ステキなサムシング
とき
第1話
「誰だっけこれ」
これまで良く見えていたものが、急にただの「何か」に見えることはないだろうか。
英語で言うなら、a good thingがsomethingになってしまうのだ。
私の場合はこの男。
名前は悠斗。5年も付き合っている彼氏だ。
はじめはとても好きだった……と思う。けれど、今ではなんでこの人と付き合っているのかよく分からない。
改めてどういう人なのかと観察してみた。うん、何をとっても平凡な男だ。他の誰とも区別がつかない。
「ただいま」
「おかえり」
私は悠斗と同じ家で暮らしている。就職してから同棲しているのでもう3年になる。長いものだ。
声をかければ答えてくれるのだけど、こっちを向いてしゃべることはない。
悠斗はパソコンでゲームをやっている。ネットの友達とチャットしながら、冒険の旅に出ているんだろう。
これが仕事から帰ったあと欠かさずに行う、彼の日課だった。
「ご飯は?」
「もう食べた」
リビングのテーブルには空っぽカップ麺が置いてある。箸もカップに刺さったままだ。
聞かなきゃよかったと思うけど、「ご飯は?」と聞くのが私の日課になっているので特に気にしない。
カップ麺をゴミ袋にしまい、箸を流しの桶に入れる。
そして、脱衣所に脱ぎ散らかった服を洗濯機に放り込み、風呂場をのぞくが、浴槽にお湯は張ってない。きっとシャワーで済ませたのだ。
私は自分のためにお湯を入れる。
悠斗と出会ったのは大学のサークルだ。
漫画サークル。部室に好きな漫画を持ち寄って読んだり、みんなで同人誌を書いて即売会で売ったりする。
漫画を読むだけのサークルも多いようだけど、うちの場合、部員で一作品ずつ創作漫画を書き上げ、サークルとして年一冊は本を出版していた。
悠斗はとても絵がうまかったのを記憶している。
特に風景を書くのが上手で、みんなが登場人物のかっこよさ、可愛さに命を懸ける中、悠斗は風景の作り込みに精を出していた。
何かで意気投合したのかもしれない。彼とはいつの間にか付き合うようになっていたのだった。
当時、漫画はアナログで書いていたが、次第にデジタル化が進み、我が家にもペンタブレットや漫画制作ソフトが揃っている。
液晶タブレットなるものに心は引かれたが、値段を見てあきらめた。
デジタルの良さはなんと言っても、速さと手軽さ。
大学を卒業して一緒に暮らすことになったとき、少しでも制作スピードを上げようと、パソコンから丸ごと一式を新調した。
仕事をしながら漫画を書き続け、いずれはプロになれたらいいなと考えていたのだ。
しかし、そうやって漫画をやっていたのは、社会人となって数ヶ月という短期間。
朝早く出かけて夜遅くに帰ってくる。忙殺の日々にせっかく整えた制作環境もホコリをかぶっていった。
漫画を編集部に送り、プロの壁にぶつかる前に、夢は儚くも自然消滅していったのだ。
夜遅くに帰ってきて、家事をしてお風呂に入るだけで一日が終わってしまう。
漫画を書く時間なんてまったくなく、できることは、悠斗が読み散らかした漫画を寝る前にちょっと読むくらい。
漫画は普通の人よりたくさん持っていると思う。
もちろん研究のため。漫画を書くとき、参考となる漫画があるととても便利なのだ。コマ割り、構図や技法、ストーリーの運び方など、先人の知恵は蒙昧な私に勇気と自信を与えてくれる。
けれど、今はただの名目に過ぎない。いや、言い訳と言えるだろう。
漫画は一回読んでおしまいで、そこから研究して何かを吸収して、自分の創作に活かすということはないのだ。
部屋に乱雑に積み上がっている漫画の山は、もはや夢の残骸と言っていいだろう。
得られるものは何もないだけでなく、物理的に足の踏み場をなくし、寝る場所も侵食しようとしていた。
漫画を読んでいるときは、絵やストーリーを楽しむことができて嬉しいのだけど、読み終わって元あった場所に戻すとひどく陰鬱な気分になる。
その存在がなんだかストレスなのだ。
夢の残骸は好き好んで見るものじゃない。お前は夢が叶わなかった負け組だ、まだ未練を持っているのかと漫画が言ってくるようだった。
好きな漫画にそう言われるのはつらい。
仕事に追われ、夢の残骸を見ながら、歳だけ取っていくのかと思うと、恐怖や焦りも感じてくる。
仕事は忙しくても、休みを取らないといけないのが社会の、そして会社のルールだ。
ちょうど代休を取らないといけなくなったので、漫画を全部売ってしまおうと思った。
平日なので悠斗は通常通り会社に行ってるし、ゲームの邪魔をせずに片付けられる。
まずは床に直接積み上がった漫画を段ボールに詰めていく。悠斗は読んだ漫画をパソコンデスクの周りに置いたままにし、どんどん積み上げていくのだ。
選別はしない。どうせ全部ゴミだ。残したところで私がそれを活かすことなんてできないし。
生活の邪魔にしかなってなかった漫画は、すべて段ボールに収まった。
ついでに、本棚にある本も片付けてしまおう。
本棚には普通の小説や雑誌、判型の大きい漫画の技法書が収まっていた。小説はあとで読み直すこともあるかもしれないと思ったけど、ここまで来たら一緒に処分してしまう。
本棚からガサッと本を引き抜くと、風景の写真集の間から一冊のノートが落ちた。
普通の大学ノート。
