第40話 羨望

 美千代と洋平が引き上げた後、善次郎の心は久しぶりに晴れていた。

 こんな気分になったのは、いつ以来だろう。

 活と夏がいるだけで幸せだったのだが、今の気持ちは、それとはまったく違う性質のものだった。

 洋平の、いつでも活と夏を見に来てもいいかとの言葉に、美千代が反対することはなかった。

 もちろん、善次郎に否やはない。

 照れくさくはあるが、大歓迎だ。

 二人が引き上げた後、活と夏は疲れたようにベッドの上で丸まっていた。

「お前たちなりに、一生懸命気を遣ってくれたんだな」

 二匹の頭を撫でながら、善次郎が感謝の気もちを込めて話しかけた。

 ニャア。活の後に、続けて夏もニャオと鳴く。

「いいってことよ」

「そうよ。あんたにはお世話になってるんだから、これくらい、どうってことないわよ」

 二匹の鳴き声が、善次郎にはそう聞こえた。

「やっぱり、お前たちは家族だな」

 涙ぐみながら、善次郎が二匹を抱きしめようとすると、いきなり活が手を噛んだ。

 夏は爪を立てる。

 なんなんだ、一体。

 善次郎には訳がわからなかった。

 どうやらこの時の二匹は、接待疲れで気が立っていたものと思われる。

 それに気付かず手を出した、善次郎の配慮不足であった。

 翌日から、毎晩洋平が顔を出すようになった。

 美千代も一緒だ。

 いくら親子とはいえ、別れた父親の許に子供一人でやることはできないというのが美千代の言い分だが、活と夏に会いたいというのが本音のようだ。

 美千代は部屋へ入るなり、真っ先に活と夏を撫でにかかる。

 洋平が触ろうとすると、「もう少し待って」と言って、中々二匹から離れようとしない。

 洋平も待ちきれず、美千代が撫でているところに、強引に割って入る。

 毎回、そんな展開だ。

 そうしているうちに、棲み分けができてきた。

 活は美千代、夏は洋平が、相手をするようになったのだ。

 雄と女、雌と男。この組み合わせが、相性がいいみたいだ。

 相好を崩して二匹と戯れる二人を見るのが、善次郎には楽しかった。

 善次郎は長い結婚生活の中で、こんなに楽しそうな美千代の顔を見た記憶がない。

 洋平も、また然りだった。

 猫とじゃれ合っている二人を見ていると、ふと罪悪感に捉われることがある。

 本当は、自分が二人を幸せにすべきだったのに、いつも辛い思いばかりさせてきた。

 活と夏にでも出来ることが、夫であり父である自分には出来なかった。

 そう思うと、居たたまれなくなる。

 そんな時は、トイレに行って顔を洗う。

 水と一緒に、涙も排水溝へ流すのだ。

 過去を悔いても仕方がない。

 いつかまたきっと、俺の力で、二人を幸せにしてやろう。

 それが、今の善次郎の目標になっている。

 しかし、二人の前では、そんなことはおくびにも出さなかった。

 美千代がどう思っているのかわからないし、せっかくいい雰囲気になっているのを壊したくはなかった。

 今は、心に秘めているだけでいい。

 辛かったが、善次郎は必死で耐えていた。

 こうなったのも、すべて自分が悪いのだから、耐えるしかないのだ。

 美千代と洋平の顔が毎日見れるのは楽しかったが、だからといって、仕事を疎かにするわけにはいかない。

 今は決算期で、追い込み受注を取るのに忙しい。

 昼は外回り、帰社してからは資料作りと見積り作成、加えて、会議で謀殺されていた。

 二日続けて、帰りが深夜になった。

 三日目の昼、美千代からメールが届いた。

 今日は何時頃帰ってくるのかという質問だった。

 洋平が活と夏に会えなくて寂しそうにしている。

 そう付記してあった。

 洋平よりも、美千代が会いたいのだろう。

 美千代が、自分に会いたいなどとの幻想は抱かないようにした。

 今日は、遅くとも九時までには帰る。活と夏も寂しそうだ。

 そう返信しておいた。

 本当は、活も夏も寂しそうな素振りは見せていない。

 しかし、美千代と洋平を悲しませたくなかった。

 約束通り、九時前に帰宅した。

 善次郎が部屋に入ると間もなく、待ちかねたようにチャイムが鳴った。

「久しぶり」

ドアを開けた瞬間、一目散に美千代が活の前に駈けていった。

 洋平も嬉しそうに夏を抱く。

 活と夏はというと、これも嬉しそうにしている。

 寂しそうにしていなかったように見えたが、この様子を見ると、二匹も二人に会いたかったものとみえる。

 俺は、なんにもわかっちゃいなかった。

 考えてみれば、いつも二匹で、こいつらも寂しいいのだ。

 もっと猫の気持ちを勉強しよう。

 大いに反省した。

 美千代と洋平、活と夏。二人と二匹が寂しくないようにする方法はある。

「俺がいない時でも、いつでもこいつらに会ってやってくれ。そうしてくれたら、きっとこいつらも喜ぶに違いない」

 そう言って、美千代に合鍵を渡した。

 以外なことに、美千代は素直に受け取った。

 鍵を手にした時の美千代の顔は、本当に嬉しそうだった。

 そこまで、活と夏に参ってしまっているのだ。

 いらぬ幻想は抱かないようにしていた善次郎だったが、それでも少し寂しい気がした。

 活と夏が羨ましい。

 心底、そう思った。


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