第39話 猫の架け橋

 ついに、その瞬間がやってきた。

 洋平に会ったら、なんて言おう。

 そればかりを考え、今日も仕事が手に付かなかった。

 こんな日々を送っていたら、間違いなく自分はクビになる。

 そうならないよう、今日で身の処し方を決めよう。

 洋平が、自分を許してくれないようであれば、無理をしてでも、早急に引っ越すのだ。

 善次郎は、覚悟を決めていた。

 九時ちょうどに、善次郎の部屋のチャイムが鳴らされた。

 どきどきしながらドアを開けると、そこには、見違えた洋平の姿があった。

 善次郎の知っている洋平は、まだほんのあどけない子供だったのに、目の前に立っている洋平は、すでに大人の雰囲気を漂わせている。

 無理もない。この時期は、男として一番変わる時だ。

 三年半も会わなければ、こんなもんだろう。

 それでも、まだ別れた時の面影を残しているが、あと二年もすれば、善次郎が知っている洋平とは、まったくの別人になっていることだろう。

 町ですれ違っても、気付かないかもしれない。

 まじまじと洋平を見つめながら、善次郎がそんなことを考えていると、洋平がはにかんだ顔をして、「こんばんは」とぎこちなく頭を下げた。

 善次郎も、「こんばんは」とぎこちなく返した。

「なに、親子で、他人行儀な挨拶を交わしているのよ」

 洋平の後ろから、美千代の声が聞こえた。

 その声に反応して、チャイムの音で逃げていた活と夏が、どこからか走ってきて、まだドアの外にいる美千代の足に飛びついた。

 俺が仕事から帰っても、こんな風に迎えてくれたことなんて、一度もないのに。

 善次郎の胸に、嫉妬の念が激しく沸き起こる。

 あらん限りの努力で、それを抑えつけながら、美千代と洋平を部屋に上げた。

 活と夏は、美千代にまとわりついて離れない。

「これが、お父さんの飼っている猫か」

 洋平が、素直にお父さんと言った

 善次郎の胸に、熱いものが込み上げてくる。

 もう、嫉妬など、どこかへ吹き飛んでいた。

「おまえも、猫が好きか?」

 自然と、言葉が出ていた。

「うん」

 洋平が、無邪気にうなづく。

 こんな子を、俺は平気で手放したのか。

 素直に離婚に応じたことを、善次郎は初めて後悔した。

 同時に、洋平は自分が引き取ると言われて、ほっとしたことを恥じた。

「でも、お母さんが嫌いだから、家では飼えないんだ」

 善次郎の動揺などわからない洋平は、これも無邪気な口調で、ちょっと顔をしかめてみせた。

 洋平がそう言ったあと、活と夏を撫でている美千代に気付いた。

「お母さん、猫が嫌いなんじゃ」

 洋平が目を瞠って、驚いた声を出した。

「慣れてしまえば、可愛いものよ」

 美千代は、二匹を撫でる手を休めずに、笑顔で答えた。

「なんだよ、こんなことだったら、あのとき強引に飼っておけばよかった」

 口を尖らせて、洋平が不平を漏らした。

 善次郎が事情を尋ねると、洋平は去年、弱っている子猫を拾ってきたのだという。

 しかし、美千代が家で飼うことを絶対に許さなかった。

 このまま放っておけば、死んでしまうかもしれない。

 洋平は、クラスメイトや友達に必死に頼み込んで、ようやく引き取り手を見つけたとのことだ。

「そうか。洋平は、優しい子だな」

 そのまま捨てなかったことに深い感動を覚えた善次郎は、瞳を潤ませながら、洋平の肩を軽く叩いた。

「そんなことないよ。お父さんだって、二匹も助けてるじゃないか」

 照れながら、洋平が返した。

 最初はどうなることかと心配していたが、やはり親子である。

 そんな話をしているうちに、すっかり二人は打ち解けてしまった。

 それどころか、家族として暮らしていた時より、会話が弾んでいる。

 善次郎には、一緒に暮らしていた頃は、洋平とあまり会話をした記憶がない。

 仕事が忙しくて、洋平が起きている時間に帰ることが稀だったというのもあるが、それよりも、なにを話してよいかわからなかったのだ。

 だが、今は違う。

 二人にとって、共通の話題があった。

「まさか、おまえと、猫の話でここまで盛り上がるとは思わなかったよ」

 洋平も同じ気持ちだったようだ。

「僕も、お父さんとこんな話をするとは思わなかったよ」

 答えた洋平の顔は、さも嬉しそうだ。

 またもや、善次郎の胸に、熱いものが込み上げてくる。

「この子たちの話を聞かせてくれない」

 まだ、美千代に撫でられている活と夏を見ながら、洋平明るい声でせがむ。

 善次郎は、活を拾ったところから、これまでのことを話して聞かせた。

 善次郎の話を、洋平は顔を輝かせて聞いている。

 今や、二人の間に、三年半という空白は存在しなかった。

 いつも一緒に暮らしている家族のように打ち解けていた。

 これも、活と夏のおかげだ。

 その二匹はというと、まだ美千代の傍から離れないでいる。

 そんな二匹を見ても、もう、嫉妬の気持ちは湧かなかった。

 こいつらは、俺のために、身体を張ってくれている。

 今では、そう確信していた。

 猫嫌いの美千代を屈服せしめ、猫好きの洋平の心の窓を開かせる。

 木島さんの話を聞いた時にも思ったことだが、猫って、凄い。

 こいつらのどこに、そんな力があるのだろう。

 そう思いながら、善次郎は二匹に感謝の目を向けた。


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