社内会話が禁止された世界『どさゆさ(仮)』


『どさゆさ(仮)』

 短編:ギャグ小説

 制作時期:2013年9月

 同時期の出来事:『半沢直樹』ブーム




     × × ×     




 会話したい。ネットを介した文章のやり取りではなく会話がしたい。

 こんなことを考えていると、まるで「大学デビューに失敗して友達が一人もいない大学に行くのが嫌になりずっと自宅に引きこもっている自称大学生」みたいに思われるかもしれないが実際のところ僕は会社員である。

 それもただの会社員ではない。とてつもなく大きな会社の社員なのだ。

 なのに、なのになんだろう、この息苦しい、未来の無い感じは……。


「どが?(指差し)」


 席を立とうとした同僚に、共通の上司である課長が声をかけた。単に「どが?」だけでは誰に向けて喋ったのか伝わらないため、課長は発音と同時にしっかり同僚に指を差す。


「とま!」


 対して同僚はビシッと敬礼をして、部下としての精一杯の敬意を見せた。この「とま」とは一応外回りの意だ。

 両者合わせて四文字の会話。

 まるで津軽弁の「どさ」「ゆさ」のような以心伝心のコミュニケーションだが、ああいった方言は寒冷地において唇をできるだけ動かさずに会話するために発達したものであり、商都大阪の中心街・ヒートアイランド現象真っ盛りの淀屋橋に居を置く大企業の社員の会話としてはいささか不自然である。

 本来ならば「行ってきまっさ」「おう!」ぐらいが当然で、むしろ全国的なイメージを尊重するならば、


『ああああ! ワイ、外周りしとおてたまりませんのや! かんにんしてくらあさいなあ!』

『なにが外周りじゃ、サボりたいなら堂々言うたらどうやねんや! アァッ!?』


 と言ったほうがよほど自然であった。

 しかしながら、では何故二人は四文字で会話を済ませたのか?

 そこには深い訳があるわけで、当然その理由はこの会社の息苦しい雰囲気とも濃密に関わってくる。


「あら……どうかされましたか、森昭二様?」


 無心で睨んでしまっていたらしい。社内各部署に配置されている社長の使用人――平たく言ってしまえばメイドさんの一人に怪訝な顔をされてしまう。

 このメイドさんたちはみんな社長の好みで選ばれたらしく、ほぼ全員が端正な顔立ちの下に淀みない品性が窺えるタイプの知性の神みたいな人たちである。

 特にここ営業二課の担当である斑鳩(いかるが)さんは、貞淑な白黒衣装の中にとんでもないナイスバディを隠し持った女性であり、かつ知性と品性を併せ持つ方なので、少し前までは全男性社員にとってあこがれの存在だった。

 そう、少し前までは。


「……森様。何か仰りたいことがおありなのでは?」


 華奢な右手に握られた銀色のストップウォッチ――を象った数取器(カウンター)。本来なら道路の交通量を調べる時に使うような代物だが、この会社では会話の量を計測するために用いられている。

 会話の量とは端的に文字に起こした場合の文字数だ。音節の数と言い換えても構わない。

 例えばさっきの課長の発言は二文字となるし、二音節となる。同僚の返事も同じ『二』だ。

 これらを合せたら四文字。

 よって営業二課は全体で四千円の罰金が科せられる。


「ふふっ……森様? 森昭二様?」


 嗜虐的な笑みを浮かべた斑鳩さんにトントンと背中をノックされた。同時に彼女の艶やかな黒髪が、僕の耳の裏をさらりと撫でる。我慢しがたい。

 ああ、きっとこの芳しい香りを心の底から楽しめるのは我が社の社長だけなのだろうな。くそ。

 あの憎むべき男。雇われの身としては不平不満を言い難いが、何より文字単位の罰金が怖いので胸に秘めておくしかないが、どうして自宅の使用人を使ってまで社員の会話を制限しようとするんだ。

