(私の人生は終わってるんだ)


 開いた口が塞がらなかった。

 伊豆から帰って数日後、春ちゃんの家に女の子がいる、とちーちゃんから聞いた。

<ちーちゃん、それほんと?>

「いや、私も入ってく姿を見ただけなんだけどね?」

 ちーちゃんが言い訳をしているような言い方をする。何も悪くないのに。

「さすがに梨音にはまだ言えなくて」と言っている。確かに、りっちゃんに言ったらどうなるんだろう。

「『千秋!今すぐ毒殺しなさい!』なんて言われたらどうしよう・・・」

 さすがのりっちゃんでもそんなことは言わないだろうけど、そんなありそうもないことを本気で心配しているちーちゃんに笑うことができなかった。

 今、私の頭の中は、春ちゃんのことでいっぱいになっている。

 春ちゃんがりっちゃん以外の人と付き合うなんて信じられなかった。

「真央、行ってみる?春くんのところ」

 怖くて一人でなんて行けなかった。ちーちゃんにはいつも助けられてる。

違った。

 私はいつも、みんなに助けられてばかりだ。


「早く座りなさい。冬野さん」

 小学校5年生の春。クラス替えで私はりっちゃんともちーちゃんとも離れ離れになっていた。一番後ろの席で立ち尽くす私に担任の容赦ない声がかかる。先生の隣に立っている男の子は不思議そうな顔で私の方を見ていた。

「何をしているの?早く座りなさい!」

 ヒステリックな女性教師が声を大きくする。黒板を爪で引っ搔いた音と変わらない。

 私の椅子と机には画鋲とゴミと何かわからない気持ちの悪いものだらけでいっぱいになっていた。声が出ない。「座れない、こんな椅子になんて座れない!」それを言うことが私にはできない。周りから笑い声がヒソヒソ・・クスクス・・と音を立てた。しゃべれないとか人生終わってね?何やっても文句も言えねーもんな!・・・今でもそのセリフは忘れられない。そしてその時、確かに私もその通りだと思った。

 いじめられたことは初めてではない。私の声は小2の終わりから出ていない。3年生でも、もちろん4年生の時もいじめはあった。だけど、これほどひどいのは初めてだった。それに、りっちゃんとちーちゃんが隣にいてくれれば、私はいじめられずに済んだ。


 私の人生は終わってるんだ。


 人は不思議だ。

 そう諦めた途端、私の人生は光輝いた。そんな気がした。

 タッタッタッタッ、とリズミカルな足音がする。早足の靴の音。そして、私の席の前で止まった。彼はその椅子を持って、ガタン!!と担任の目の前で叩きつける様に置いた。

「これ、座ってみてください」

 まだ声変わりをしていないはずなのに低く、重い声だった。

「それ、と、これも使って、みて、下さいね!」

 机の脚を持って、教卓の近くにドン!!と置いた。

 私にはいったい何が起こったのかわからなかった。

 担任が手の平を返す。

「あ、あら?何かしらこれ。だあれ?こんなひどいことをした人は」

 彼は担任を、そして他の生徒もにらみつけている。教室の角の、全体が見えるところで。

「これじゃあ冬野さんも座れないわよねえ。そうだ。隣の教室から余っている机と椅子を借りてきてくれる?」

 ガタン。ガラガラガラ。ガラガラガラ。乱暴に扉を開け閉めした。

「失礼します!どこかのバカで将来結婚なんてできそうもないやつがいじめで机と椅子を汚したので!余っているやつ借ります!あと、隣の先生が!画鋲がめちゃくちゃ貼られている椅子に女の子を座らせようとする最低な先生で転校早々すげー学校だな!って思いました。ひっさびさに帰ってきたらすげー学校に進化しちゃいましたね!失礼しました!」と早口の大声、いや全クラスに聞こえるんじゃないかというくらいの声で言い放った。

