第32話 夏

 夏。

 善次郎が付けた、斑の名前だ。

 夏に拾ったので、そう名付けた。

 安易といえば安易だが、それがぴったりくるように思えたのだ。

 しかし、直ぐに後悔した。

 活(かつ)と夏(なつ)。

 字こそ違え、どちらも同じような名前で、咄嗟に呼びにくい。

 だが、付けてしまったものは仕方がない。

 他に、いい名前も思いつかなかったので、そのままでいくことにした。

 夏を連れ帰ってから、一週間が経つ。

 その当時は、かなり弱っており、いつ死んでおおかしくないと思われたが、今では元気だ。

 普通に走ってもいる。

 脚を引きずりながらよろよろとしていたのは、どうやら、栄養失調だったみたいだ。

 夏は、連れ帰った日こそ牛乳しか飲まず、一晩中ぐったりとしていた。

 二日目の夜には、活と一緒に、餌を食べるようになった。

 三日目は、活以上に食べた。

 そして、四日目には、普通に歩けるようになっていた。

 活も、夏を気遣っているのが、善次郎には手に取るようにわかった。

 善次郎と活。

 一人と一匹の愛情に支えられて、夏は、みるみる元気になっていった。

 活の教訓を活かして、病院で検査も受けた。

 どこにも、異常はなかった。

 ほっとした善次郎の胸に、疑問が湧き上がる。

「どこも悪くないのに、どうして、母猫は見放したんだろう?」

「猫でも、分け隔てをするのだろうか?」

 この時にはわからなかったが、半年後、夏は猫にはあまり前例のない、珍しい病気を持っていることが判明する。

 多分、母猫は、それがわかっていて、見捨てたものと思われる。

 ともかく、夏は元気を取り戻した。

 今では、部屋中を所狭しと、活と追いかけっこをしている。

 夏は、雌だった。

 そのせいか、活も夏には甘い。

 なにをされても怒らず、いつも一緒にいる。

 どちからといえば、活の方から寄っていくことのほうが多い。

 よく、顔を舐めてもいる。

 たまに、あまりしつこくて、夏を怒らすこともある。

 が、そういったことは稀で、夏も活の顔を舐めて、返礼している。

 二匹が仲良くしてくれるのは、善次郎にとって、喜ばしい限りだった。

 善次郎は、雌は気が優しくておとなしいと思っていたが、夏は気が強かった。

 先生が言うには、大抵は雌のほうが気が強いそうだ。

 猫も人間も同じだと、笑って言われた。

 それは、女性に対して失礼ではなかろうかと思ったものの、理由を聞いて納得した。

 人間であれ、猫であれ、子供を産んで育てるのは女性だ。

 特に、大抵の動物は、ほとんどが女手ひとつで育てる。

 外敵から子供を守り、餌を探して与える。

 そのためには、しっかりしていなくてならない。

 その時に、一般に黒猫は気が優しくて、白猫のほうが気が強くて扱いにくいということも聞いた。

 そういえば、活もおとなしい。

 たまに咬まれることもあるが、こちらがなにもしなければ、自分から攻撃してくることはない。

 夏は、気にくわないことがあると、直ぐにフーと言う。

 夏は、鉢割れだ。

 黒い毛が、前頭部から鼻にかけて割れている。

 鉢とは、兜のこと指す。

 つまり、鉢割れとは、兜を割られるという意味で、昔の武士からは、縁起の悪いものと、忌み嫌われてきた。

 黒猫に鉢割れ。

 うちには、縁起の悪い猫が二匹もいる。

 なんてことは、善次郎は露ほども思ったことはない。

 活も夏も、好きでそんな毛並に生まれてきたわけではない。

 それに、活を拾ってからの三年間、善次郎にとって、何も悪い出来事なんて起こっていない。

 それどころか、それまでの人生より幸せになっている。

 前にも書いたが、縁起の良い悪いなどは、人間が勝手に造り出したことである。

 猫にとっては、いい迷惑だろう。

 今頃、あの親子はどうしているだろうか?

 元気な夏を見ながら、善次郎はときどき思うことがある。

 夏を拾ってから、ぱったりと姿を見かけなくなった。

 もしかしたら、夏を善次郎に拾ってもらうために、母猫は姿を現していたのかもしれない。

 善次郎は、母猫の愛情を信じたかった。

 この炎天下であのまま放っておけば、夏は、二日も持たずに死んでいただろう。

 それを思うと、夏は強運の持ち主だといえる。

 活も、そうだ。

 自分も、いつか、この二匹の強運にあやかれる日が来るかもしれない。

 そう言い聞かせて、夜中に仲良く運動会する二匹の騒音に、再び襲ってきた眠れぬ日々を我慢している善次郎であった。

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