勝利の雄叫びと私のパンティが舞っていた。
春日さんに依頼されていた最後のデータを送る。師匠からも依頼がないので、今ある分はこれで終わりだ。確認してもらう。問題がなかったのか、春日さんは質問することなく、「ありがとう」とお礼を言った。そんな小さなことでも、とても嬉しかった。
「今日ってこの後、なにかある?」
春日さんの質問は私にとって不可解だった。午後二時。頭に浮かんだのは、いつも通り夕食を用意して、夜に防犯カメラの映像を確認すること以外ない。クラッキングがなければ家事全般以外にやることは少ない。
「特に・・?何も?いつも通りです」
「じゃあ、着替えて。出かけるから」
予想外の言葉に驚きを隠せなかった。そしてすぐに嬉しさがこみ上げてきて、着替えを用意する。どれを着たらいいかわからなかったが、急いで着替えた。
通りに出ると春日さんは駅に向かった。乗り継ぐことなく、いわゆる紳士淑女の街に出る。そこで入った建物は驚くことに高級ブティックだった。
「平良です」と一言告げると、「お待ちしておりました」と小奇麗な店員が返す。
「それじゃ、後でね」
そう言われ、春日さんが男性スタッフに連れて行かれた。男性用と女性用のフロアが別らしい。お店自体も別なのだろうか?そっか、春日さんの買い物なのか、江夏さんのパーティに出席でもするのだろうか?じゃあどこで待とうかな・・・と思っていたが予想外に私も最初に案内をしてくれた女性スタッフに連れて行かれた。
「神川様は、何かこれと言ったお好みはございますか?」
「え、え、特に・・・ない、です」
「好きな色とかどんなことでも結構ですよ?」
初心な私に気付いたのか、質問がすぐにオープンからクローズなものになった。なぜ私が?という疑問とこんな高級店で服を選んだことなどなかったので、どれを選べばいいかなどわかるわけもない。
「ちょっとこちら失礼いたしますね」
気づくと身体のサイズを測られ、何着か用意されてしまった。
「これらの中で、お気に召すものはございますか?」
用意された一着に若干露出度の高い派手な緋色のワンピースがあった。羽織るものがついていて、江夏さんが来たら男がどんどん群がってしまうだろうなどと想像して自分なんかでは似合わないと感じてしまう。悪い癖だ。何でも江夏さんと比べたがる。
春日さんは、青が好きだ。特に濃くキレイな青を好む。紺色まで来るとそうでもないらしい。水色も違うようで、そこには若干こだわりがあるみたいだった。私は自分の服まで彼の好みで決めたいと思うほど、春日さんが好きになっている。
店内を見回して、すぐに見当たらなかったので確認をした。「青く、露出の少ないものを」と聞くと、少しだけ待った後、いくつか用意された。一番、春日さんの好きそうなものを選び、サイズを合わせていく。気付くと、服に合わせた鞄、靴と一通り用意されていった。
ああ、もしかして私も連れて行ってくれるのだろうか、江夏さんのパーティに、と思い、嬉しいような悲しいような気分になってきた。ただ、春日さんも一緒でオシャレができる、というのは嬉しさが嫉妬よりも上回った。ふと目線を移すと、綺麗なネックレスがあった。どれも高そうで、私なんかの手の届くものではなかった。そもそもこの服だって、きっと春日さんがプレゼントしてくれるだろうけれど、何だか申し訳ないような、やっぱり自分には不釣り合いだろう、と思うようになってきた。
一通り私のバージョンアップが終わったのか、店員が話しかけてきた。
「わあ!お綺麗ですよ。鏡、御覧になってみてください。それと、この後さきほど御覧になっていたネックレスも合わせますね。時間はもう少しございますから」
鏡を、おそるおそる見た。そこに映っていたのは私のようで、私じゃなかった。ほとんどスッピンの顔と服装の不釣り合いがすごかった。
「化粧、してくれば良かったな・・・」とぼそっと独り言を言うと驚いたように告げられた。
「この後、お洋服に合うように少しだけ直させて下さい。大丈夫です。専門のスタッフがおりますので」
結局、ネックレスは買わないことになり、軽く化粧を直された。正確には、「完全に」直されたが、あまり濃いのは春日さんに嫌がられる旨を伝えると、あまり濃くない自然なメイクにしてくれた。シンデレラのような気分だった。
「今日は何かの御記念日でしょうか?それとも、パーティですか?」
「わかりません。私・・知らないんです。すみません。いつもついていくだけで」
「い、いえ!そんな、こちらこそ失礼いたしました。お二人はとてもお似合いですよ!」
慌ててフォローをする店員に申し訳ないながらも否定する。
「似合いません。春日さんは、私なんかじゃなくて、もっと・・・」
もっと、どんな人と付き合ってほしいのか。江夏さんのような美人?それとも?