 おかげでこうして毎日のように斑鳩さんにいじわるされて仕事にならないじゃないか。


「くそっ!」

「……あら残念。二千円ですわ」


 カチカチと数取器の音が鳴る。

 他にはキーボードを叩く音とエアコンの音だけが耳に響くのみ。社員の声は一切無い。


     *     


 ガラスに注がれた黄金をたっぷりと味わうのは大人の特権だ。同僚相集まり、時には上司の方々にもご足労いただいて日頃の労をねぎらい合う。

 そんな月に一度の楽しい会合がいつしか週に一度になり――ついにはほとんど毎日開かれるようになってしまったのは、もちろん例の会話制限令が原因である。

 というのも、せめて夜だけでも直接会話を交わさないとまるで仕事にならないのだ。


「あの件についてなんですが、相手方が少し……」

「部品供給先の中国の工場でストの兆候があるそうで、あっちの生産のほうが……」

「B社の担当はこういう言い回しに弱いから上手く……」


 オレンジ色の照明に彩られながら、どうにか懸命に情報交換を行う同僚たち。あまりにも必死すぎて手元の唐揚げがまるで減っていない。

 本来なら仕事を忘れて呑むための場で、逆にいつも以上に仕事のことを考えなければならないなんて。これは一種の悲劇なんじゃないだろうか。

 かくいう僕も上司の隣が空くのをずっと待っている。メールのやり取りではおそらく時間が掛かるので、きちんとお話したいのだ。

 しかしなかなか前の人がどいてくれない。早くしてくれよ。


「どーにかなりませんかねー。なんで喋るだけで何万円も取られるんですかねー」

「仕方あるまい。社命とあらば従うのが現状は賢い」

「えー。でもでもー」


 今現在、上司である課長とお話ししているのは同僚の大津だ。仕事の話というよりは完全に愚痴なので、とっととそのでかいケツを自分の座席に押し込んでほしいところである。


「そういえば……グループのILM化粧品で大量離職が出たそうだな、森昭二」


 不意に課長から声をかけられた。どうやら大津との益の無い会話に見切りをつけたらしい。課長としても限られた飲み会の時間内で手早く情報を交換しなければならないから色々と気をつけているのだろう。


「ええ、何でもテレアポ担当の女性社員たちが罰金に耐えきれず夜逃げしたとか……」


 そそくさと自分の席に戻る大津と入れ替わりに、僕は課長の隣に座らせてもらう。

 ちなみにウチの営業二課でも電話応対は罰金のカウントに入れられており、おのずと取引先との会話が言葉少なになってしまい、時には相手の不評を買うこともしばしばである。

 なのでそういう相手を多く抱える同僚なんかは外回りと称してずっと公園に座っていたりしていた。もはやオフィスの意味が無いような気すらしてくる。


「……世も末だな。なおかつ、この件があっても社長の方針が変わるとは思えん」


 白髪の目立つ頭をポリポリと掻く課長。僕もその意見には同感だった。


 仕事上の懸案事項についての相談を済ませ、ちょうど会合もお開きになった頃。

 ほろ酔いの僕は不意に腕を引かれ、そのままその人物に店の外まで連れて来られた。抵抗しなかったのは相手が明らかに女性であり、かつナイスバディの源の一つが良い具合に当たっていたからだ。


「ん……あなたは」

「四文字。四千円ですわ。あるいは『間』から二文字分の二千円を追加しましょうか?」

「斑鳩さん!?」


 まさかこんなところで遭遇するとは思わず、僕は面食らってしまう。

 いつも社長の使用人として営業二課の言葉狩りに精を出している彼女は、夜の淀屋橋においても貞淑な英国風メイドの格好をしていた。具体的には黒基調の長いスカートに白いエプロン、あとヘッドセットとか。

 こういうのに詳しい大津のヨタ話によれば、元々メイド服は小間使いの衣服であり、主人よりも目立たない格好として発達した服装らしいが、いかんせんそれは昔の話であり、特にこの国においては非常に目立つ代物だ。