 ガシャガシャガシャガシャ。トン。

 私の前に、ゆっくりと静かに机と椅子をおいてくれた。

「ごめん。時間がかかって。どう・・ぞ?ってなんで泣くの!?え?ちょっと待って!?」

 彼ははじめ、無表情だった。それから私を見て少し慌てた。

 私は涙が出た。気付かないうちに出ていた。

 隣のクラスの先生やりっちゃん、ちーちゃんが入ってきたことにも気づかなかった。


◇◆◇


 私の人生で大きな後悔が一つだけ、ある。

 ただ、その後悔は間違ったとは決して思わない。

 それは真央に春日を誕生日プレゼントとしてあげたことだった。


 朝食で特上の鰻重がでてもこんなにびっくりしない。

 みんなが代わる代わる自己紹介をしていた。

「藤岡千秋です。本を読む・・・・のが好きです。よろしくお願いします」

 可愛い声で千秋が挨拶を終えた。途中でガタン!と音がしたが、千秋はちゃんと自己紹介ができた。次の子が立とうとしたその瞬間、後ろのドアが開いて、大声で嵐のように叫びながら机と椅子を一つずつ持ち去った男の子がいた。

 私と千秋は目が合った。いじめ、という言葉に反応したんだと思う。まだこの時は早すぎて春日を認識できなかった。初老の担任に続いて隣のクラスを覗いた。

 真央が泣いていた。急いで真央の隣に向かう。千秋も恐る恐るついてきた。

「真央!どうしたの!」

 真央は喋れない。泣き声も、出ない。ただ涙は止まらないようで、流れ続けていた。

 隣でオロオロする男の子。あれこの子誰だっけ、と思いながらクラスを見ると、黒板の下に椅子と机と色んなものが転がっている。その時事態をようやく認識できた。


 休み時間が終わらない。

 もう5分も過ぎているのに先生が来ない。いや、来れないんだ。

 猛獣のように唸る春日を捕まえているのがうちのクラスの担任だった。

 守る意味も込めて捕まえていたんだろうな、と今は思い出せるが、当時5人対1人で暴れていた春日のほうがなぜ抑えられていたのだろう?と疑問に思った。

 春日の唇は切れていた。手の指の爪も割れていた。周りの男の子5人は泣き喚き、鼻血を出したまま泣いている子や先生に嘘をついている子、いろいろだった。

 そしてその場にまた真央がいた。千秋もいた。勇護もいたらしい。

「アイツがいきなり叩いてきたんだ!」

「あんなやつクビにしてよ!先生!」

 小学生にクビがあるのかどうかはともかく(後日談、笑い話になったけど)春日は何も言わない。真央の絵具セットが床一面に転がっている。廊下がカラフルになっている。もちろん悪い意味で。


 春日は次の日一時間目を休んだ。親と来ていたのを見た、という子がいた。バカ5人衆の親も来ていたらしい。

 一時間目が終わった瞬間、私と千秋と勇護は急いで校長室に行った。ノックをすると、すごい集まりになっていた。ところ狭し、という状態だ。

「3人とも、すぐに教室に戻りなさい!」と軽く𠮟った担任を遮り、

「どうしたのかな?」と年配の校長先生は尋ねてくれた。

 遅れて、真央が後ろに来た。

 この頃の勇護は引っ込み思案だった。喋るのは私の役割だった。

「昨日!そこの5人が冬野さんの絵具をぐしゃぐしゃにしたんです!」

 春日のお父さんとお母さんは驚いた顔をしていた。

「なんだって?」

「渡辺君。この子達の言っていることをもう少し聞かせてくれないかな?」

校長先生は落ち着いて聞く姿勢を作ってくれた。

 バカの一人が文句を言おうとしたが、校長先生が静かにしなさいと注意した。

真央がノートを持って前に出てくる。

<わたしはいつも、そこの5人にいじめられています。きのうは、えのぐセットをぐちゃぐちゃにされていました>

 泣きながら書いていた。

<たいらくんがそれをみて、えのぐをとりかえしてくれました。そしたらえびさわくんがうしろからたいらくんをけりました>

 春日のお母さんが春日を抱きしめていた。お父さんは誇らしげに息子を見ていた。すぐに、周りの5人の親たちを睨みつけた。

 春日は照れ臭そうに俯いていた。




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