「そんなことありませんよ!神川さん、すごくお綺麗ですよ。ねえ?それに、今日はこれだけご用意されているのですから、特別な何かあるのかと思いますが・・」
近くの部下に謎の同意を得て、私を褒める。何か資料を確認した後、また話し続けてくれた。
「今日の来店理由はこの後パーティなどではなく、お食事になっておりますね。(・・・こういう時は、きっとプロポーズか何か、だと思いますよ)」
途中から耳元でささやくような小声になった。
・・・プロ、ポーズ?そんなわけない。そんな、そんなわけがない。私たちは付き合ってさえいない。だけど、彼女のそんな囁きが、甘美な響きで、あり得ないことをあり得るように思ってしまった。
外に出ると、春日さんが素敵で他のものは目に入らなかった。やっぱり春日さんはこういう世界にいるべきだ!と思った。こういう世界というのが何かわからなかったけれど。
「綺麗だね。陸。さ、行こう?」
促され外に出て、着てきた服はどうするんですか?と聞くと少し笑って、明日には届くから大丈夫と返事をされた。タクシーに乗ると、私の人生には絶対に無縁だろうと思った日本有数の超高級なホテルに止まった。案内されるがままに向かうと、とても夜景がキレイな個室に案内された。ベッドなどがなかったので食事だけをする場所なのだろう。テーブルには高級そうなワインや飲み物が置かれていた。
パーティではなかった。本当に、本当に、本当に!?とだんだん先ほどの囁きが本当のように感じた。席に着くと料理が少しずつ運ばれ、二人でおいしいね、おいしいですねと食べた。頂いた宝物を汚さないように慎重に食べた。
「陸。あのね、ちょっと良い?」
食事が一通り終わり、デザートはあるのかな、なんて思っていると、春日さんが話しかけてきた。もしかして、と思うと、胸が高鳴り、もうすでに顔は炎のように熱い。その後に、死の宣告が来るとも知らずに。
◇◆◇
「今まで、本当にありがとう。今日の依頼が終わって、陸の借金はなくなったよ。もう、陸は自由。お礼がしたかったんだ」
胸の高鳴りも、炎のような熱さも、一気に失せた。代わりに、身体中の血が凍ったような感覚に襲われた。
「それと、これ」
渡された私の通帳には、200万入っていた。もう一つ、縦長の小さな包みは開けられなかった。それどころではなかった。ただ、口から言葉を出すには突然すぎた。
「これで、家も借りられるはず。しばらく生活できるだろうから、ゆっくりと好きな仕事を探してごらん?もし、何かの学校に行きたいとかなら、また相談して」
何を言っているのだろう。春日さんの言葉は違う国の言葉にしか聞こえなかった。言っていることがわからない。私の返事はないまま、春日さんは続ける。
「俺の目的に、利用してしまって本当にごめん。お金で、脅しているようなもので、本当に本当に申し訳なかった。陸の大切な時間を奪ったこと、許してほしい」
涙が、出た。そしてようやく言葉が出てきた。
「は、はるかさん。違います!私は、私は、春日さんがいてくれたから」
そうだ。春日さんがいなかったら、私はもういない。少なくとも、まともではいられなかっただろう。
「嫌です!なんでも、なんでもします!もっと、もっと頑張ります!お金なんていらないです。クラッキングだって、他のことも!」
春日さんが、首を振る。真剣な眼で、私を見る。
「どうしてですか!?私、何か失敗してしまいましたか!?そ、それとも・・・」
誰かとお付き合いされるからですか、と言いかけ、言葉に詰まる。
「違うよ。今、陸が思っていることは多分全部違う」
だったら、どうして?どうして、私は。
「そ、そばにいさせてください!お願いします。お願いします・・おね・・がい・・」
「遅かった、ね。ごめん。わかってた。陸が優しいこと、こうなってしまうかもしれないこと」
どういうことだろう。遅かった?優しい?
