大学生版銀河英○伝説もどき『ぼっちのチェスゲーム』1
『ぼっちのチェスゲーム(仮)』
長編:ジャンル不明
制作時期:2018年2月
同時期の出来事:平昌冬季五輪、藤井五段ブーム
× × ×
第一章
この物語は対照的な理念を持った二人の大学生による、大学全体を巻き込んだ壮絶な争い『ひとりぼっちの殲滅戦』を、後世の物好きな歴史家が解説するという体裁をとったフィクションである。
× × ×
京都市伏見区深草に学生数二万人の私立大学があった。
狭苦しい学校である。旧陸軍の火薬庫跡地に作られたキャンパスには、赤レンガ調のタイルを貼りつけた校舎が所狭しと並んでおり、中央に設けられた円形広場と小さなテニスコートを除けば、およそ空き地と呼べる土地は存在しない。
校内に存分に空を眺められる場所が見当たらないことから、登校中の学生たちはしばしば両側の校舎を山になぞらえて「谷底にいる」と形容した。これは大学の名である『麗谷大学』にかけたシャレであった。
地上が谷底であれば、各校舎の地下にある食堂群が「地底」と呼ばれるのは当然の流れだろう。
当時、大学の近辺に安価な定食屋が少なかったこともあり、学生の多くは昼休みになると盛んに地下に潜っていた。
経済学部の二回生・甲斐晴人(かいはると)も、この時点ではそんなありふれた学生の一人であった。
甲斐は友人たちと共に三号館地下食堂の一角に陣取ると、昼食を注文するよりも前に、周りに座っている学生たちに目を配った。
端正な筋肉がしなやかにはたらき、彫刻のような指先が窓際の女子学生を指し示す。
「あの子を手伝うには、どうすればよいか?」
彼の問いは居並ぶ友人たちに向けられたものだった。
問われた者たちはまず、窓際で孤独に食事をとっている女の子を品定めする。窓に映る姿は致命的に華やかさを欠いていた。彼女は物憂げな表情で外の暗がりを眺めながら、時折ため息をついている。
季節は五月であった。友人たちは甲斐の問うた意味を呑み込む。つまるところ、彼は「自分たちの職責を全うせよ」と言ってみせたのだ。
彼らは友人関係であると共に、学生自治会・学友会の厚生局に所属する戦友でもあった。
「甲斐。彼女には話し相手が必要だと思う」
「そうだな」
友人のひとり・叶(かのう)に対して、甲斐はにべもなく答える。至極当然のことを告げられたところで、甲斐には何も得るものがないのである。
「では、どうする?」
甲斐は問いを繰り返した。
「ぼくが話しかけてこよう」
「ほう。叶はあの子と友達になれるのか。お前の好みとは違うようだが?」
「今だけでも話し相手がいれば、あの子も楽になれるさ」
「根本的な解決にはならない。却下する」
甲斐は鋭い眼力で叶を退けると、他の友人たちに対案を求めた。
「お前たちなら、どうするか?」
だが、彼らは目を伏せるばかりで反応を見せようとしない。窓際の女子が美しければ、皆が諸手を挙げて己の友人に加えようとするのだろうが、すでに可能性は潰えている。そもそも美人がひとりぼっちになることは稀である。
甲斐は友人たちの愚かさを口の中で嘆いた。学生たちの生活向上を図るのが厚生局の仕事だろうに、こいつらは己の利益を勘定に入れるばかりで何の役にも立たない。
「おれが行く」
彼は芸術めいた細やかな所作で席から立ち上がると、窓際の女子学生に近づいた。
彼の姿を見た者は、ほとんどが「美しい」と形容する。それは顔や肉体の造形だけでなく、歩き方や指先など細やかな所作に対しても向けられる賛辞であった。
肉体については、当時の甲斐晴人の身長は同年代の平均を超えており、体格はいささか細身ではあったが、十分な筋肉により引き締まっていた。その肉体にはわずかに十五パーセントほどの体脂肪がついていたと伝わる。
また、生まれつきの栗毛は飴細工のように煌びやかであり、くせ毛がぞんざいに切りそろえられているだけなのに、どんなに努力したヘアスタイルよりも美しく目に刻まれたという。彼自身もまた、己の美しさを父から受け継いだものとして誇っていた。
