第2話 亀井と貞子(仮)

 カタカタカタと静かなタイプ音が図書館に響く。もっとも、本棚にさえぎられたこの空間の存在を知られるほどの音は出ないので、『図書館に響く』という説明は少しおかしいかもしれない。バックスペース。ぽち。

 ガチッ

 戦慄。今この状況ほど、この言葉が似合う場面もないだろう。

 ヤバイ! この音はマズイ! これはキーが音だ!

 全力で脳が警告を発するが、私の体はすでに脳を経由せず、脊髄からの反射で動いていた。

 私の持っているPCはタブレットPC。それにキーボードのついたドックを接続して執筆している。ドックとの接続はポートの差し込みによってのみ行われるので、つまりは双方を物理的に切り離してしまえば、バックスペース押し込みによる執筆データ全消去などという悲劇は防げるはずである。

 右手でキーボードを抑え、左手でPCのディスプレイ側を一気に引き抜く。

 瞬間、ディスプレイ側が私の手を離れ、虚空へ飛び立つ。

 「あ」と口にする間もなくフリスビーのように飛んでいくタブレット。

 

 ご覧ください! 世界的に貴重なタブレットPCの巣立ちの瞬間です!


 いけない、私の中の亀井はもう現実逃避をし始めた。せめて主人格の私は適切な行動をとらねば。


「おっ……おっ、おっ、おおおぉぉぉぉっっっ!」


 気合いの入った掛け声とともにフリスビーを追いかけようと椅子から立ち上がる。

 フリスビーは、聖域を囲んでいた本棚の上を通り抜け、別の机があるであろう場所に、鈍い音を立てて着地した。

 そうだ。普通、金属が落下すれば、カツーン、というようなもっと軽い音がするはず。つまりフリスビーは何か別のものにぶつかったということになるが……

 恐る恐る、聖域から顔を出して落下予想地点を覗く。


「アーッ……」


 貞子だ。貞子がいる。床にはいつくばって、ロングヘア―を前に垂らした女がいる。あれ絶対に貞子だ。

 貞子の傍らには、私のフリスビーが落ちている。いや、フリスビーじゃないけど。この状況から察するに私の投擲したPCは貞子に直撃したらしい。頭を押さえてうずくまっている。

 どうする? 出ていくべきか? ごめんなさいと謝るべきか? そうだ、それがいい。今ならまだ傷は浅い。素直に謝れば貞子も許してくれるだろう。

 そう決心した瞬間だった。憎悪に満ちた声が私の臓腑の隅々にまで染み込んできたのは。


「殺す……!」


 あっ、だめだこれ出ていけねーわ。うん。隠れとこ。いや、隠れたままでイケるのか? いくら聖域が見つかりにくいといっても、バーサーク貞子の索敵能力は未知数だ。案外、すぐ見つかるかもしれない。


偽装工作……フッ


 それだ! さすが私の中の亀井! アイデアマンだな!

 そう、よしんば私が見つかったとしても『フリスビーを投げた犯人』でなければ良いだけだ。幸いにして、今の私は制服。ノートと教科書だけ広げておけば後はあっちが勝手に勘違いしてくれるだろう。

 私は音もなく聖域に戻ると、カバンの中をあさり始めた。が、カバンを開けた瞬間、妙なことに気付く。おかしい、教科書の類が一冊も入っていない。

 刹那、数時間前の記憶が蘇る。


『亀井さん? 何やってるの?』

「ああこれ、明日もおんなじ授業あるから、学校においていくの」

『あーっ! 置き勉! 駄目なんだよそれー!』

「ふっ、ルールは破るためにあるんだぜ? お嬢さん」

『もー、知らないからね私』


 ああああああああああああああああくっそおおおおおおおおおお! せめて一個くらい持って帰ればよかったああああ!

 マズイマズイマズイ! 貞子来る! きっと来る!

 カツン、と足音が響く。ついに奴が歩き出した。その足音は迷うことなくここに向かってきている。ああ、この聖域もすでに見破られているらしい。まぁそれもそうか、PC飛んできた方向からだいたいわかるよな。

 カツンカツンと足音が奏でる音を聞きながら心を落ち着ける。もう逃げることは出来ない。なら、今の私にできる最大限の抵抗を見せるしかないだろう。

 聖域を構成する本棚の壁が破られる。さぁ、こい、もう腹はくくった。目に物見せてやるぜ。






 最近ついてない、とつくづく思う。

 突然勤めてた会社が倒産して、無職になったと思ったらポエム? みたいなよくわからない川柳が連日ポストに投げ込まれて、リフレッシュしようと買い物出かけたら空き巣に入られてて、通帳とか全部盗まれてて、警察に通報するとかより、もうなんかやけくそになって酒盛りしてたら酔っぱらってる隙に下着盗まれるし。まぁその時の犯人は捕まったからいいけど、私の未来が暗いことに変わりはない。

 極めつけにこれか。図書館で本を見ていただけでタライ落としまがいの事をされなければならないのか。神よ、いったい私が何をした?


「殺す……!」


 もちろん冗談だが、そうでも言わないとやってられなかった。

 というよりさっき頭に落ちてきたこれ……よく見たらタブレットみたい。誰かの落とし物かな……?

 迷宮のような本棚の群れから、だいたいの方向にアタリを付けて持ち主を探す。おーい、パソコン落とした人いませんかー、と声をかけられたら楽なのだが……ここは図書館だ、静かにしていなければならない。

 ふと、視界の端が気になった。少し意識を向けてみると、壁面にわずかな違和感。あっ、壁の色が違う……?

 この図書館もかなり古いため増改築はそれなりに行われているだろう、もしかしたらそのなかで、建物全体で偏りのようなものが出来たのかもしれない。

 あ、この先にスペースありそう。

 そう考えて歩いてみる。案の定、傍目からだと本棚の色と壁の色が同化して見えていたが、壁と本棚の間に隙間があった。なるほど、ここは見つかりにくい場所かもしれない。

 子供っぽいつもりはないが、こういうところを見つけてしまうと、少しワクワクしてしまう。


「お邪魔しまーす」


無静音であいさつしながらそのスペースへと足を踏み入れる。二、三歩進むと他の場所と同じように机が置いてあり、そして……先客がいた。


「……」

「あっどうも……」


 彼女は何をしているんだろうか、制服を着ているということは学生だろうが、机の上には、ボールペンやシャーペンで形作られた図形のようなものがある。

 不意に、彼女は両手をその図形の上にかざし始めた。ああ! なるほど! そういうやつね。これは邪魔しちゃいけないタイプの奴だわ。お互いに。あ、でも一応聞いておかないと。


「ごめんなさい、これ、落ちてたんだけど、あなたのものじゃない?」


 ヒラヒラと手に持ったタブレットを揺らす。


「あっ! そっ、わたっ! すっっ!」


 食いついた! この子のものなのかな?


「これ、あなたのタブレット?」

「あっあの、それ、わたし、っす……」


 コクコクと頷く彼女。ああ、いるよねこういう子。


「じゃあはい、これ。あっちに落ちてたよ」

「あっ! ありがっ! あっ、いえっ! へっへ……」


 お礼を言っているつもりだろうか、まぁ言えてはいないが、気持ちは伝わる。

 その後、彼女にタブレットを渡して、私は図書館を出た。ああそうだ、なんか図書館出るときに『イヨッシャアアアアァァァァァ!』みたいな叫び声が聞こえたんだよね。でも周りを見ても誰もいないし、もしかして心霊現象?

 ああもうホントに、ついてない。

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