうしても夕方まで仕事になってしまい、私は朝から独りぼっちだった。りっちゃんには「コンクールがあって行けないかもしれないから次の日ね!」と言われていたし、ちーちゃんはインフルエンザにかかっていた。勇くんは一人では私と一緒にいてくれない。

 朝お母さんが出て行って、テーブルに並んだごちそうをいつ食べようかなと悩んでいる時に、急にピンポンの音がした。ドアを開けるとりっちゃんがいた。

<コンクールじゃないの!?>

 急いで手書きしたメモを見てりっちゃんが笑った。

「誕生日おめでとう!プレゼントだけ持ってきた!ちょっと目をつむって待ってて」

 ドタドタドタと駆け足で外に戻っていくりっちゃんに言われたとおり目をつむる。

「梨音ー!俺、今日でかけるんだってば!」

「うるさいなあ。大した用事じゃないのはママさんに聞いたからね!黙って真央といればいいの!」

 目を開けると、春ちゃんがいた。

 春ちゃんがいることが嬉しすぎて、少し嫌がっている様子を見て悲しくて、なんだか不思議な気持ちだった。

「はい!ずっと喋りたかったんだもんね!真央。いい?もしこいつが勝手にどっか行ったら必ず報告してね。とっちめるから!」

春ちゃんは諦めた顔をして、うちに入ってきた。りっちゃんはそのまま車でどこかに行ってしまった。私、喋れないんだけど!

<ごめんね>

「あー。えっと、冬野が悪いわけじゃないし・・あ!うまそう!」

<食べる?>

「いいの?」

 二人で、おいしいごちそうを食べた。味は全くしなかったけれど、世界で一番おいしいご飯だった。

 二人きりで長時間いたのは初めてだった。たくさん書きすぎてメモ帳がなくなって慌てた。そんな私を見て、春ちゃんは笑っていた。幸せな時間だった。

「冬野さ、声出してみて」

<出ないの>

「出してみたら出るかもよ!」

 なんだかよくわからなかったけど、春ちゃんが言うなら、と思い、やってみた。

出なかった。

<出ない>

「俺、はるか、だから言ってみて」

 それでも出なかった。

「うーん・・・そうだ!はーってやって、はー!」

 ため息をつくような「はー」を要求されたのでやってみた。

「うぁー」

 目が合った。出た!声だ!もう一回!とはしゃぐ春ちゃんに聞かせたくてもう一度やった。

「はぁー」

 今度は「は」に近い音が出て、何度もやると、「は」が出せるようになった。

 一緒に喜んで、跳ね回った。勢いで抱きしめあって、我に返って離れると春ちゃんは真っ赤だった。私も真っ赤だったと思う。

 ふと、急に涙が零れてきた。この人はどうしてこんなに私を救ってくれるのだろうか。

 急に泣いた私を見て慌てている。

「ごめん!ごめん!えっと、えーっと」

 手を握る。ぎゅーっと握る。

「泣かないで!な、え、泣かないで!」

 涙を拭いてくれる春ちゃん。

 いつの間にか、帰ってきていたお母さんが笑っていた。

 「は」の声を聞くと、春ちゃんと私をまとめて抱きしめてくれた。

 その日は眠れなかった。夢だったらどうしようかと思ったのだ。


<お母さん>

 少し疲れた顔のお母さんの寝室に行くと出迎えてくれた。

「どうかしたの?」

<どうして、あの人は私に優しくしてくれるの>

 その紙を読んだお母さんが優しく微笑んだ。

「じゃあ、真央は春日君や梨音ちゃんが泣いていたらどう思う?」

 考えたことがなかった。春ちゃんやりっちゃんが泣いていることなんて見たことがない。

 困った私の顔を見てお母さんが質問を変える。

「春日君がひとりっぽっちで悲しい顔をしていたら・・・寂しいから傍にいてって言ったら真央はどうするの?」

 それならわかる。

<傍にいる>

「そうよね。それと一緒なのよ」

<傍にいてって、私は言ってないよ?>

「そうね。きっと、春日君も梨音ちゃんも言わないね。真央の知らないところで二人が泣いていたらどう思う?どうしてあげたい?」

<悲しい。傍にいたい>

 そっか。そういうことなんだ。

「おいで、真央。良い?二人も、そうね、千秋ちゃんも、きっといつか悲しいことや苦しいことがあるの。その時に真央は頑張って気付いてあげて、優しくしてあげること。大事なことよ。忘れないで」