「陸、よく聞いて。俺と会うまで、辛いことが多かったね。それは話してくれたから覚えてるよ。だけどね、俺じゃなくても、良い人は本当にたくさんいるの」
首を振る。そんなことない。そんなわけがない。
「陸はもっと、幸せになれる。きっと良い人も見つかる。やりたいこともできて、素敵な友達もつくって、幸せな人生が、待ってる」
春日さん・・は?私が今まで考えたことのある先の人生には春日さんがいなかったことはない。ずっと春日さんの使用人、家来、夢のようだけれど恋人になりたいとも思っていたのは当然だ。江夏さんだろうと冬野さんだろうと、春日さんが結婚しても、雇っていてほしかった。彼女たちに尽くすことだって構わない。
「また困ったら、いつでも相談してくれたら良い。なんでもするよ。できることは。だから、陸、頑張ってごらん」
なんで春日さんはこんなことを言うんだろう。なんで。どうして私から生きる意味を奪おうとするの。言葉が浮かばなくて涙が出る。なんであんなバカなこと、思ったんだろう。プロポーズなんてしてくれるわけない。こんな私なんて、もう必要なくなってしまったんだ。私には、もう生きている価値なんてない。幸せな人生なんていらない。ただ、傍に春日さんがいてくれたら、春日さんの傍にいれたら、それで良かったのに。
「はる・・春日さんは、どうされるんですか・・・」
やっとひねり出した言葉がそれだった。そして、次に浮かんだ言葉を口に出してしまう。
「復讐・・されるんですか?」
春日さんは、何も言わない。窓の外を見ていた。肯定だと思った。
「春日さんだって幸せな人生があるじゃないですか!江夏さんだって、冬野さんだって、みんな、みんな!」
首を振る。
「俺には、そんなものは必要ないよ」
「そんなはずない!いつも、いつだって春日さんは辛そうにしてるじゃないですか!本当は、みんなともっと」
私の感情的な言葉は遮られた。
「いいんだ。それは。もう、アイツらには十分助けられた。一緒に、楽しい人生を過ごさせてもらった。生まれてから良い17年だった。俺は十分すぎるくらい幸せだった」
何を言っても、春日さんには届かなかった。届くはずがなかった。私は、所詮春日さんの手や足だったのだ。手は自ら脳に命令をしない。足は勝手に歩みを止めない。せめて、せめて春日さんの手足でいたい。
「じゃあ、じゃあ、せめて一緒にいさせてください。頑張ります。普通の人生とか、わかんないけど!違うところで働いたり、他の人と関わったり、頑張るけど、だけど春日さんと一緒にいたい!・・それも・・だめですか・・・」
話の途中で首を振られていた。そして、春日さんが立ち上がった。怪訝そうなホテルの従業員を無視して、タクシーに乗り込み、帰路に着く。一言も喋らず、家に入ると春日さんは部屋の鍵を閉めてしまった。今まで一度も閉められたことがなかった、鍵を。
部屋に戻り、小さな包みを開ける。
さっき欲しいな、と思った青い宝石のついたネックレスが入っていた。メッセージカードを読んで、また涙が溢れた。
<陸が幸せになりますように>
◇◆◇
朝、春日さんの部屋から音がして、部屋を急いで出た。眠れなかったどころか、着替えてさえいなかった。
「おはよう、って着替えなよ?」
春日さんに注意され、気付いて部屋に戻る。急いで着替えると春日さんが朝食の準備をしていた。ニュースが台風の接近を伝える。
「もう、今日から家事とかもしなくて良いんだからね」
首を振って無理に味噌汁のおたまを奪おうとする。
「ダーメ。自分でやらなきゃいけないんだから。これからは」
「嫌です。私がやります」
春日さんは避けてくれず、結局、私は力なく立ち尽くすだけだった。
食卓の朝食を食べられず、ただ座っていた。言葉も出なかった。
「今日、部屋を見に行くからね」
「嫌です」
嫌だ。私はここにいる。ここにいたいんだ。
「じゃあ、俺が引っ越すかな」
「それは!ダメです。ダメなんです・・」
返事をせずに食器を片付け始める春日さん。気付くと、本当に出かけようとしていて慌ててついていく。止められもせず、不動産会社の近くまで来ると私は走り出した。もう、きっとダメなんだ。ダメなんだ。春日さんは本気だ。私の、幸せな時間はもう返ってこない。
