『ぼっちのチェスゲーム』2

 第二章


 ……我が大学の年間教育課程(カリキュラム)は通常、夏休みを挟んで前期と後期に分かれている。

 前期・後期共に十五回の授業から成り立っており、このうち三分の二に出席することが学期末の試験を受ける最低条件となる。

 逆説的には「五回までなら休める」とも解釈することができるが、当然ながら休んだぶんだけ評価は下がる。全出席の学生と比べれば内容の理解度も劣るため、試験は受けられても合格できるとは限らない。

 おのずと、やる気のない学生は「授業内容が比較的簡単で」「出席を取らない」講義を探すようになり、その情報は主に友情を介して融通される。さらには休んだ日の授業内容を互いに提供し合うこともある。

 ここに友人を持つ学生と、孤独な学生との間で情報格差が発生する。

 大学に馴染めない孤独な学生が「大学に行きたくない」との消極的思考から授業を休みがちになった挙句、単位を落としてしまう。後期で立て直しを図ろうにも、結局また同じことが繰り返される。彼らは安易に単位を取得できる方法を知ることができない。一度ついた休みぐせを修復するのも単独では難しい。

 彼らに待っているのは現在あるいは未来の留年であり、自主退学である。

 大学の経営としては学生の留年は別に問題にはならない。外部に公表する卒業生の就職先リストに若干の陰りが出てしまうかもしれないが、追加で学費を払ってくれる点では優良な顧客とも捉えられるためだ。

 一方で、退学に関しては絶対的に阻止すべきである。特に一年目の途中で退学されてしまうと、本来なら得られるはずだった三年分の学費を失ってしまうことになる。大学の収入の柱である学費収入がやせ細るのは、将来経営計画を考えても健全ではない……。


 二〇〇九年七月六日。

 大学事務局から入手した『本大学における学生の孤独』と題された資料を読んだ時、甲斐晴人は三号館の空き教室で焼却炉を探したとされる。

 大学側の視点から「ぼっち」の功罪――主に後者を記した資料は、極めて的確で事実のみを並べていたが、致命的なまでに学生に対する愛情と共感を欠いていた。

 まるで、学生をお金を産み出す機械のように扱っているではないか。

 一人の学生として、ぼっちを助けるために生きる者として、甲斐は資料の存在を受け入れられなかった。

「大石。おれにこんなものを読ませたのはなぜだ」

 彼は近くに控えていた部下に問いかける。その形の良い目にはいささかの怒気が込められていた。

 だが、彼の部下・大石クルエラは怯んだりしない。

 彼女はその目を鈍く光らせ、ごく平然と答えてみせる。

「孤独な学生を減らしたいと本気で考えているのは、なにも晴人様だけではないとお伝えしたかったのです」

「大学側も現状に危機感を持っているのはわかった。ぼっちをなくしたいとな。しかし、おれの考えとは相容れない点がある」

「ですが目的は同じです。彼ら大学事務局の協力を得られたならば、我々の目的はより容易くなります。今後は具体的な成果を示し、今冬の学友会選挙で便宜を図ってもらうべきでしょう」

「便宜だと?」

「はい。厚生局内を晴人様の部下で固めるのです」

 大石の率直な意見に、甲斐は長いまつ毛を伏せて、しばし考え込む。その姿は瞑想にふける獅子のようであったと伝わる。

 たしかに局内を自分の派閥でまとめれば、無能どもに気を使わずに済み、ぼっち対策もやりやすくなる。彼女の弁はまちがっていない。

 だが……。甲斐は表情に乏しい部下の目を見つめる。

「今のお前の話には現実味がなさすぎる」

「なにを仰ります。現実に可能な話です」

「大石。おれたちはまだ二人なんだぞ?」

「これから増やせばよいのです。晴人様のことです、人材に目星は付けておられるのでしょう?」

「……まあ、な」

 甲斐は空き教室の窓から外を眺めた。

 大学の谷底では多くの学生が列をなしている。帰宅する者、まだ授業がある者、試験勉強をするために図書館に向かう者、友達と食堂に向かう者。目的は違えど歩く道は同じである。ただ、進む方向まで同じとはかぎらなかった。