 一緒のお布団に入る。

<どうやったらいいの>

「真央がしてあげたいな、って思うことをしてあげたらそれで良いのよ」

 春ちゃんが泣いてたら、私はどうしてあげたいだろうか。


 誕生日が終わる。

 一年で一番嫌いだった日が、一年で一番大切な日に戻った。


 次の日から、りっちゃんに「り」の特訓をさせられた。

「は、が出るんなら、り、も出る!!」という不思議な理論だった。

<りっちゃん>

「なに?疲れちゃった?」

<ありがとう。プレゼント>

「あー!春日ね。そうそう。で、どうだった?」

 首を傾げる。どうだった?

「好きになったのかってこと!」

<好きだよ?>

 うん。春ちゃんを嫌いになんてなるはずない。何を言ってるんだろう、りっちゃんは。

「ちがーーーう!男としてってこと!」

 おと・・こ?

「ちゅーしたい?」

 ふと、昨日抱きしめた時のことを思い出した。顔が熱い。真っ赤になっていくのがわかった。

「だって真央、ずーっと春日のこと見てるじゃん。いつも」

 すき。スキ。好き?

 考え始めて身体が熱くなる。

「あー!真っ赤だ!やっぱり春日のこと好きなんだ!」

 頭がぼーっとする。よく、わからない。好きってなんだろう。

 逃げるように目を逸らして台所のお母さんを見る。なんで笑ってるのだろう。

<どういうこと?>

「梨音ちゃん、ごめんね!真央まだ子供なのよ」


 ちなみに、りっちゃんまだ子供なのよ、という意味だったらしい。


◇◆◇


 6年生になっても毎日が幸せだった。2クラス合同のプールで、りっちゃんとちーちゃんが一緒の日はもう嬉しくて仕方がなかった。泳げない春ちゃんを見て、春ちゃんにもできないことがあるんだ!と驚いた。溺れていた春ちゃんが保健室にいったのを見たことがある。りっちゃんと休み時間に保健室に行ったら、先に来ていたちーちゃんと話しながら春ちゃんはけろっとしていた。

 気付けば、いじめはほとんどなくなった。

 バカ五人衆ファイブが春ちゃんに助けられたことがきっかけだった。

 ある日、誤解で怒られていた五人は一生懸命、違うと否定していた。

「俺たちじゃないもん!藤田の筆箱なんて知らない!」

「また、どうせあなたたちなんだからいい加減にしなさい!」

 藤田さんという春ちゃんの隣の子の筆箱がなくなったらしい。

「藤田、いつからないの?筆箱」

「3時間目の終わりからないの・・・」

 こういう時、春ちゃんは絶対に見逃さない。

「一緒に探してみよっか」

「ほんと!?」

 藤田さんは嬉しそうだった。すごく気になったので、私も探すことにした。私も一緒に探すことになった時、なぜか藤田さんは嬉しそうじゃなかった。

 二つ隣のクラスの落とし物コーナーにあった藤田さんの筆箱を見つけると、藤田さんは嬉しそうに春ちゃんにお礼をしていた。

 バカ五人衆ファイブもヒステリーから解放されて春ちゃんにお礼をしていた。

「・・・ありがとう」

「ん?なんで?」

 ぽかーんとする春ちゃん。「( ゚д゚)ポカーン」という顔文字がこの時の春ちゃんにそっくりだった。本当に理由がわからなかったみたいだ。


 春ちゃんともりっちゃんとも仲良くできて、ちーちゃんと勇くんもいて。

 春ちゃんのサッカーを見て、帰る。

 いつも楽しそうな春ちゃん。サッカーはわからないけれど、春ちゃんはクルクルしてる。たまにガーってなって、ザザーっとして、ボーン!と蹴っている。ネットに入ったら1点だから、春ちゃんはだいたい毎日10点くらい取ってる気がした。