雨が降り始めた。風も強い。そう言えば、台風が近いんだっけ。びしょ濡れの私は、歩くことさえ嫌になり、座り込む。ここがどこかもわからない。そんなことどうだって良い。叩きつけるような雨さえ、私には何の影響もなかった。今、私の頭の中にあるのは、春日さんとの記憶だけ。たった1年ちょっとだけの時間なのに、私の人生は春日さんが全てだった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
フラフラ歩き始めて、見たことのある場所に出た。地下がマスターのお店だ。ここで初めて春日さんに会った。春日さん、今日は来てるだろうか。台風だからお店、閉まっているだろうか。
「手を挙げろ。声も出すな」
突然、後ろから声がして、ゆっくりと振り返る。男がいる。春日さんじゃ、ない。知らない。そうか、こんなボロボロでも女なんだ。銃は構えてなかったが、私が逃げられるような相手ではなさそうだった。犯されるのだろうか。それとも、売り飛ばされるのだろうか。叫んで助けを求めたほうが良いのか。
「陸・・ちゃん?」
その男の少し後ろからひょっこりとマスターが顔を出した。
「千代はほんっと容赦ねえよなあ!」
マスターのお店の中で、北沢さんが笑う。マスターがタオルをもってきてくれた。
「叫ばれたどうするつもりだったんだよ、おめー」
「口を閉じます。その後、鳩尾で落とせば大丈夫です」
「物騒なヤツ」と言いながら、北沢さんは部下を労っていた。
マスターにシャワーに促されたが、首を振る。時計が見えて、もう深夜になっていたことに今頃気付く。
「どうした、嬢ちゃん。春坊に追い出されたのかよ?」
何も言えなかった。ただ、そのことを自覚して涙がまた出そうだった。
「ほう。まあ、座んな。アンタにゃもう借金はねぇんだ。マスター、なんかあったけぇの出してくれや」
「その前に、上、鍵閉めときますよ」
マスターが鍵閉めを終えて、温かいココアをテーブルに置いてくれた。
「飲め、嬢。無理やり飲ませるぞ」
手に持っただけで温かく、それがまた辛く、涙が零れた。
「どうした。春坊と何があった?」
事情を説明すると、北沢さんは大きな声で笑った。・・・ひどい。私は、私はこんなに悲しいのに。
「春坊らしいや。なあ、マスター!」
「ええ。実に彼らしい。私は、好きですけどね。おっと、贔屓はしませんよ?」
自分はお客さんに公平です、と言わんばかりのマスターを放置し、北沢さんがこちらを向く。
「それで、お前は春坊から逃げた、と」
「逃げてません!!」
逃げてない!私は傍にいたいんだ。何を勘違いしてるんだろう。ちゃんと説明したのに。だから春日さん以外の男の人は嫌いなんだ。
「おめえ、一年も坊の傍にいて、まだ全っ然理解できてねえな。そら捨てられるわ」
急に、北沢さんが優しくなくなった気がした。この人たちはいったい私に何を言っているのだろう。
「じゃあ、おめえよ、春坊が今どうしてると思う?」
今、春日さんが?どうしてる・・・。きっと引っ越しの準備だろう。自分で、もう家を決めて、段ボールの中に本でも詰め込んでるんじゃないだろうか。
「答えられねえのか。やっぱりわかってねえじゃねえか」
「き、っと引っ越しの、準備」
しゃくりあげながらようやく言葉を出す。なんなんだろう。なんでこんなこと言わなきゃいけないの。
「バーカ。おめえ、ほんとバカだよな。じゃあ賭けても良いぜ。坊はおめえを探してる。絶対な」
さがして・・る?そんなわけがない。いくら優しい春日さんでも、そんなはずない。・・・圭ちゃんのところじゃないのかな。きっと。
「おーい!おまえら、賭けるヤツいるか?春坊がこの嬢を探してるか探してないか!」
さっき、私を脅してきた人が、どん!とテーブルに手を突く。
「団長」
「おう?」
「探している方に、一千」
どおっと湧き上がる歓声。そりゃそうだ!あったりめえだろ!と口々に叫ぶ。
「おいおい、賭けにならんだろ。嬢ちゃんしか探してない方に賭けるやつがいねえじゃねえか。ほら、嬢ちゃんいくら出す?」
「わ・・た・・し。何も持ってない・・です。お金とか、春日さんが全部」
「よし。嬢ちゃんの今履いてるビショビショほかほかのパンティで良いか!?」
「ブラジャーつきで!」と如何にもゲスな顔をした男が告げる。