表紙にはタイトルも、所有者の名前も書かれていない。
でも、このノートには見覚えがあった。
私の創作ノートだ。
ストーリーや世界観、キャラクター設定などが書かれ、いずれ自分の漫画を作るときのためにアイデアをため込んである……はずだ。
何年も開いていないから、実際に何が書かれているかは覚えていない。
開いてみたいという気持ちはある。
でも、プロの漫画家になるという夢はすでに破れたのだ。このノートもまた、夢の残骸に違いない。
捨てよう。
だが、段ボールに放り込もうとして手が止まる。
ダメだ。これは私が作ったノートだから、古本屋には売れない。そもそも人になんて見せたくない。
処分する漫画と一緒にならないように、遠くに分けて置いておく。
結局、漫画入り段ボールは10箱にも及んだ。
なんて量だろう……。自分で運ぶのは不可能だから、宅配便の人に取りに来てもらうことにする。
世の中便利になったもので、古本屋に段ボールごと送りつければ、勝手に査定して、お金を振り込んでくれる。
数が多いので宅配便の人には悪いかなと思ったのだけど、一度に軽々と3箱を持ち上げ、あっという間に持って行ってしまった。
夢の残骸も、案外しょぼいものだったのだなと、少し哀しい気持ちになる。
けれど、かなりすっきりした。
これで仕事から疲れて帰宅しても、私にプレッシャーを与えるものは何もない。
「あれ、漫画は?」
悠斗が会社から帰ってきてからの第一声だった。
「売ったよ」
「え?」
きょとんとしている。
こんな顔すごく久しぶりに見た気がする。
「いっぱいあったでしょ。邪魔だから売っちゃった」
口を開け、何か言おうともごもごしていたが、結局何も言わず、彼の指定席であるパソコンデスクにつく。
「ご飯は?」
「いらない」
悠斗はもうパソコンの画面しか見ていなかった。
きっとまだご飯は食べていないだろう。
いつも私に対する言葉は無感情なものだけど、今日は感情が少しだけこもっていた。
自分で作ったご飯を一人で食べる。
一応、二人分作ったけど無駄になってしまった。明日のお弁当にしようと思う。
漫画を全部処分してだいぶ部屋が広くなった。リビングのテーブルからは、ぽつんとパソコンデスクに座り、モニターに食らいつく悠斗の姿が見える。
この人はこんなに小さかったっけ……?
部屋がすっきり片付いたのもあるけど、私には悠斗の存在がとても小さく見えた。
彼から目をそらしたとき、あのノートが視界に入る。
私のノートだ。
そう思うと自然にテーブルを離れ、ノートを拾い上げていた。 さっきまで見たくもないから処分しようと思っていたはずなのに。
表紙は無記名。でも新品ではない。何度も開き、何度も書き込んだから、よれているし、膨らんでしまっている。
うん。これは間違いなく、私の創作ノートだ。
テーブルに戻ってノートを開く。
ノートの中身はカラフルだった。
カラーペン、色鉛筆、水彩絵の具など、いろんな筆記具を使って書かれていた。
今では考えられないぐらい手間がかかっている。当時の私は何を思ってこれを書いたのだろう。
書かれている内容は……世界観、キャラクター設定、キャラクターデザイン、風景や小物のラフ画。
それは私が大学時代に考えたファンタジー世界の設定だった。
主人公が魔法使いになるためにいろんな世界を回る。火の国、氷の国、子供しかいない国、人の住んでいない星。
「なにそれ?」
悠斗が私に話しかけた。
手にはビールを持っている。おそらく冷蔵庫に取りに行ったついでに、私に話しかけたんだろう。
「何でもない」
反射的にノートを閉じてしまう。
悠斗はふーんと言うと、自分の居場所に戻っていく。
恥ずかしいから見られたくない、というのとは違うと思う。
悠斗に見せるべきものじゃないと考えたのだ。
再びノートを開くと、ページの間に紙切れが挟まっていた。
何だろうと思って紙片を開くと、それは風景画だった。
悠斗の絵だ。
悠斗の書く漫画は、ストーリーはお世辞にも面白いとは言えなかったけど、彼の書く精密でリアルな背景は見る者を圧倒した。画力はさることながら、空想であるはずの風景なのに、構図、構造、素材、空気感をよく把握していて、その理解の深さが如実に絵に出ている。とってもステキな絵なのだ。
頭の中にその風景を作り上げているのだろうか。私も風景を書くのは好きだったが、そんなに鮮明なビジョンを思い描くことはできなかった。
……そうか。私が彼に興味を持ったのはそういうところかもしれない。
私が彼と一緒にいるのは、私の世界に彼を加えたかったんだ。
当時のワクワクがよみがえってくる。
面白い漫画を書こうと語り合った大学時代。二人でプロを目指そうと誓い、同棲を決めた日。二人の初任給を使ってそろえた漫画の制作環境。
私は悠斗と一緒に漫画を書きたかったのだ。
……しかし、現実はつらく厳しいものだ。
彼はおつまみを食べつつ、ゲームをしている。
私とも会話しないし、私の作ったご飯を食べない男だ。
ノートをめくりながら、私は思ってしまう。
「この世界は私のものであって、あなたはそれを共有すべき人じゃない」
私はいったい何をしていたんだろう。
なぜ夢を忘れてしまったんだろう。なぜこのノートを思い出さなかったのだろう。
仕事が忙しいから?