 時々、5人で遅くまで遊んだ。6時までには帰りなさい、と言われていたけれど、よく過ぎていた。りっちゃんのお母さんがよく怒って迎えにきたり、春ちゃんやちーちゃんのお母さんが迎えに来てから帰ることが多くなった。

 ある日春ちゃんと二人っきりで遊んだ。りっちゃんがバイオリンでちーちゃんは塾で勇くんが剣道の日だった。楽しくて楽しくて、気づいたら7時になって、春ちゃんのお母さんが迎えに来た。

 家まで送ってもらって、ドアを開ける。

 「お!」と声がでる数少ない言葉を出すといつも来るお母さんが来なかった。遅くなる日だったかなあ、と靴を脱いでると、なんだかすごく嫌な臭いがして急いで中に入る。

 台所で、血を吐いて倒れているお母さんを見つけた瞬間、私は駆け出した。

 裸足で必死に走った。さっき別れたばかりの彼しか思い浮かばなかった。

 (春ちゃん、春ちゃん、春ちゃん。助けて!)

 歩いて1、2分の春ちゃんの家についてチャイムを乱暴にならす。何度も何度も鳴らす。驚いてでてきた春ちゃんのお母さんに必死で伝えようとしたが、声も出ず、紙もなかった。

「どうした?冬野?」

 でてきた春ちゃんの手を掴んで必死に走った。

「冬野?え、なに?一緒に行けばいいの?」

 家に着いた春ちゃんが驚いていた。

「冬野、電話!早く!」


 お母さんが死んじゃった。

 あの後、救急車と春ちゃんのお母さんが来てくれた。涙が止まらなくて、何をしているかよくわからなかった。

 ただ、病院から逃げたかった。

 どこに行くの?と春ちゃんのお母さんに聞かれ、トイレに指を向ける。

 春ちゃんのお母さんがちーちゃんのお父さんと話し始めた。見つからないように駆け出した。

 家に帰ればお母さんがいる。帰ろう。お母さんのところに帰ろう。

 私は帰るんだ。

 どれくらい歩いたかわからなかったが、家に着いた。家には誰もいなくて、また涙が出てきた。

 お母さんの血を見て、実感が強くなる。触る。指が真っ赤になった。

 包丁が落ちていた。料理中だったのだろう。その包丁を喉に刺そうとした。ほんの少し刺さっただけの痛みで、怖くなって刺せなくなった。

 怖くなって家を出た。歩き疲れて、公園のブランコに座る。まだ裸足だった。足の裏が痛い。

 私のせいだ。

 私が約束を守らなかったからだ。

 6時までに帰るって約束していたのに。

 また私のせいで、今度はお母さんが死んじゃった。

 お母さん、お母さん、おかあ・・。

「冬野!!!!!」

 声が聞こえて振り向くと春ちゃんが、いた。

 目の前に来た。ぜー、はー、ぜー、はーと荒い息をしている。

「どこ行ってたんだよ!みんな探してるぞ!」

 お母さんもお父さんももういない。私が、私が殺したんだ。

「・・冬・・野?」

 首を振る。涙が出る。身体が震える。血の臭いがする。

 春ちゃんが近づいてくる。嫌だ。私は人殺しだ。血だらけの殺人犯だ!

 まだ握りしめていた包丁を春ちゃんに向ける。春ちゃん、私の傍から、お願いだからいなくなって。

 右手で刃の部分と左手で柄の部分を抑えられた。包丁をとられ、捨てられた。

「大丈夫、大丈夫だから」

 抱きしめられた。

 驚いて、動けなくなった。手も足も自分のものじゃないみたいだった。

 だめだ。私が触ると春ちゃんが死んでしまう。だめだ!

 なんとか力を入れて逃げ出そうとする。それでも離れられない。

「怖かったね。辛かったね。もう、大丈夫だから」

 力いっぱい春ちゃんの背中を叩く。暴れても春ちゃんは離してくれない。

 爪を立てた。ぎゅっと力を入れた。それでも、離れてくれない。

 だんだんと力が入らなくなり、泣くことしかできなくなった。

 春ちゃんが頭を撫でてきて、私は春ちゃんを抱きしめて泣いた。


 どれくらいそうしていたかわからなかった。

 少し落ち着いてきて、トントン、と春ちゃんの背中を叩くと離してくれた。

「落ち着いた?」

 頷いた。ふと見えた春ちゃんの手から血が出ていた。

 まさか。

 両手で春ちゃんの手首を掴んだ。

「あれ。切れてるね」

 あはは、と笑う春ちゃん。笑い事じゃない!