「キスとかやっちまうとかしたら春坊に殺されそうだからな。よし賭け成立な?」
何も答える気がしなかった。もし、ほんとに春日さんが探してくれているなら、下着だろうとなんだろうとくれてやる、と思った。そうか、この賭けに買ったらもらえるお金で春日さんを助けよう。そんな気さえ起きてきた。
「良いんだな?よし。マスター!」
「場代を」
「ったく、商売上手過ぎだろ!」
「冗談ですよ。公平に私が裁定しましょう」
「それじゃあ、店はそうだな。千代は連れてくとして、んじゃマッツ任したぞ!」
北沢さん、マスター、私は千代と呼ばれる武骨な男が運転する車に乗り、春日さんのところへ行った。私のチャイムの回数である3回とノック3回をしたが部屋には誰もいなかった。どうして、いないの。
「よし。これで家にゃ、いねーな。さてじゃあ一度戻って、電話してみるか」
店に戻った途端、北沢さんが電話をスピーカーフォンでかける。もしもし、と最愛の人の声がする。
「おう!春坊、今どこだ?一局指そうぜ。迎え寄越すからよ」
『北さん、ごめん。今ちょっと手が離せない』
「なんだよ、つまんねえな。こんな遅くに。病院か?」
『違う。・・・待って、北さん、むしろ今なんか忙しい?』
「いつもんとこだが、どうした?坊」
『ちょっと、そこ、いてもらえます?頼みがあります』
切れる。
「さて。嬢ちゃん、裏にいな」
素直に裏に行くと、心拍数が上がった。探してくれてるはずがない。そんな、そんなはずがない。
マスターが歩き始め、春日さんが来たのがわかった。ばれないように覗くと、ビショ濡れの春日さんがそこにいた。そして、土下座した。
「北さん。すいません。電話でも言った通り、頼みがあります。金も、代理だってやるからお願いします」
「なんだよ、坊。驚くじゃねえかいきなり。なんだ?」
「陸が・・、いなくなりました」
「逃げたのか。やっぱりなあ。よしうちでめんど」
「違います!逃げたわけじゃないです。俺が、悪い・・・んです」
「犯っちまったか!?」
春日さん以外の人が爆笑した。マスターでさえ、口を抑えた。私も、少しだけ笑いそうだったが、我慢できた。
「違います。えっと」
春日さんが説明をする。・・・私が春日さんに依存していたことや、春日さんは私に自立して、自分の傍ではなく、人生を歩いてほしいからやったことなんだと伝えていた。
「けど、見つけて、どうする?またおめえに依存しちまうだろう?」
「・・・わかりません。だけど・・・陸が心配、です」
「犯られたり、売られてたらどうしよう!?ってか?」
「いや、北さん、そもそも台風、上、すごいから・・・」
春日さんが目を逸らす。少し、顔に赤みがかって、もしかしたら北沢さんの言ってることも当たっているのかもしれない。
「仕方ねえな・・。じゃあ、見つかったらここにいる全員におごれよ?」
「大丈夫です!いくらでも飲んでください。皆さん、お願いします。俺もまだ探します」
すぐに走り去っていった。止めようとしたが、マスターに止められた。
「お嬢ちゃん、まずシャワーにでも入ってきな」
「でも!また春日さんが!」
「いいんだよ。男なんだ。探させてやんな。俺はここにいないとは言ってねえしな」
◇◆◇
あったかい。店のシャワーを浴びる。お湯が、温かかった。
春日さんが探してくれていた。それどころか、本当の気持ちを知った。ただ、追い出されそうになっていたわけじゃなかった。嫌われたわけでもなかった。
北沢さんの言う通りだ。私は何もわかっていなかった。春日さんがどれだけ私のことを考えていてくれたか。心配・・してくれたか。すごく濡れていた。あんなに焦った姿もほとんど見たことがなかった。
シャワーを出て身体を拭くと、コンビニ等で買ってきてくれたのか、新しい下着とジャージがあった。着替えて、出ていくと、マスターに領収書を渡された。こういうところは厳しい人だった。
「おう。来たな。それで、賭けは俺たちの勝ちだ」
・・・まさか。
「しゃあああああああああああああああああああああああああああああ」
後ろで勝利の雄叫びと私のパンティが舞っていた。一気に恥ずかしくなり、両手で顔を抑えた。北沢さんが大笑いしていた。
「ガハハハハハハ!ま、俺は初戦負けだ」
それより!