後ろから近づいてくる、とてつもない美貌の男性の姿に、女子学生は目を丸くする。
初めに互いの目が合ったのは窓の反射だったというのが学会の定説であるが、のちに身内向けに出版された彼女の手記によれば「振り向いた際に、ふと目が合った」らしい。
「初めまして、お嬢さん」
彼の耽美な声には他者の耳を引きつける力があった。話しかけられた女子学生だけでなく、傍を歩いていた他の学生たちも彼の言葉に関心を寄せる。
甲斐は端正な微笑を浮かべると、安物の椅子を引き、彼女の隣に座った。
「おひとりなんだろう。おれも同席していいか」
「えっ。……彼氏がもうすぐ来るのだけど、それでもよろしくて?」
女子学生は困ったように笑みを返す。
やがて彼氏らしき男子学生が近づいてくるに至り、彼女と彼が「ゼミの課題が」「来年の卒論が」と会話を始めると、甲斐は何も告げずに、されど顔を真っ赤にして自分の席に戻っていった。
彼の友人たちはすでに昼食を買いに向かっている者と、席に残って甲斐を慰める者に分かれていた。
「慰めは不要だ。おれは己の行動を恥じない。たまたま見当が外れただけで、おれのしたこと、心はまちがっていなかった」
彼の強がりを友人たちは各々なりに受け取る。その解釈ぶりは侮蔑・嘲笑・同意、様々な表情で甲斐の目に映った。
後に学友会中央執行委員会の委員長と厚生局局長を兼務し、その卓越した指導力と人望から『学友会総統』『皇帝』と渾名される甲斐晴人も、この時点ではまだ一介の美しいだけの模範的学生扱いに過ぎなかった。
だが、彼が当時から将来の宿願成就のために策を練っていたのは間違いない。
彼の炎を帯びた瞳は周りの友人たちを「ある基準」で選別していた――己の大望にとって有用であるか、有害であるか。
× × ×
甲斐晴人には父親がいない。
島根県安来市の田舎で、ほぼ女手ひとつで育てられた。
他の同年代の子供たちが父親と楽しそうにしている姿を見るたびに、甲斐はなぜ自分だけ父親がいないのか自問自答させられた。母に訊ねたのは一度だけ。その時の悲しそうな表情が忘れられず、二度と訊くことができなかったのである。
成績優秀だった甲斐が奈良県の名門進学校に合格した時、母は自ら、息子に父親がいない理由を打ち明けた。
「あなたのお父さんは大学に殺されたの」
「大学に、ですか?」
「ええ。大学という社会に殺されたのよ」
母は隠していたアルバムから写真を取り出すと、一枚を息子に手渡した。どこかの大学の入学式で出席している、甲斐とは似ても似つかぬ若者の姿が写っていたが、母の悲しそうな目が息子に確信を持たせた。
この大学生がおれの父親なのだ。
「お母さん、なぜ父は殺されたのですか」
「田舎者だったからよ」
「田舎者?」
「馴染めなかったの。安来では友達もいたのに、向こうでは知り合いすらできなくて。夏休みに帰ってきた時にはビックリしたわ。あの元気な人が、今にも死にそうな顔をしていたから」
母はどうにか父親を元気づけようと必死で努力したという。
後に甲斐は、その涙ぐましい努力の過程で「自分自身が生まれた」のではないかと推測している。
だが、人生最後の夏休みを終えた父は、二か月後、大学の学園祭を見下ろすような形で、近隣のマンションの一室において自ら命を絶った。
友人を迎え入れやすいようにと、わざわざ大学の近くに下宿先を選んだ父は、一人も友人を迎えぬままに死んだのである。
「あなたはいつでも戻ってきていいからね。お願いだからお父さんと同じ過ちは犯さないでちょうだい」
住み慣れた家から奈良県の進学校に向かう夜、母は息子の足元にすがりついた。
甲斐は何も答えなかった。なぜなら彼の父は過ちを犯したわけではないからだ。本来過ちを犯したのは他の大学生たちなのである。
余所者だからと父を排斥し、死に至らしめた。殺意はなくとも死因であることに変わりはなく、おれが息子である以上は仇を取るのが当然であろう。だが、父は当時の同窓生たちを傷つけるような真似は望むまい。父の温かい人柄は母から伝わってきている。然らば、仇となるのは大学の「孤独」そのものだ。