「わかった。大学側との交渉はお前に任せる」

「かしこまりました、と申し上げたいところですが、ここは晴人様にも出てきていただきたく存じます」

「なぜだ」

「私は人見知りです」

 部下の答えに、甲斐は笑わずにいられなかった。


     × × ×     


 甲斐が友人ではないカテゴリ「部下」を持つようになったのは、二〇〇九年の六月頃である。

 新入生ぼっちとのカウンセリングやマッチング(遊びに行くという名目でぼっち同士を引き合わせる)、校舎内での声掛けを精力的に行う中で、彼は銀髪のぼっちと出会った。全身を黒系の衣服で染めた、痩せ気味の女子学生である。白地に黒ぶちのタイツにファッションへのこだわりを感じた。

 名を訊ねると、彼女は「大石クルエラ」と名乗った。

「おれは甲斐晴人だ。二回生で」

「知ってる。いつも友達がいない子たちに話しかけているでしょう。何のためにそんなことをしているの? あなたに何の得があるの?」

「おれは大学から孤独をなくしたいと考えている。それだけだ」

「へえ」

 二人が初めて交わした会話は以上である。

 彼女が特に関心を示すそぶりを見せずに空き教室から出ていったので、甲斐もまた彼女に関心を持たなかった。

 だが、数日後に再び現れた彼女の言動により、甲斐は否が応にも彼女に関心を寄せることになる。

「私もぼっちなのです。二年目の」

 カウンセリングが始まった。そして、すぐに終わった。

 なぜなら、大石には友人を作りたいという希望が一切なかったのである。

 寂しくないか、辛くないか、ランチメイトが欲しくないか? という問いにも彼女は首を振った。

 代わりに彼女が求めたのは、甲斐の部下という立場だった。

「甲斐くん。あなたには欠けているものがあります」

「なんだ?」

「ぼっちとしての経験です。あなたはぼっちを迫害する者どもを憎んでおられますが、あなた自身はぼっちではない。むしろ社会的排除を行う側の人間だ」

「おれをぼっちの敵だというのか?」

「私からはそう見えるという話です。他のぼっちたちも同じでしょう。考えてもみてください。あなたは多くのぼっちと友人になっているそうですが、彼らからしてみればあなただけが友人であるはず。けれども、彼らは常にあなたと一緒にいようとはしないでしょう。それは彼らがあなたを本当に友人だとは思っていないからです」

「友人だからといって、常に行動を共にする必要はないと思うが」

「だから、あなたは強いのです。強すぎるのです。私もまた強いですが、この強さは一年かけて育て上げたもの。ゆえに己の弱かった頃を知っています」

「ぼっちの弱さ、ぼっちの気持ちか」

 甲斐は感服させられた。言われてみれば、ぼっちたちと仲良くしているつもりでも、妙に「壁」を感じることはあった。

 気を遣われているというか、一線を引かれているとするべきだろうか。

 自分なりに孤独な学生の気持ちを考えてきたつもりだったが、いささか見当違いをしていたのかもしれない。

 特に目の前にいる友人を欲しないぼっちの存在など、想定もしていなかった。

「晴人様。私を部下として用いてください。あなたがぼっちを照らす光ならば、私はぼっちの影を操る者となりましょう」

 大石はその場でひざまずいてみせた。

 同級生の女子に忠誠を誓われてしまった甲斐は、相手の真意を測りかねるあまり困惑を隠せず、ほぼ反射的に断る理由を探ろうとする。

「待て大石。おれに従うことで、お前に何の得があるというのだ。動機を聞かせてもらいたい」

「……私は己の才覚を生かしてくれる主君を探していたのです。私を手駒として用いることができるだけの器を持つ方を」

「随分と買いかぶってくれたものだな。そんなお前の才覚とは、なんだ?」

「友達を一人も作れないほどの性格の悪さです」

 言い終えてなお、大石は表情を崩さない。

 彼女の即答は甲斐に不思議な感覚を抱かせた。あらかじめ回答を用意していたのかもしれないが、己の欠点を才であると即答できる者は早々いない。少なくとも自分にはできない。