「春日さんに連絡を!」
「そうさな。見つかって保護したって電話してやってくれマスター」
頷くと、マスターがすぐに電話してくれた。今、神奈川に向かっていて、タクシーでも1時間くらいかかるからそこにいさせてください、と。
「お嬢、おめえ、神奈川出身なのか」
何度泣けば気が済むのだろうか、私は。私を何度泣かすのだろうか、春日さんは。
「俺の見込んだ漢に間違いはねぇんだよっ!」
ドンドンと背中を叩かれたが不思議と痛みはなかった。
春日さんが駆け込んできた。
他のみんなはもう出来上がるくらい、飲みまくっていた。北沢さんのボディガードの千代という人、私、マスターだけが酔っていなかった。
「おう!春坊、やらしてもらってんぞー!」
「ありがとう。北さん。皆さんも。好きに飲んでくれていいから」
頭を大きく下げた春日さんが私を見る。顔が真っ赤だ。寒かったんだろう。濡れている服も髪もそのままだ。
もう、私は止まれなかった。我慢なんてできなかった。ただ、春日さんに向かって飛び込んで、抱きしめた。泣きじゃくった。春日さんが「ごめん」と言った。
私が少し落ち着くと、北沢さんが歩いてきた。
「春坊。俺は言ったよな?いなくなったら、そん時は好きにさせてもらう、って」
「北・・・さん・・」
「そんなに心配ならちゃんと置いとけ。てめえで守るんだ。それが嫌なら俺がもらっとくぞ。嬢ちゃんもな!忘れんなよ!」
春日さんが、力強く頷いた。帰り際に、私にウインクする50代のおじさまが、素敵だなと思った。もちろん、恋心とはほど遠い、どこか人生の先生のような、尊敬という言葉がぴったりだった。
◇◆◇
「騙されたんだ!あはは!これはやられたね」
春日さんが笑った。実は、裏にいたと言ってしまった。すると笑っていた。そして、北さんの言う通り、誰も裏にいないなんて言ってなかったもんね、と続けた。
「でも、良かった。本当に。こんな風と雨の中、全然帰ってこないし、財布も電話も持って行ってなかったし。・・・あれ」
突然春日さんが考え始める。どうしたのだろうか。
「神奈川、行けないじゃん!よく考えたら」
「・・・はい。そうですね」
また、笑った。それだけ慌てていたんだ。いつも冷静沈着で、襲われても動じない、後ろで銃を突きつけられても平気で将棋を指すような、春日さんが。
クシュンとくしゃみをした。少し顔も赤い。お風呂の後だからかもしれないけれど、風邪なんかひいてないだろうか。気になって体温計を持っていき、熱を測ろうとすると拒否された。
「大丈夫。それと、これから、どうしようか」
春日さんがコーヒーを淹れてくれた。一口飲んで、苦みが嫌なことを思い出させた。やっぱり、出て行かなきゃだめなのかな、と思ってしまった。
「どうしたい?陸」
春日さんの眼を見る。けれど私は見つめられずに、すぐに下に逸らしてしまった。
「俺はね。これから、戦うよ。本当に戦うつもり。そしたら俺の近くにいると危ないのは、わかるよね?」
頷く。春日さんの家族のことだ。ご両親が亡くなり、妹の圭ちゃんが今も目が覚めていない。もう覚めないと思う、と春日さんが言っていた。
「陸も、危ない目に遭う。だから梨音とも真央とも、離れてる。それもわかってるよね。話したもんね」
知っていることだ。わかっていること。それでも、それでも私は、春日さんといたい。春日さんだって危ない目に遭うかもしれない。それなら、助けたい。許されるなら。
「北さんはああ言っていた。でも、4年前の俺は妹一人助けられなかった。今回は一方的に殺されているだけじゃなく、こっちから仕掛けるんだ。相手はそれを見逃してくれるわけがない。利用できるものはなんでも利用するはず。俺は、陸が傷ついても何もできないかもしれない。陸を人質にとられても、きっと、止められない」
春日さんはきっと私が人質にとられたら、助けてくれると思う。そっか。お荷物なんだ。春日さんの復讐に、私は邪魔なだけなのか。春日さんの人生に、私はもう不要なのだろうか。
「それくらい、憎いんだ。俺の中で、真央も梨音も、陸もそう、誰が死のうとアイツらを殺すことができるならって思ってしまう自分がいる。そんな最低な自分がいる。皆、勝手に俺のこと信じてくれてるけれど、そんなに良い人間じゃない。陸のことだって、利用した。陸が困っているのをいいことに、俺は。最低だよ。最低なんだ!」