甲斐晴人は決意を固めていた。
父と同じ『麗谷大学』に入り、父を殺した「孤独」を殺す。そのためならば、一切の手段を問わない――。
× × ×
学生自治会・学友会の中央執行委員会は六つの部局に分かれている。
主に傘下の部活動や同好会の間を取り持つ事務局。
他大学自治会との交渉を任される渉外局。
学内の講義に対する改善運動を取り仕切る講義局。
全学生に自分たちの活動内容を伝える広報局。
学友会の大蔵省たる財務局。
そして、甲斐の所属する厚生局である。
厚生局は当時「学生生活の向上」を目的として運営されていた。校舎から道路を挟む形で存在する『学友会館』の多目的室を借り受け、週に一度「会議」を開くのが唯一定期的な活動であった。
「さて、さっそく今週の会議を始めるわ。議題は先週に引き続いて校内の孤立者・ぼっち対策ね。意見のある方は手を挙げてもらえるかしら」
居並ぶ厚生局員たちの前に立ち、ホワイトボードマーカーを片手に場を取り仕切るのは三回生の下田栞(しもだしおり)。
当時、厚生局長が精神を病んで自宅療養していたため、彼女が局長代行として局内のトップに座っていた。
艶のない黒髪を後ろで束ね、メガネの奥に鋭利な目つきを忍ばせる彼女には、他人の話を受け入れないという大きな欠点があった。
「オッケー。みんな意見なしね。じゃあ、例の作戦を進める形でいいかしら」
下田は口元に自信をにじませる。
彼女自身は知らないことだが、他の局員たちが手を挙げなかったのは、何を意見しても彼女が全否定するからである。そんな会議として不活性な状況を、彼女は肯定的に見ていた。自分が局員たちを統率できている証だと認識していたのだ。
もっとも、他の局員たちにも問題はあった。日頃の活動に対して、真摯に向き合っている者がほとんどいなかったのである。
その点では、下田は遥かにましであった。
彼女はやる気にあふれた手つきで、「友達のいない新入生を救うためには?」とホワイトボードにマーカーを滑らせる。疑問形ではあるが、実際に問うているわけではない。彼女の中ではすでに答えが出ている。
「ずばり、巣から追い出すしかないのよ!」
彼女の宣言には、大仰な手振りが伴っていた。
甲斐は思わず末席で笑ってしまう。手振りだけが面白かったのではない。彼女が未だに自身の立てた作戦に固執していることを笑ったのである。
先週の会議において、すでに彼は「追い出し作戦」の欠点を突きつけていた。
すなわち、学内で孤立している学生が授業のない時間帯には目立たない場所に隠れているという想定において、彼らを外に追い出すだけでは状況が好転するはずはない、と指摘したのだ。
下田は「隠れ家から追い出すことで、内向的なぼっちが表通りに出るようになり、自然と他人と関わる機会が増えるのよ!」と反論したが、甲斐が思うに、表通りに出たところで通行人とぶつかるだけである。
ぶつかるだけで友人ができるなら、こんな会議は必要ない。
甲斐は、壇上で演説を続ける下田の肉付きの良い肢体に、氷点下で結晶化したかのような冷徹な瞳を向けつつ、彼女が自身の作戦にこだわる心理を推察しようと試みる。
言い出した立場上引っ込みがつかなくなっているのか、まさか本気で上手くいくと信じているのか。
あるいは。
当の下田は、追い出されたぼっちたちが取る行動の予測を局員たちに説明する。
「私の策により、隠れ家から外に追い出されたぼっちたちは、他の新入生たちが友達を作っているのを目の当たりにするわ。きっと焦りだすはずよ。必死になって他の学生に話しかけて、友達を作ろうとする可能性が高い、とみるわ」
「では、下田さんは、次の授業に向かう途中……それも遅刻しそうな時に、見知らぬ学生に話しかけられたら、どう対応されるのですか?」
「出たわね、キラキラ王子。手も挙げずに」
我慢できずに意見を述べた甲斐に、下田は持ち前の鋭利な目を向けたが、彼はその程度で怯む男ではない。