 どうしよう。そうだ!洗わなきゃ。

 水飲み場に春ちゃんを引っ張り、手を洗わせる。

「帰ろう?冬野。みんな心配してる」

 首を振る。帰りたくない。帰れない。帰っても、お母さんはいない。

 お母さんを思い出して涙が出る。

 二人でベンチに座る。春ちゃんの右手が汚くならないように手首を掴んで、私の右手の平に置いた。

 お母さんの声がした。

 まお、と呼ぶお母さんの声がする。お母さんの声が聴きたい。

 春ちゃんはそっと涙を拭いてくれた。

 その左の手の平に指でなぞる。

<まお>

「まお?」

 頷く。

「真央」

 もう一度頷く。また涙が出る。

「大丈夫。真央。大丈夫だから」

 春ちゃんの右手に涙が零れないように、もう一度両手で包み込んだ。


 朝日が出てきた。

 二人で病院に向かって歩いていると、ちーちゃんのお父さんが入口にいた。

「いた!!!!!」

 二人とも手首を掴まれ、その瞬間、「いだっ!」と言った春ちゃんの手を見て驚いていた。処置室で春ちゃんの手は包帯でぐるぐる巻きになって、私は何度も水で顔を拭かれ、着替えさせられた。足の裏の消毒は痛かった。着替え終わって出ていくと、あり得ないことが起きていた。

「真央!」

 おかあ・・さん・・?どうして・・?着替えたら、死んだのだろうか、私は。

「もうっ!ごめんね、ごめんね」

 抱きしめられて、生きているんだとわかって、もうこれ以上でないと思っていた涙がまたでてきた。後ろで春ちゃんが安心しているようだった。

 唐突に、春ちゃんのお父さんが走ってきて、春ちゃんの頬を叩いた。

「バカやろう!心配かけやがって!」

 春ちゃんのお母さんも少し涙目で寄ってきた。

「冬野さんのお母さんに謝りなさい。早く!」

 どうして?どうして春ちゃんが謝るの!?

 急いで春ちゃんの頭を鷲掴みする春ちゃんのお父さんの手を掴む。

 驚いた春ちゃんのお父さんと春ちゃんの間に立つ。

 首を振る。両手を広げて、首を振った。

 声が出ない。悔しい!春ちゃんは私を守ってくれたのに。いつも、いつも!

「こいつが連れまわしたんだろう?ごめんな、えっと」

「平良さん、ご迷惑をおかけしてすみません。真央の話を聞いてもらえませんか?」

 お母さんがお願いをする。慌てて、春ちゃんのお母さんがボールペンとメモ帳を出す。

 何を書けばいいのだろう。

 こんなに、こんなに助けてもらったことをどう書いたらわかってもらえるのだろう。

 なんて書けばいいの。

「ごめんなさい、冬野のおばさん」

 悩んでいたら、春ちゃんが謝ってしまった。

「すみませんでした。冬野が泣いていたから、励まそうと思って、一緒に公園に行ったんです。僕が連れだしました。ごめんなさい」

 どうして。

 どうして嘘をつくの!春ちゃん!