 なので一緒にいるだけでも恥ずかしく、僕はどうしたものかと考えてしまう。

 そもそも何故こんなところに彼女はいるんだろう。


「も……もしかして、業務時間外の会話も取り締まるつもりとか?」

「まさか。森様は冗談がお上手ですね」


 そう言って、斑鳩さんは屈託のない笑みを見せてくれる。

 そうか……どうやら仕事で来たわけではないようだ。ちょっぴりホッとすると同時に彼女にも公私の差があることに驚く。今の彼女の笑い方はどう考えてもオフの笑顔だった。

 こんな人にもオフとかあるんだなあ。人って一面的には捉えられない。


「じゃあ、どうしてここに?」

「森様をからかいに、と言いたいところですが、実は森様にお会いしたいという方がいらっしゃいまして」

「僕に会いたい人……?」


 オフの彼女が僕に合わせたい人。

 一〇〇パーセントのお花畑脳で考えれば、彼女の同僚の可愛いメイドさんが僕に一目惚れしてしまったとか、そんな具合だろうか。二〇〇パーセント有り得ないけど。


「ひとまずタクシーに乗っていただけますか。少し離れたところになりますので」


 いつの間にか道端に止まっていたタクシーに案内される。ドアを開けて「どうぞ」と言ったところの仕草はさすがに社長の使用人といった具合だ。手慣れていて麗しい。

 奥に座った僕に続いて後部座席に乗り込んできた斑鳩さんは、やがてじわじわと身体を密着させてくる。


「ねえ、どこで誰に会うのさ?」

「森様には……内緒ですわ。それより、ポソポソポソ……」

「んあっ!?」


 耳元で甘く囁かれた僕はほとんど何も考えられなくなった。挑戦的な瞳とわずかに窺えた八重歯、何より柔らかな肢体がもはや暴力的なレベルでこちらの思考を飲み込んでいく。

 脚が絡み、彼女は僕の首にすがる。

 窓から入射する飴色の光は高速道路の街灯だろうか……。


     *     


 連れてこられたのは広大な邸宅だった。

 どこまでも柔らかく、それでいて軽い、斑鳩さんの身体を出来るだけ慎重に押しのけて、僕はタクシーを降りる。彼女はいつの間にか眠ってしまっていた。

 もしかすると人生で初めて身体を許されたのかもしれないが、あいにく人の目がある中で変なことをする趣味はない。生唾を飲んでチラチラとバックミラーを覗いていた運転手さんには申し訳ないけども。

 ライトアップされた本館を眺めつつ、いくらか歩を進める。

 なおタクシーは勝手にドアが閉まらないタイプだったようで、彼がわざわざこちらまで閉めに来ていた。

 あれ。まだ斑鳩さん乗せっぱなしなんだけど……どうなるんだろう。


「いらっしゃいませ、森様ですね」


 ギリシア式の神殿を真似たような正面玄関からメイド服の老婦人が階段を降りてくる。白髪まじりの一つくくりはその年を、銀縁の丸眼鏡は知性を感じさせた。エプロンにほこり一つ付いていないのは指導者故だろう。

 さしづめ長年この邸宅を取り仕切っているメイド長といったところか――あ、よく見たら腕章にそう書いてあった。


「遠方よりご足労いただきありがとうございます。私は小早川と申します」

「小早川さん、あなたが僕を?」

「はい。詳しくは奥で。ここでは目立ちますから……」


 彼女に手招きされ、壮麗にライトアップされた正面玄関ではなく脇の通用口から大邸宅の中に入っていく。どうやら邸宅の主人には僕の来訪を隠しておきたいようだ。

 さて、一体ここがどこなのか――なんて疑問は、実はすでに吹き飛んでいる。

 なにせ庭を取り囲むコロネードの柱には一つ一つに「ILMセメント」と書かれており、僕はそれが自分の会社のグループ企業であることをよく知っていた。そして、邸宅の主がただのカスタマーならわざわざ企業名を印字したりしないはず……何より小早川さんのメイド服が斑鳩さんのものと全く同じデザインだったことが一番の決め手となった。

 要するにここは社長の邸宅なのだ。

 あの広く美しい庭も。質素ながら重厚な造りの通用口も。ワインレッド基調の壁紙と美術品に彩られた廊下も。小早川さんに通されたこのホールのような一室も。全てあの男の所有物。もちろん中央にポツンと置かれた木製の書斎机だってそう。よく見たらホールの壁はみんな本棚になっているから、たぶんあの辺の本もみんなそうなんだろう。あと掃除しているメイドさんも。

 うーん。さすがは自称「日本経済の六分の一を手に入れた男」の家だ。どこをどうフォーカスしても、とてつもなく資産家として満たされている気がする。

 小早川さん曰く「使用人が使うエリア」ですらこうなのだから、きっと主人の住まうエリアは凄いことになっているんだろうな。前に出張で行ったラスベガスのホテルみたいに建物の中に街があったりして。