珍しく春日さんの語気が強くなった。そんなことないのに。利用されてたとしたって構わない。そんなこと、わかってる。それでも、春日さんがくれた毎日は私にとって宝物で、利用してくれていたことさえ嬉しいことなんだ。
ふと、北沢さんの言葉を思い出す。そうだ。私だって、春日さんを守りたいんだ。一方的に守られてるだけなんてダメだ。
「春日さん。私は、は・・・るかさん?」
目がとろん、と閉じていた。顔がより赤くなり、少し震えているようだった。おでこに手を当てると、その熱さに驚いた。急いでベッドに移したが、震えが止まらないようだった。おでこや腋に氷嚢を当てた。目を開けた春日さんが、「ごめん」と呟いたが、謝るべきなのは私だ。昼過ぎに分かれて、一体何時間、春日さんに探させたと思っていたのだ。今は深夜3時。自分の先のことなんて話をしている場合じゃなかった。半日以上、私はこの大雨の中、この人を走り回らせたんだ。
「ごめんなさい!ごめんなさい・・・。大丈夫ですか?寒かったり、苦しかったりしませんか?」
コクコクと頷く春日さん。頷かせることさえ、私には罪に思えた。薬や温かい白湯を用意していると、春日さんが呟いた。
「・・・このまま・・死ねたら良い・・に・・な・・」
なんてことを言うのだろう。このまま、春日さんが死んだら私はどうしたらいいのか。どう償えば良いのか。こんなに、こんなに大切な人を。
「だめです!嫌ですから!そんなこと、絶対させませんから!」
「り・・くにひどいこと、した。まお・・や・・りお・・んにも」
「そんなことない!春日さんは」
いつだって、人のために自分を犠牲にしようとする!そのために、嘘ばかりついて、自分を平気で傷つける。どうして、自分の幸せを求めてくれないのか。考えてくれないのか。そう言葉を続けようとすると、春日さんの咳が止まらなくなってきた。春日さんは喘息持ちだ。運動を続けて、かなり治ったらしいが、あの事件の後はたびたび発作を起こす。体調の悪い時や強いストレスを感じると出てしまうらしい。事件のフラッシュバックの時にはよく発作が起きていた。
いつもより咳がひどく、長い。少し身体を起こして、背中をさすると落ち着くことが多いが、今はそれも効果がない。薬を飲ませようとしても、吐き出してしまう。どうしたらいいの。ヒュー、ヒューというかすれた呼吸になり、身体が支えられなくなったのか、だんだんと春日さんの身体が重くなってきた。私の身体によりかかるようにして小刻みに震えていた。ダメだ!病院に行こう。救急車を呼ぼう。私じゃ、もうどうしようもない。
「春日さん。今、救急車呼びますから、病院行きましょう。ちょっとだけ、横になっててください。ね?」
春日さんが首を振った。服を掴まれ、私は動けなかった。その震える手に手を重ねて、除けようとすると力のなさに驚いた。
「・・いかないで・・り・・く・・」
春日さんが、私を頼った。私に、甘えてくれている。それが嬉しくて、でも苦しそうな春日さんが心配で、私の心はめちゃくちゃだった。
「・・傍にいます。でも、病院は行きましょう?ね?」
首を振る。咳き込む。せめて、この咳が止まらないと!どうしよう。どうしたらいいの。
「・・・みんな、も・・ういない。ひとり・・」
言いながら、そして言葉の途中でも咳き込んでいた。
「・・・りくも・・いなくなる・・・ご・・めん」
その言葉に、私は苦しくて胸がこみ上げてきた。なんで、なんで私はこの人を一人にしようとしたのだろう。こんなに弱い人を、どうしてあんなに強い人だと思っていたのだろう。やっぱり私は何もわかっていなかった。
急に、春日さんの手から力が抜けた。ほとんど感じなかった力がゼロになった。
「もう・・だいじょうぶ・・・だいじょうぶ・・・」
そんなわけなかった。症状はひどくなる一方で、咳はとまらない。呼吸ができなくなったら大変だ。ダメだ!急いで救急に電話をしたが、着くのに30分かかるという。相手の対応を無視して、「自分で連れて行くから結構です!」と怒鳴って切ってしまった。何か、何かないだろうか。春日さんの薬箱を探すと、小さく水色の四角い箱のようなものがあった。吸入器だ!