「お父さん、お母さん、ごめんなさい。手は暗くて、ブランコで切りました」

 バコっと殴られる春ちゃん。

「金輪際、冬野さんと遊ぶことを禁止する。サッカーも終わりだ。家にいなさい」

 手首を掴まれ、連れていかれる春ちゃん。ふと振り向いて私を見て、笑った。大丈夫、と言っていた気がした。

 お母さんが帰ってきたのに、春ちゃんがいなくなってしまった。私の、私の大事な人が。


「真央」

 病室でお母さんが話しかけてきた。

「ごめんね。心配かけて」

 首を振る。

「胃穿孔って言うんだって。胃に孔が開いちゃったみたい。それで痛くって倒れて頭ぶつけただけなのよ」

 少し笑顔で抱きしめてくれた。あったかい。お母さんの匂いだ。

 お母さんの両手が私の肩にのる。

「それでね、真央」

 ふと、お母さんが怒ったような目をしている。

「本当に、春日君が連れて行ってくれたの?昨日」

 ちがう。首を振る。

「何があったの。正直に書いてごらん。ゆっくりで良いから」

 全部、書いた。

 死のうと思っていたことも、包丁のことも。

 春ちゃんが嘘をついたことも。

「やっぱりねぇ・・・。真央、目をつむって。ぎゅっと歯を噛んでごらん」

 理由はわからなかったが、やってみた。

 頬に衝撃が走った。思わず目を開ける。叩かれたのなんて、初めてだ。

 目を開けるとぎゅっと抱きしめられて、お母さんが泣いていた。

「ごめんね、ごめんね、真央。ひとりぼっちになんかしないからね。ごめんね」

 私も泣いた。

「真央。春日君どうなると思う?真央のことをかばったんだよ。もうサッカーもできない。あんなに楽しそうに、ずっと練習していたのに。もう真央も遊べないよ。いいの?このままで」

 首を振る。力いっぱい振った。

「あなたが思っていることをなかなか上手く人に伝えられないのは仕方がないの、真央。だけどね、書いても良い。時間がかかっても良い。伝えなきゃいけないことがある時は絶対に伝えなきゃいけないの。わかる?」

 頷く。涙が飛んだ。

「春日君はお母さんの命の恩人でもある。真央の命の恩人でもある。お母さんからも絶対にお礼をする。だけど、まず真央がしなきゃいけないよね?真央が春日君のお父さん、お母さんがしている誤解を解かないとだめだよね?それもわかる?」

 もう一度頷く。お母さんの眼をしっかりと見る。

「もし、春日君のお父さん、お母さんに怒られたらしっかりと謝りなさい。春日君の手を切ってしまったことも、しっかりと話しなさい。もしそれで誰から怒られることになっても、正直に話しなさい。たとえ警察っていう怖い人たちが来ても。良い?」

 お母さんも私の眼を見ている。

「よし。じゃあお母さんが退院したら、春日君と三人でおいしいもの食べようね!」

<お母さん!>

 紙に書いた。

<今すぐ行ってきても良い?お願い!>

「ダーメ。ちょっと待ってなさい」

<どうして>

「あなた、あんなことして一人で外に出せるわけないでしょう!」

 否定できずに、下を向く。

「私の入院中は、千秋ちゃんのところにお願いしたの。あとで千秋ちゃんが迎えに来るわ。千秋ちゃんにお願いして良いよ、って言ってくれたら行ってきなさい」

!!

「普段から千秋ちゃんに優しくしてるかなあ??真央のお願い、聞いてくれるかな?」

 どうだろう。ドキドキしてきた。ちーちゃん、聞いてくれるかな。


 ピンポン。

 春ちゃんの家に行った。何度もこのベルを鳴らしたのが昨日なんて嘘みたいだ。

「あら。真央ちゃん。千秋ちゃんも。大変だったけど、ごめんね。うちには入れてあげられないの」

 春ちゃんのお母さんが謝る。後ろの圭ちゃんも様子を伺っていた。

 あらかじめ用意していたスケッチブックを開く。

<昨日のことで謝りに来ました!>

 めくる。

<昨日、勝手に病院から出て行ったのは私です。春日君は私を探してくれました!>

 春ちゃんのお母さんが、ふふっと笑う。

<それで、包丁で切ってしまったのは私です。春日君の手を切ったのは私です>

 次をめくろうとした時、遮られた。

「じゃあ、うちのお父さんが入ってくるまで待てる?」

 ちーちゃんの方を向く。ちーちゃんは頷いて、「お電話お借りしても良いですか?」と答えてくれた。


 家で待ってると春ちゃんのお母さんが急いで公園に包丁を拾いに行ってくれた。

「こんなの落ちてたら大ニュースになっちゃうわ」

 洗い流しながら苦笑していた。

<春>

 と書いて見せる前に、春ちゃんのお母さんは答えてくれた。

「うちはお父さんが決めたら守らなきゃいけないの。だから春日はここには連れてこれないの。うちでお父さんに会って、話すのは構わないけれど、春日とはまだ会わせてあげられないの。春日も出てこないでしょ?」