彼が相手をしてくれないから?
ダメだダメだ。
何かのせいにしているから、夢がゴミになってしまうのだ。
自分が望んだ夢なんだから、うまくいかないのは全部自分のせいだ。
動かなきゃ、動かなきゃ。
こんなことをしていたら、時間だけが過ぎていってしまう。
「ちょっと出かけてくる」
私は習慣的に声をかける。
「どこいくの?」
いつものように顔のない声が返ってくる。
「ノートを買いに」
「そう。ついでに、タバコ買ってきて」
「うん、分かった」
私は誰に答えた。
駅前にある本屋へと向かう。
割と大きい本屋で文具コーナーがけっこう充実している。
まずは無地のノート、そしてカラーペン一式だ。
大学時代にはなかった筆記具がたくさん置かれていて、あれもこれもと欲しくなってしまう。
今は自分の望むことを何でもしようと思い、気に入ったものをどんどんカゴに放り込んでいった。
漫画の原稿用紙もあれば一緒に買おうと思ったけれど、さすがに置いてなかった。ペンは捨ててないから、昔使ったのが残っているはずだ。帰ったら探してみよう。
うきうきしながら家に着いたところで、タバコを買い忘れたことに気づいた。
まあいいや。素直に忘れたと言っても、あの人は気にしないだろう。
「ただいま」
「おかえり」
椅子に文具が詰まったビニール袋を置く。
私はすぐ重大なことに気づいた。
私の創作ノートがない。
テーブルに置いてあったはずだ。食べかけのご飯の横に、ノートを閉じてその上に雑誌を置いておいた。だが、雑誌をのけても、中を開いても、バサバサ振ってみても、ノートは見当たらなかった。
私の記憶違いか?
部屋中を見渡す。
ない、ない、ない、ない、ない……あった!?
ノートは男のヒザの上にあった。
「ねえ、なんでそれを……」
「ああ、ごめん」
男はノートを私に手渡した。
表紙には何も書かれていないノート。少しだけ中を開いて確認する。私のノートだ。
「あなたには関係ないから」
そう言うと、男は不思議な顔をする。
「関係なくはないよ」
男の思わぬ返答に、今度は私が不思議な顔をしてしまった。
男は一枚の紙切れを開いてみせる。
私のノートに挟まれていた、男の書いた風景画だった。
私は思わず赤面してしまう。
「僕の絵」
「……うん」
「それにほら」と男はパソコンを操作して、画像編集ソフトを開いてみせた。
そこには美しい風景画が書かれていた。
私はそれを知っていた。
悠斗の絵だ。
悠斗が書く、リアルなくせに、やったら幻想的な風景。
「どうしたの、これ……?」
「僕が書いたんだ」
「知ってる」
悠斗の絵は何だって知ってる。
でも、この作品自体は見たことがない。悠斗はアナログ派だから、きっとパソコンを買ってから書いたものだろう。
「しばらく書いてなかったから下手になっちゃった。練習してから見せようと思ってたんだけど……」
悠斗はてへへと笑ってみせる。
私はなんて思い違いをしていたんだろう……。
悠斗が私を見ていない?
違う、見てなかったのは私のほうだ。
仕事につぶされ、漫画を書けないフラストレーションのせいで、嫌なことから全部、目を背けてきたんだ。
私が悪いんじゃない。仕事が悪い、時間がないのが悪い、悠斗が漫画を書かないのが悪い。
……私はそんな風に世界を歪曲させて見ていたんだ。
悠斗はいつも私の言葉を返してくれた。それはもしかしたら、私のほうを見て言ってくれたのかもしれない……。
パソコンデスクの側に積み上がった漫画は、パソコンで絵を書くための参考用……?
あれ? 悠斗はタバコなんて吸ったっけ……?
悠斗が私の目の下を指でなぞる。
私はいつの間にか泣いていたみたいだった。
「ねえ」と悠斗が微笑みかけてくる。
「また、一緒に漫画書かない?」
そんな優しい言葉をかけないでほしい。
声にならなかったらどうするんだ。
「……うん……一緒に、書こ……」
私は嗚咽しながらも、なんとか声を絞り出した。
夢はまだ完全には消えていない。
私にはノートがあるし、何より悠斗がいる。
ただの「何か」は「ステキな悠斗」に戻って見えた。
ステキなサムシング とき @tokito
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