 後世の歴史家も指摘するところだが、甲斐晴人には自分にない才を持つ者に対し、常に敬意を払う気質があった。

 そして望んだ果実を手にするためには、己の不足を他者の能力で補わねばならぬことを、彼は学生の身でありながら学んでいた。

 甲斐は立ち上がると、その双眸を目の前の忠臣に向ける。忠臣の口許は固く結ばれたままだった。

「わかった。大石カルエラ、貴様を買わせてもらおう」

「ありがとうございます」

「貴様の持つ卑屈な毒、おれのために存分に活かしてもらうぞ」

 甲斐はひざまずいたままの部下の手を取った。彼の白磁の如く滑らかな指先が、彼女の黒い手袋と混じり合う。夕刻の日差しが対照的な光と影で二人を染め上げたのは、はたして偶然だったのか。

 後に大石クルエラはこの時のことを語っている。

「本当は一目惚れしたなんて、恥ずかしくて言えなかったのです」

 この照れ隠しが彼女を鉄面皮のマキャベリストに変えていたなど、当時の誰が想像しただろう。

 多くの歴史家は口をそろえて述べている。

 彼女がもう少し社交性を持ち、奇抜な衣服を好まず、自分に自信を持っていたならば、二人が主従関係を結ぶことはなかったはずだ、と。

 そして二人が他の関係であったなら、疑いようもなく彼らの子供である『完全連帯社会』は産み落とされなかっただろう……と。


     × × ×     


 二〇〇九年七月六日。

 学友会館の多目的室では、期末試験前に行われる最後の「会議」が始まろうとしていた。

 前方の壇上に立つのは局長代理の下田栞。他の学生は各自の席に座っている。空き教室から移動してきた甲斐も末席で膝を組んでいた。その後ろには局員見習いとして大石の姿もあった。

 局員見習いとは会議の傍聴を認められた学生の肩書きである。将来の局員候補として現役局員から教育を受ける立場にあり、大半の者は見習いから冬の学友会選挙を経て正式な局員に就任している。

 この日は六名の見習いが傍聴席を与えられていたが、大石以外は一回生であった。

「みんな集まったようだし、会議を始めるわよ。まずは六月中のポイ捨て防止キャンペーンの総括からね」

 下田は居並ぶ局員たちの傾注ぶりを認めてから、ホワイトボードに『成功』の二文字を記す。

 校内からゴミが減ったとの報告を大学事務局より受けていた彼女には自信がみなぎっていた。眼鏡の奥に柔らかな笑みをたたえて、仲間の地道な活動をねぎらう。

「みんなのおかげで大学から褒めてもらえたわ。学生にマナーの向上を呼びかけるのは大切な仕事だし、私たちの努力で校舎が清潔になるのは心地良いわね。厚生局の本領を発揮できたんじゃないかしら」

 局長代理の言葉に局員たちは満足そうにうなづきあう。

 彼らは六月の間、一ヶ月にわたり、ポイ捨てをやめようというメッセージペーパーが入ったポケットティッシュを配り歩いてきた。

 いわば「ポイ捨てをやめさせるためにゴミを配った」形になるのだが、局員たちが配り回るついでにゴミを拾ったのもあって、状況は三歩進んで二歩下がる程度には成功していたのである。