「春日さん、吸入器使いますね!ちょっと頑張って、咳止めてくださいね!」
無理やりだったが、なんとか吸わせた。その後、数分後くらいに咳が落ち着き始め、そんなに早く薬が効くのかどうかわからなかったが、とりあえず落ち着いたことに安堵して、涙が出た。飲み薬を飲ませて、ふと気付くと朝になっていた。
「・・り・・く・・・ごめん・・・」
声がひどいことになっている春日さんに呼ばれた気がしたが、寝言のようだった。返事をしても返答がなかったので、目が覚めた時のために今のうちにお粥でも用意しようと思って扉を開けたままにして部屋を出た。これなら作りながらでも度々様子が見れる。あ、後で身体を拭いてあげよう。汗がすごかったから、気持ち悪いはず。
ゴトン!と音がして振り返ると、春日さんが倒れていた。なんで!?
「起きちゃダメです!なんで!?ベッドにいてください!」
身体を抱えて、ベッドに戻す。あ!火を止めなきゃ、と思い、急いで戻ろうとすると、春日さんが裾を掴んだ。
「・・・こわい・・」
「春日さん?」
怖い?怖いのだろうか。一度手を離させて、急いで火を止め、また戻る。春日さんがまた起き上がろうとしていた。それを制して、ベッドに寝せると、ほとんど力の入っていない手で掴まれた。
「大丈夫ですよ。傍にいますから。ね?」
首を振る春日さん。どうしたら、春日さんは安心してくれるだろう。
悩んだ私の答えは、抱きしめながら一緒に横になってあげることだった。春日さんは、こうやって私を安心させてくれたんだ。
春日さんの匂いがする。汗さえも、好きな匂いだ。
春日さんの涙は見たことがないけれど、泣いているような気がした。涙が出ないだけで本当は泣いているんじゃないかと思う。目を覚ました春日さんがもぞもぞ、と私の胸から出てきた。向かい合わせになった。
キスを、してしまった。
どうしてキスしてしまったのかわからない。身体が勝手に動いた。怒られるだろうか。怒られるだろう!怒るよ、普通!以前は止めて注意してくれたし!今頃冷静になって怖くなった私に、今度は春日さんがキスをしてきた。幸せすぎて、一瞬だった。口が離れると、春日さんはまた眠っているようだった。キスをしてくれたのか、ただ身体が傾いてぶつかってしまったのかわからないが、私はキスをしてくれたと勝手に思い込むことにした。
もう一回、しても、いいだろうか。次は怒るだろうか。それとも、熱が下がったら怒られるだろうか。
欲望に勝てず、気付くと何度もキスをしていた。いつの間にか、春日さんの震えが止まっていたので、台所に戻るとさっき作ったお粥は完全にふやけて、作り直すことになった。
◇◆◇
「陸のバカ」
春日さんは、怒っている。嗄れ声で、少しだけ。でも、本気ではなく、むしろ嬉しそうに感じたのは私の勝手な妄想かもしれない。
最後にキスをした瞬間、春日さんが起きてしまった。そして頭の回転も少し戻ったのか、両手で剝がされた。直後にまた真っ赤になって、春日さんは後ろを向いた。ちょっとだけ可愛いなと思って、もう一度キスがしたくなった。
少し時間が経つと、春日さんが私の方へ振り向いた。胸に顔を押し付けるように、身体を近づけてきた。私は嬉しくなって抱きしめると、春日さんが「ありがとう」と言った。もっと嬉しくなって、足まで絡めてしまった。
「陸、あの」
すべての言葉に濁点をつけた声になっていたが、聞いた。
「付き合えないの。陸のことは・・その・・好き・・・なんだけど」
え、え、えとどういうことだろうか。混乱した。好き?好き!?それで付き合えない!?否定と肯定に、私は瞬間的に悩まされた。
「だめ・・なんだ。それに・・選べない・・・決められてない・・・」
だめ?選べない?もはや私の頭はショートしていた。嬉しすぎて、だ。昨日今日はもういろんなことがありすぎた。神様、お願いだからもっと小分けにしてほしい。そんな壊れた頭で考えると、「だめ」はきっと復讐があるからだろう。危ないからだ。「選べない」ということは、江夏さん?冬野さん?
比べてもらえていることで十分だった。この時の私は、異性として見てもらえていることだけで十分すぎるほど幸せだった。
「ひどい・・よね。ずるい、最低だよ、ね」
首を振って、力強く抱きしめると春日さんはそのまま動かなくなった。
奇跡の三日間が終わった。
自分が今まで生きていた時間より長く、瞬きするよりも短い、そんな二日間だった。
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