 7時を過ぎると、春ちゃんのお父さんが帰ってきた。予め聞いていたのか、私たちにいきなり怒ったりはしなかった。

「さて」

 たくさん、書いたスケッチブックを春ちゃんのお父さんは読んでくれた。

「君の謝罪は受け入れる。さっきよく確認しなかったのはこちらも悪いな。すまない。うちのバカの手を切ったことは仕方がない。というよりもあいつが勝手に刃の部分を掴んだのだろう。君は悪くない。君のお母さんが倒れたことで君が悩んで飛び出したことも、小学生だ。責められるいわれはないだろうな」

 ズ、ズとお茶を飲む。

「しかしな。冬野さん。春日はもっとやれることがあったはずだ。例えば、君がいないことに気づいたとき、勝手に飛び出すのではなく、母親に伝えるべきだった。そもそも目を離してはいけない。君を見つけた時、一緒に連れ帰ることもできたはずだ。一言電話するだけでもみんな探さずに済む。そうだろう?」

 否定はできないことかもしれない。だけど、だけど!

「動転して血だらけの君を、もし警察が見つけていたらどうなっていただろう。せめて家に連れ帰るべきだった」

 そうじゃない!そうじゃなくて・・。

「最後に、私たちに嘘をついたこと。これだけで5つも悪いことをしている。悪いこと、というよりは判断ミスと言うべきことかもしれないが。だからアイツには罰が必要なんだ。前に君の絵具の件の時もしっかり説明しなかった。アイツはまだまだダメなんだ。わかったかな?」

 首を振る。どうして。どうして、春ちゃんが怒られなきゃいけないの?あんなに私のことを助けてくれたのに!

「そうか・・。じゃあ、考えてみてくれ。君のお母さんが突然いなくなったら、君はどう思うかな?」

 話が突然変わって驚く。ゆっくりと答えを書く。

<びっくりして、探します>

「もし、一日帰ってこなかったら?」

<嫌です。探します>

「うちのもそうだったよ。圭と私ももちろん探したさ。家族だからね」

 わかる。この人が言いたいことはわかる。だけど・・・。

 伝わらない気持ちがある。伝えたい気持ちがある。でも、届かない。

「はい!そこまでー」


 突然、話を途切れさせた春ちゃんのお母さん。春ちゃんが後ろにいる!

「当事者一人足りないから連れてきましたー」

「つれてきましたぁ!」

 圭ちゃんも真似をしながら、二人で「ねーっ」としている。

「春日。あなたがお父さんに謝らないといけないんじゃないの?女の子に謝らせて恥ずかしくないの?」

 春ちゃんは悪くない!と言おうとして、やっぱり声が出なかった。

「すい・・ませんでした・・」

「それは何に対してだ。お前は何を悪いと思ったんだ。春日」

「・・みんなに、何も言わなかったこと、嘘をついたこと」

「お前が嘘をついて、話を勝手に終わらせたことで、この子は話す機会を失ったんだ」

 頭をがっと掴まれて驚く。優しい掴み方だった。

「・・・・はい」

「この子が話せないことはわかる。それが悪いことではない。だが、お前はこの子と今後関わるべきではない。なぜか、わかるな」

「・・・・・・・はい」

「お前の悪い癖だ。春日。人にはペースというものがある。この子がゆっくりとしか伝えられないことも、圭がおしゃべりなこともその一つだ」

 春ちゃんが頷く。

「お前は一生この子の隣にいるつもりなのか。いれるわけがない。この子には、自分でコミュニケーションをとる力が必要なんだ。それを身に付けるチャンスをお前は奪った」

「・・・・はい」

「だからお前はこの子とは一緒にいてはいけないんだ。人の弱さをわか・・」

 ピコッ!

 ・・・・。

 ピコッ!ピコッ!