むしろ立ち上がって、壇上の局長代理と同じ高さで対峙してみせる。
「どうされるのですか、と自分は訊いております」
「そんなもん、無視するに決まってるわ。次の授業があるなら」
平然と答える下田に対して、甲斐は苦笑を抑えきれない。
「ならば、無視された孤独な学生はどうなりますかね」
「次に行けばいいじゃない」
「次も拒絶されたなら? おれなら耐えられませんが」
「次の次は上手くいくわよ!」
下田は声を荒げた。そこには他人を説得できるだけの材料が欠片も存在しなかった。
彼女自身もそれに気づかないわけではなく、天井に向けて舌打ちしてから、
「とにかく決まったことだから。みんな指示通りに動いてもらうわ。甲斐くんも輪を乱さないこと。あなた、そういうところよ」
そう言って、何事もなかったかのように、あらかじめ用意していたプリントを局員たちに配って回り始める。
プリントの内容は、各校舎の目立たない場所にあるソファの移設や、隠れ家になりそうな奥まった場所を衝立(ついたて)で閉鎖するというもので、全て大学事務局の許可を得ていると記されていた。このあたりの段取りの良さに関しては彼女も上級生相応であった。
なお、空き教室については、施錠の許可が下りなかったのか、厚生局員が時間を作って巡回するとされた。続いて「明らかに孤独な新入生だと思われる場合には適切なカウンセリングを行う」と記されており、この一行に甲斐は目をつけた。
我、泥中に大義名分を得たり。
「甲斐は度胸があるね。上級生に立ち向かうなんてさ」
各自、指示された作業に取り掛かる段となったところで、友人の叶が甲斐に話しかける。
甲斐は少し考えてから、彼の胸に自分のプリントを押しつけた。
「叶。お前におれの担当する力仕事を任せたいのだが、よいか?」
「ぼくが君のぶんを? 三号館三階のソファを体育館まで動かせって? 君、わがまま身勝手でジャイアンみたいな奴だとは思っていたけど、さすがにそれは承服できないよ」
「代わりに空き教室のカウンセリングをお前の予定まで引き受けてやる。女にモテるお前のことだ、週に三度も放課後に学校を回りたくないだろう?」
「ああ、なるほど。なら良い話だ。乗らせてもらうよ」
二人は握手を交わすと、各々の目的地に向けて歩き出した。叶は局外の女友達のところへ。甲斐が目指したのは空き教室である。
二〇〇九年五月十一日に始まった厚生局の『追い出し作戦』について、後世の歴史家の評価は概ね「失策」で一致している。
隠れ家の閉鎖は狭苦しい学舎をより閉塞させる結果を生み出し、本来ならば孤独な学生だけを困らせるはずが、学生や院生、さらには教授陣からも不満が続出したのである。
「休み時間に座るところがない」
「落ちついて話せる場所がなくなった」
「野良講義が出来なくなった」
大学事務局にそうした苦情が届くようになると、学生の生活向上を目指す立場の厚生局としては、隠れ家の閉鎖を解く以外に対応のしようがなかった。局内の総力を挙げた『追い出し作戦』はわずか三日で中止に追い込まれたのである。
当然ながら、この件は翌週の会議において俎上に載ることになった。
発案者(いいだしっぺ)の下田は週に二度も校舎の模様替えをするはめになった局員たちに詫びを入れた。
しかし『追い出し作戦』自体については、
「期間は短くなったけど、ぼっちたちを追い出す効果はあったわ。友達ができた子もいるんじゃないかしら」
と、肯定の立場を崩さなかった。
彼女の弁に根拠がないことは明白であったが、一方で完全に否定できるだけの材料を局員たちは持ち合わせていなかった。
なにせ大学は学生の出席日数や試験の点数を把握していても、人間関係の有無までは調べていないのである。
厚生局でも調査は行っていない。
ゆえに現状の「孤独な学生」の人数は全く不明であり、作戦の結果を見積もることさえ困難だった。
後に甲斐晴人の腹心として活躍した増月智也(ましつきともや)が評したところの「敵の数が見えていない状況」「戦場の霧」を、下田栞は己の立場を守るための防具として利用したのだ。