 そんな感想を胸に抱きつつ、僕は案内された一室の中でずっしりと腰を据えさせてもらった。

 そして、ようやく「僕に会いたい人」たる彼女と対峙する。


「……で、どういうご用件なんでしょうか。小早川さん」

「………………」


 僕のぶしつけな質問に対し、小早川さんは何も言わずに書斎机から一通の茶封筒を差し出してきた。

 用件を口にしたくないということだろうか。それとも奇を衒った解雇通知だったりするのだろうか。ざわつく心を抑えつつ、僕は封筒の中身を確認する。

 そこには一つの『提案』が書かれていた。さらに衝撃的な真実として、このホールみたいな部屋がパソコンルームであることも記されていた。


「ええっ、でもここ机と本棚しかありませんよ!? とてもネット環境なんて……!」

「つまりはこういうことです、お客様……ッ!」

「さっきのタクシーの運転手さん!?」


 聞きなれない声がしたと思ったらホールの入口に運転手さんが立っていた。あのままタクシーでどこかに消えたものと思っていたのに、何だか話の筋が読めない。

 少し背広がはだけているように見えるのは、誰かに乱暴されたか、あるいはムリな体勢を取り続けているせいでわかっていても身だしなみを整えられないのか。

 彼は左手でノートパソコンを抱え、さらに右膝あたりにマウスパットを貼りつけ、さながらニーキックのような体勢でこれを右手のマウスの土台としていた。

 すなわち片足で立ちながらにしてパソコンの使用を可能としているのだ。この妙技、まさしくエコノミックアニマルの神髄といえよう! 苦しそうな表情はカロウシの国の民族的象徴!

 しかし、ますますもって、僕にはこの家の人たちが何をしたいのかわからなくなってくる。


「あの……小早川さん……結局何なんですかねこれは……」

「……あれは未来の森様の姿です」

「え?」

「もしくはグループの全従業員の未来と言い換えても良いでしょう。あれが私たちのネクスト・スタンダードになります。何もない部屋で片足立ち、口語は認められず会話は全てメールで行う……」

「あれでキーボードに触れられるんですか……?」

「難しいでしょうね」


 老婦人はきっぱり断言する。

 となると今度ばかりはメールだって難しくなるわけか。

 ううむ。一体どうやって僕らに仕事をさせるつもりなんだろう、ウチの会社。

 もしや潰す気なんじゃなかろうな。


 それから小早川さんが語ってくれたことによると、どうやら我が社では現在社長主導の下、大規模な経営改革が進められているらしい。

 みんなを困らせている社内での会話制限令はその改革案の先駆けとして施行されており、それに続く「次の矢」として社長はオフィスからの『机と椅子の撤去』を推し進めているとか。

 なぜそんなことをするのか。どうも常人には理解しがたい非現実的な施策だと感じてしまうが、実際とあるメーカーのオフィスではデスクから椅子を取り除くことで作業の効率化を果たしている……らしい。

 小早川さん曰く、それを真に受けた社長が「では机も取り除けば二倍だ」などと言い出したのが直接のきっかけだそうだ。

 もちろん片足立ちでプルプルと震えながらパソコンを操作している運転手さんを一目見ればわかる通り、そんなもんは机上の空論である。いや机すらないわけだから子供の砂遊びと言い替えたほうがいいかもしれない。


「……こしょこしょ」

「んあっ!?」


 何となく運転手さんの左足にちょっかいを加えつつ、僕は先ほどの小早川さんからの『提案』を思い返す。

 思うに、あれはそんな社長から会社を守るためのメッセージだった。

 だが僕にとっては人生の破綻を意味する。到底受け入れられるものではない。


『――会社で奇声を上げながら暴れまわり、事件の原因として会話制限令を世間に知らしめて欲しい』


 そうすることで、社長のとんでもない改革案を世間の圧力で潰そうというわけだろう。しかしそうなると僕は尊い犠牲にならねばならなくなる。そんなのは嫌だ。せっかく良い会社に入れたのだから、勘弁。大体なんで僕なんだって話だ。

 うん。やはりきっちり断っておくべきだな。


「あの、小早川さん。やっぱり僕は……」

「……申し訳ございません、急にお呼び立ていたしまして。今日のことは忘れてください」


 老婦人はこちらに小さく頭を下げた後、ズレた丸眼鏡を右手で正しい位置に戻した。

 お呼び立て、か。

 しかし本当にどうして僕なんだろう。別に目立つようなことはしていないはずだけど……?


(未完)



 ☆解説

 記念すべき第1回。

 奇妙な規則のある会社で困っている主人公が、社長の召使に呼び出されるという筋書きですが、全く何も考えずに書き始めたので、その先のプロットなど一切ありません。

 登場人物や会社の設定も真っ白です。伏線も何もありません。オチすらも考えていませんでした。完全に勢いです。その時の私は理性の小説家ではなく野生の小説家だったのです。

 そんな状態でも、見切り発車で飛び出した飛行機が落ちないように、どうにか変な会社の描写と主人公の奇行(運転手の足にちょっかいをかける等)で押し切ろうとしましたが、当然ながら途中で息切れします。

 自分でつまらなさに耐えられなくなり、何より設定が存在しないために続きが思い浮かばず、匙を投げました。


『しかし本当にどうして僕なんだろう?』


 私自身が訊きたいくらいです。

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