「上手くやれば五歩進めたでしょうに」

 大石の冷たいささやきに、甲斐は首肯する。

 彼はキャンペーンが打ち出された五月の時点で内容の問題点を指摘した上、対案まで出していたのだが、それが取り上げられることはなかった。

 なお、対案の中身については未だに情報公開が行われておらず、現在では対案は実在しないというのが定説となりつつある。

 かつては甲斐が六月に独自に行っていた、ぼっちとのカウンセリングやマッチングの継続を対案とする説も有力であった。

「下田局長! 秋の予定を教えてください!」

 総括が終わったところで、局員見習いの一人が立ち上がって声を上げた。彼女は下田の女子高時代の後輩であり、名を羽場杏(はばあんず)という。

 わざとらしいタイミングと「おもねり」ではあったが、下田の反応は上々だった。

「こらこら。まだ代理だから、ね」

「あっ……すみません下田さん」

「別にいいわよ。秋の予定なら、もう決まってるわ。春に成功できなかった『ぼっち対策』のリベンジよ!」

 下田はホワイトボードを叩くと、刹那、末席にいる美の化身に鋭い目を向けた。

 当時の下田が次期局長の座を狙っていたことは疑いようもない。局長代理を半年以上勤めていながら、翌年に平局員に降格するなど誰が耐えられようか。だが、他に適任者がいればそうならざるをえない可能性もある。

 ゆえに彼女には己の能力を示すため、春の失態を挽回する必要があった。

 この時、末席の甲斐をにらんだのは、おそらく生物的な本能だろう。彼女はまだ預かり知らぬことだが、甲斐もまた大石の提言により密かに厚生局長を目指す身となっていた。

 何より五月の言い争いは、下田の心に十分な恨みを培わせていたのである。

「甲斐くん。あなたは孤独な学生を救うことに執心していたわね。だったら、私の作戦に従いなさい。六月みたいな無断行動は慎んでもらうわ」

「その作戦とは、一体どのようなものでしょうか?」

 甲斐の代わりに大石が問うた。

 下田は怪訝な顔を見せたが、相手が見習いということもあってか、性格のわりに柔らかい返答を行っている。

「孤独な学生を支援するために授業を改革するのよ」

「具体的には?」

「今から説明するわ」

 下田が掲げた作戦案は次のとおりである。

 ぼっち・非ぼっちを問わず、全ての学生は授業を受けるために大学に来ている。中でも必修科目である語学を避けることはできない。

 そこで、語学の授業を人間関係の構築に利用させてもらう。

 具体的には、全ての語学の授業で「班行動」もしくはペアを組ませることを推奨する。これにより必然的に学生同士の会話が生まれる。語学の授業としても外国語で会話させることは有益であろう。

 五月の『追い出し作戦』は、ぼっち・非ぼっち共に迷惑をかけてしまったため中止に追い込まれたが、この『ペア作戦』には損をする者がいない――。

「どうかしら。隙のない作戦だと思わない?」

 両手を広げて、下田は局員たちに訊ねてみせる。

 彼女の全身には自信がみなぎっていた。メガネの奥には成功を信じてやまない少女のごとき目が潜んでおり、後ろで束ねた乾き気味の黒髪が息を吸うたびに揺れていた。

 羽場杏が興奮気味に拍手をすると、他の局員たちもつられて手を叩きだす。多目的室が万雷の拍手に包まれる。その中心にいる下田は満足げにうなづき、局員たちに実際の作業工程を伝えるべく手製のプリントを鞄から取り出した。

 状況が動き始めた中で、甲斐は言葉を失っていた。

 たしかに隙のない作戦ではある。しかも極めて効果的だ。

 ぼっちを合法的に虐げるためなら、これ以上ないといってもいい!

 彼は二ヶ月にわたるカウンセリング・マッチングの経験と、ぼっちである大石との対話から、ぼっちたちの「行動の方向性」を多少なりとも推察できるようになっていた。

 彼らの多くは自分が気に入った者以外との交流を好まない。人見知りをする者が過半であり、強引にマッチングをしたら大抵は失敗する。甲斐とて苦渋を味わったのは一度や二度ではない。

 故に、いわば強引なマッチングである今回の作戦が成功するとは到底思えなかった。

 何よりぼっちの思考ならば、おそらく彼らは……。

「私なら授業に出ません」

「だろうな」

 甲斐は納得する。

 大石が以前からグループワークのある授業を避けていたのは甲斐も知るところだった。他のぼっちも多くは似たような対応をしているのだろう。これは受ける授業を選べるからこそ可能な自衛策だが、必修科目となると避けようがなくなってしまう。