成果が数字として目に見えなければ、仮に失敗していても「成功した」と言い張ることができるのである。
本物の戦争ならば、相手に勝利しなければ自分が殺されるかもしれないが、大学生の下田には成功(しょうり)しなければならない理由がなかった。これは他の局員にしても同様であった。
突き詰めて言えば、ぼっちの存在など彼らには直接関係のない事柄なのだ。大学事務局から「孤立を理由に中退する者が多すぎるから対応しろ」と命じられていなければ、孤立者対策よりも普通の学生の生活向上に力を注いでいる。
なぜ学校に来なくなるかもしれない奴らを、普通の学生よりも厚遇せねばならないのか。
体面上、口にこそしなかったが、当時の局員たちは大半がこのような思いを抱いていた。
唯一、甲斐晴人だけを除いて。
「我に異議有り」
どのような楽器よりも人々の関心を引きつける、耽美な声色が多目的室に響いた。
すらりとした右手が掲げられ、その力強い眼差しがホワイトボードの傍らに立つ年長の女子学生に向けられる。
「キラキラ王子。ずいぶんと大仰な言い方をするのね」
「下田さんこそ、話が大げさではありませんか」
甲斐は苛立っていた。右手の爪を噛みそうになるのを堪え、端正な顔立ちを燃え上がらせている。しかし上級生に苛立ちをぶつけることはよしとせず、せめて口ぶりだけは冷静さを保つように心がけていた。
「なにせ、ありもしない成果にふんぞり返って、友人がいなくて困っている学生たちを救えたと豪語されているのだから」
「不名誉な言いがかりは、よしてもらえるかしら」
「ならば、成果をお見せください。お見せいただければ、言いがかりだったとして自分の発言を取り消します」
甲斐は座席からホワイトボードまで歩んでいき、下田の前で姿勢を正した。その立ち姿の流麗さは古代ローマの彫像職人が作り上げた傑作と見紛うほどであった。女子局員だけでなく、男子局員も彼の美しさに目を奪われていた。
下田もまた信じられないものを見るような目をしていたが、すぐに心身ともに立ち返り、
「ふん。王子こそ、私の作戦に成果がなかったという証拠を見せてごらんなさいな」
自身の『防具』を改めて示した。
対して、甲斐は余裕のある笑みを浮かべてみせる。当然であった。彼はすでに勝利していたのだから。
彼がパチンと指を鳴らすと、多目的室に三人の学生が入ってきた。冴えない男子が二人と、女子が一人。
「下田さん。こちらは今回の作戦で被害を被った新入生たちです」
「あっ……」
甲斐の紹介に下田は小さくうめき声をあげた。彼女は証拠の乱入を予想していなかったのである。
だらだらと汗を流しはじめた彼女を尻目に、甲斐は三人の氏名と所属学部を局員たちに説明する。
「右から山村くん、安条くん、江戸さんです」
三人の孤独な日々については、彼ら自身に話すよう促した。
文学部心理学科の山村(やまむら)は、新入生が全員参加する入学者研修旅行(フレッシャーズ・キャンプ)に遅刻してしまい、滋賀のホテルで合流した時にはすでにグループが出来上がってしまっていた。それから五月に至るまで一人の友人も作れていないという。
経営学部の安条(あんじょう)は、グループの中でパシリのような扱いを受けたために自ら単独行動を取るようになった。そこまでは良かったのだが、元いたグループの面子と会わないように校舎の隅を逃げ回る日々に疲れ果て、不眠症になってしまったらしい。目元のクマが局員たちをおののかせる。
政策学部の江戸(えど)が「ぼっち」になったのは上級生の彼氏が退学したからだった。彼氏以外の人間が見えていなかった彼女は、今さら同級生の女子グループに入ろうとするも、上手くいかないでいる。独善的な彼氏からは退学して就職するよう求められているという。そもそも麗谷に入るように指示したのは彼氏なの、と彼女は付け加えた。厚生局の女子局員たちがドン引きしている。