 全員が沈黙した。こらえきれず、春ちゃんのお母さんとちーちゃんが笑った。

「おーとーさーんは春ちゃんをいじめるーおしおきーだー!」

 ピコピコハンマーで春ちゃんのお父さんを叩く、圭ちゃん。

「圭、ちょっと待ちなさい、大事な話を・・・」

「お父さん・・・ぷぷ・・・ちょっといいかしら?」

 春ちゃんのお母さんが笑いながら口を出す。

「お父さんも、春日をグーで殴ったわよね?しかも人前で」

「あれは!」

「自分の子供だからってグーで殴っていいのかしら?」

 演技っぽい口調で春ちゃんのお母さんがお父さんを責める。何も答えられない春ちゃんのお父さん。

「さて、お父さんも悪い、春日も悪い、真央ちゃんも悪い、というわけでお母さんが決めます!」

 春ちゃんと目が合う。なんだろうね?これ。うん、なにこれ?と会話できた。目で。

「さて、お父さんは春日を許すこと。次同じ事したらまあ好きなだけ怒りなさい。その時は止めませんから。春日は、真央ちゃんのお母さん、私、お父さんには謝ったからあとは千秋ちゃんのお父さんとお母さんと千秋ちゃんにも謝りなさい」

「圭にもー!」

「そうね。圭、眠かったもんねー?心配したよねー?それと真央ちゃんにか。お詫びに、真央ちゃんが病院へのお見舞いに行くときは付き添いをしっかりしなさい。連絡もね。良いわね?春日」

「・・うん」

 春ちゃんがびっくりしながら頷く。

「さて!最後に真央ちゃんね。真央ちゃんは、ちょっとこちらへ来なさい。みんなはご飯を食べててね。春日!みんなの分ちゃんと台所から運んでね」


 春ちゃんの部屋・・・かな?に連れてこられた。ベッドの上に二人で座る。

「真央ちゃんは、まずお母さんにもう一度ちゃんと謝らなきゃだめよ」

<お母さん?>

 春ちゃんのお母さんに抱きしめられた。ぎゅーっと。お母さんの感触や匂いに・・似ていた。

「あのね、真央ちゃん。あなたは絶対にしてはいけないことをしたのよ。自分で自分のことを傷つける。そんなことはしてはいけないの。もし、あなたが死んでいたら、あなたのお母さんは一人ぽっちよ?」

 ・・そうか。そうだ。お母さんが一人になるところだったんだ。春ちゃんのお母さんが泣いている。

「だめよ。そんなことはもう二度としたら。春日も、梨音ちゃんも、千秋ちゃんも、勇護くんも、みんなが自分のことを責めるわ。あなたが昨日、そうしたように」

 そうなんだ。そうなのかな。そんなことは、嫌だ。

「あなたを助けられなかったら、春日はきっと自分を責めたわ。その春日がもしあなたと同じことをして亡くなったら、私は私を、圭は圭を、お父さんはお父さんを責める。梨音ちゃんもそうよ。真央ちゃん。あなたは自分一人で生きているわけじゃないの。わかるかな?」

 想像して、自分のしでかしたことの重さがわかった。

「明日、しっかりとお母さんに謝りなさい。いいわね?二度としちゃだめよ。それと・・真央ちゃん、お願いがあるんだけど聞いてくれるかな?」

 首を縦に振る。春ちゃんのお母さんのお陰で春ちゃんとまたいられるんだ!

「春日のこと。春日はすぐ敵を作るわ」

 敵?何を言ってるんだろう。春ちゃんは人気者で、敵なんて・・。

「あの子はね、たとえ自分が傷ついても良いと思っているの。だから、悪いと思ったことをすぐに悪いと言っちゃうし、良いと思ったらすぐに行動してしまう。難しいかな?大丈夫かな?」

 難しくない。言ってることはよくわかる。春ちゃんはいつも自分のことなんて気にしない。だから平気でいじめを止めに入るし、包丁を手で掴んじゃう。

「今は良いわ。だけどいつかね、周りに嫌われてしまうかもしれない。あの子が一人ぽっちになる日が来るかもしれない。その時に、真央ちゃん、傍にいてあげてくれないかしら?」

 頷く。すぐに頷く。

「ありがとう。真央ちゃん。さて、お夕飯にしましょうか。遅くなっちゃったね」


 もし・・・もし、自分のお母さん以外に、お母さんを選べと言われたら、春ちゃんのお母さんを選びたいな。

 そう思った。

 お母さんも春ちゃんも帰ってきて、私は幸せな生活を取り戻した。また声が出なくなってしまったけれど、それは気にならなかった。







































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