 自発的な休み――おびただしい数の自主休講と、それに伴う単位の欠落が発生することは目に見えていた。その先に待っているのは『本大学における学生の孤独』が指摘する通りの未来であるはずだ。

 止めなくてはならない。甲斐は当然の判断として立ち上がろうとする。

「ですが、晴人様。ここはやらせてみてはいかがでしょう?」

 部下の冷たいささやきは、主君の驚きをもって迎えられた。

「お前ならば結果が見えているはずだが?」

「単位の大虐殺が起きるのはまちがいありません。副次的な効果として留年・退学者も続出するはずです。だからこそ下田にやらせるのです」

 ぼっちをなくすために生きる自分に、ぼっちを見捨てろと言うか。

 甲斐は隣の席から回ってきたプリントを後ろの大石に回す。その流し目には選別の意志が宿っていた。

 我が大望を果たすのに、この白黒の銀髪女は有用であるか。有害であるか。

「晴人様の目的が手段を選べるほど安易なものならば、私の補佐など必要ないでしょう」

「……お前、マキャベリストのつもりか」

「あなたに性格の悪さを売りつけた身ですから」

 彼女の返答に、甲斐は「なるほど」と頷いた。

 そして唐突に立ち上がると、壇上で作戦を説明していた下田に対して「我、作戦に参加できず」と人差し指を向ける。

 当の下田は驚いた様子だったが、少し安心したようにも見えたという。彼女もまた勝利の予感を得ていたのだ。


     × × ×     


 七月六日夕刻。

 厚生局長代理に向けて『ペア作戦』への不参加を宣言した甲斐晴人は、部下である大石を連れて威風堂々に多目的室を去った。

 彼らが次に向かったのは学友会館一階の食堂である。

 各種の部活や同好会活動に勤しんでいる学生たちが休息を取っている中で、二人は来たる秋の陣における活動方針を策定した。

 第一に、厚生局本部の『ペア作戦』には関わらず、反対の立場を徹底すること。

 第二に、独自のぼっち救済案を実行すること。

 第三に、将来の局内制圧のために優秀な人材を探し出すこと。

 全体的に大石の献策を取り入れた形になるわけだが、策定に際して甲斐は彼女にひとつの条件を提示している。

「お前には別個にやってもらいたいことがある」

「何なりとお申しつけください」

「九月から始まる語学の授業の全出席データを入手せよ。これが不可能ならば、おれは全力を持って下田を止めることになる」

「大学事務局が学生の個人情報を渡すでしょうか?」

「欠席者をあぶり出すためだ。おれたちが犠牲を生まないためにも必要な資料になる。必ず手に入れろ」

 甲斐はそう言ってから、近くの売店で手に入れたイチゴ味のアイスを口にして、あまりの冷たさに美しく悶絶する。

 命じられた側は表情ひとつ変えることなく「仰せのままに」と首肯したが、のちに語ったところによれば内心かなり焦っていたという。

 なにせ彼女は人見知りなのである。

 だが、主君の期待を裏切るわけにはいかなかった。もし自分にできないのなら、できる奴を脅迫するしかない。あの『本大学における学生の孤独』を手に入れた時のように……鉄面皮の下に悲痛な覚悟を秘めて、大石クルエラはより「大石クルエラ」に近づいていった。

 一方の甲斐はイチゴアイスを食べながら、己の決断の正否に悩まされていた。ぼっちのあぶりだしというもっともらしい理由を後付けしたところで、おれがぼっちを見捨てたことには変わりない。表向きの反対だけでは免罪されないだろうし、何より己自身が己を許せそうになかった。

 自分が見捨てるぼっちの中に父親の姿を見ていた彼は、せめてもの償いとして秋に行う独自作戦に全力を尽くすことを誓った。例えそれにより下田の失敗が小さく見えてしまおうとも。

 この一件について、後世の歴史家の意見は様々に分かれている。

 それまで「ぼっちの庇護者」であろうとしてた甲斐晴人が、その手段であったはずの栄達を救済自体より優先するようになった「きっかけ」であるとする者がいれば、ぼっちの苦しみすらぼっちを救うための道具に変えてみせた彼の天才性を示す出来事であると主張する者もいる。