「三人はそれぞれ授業の合間に過ごす場所を確保していましたが、下田さんの追い出し作戦により路頭に迷う結果となりました。たまたま空き教室に潜んでいたので、下田さんの指示通りにカウンセリングを行いましたところ、ここ数日で新しく友人はできなかったそうです。また彼らの他にも……」
甲斐は追及の手を緩めなかった。
他にも同じような境遇の新入生がいることを示し、下田の失策でぼっちたちが悲惨な目にあったことを具体的に話した。
「ですが、希望もあります。こちらの三人は現在、昼食を共にするランチメイトなのです」
それでいて、甲斐晴人のカウンセリングにより新しい関係が生み出されつつあるという事実を彼女に突きつける。
甲斐は彼らの友人となりながら、彼ら同士が普段から共に過ごせる関係を結べるように促してきたのである。すでにこの頃から甲斐の「対ぼっち戦略」の基礎が固まっていたことは、後世の歴史家が彼の天才ぶりを証明する際に一級品の材料となっている。
しかしである。本来ここで特筆すべきは、甲斐もまた己の成果を数字では示していないという点ではなかろうか。
自分が何人の新入生ぼっちを救ったのか、それがぼっち全体の何割であるのか、甲斐は局員たちに伝えていない。つまり「追い出し作戦」の生み出した成果と比べて、甲斐の生み出した成果が上であるという根拠もまた示されていないのである。
見方を変えれば、下田が『防具』として使ったデータと根拠の不足を、彼は三人という限られた成功例を混ぜることで『武器』として用いた形となる。
当然ながら、これは同じ弱点を持つ「諸刃の剣」である。
下田栞に大局を見定める眼があれば、この追及は容易に打ち返せただろう。
だが、まともな戦略を立てぬまま作戦を実行させたことからもわかるとおり、彼女には視野が欠けていた。
彼女にできることは終わらない追及をかわすべく、自己正当化を図ることだけだった。
「待ちなさい。私が空き教室にぼっちどもを追い込んだから、甲斐くんは彼らと出会えたのではなくて?」
「なるほど。たしかにその点は肯定せざるをえません」
「なら、私の作戦にも意義は……」
「ですが、嵐の夜に出会いを得たことを喜びこそすれ、嵐自体を褒める者がいるでしょうか」
甲斐の言葉と燃えるような瞳に、下田は返す言葉を失った。彼女はこの時、ようやく甲斐が心の底から怒っていること、そして本気で大学からぼっちを滅ぼそうとしていることに気づいたのだった。
五月十八日の会議が、極めて険悪なムードで終わったことは、当時の厚生局員が残した複数の史料により歴史的事実として扱われている。
ツィッターやフェイスブックでの発言を中核とする当該史料において、我々が特に注目すべきは、彼ら局員が当日の甲斐晴人の行動を否定的に見ていたという点であろう。
上級生である下田の非を徹底的に追及してみせた甲斐の姿は、殊更に美しく目に映りながらも、同時に危険視されていた。特に下田と同じ三回生は、年功序列という安寧を崩しかねない彼を批判してやまなかった。
「どうでもいいことで、偉そうに」
このひと言に、当時の三回生局員の在り方はまとめられている。
二回生の目にも同級生・甲斐の姿は出る杭として映っていたようで、ある女子局員は「晴人様は今日も美しかった」としながらも「怖かった」「先輩にあんなに必死にならなくても」と評していた。
いずれにせよ、厚生局員の視界に本来の主役の姿が映っていなかったことは明白である。現存する史料の中に三人の孤独な新入生の存在を含んだ文章は極めて少ない。これは強すぎる火花が三人の影をかき消したからではなく、元より三人が局員たちにとっては「どうでもいい存在」だったためだろう。
彼ら局員には基本的に善良で友達想いの大学生である。だが、ぼっちが彼らの知り合いであることは原理的にありえない。
つまるところ、絶対的に他人事なのであった。
甲斐晴人が五月十八日以降、ぼっちのカウンセリングと並行して将来の手駒となる人材を外部で探すようになるのは、彼が当時の局内の人間を見限ったからではないか?
歴史家の問いに対して、当人は極めて神妙な表情を浮かべたと伝わる。
× × ×
『……やだ。あたし、なんであいつのことを考えただけで赤くなっちゃうの。おかしいじゃない。あンな奴、スケベだし、女の子にだらしないし。でもピンチの時には助けてくれるし、性格だって別に……ああン! どうしてそうなっちゃうのよーッ!』
両目で追いかけていた文字列が、不意に吹き飛んだ。列車が駅に入り込んでくる時の暴風に小説の紙面が巻き込まれたのである。
まだ序盤だった物語は、一気に終盤の巨神との闘いまで進んでしまう。傍らではヒロインの女の子がパンツを脱いでいる姿がイラストに起こされていた。肝心の主人公対巨神ではなく、女の子が挿絵に選ばれるのは今も昔も変わりない傾向である。
「一番線の電車は準急・出町柳行きです」
アナウンスから間をおいて、緑と黄緑のツートンカラーに塗られた車両から数名の乗客が降りてくる。
樹場悟(きばさとる)は本を閉じると、小さく「やれやれ」と呟いた。現在地の丹波橋駅から麗谷大学のある深草駅までは三駅ほど。彼にとっては不愉快な時間が近づきつつある。せめて到着までは小説の世界に浸りたいところだったが、読みふけって七条駅まで行ってしまった過去の経験が彼を思い止まらせる。
電車に乗り込み、車窓を眺めながら目的地に着くのを待つ。
深草駅は田舎の駅である。各停扱いの準急と普通電車だけが停車する。
プラットホームから階段を登り、改札とトイレ以外には何の設備も有さない駅舎を出てしまえば、京都市の辺境が視界に入ってきた。
住宅と小学校の間に設けられた道路の先に、大学のレンガ色の校舎が見える。
樹場の目には、それらの光景が全て灰色に映っていた。一年前は、新入生だったころにはまだ光や色彩にあふれていたのだが、彼が培ってきた無関心が、ある意味でブラインドの役目をはたしている。
「やれやれ」
樹場は汗のにじんだ髪をかき回した。坊ちゃん刈りを多少なりとも大人にしたようなヘアスタイルは、大学においては目立つものではない。チェック柄のシャツやジーパンにしても同様である。目立たない。
顔つきもまた創造物とは思えぬほどに地味であった。一見して憶えられてしまうほど不細工ではないが、逆に良いところも見当たらない。平凡というより一切の特徴を持たないという意味で、彼は特異な容姿の持ち主であった。
甲斐晴人の腹心・増月智也は、後に樹場を「目と鼻のある、のっぺらぼう」と乏しいセンスで評している。
「やれやれ」
授業が行われる教室に入り、前方の席を確保する。
甲斐の呟きは小さな声であるため、他の誰にも聞こえていない。そもそも呟く必要性はないのだが、在学中の彼は何かにつけて「やれやれ」と呟いていた。本人の弁によれば、昼行燈の主人公に憧れていたのだという。特に『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリー元帥と『涼宮ハルヒの憂鬱』のキョンには強い憧れを抱いていたと後に著書の中で語っている。余談だが、ヤン元帥は「やれやれ」とは連呼しない。ひたすらベレー帽をいじくる。
「やれやれ」
この日、樹場は三限目の必修科目と四限目の選択科目を消化した。昼過ぎに学校にやってきて夕方に帰路に就く形である。間に昼休みや空きコマを挟まないのは「友人のいない大学生」として二年目を迎える彼の知恵であった。大学生はある程度なら自由に授業を選択できる。初めから空いた時間を作らなければ、新入生のごとく孤独を恥じて隠れ家を探す必要はないのである。
もっとも樹場の場合、単独での行動を恥じるような繊細(ナイーブ)な感性をすでに失っていたが。
灰色の校舎と灰色の人垣を抜け、深草駅に戻ってくる。
「やれやれ」
彼の呟きを耳にする者はおらず、彼の名前を知る者も学生の中には一人もいない。然らば、彼の呟きは誰に向けられたものだったのだろうか?
後に『学友会総統』甲斐晴人の好敵手として、その名を全学生に知られることになる青年の大学生活は、卒業寸前に至るまで一切の灰色であった。
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