 公平な視点を提供するならば、そもそもこの件に限らず、当時の甲斐が努力したところで下田を止められなかっただろう。甲斐は常に彼女の無謀な作戦に反対してきたが、彼女に聞き入れられたことは一度もなかったのだから。

 故に単位大虐殺の責任は本来、推進者の下田栞が負うべきであり、甲斐晴人に負わせるのは不適当といえよう。筆者は甲斐晴人記念財団から金をもらっているわけではないが、研究者は留意すべきである。


     × × ×     


 二〇〇九年九月七日。

 樹場悟は大学から配られたシラバスの冊子を読み終えて、ぽそりと呟いた。

「やれやれ」

 彼の代名詞として知られるこの呟きには、大小の困惑が混じっていた。

 大なる困惑は後期の語学授業の方針に起因していた。全ての語学授業にグループ学習が含まれており、人間関係を避けてきた樹場としては対応策を考えねばならなくなった。

 小なる困惑は即座に対応策を思いついた己の頭脳に対して、である。

「やれやれ」

 彼は大学図書館の座席で、誰にも見えない笑みを浮かべた。

 樹場悟という人物の行動には謎が多い。誰の目にも留まらずに大学生活を過ごしたために、後年に出版された自叙伝とわずかなSNSでの発言・公的文書以外には史料が残っていないのである。ゆえに彼の足跡を追う際は彼の自叙伝に頼らざるをえないのだが、彼の行動を裏づける証拠はほぼ存在しないので鵜呑みにするのは禁物である。

 その肝心の自叙伝も、内在する言い訳や自己肯定、懺悔、不平不満、詩的表現を排除すると文面の大半が消え去ってしまうほどに中身が薄いのだから、もはや研究者泣かせと言わざるをえない。

 もっとも、これには仕方がない部分もあった。なにせ彼は甲斐晴人のように友人や仲間と共に目的のために邁進したわけではなく、ごく一部の時期を除けば単純に大学と自宅を往復していたにすぎないからだ。

 彼の大学生活は根本的に灰色であり、四回生の秋に行われた甲斐晴人との決戦においてのみ燦然たる輝きを放った。なら、輝きだけを追うべきであり、無理に灰色を解き明かす必要はないのかもしれないが、彼のような人物が甲斐晴人と大立ち回りを演じられた理由を論じずに決戦を語ることは画竜点睛を欠くというものだろう。

「やれやれ」

 自叙伝によれば、樹場悟は翌日から対応策を実行に移した。

 彼が求める『英語Ⅱ』の授業は、学生それぞれの授業計画に対応するために週に五つのコースが用意されていたのだが、なんと彼はそれらの初回授業に全て参加したのである。そして講師の説明と性格からグループ学習の有無を見抜き、その上で木曜日の授業に履修登録を行ったのだ。

 これが見事に当たり、彼は授業内で他の学生と会話せずに済むことになった。

 大学の授業が必ずしも計画通りに行われるわけではないという、大学生なら誰でも知っている知識を利用した、別に彼でなくても思いつけそうな策なのだが、本人は自叙伝で画期的なアイデアと表現している。

「やれやれ」

 彼としては他に受けたい授業のない木曜日に大学に行かねばならないのは、いささかの苦行ではあったようだ。しかし、他のぼっちたちと比べれば、かなり少ないダメージで済んだことは間違いない。

 後に『単位の大虐殺』として知られる二〇〇九年の後期授業は、多くのぼっちたちに厚生局への恨みを抱かせた。これは大石クルエラの思惑通りに下田栞の権勢を追い落とす結果を生んだが、同時に甲斐晴人を窮地に追い込む事件の火種ともなった。

「やれやれ」

 樹場悟はまだ、その事件の主役が自分であることを知らない。

 十月から始まるアニメは『ささめきこと』が気になる、などと呑気にSNSで発言している時期である。

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