第2話 欲
善次郎は、明け方に帰ってきた。
ドアを開けるなり、猫の名前を呼んだ。
今、善次郎は警備員の仕事をしている。
主に、夜の警備に就いていた。その方が、よりお金になるからだ。
なにせ自分だけでなく、猫も食わせなければいけない。
この不況の折、元社長なんて肩書きは通用しない。
それどころか、普通のサラリーマンより、転職は不利だろう。
一生懸命仕事を探したが、案の定、どこも雇ってくれるところはなかった。
会社を畳むおり、一切合財を持っていかれた善次郎は、仕事を選んではおれなかった。
どこだろうが、自分を雇ってくれる会社に即座に入った。
それが、警備会社だったのである。
といっても、正社員ではない。
病気でもすれば、直ぐに職を失うことになる。
それだけ厳しい環境でありながら、善次郎は生き生きとしていた。
仮にも、会社を経営していた者が警備員になるなんて、以前の彼だったら、情けなくて涙が出たことだろう。
それ以前に、そんな選択をしなかったに違いない。
自棄になり、今頃はこの世にいないか、高い塀の中で過ごしている可能性が高い。
だが、今は違う。
あの日、子猫と出会ってから、善次郎は変わった。
夜勤明けだというのに、善次郎の顔に疲れは見えない。
善次郎も、もう中年の域に差し掛かっている。夜勤をして疲れないはずはない。
疲れてはいるのだが、子猫の顔を見ると、不思議なことに疲れなど吹き飛んでしまうのだ。
四畳一間の文化住宅である。そこで、善次郎と子猫の共同生活が始まっていた。
活(かつ)。
子猫は、そう名付けられた。
子猫は、痩せ衰えた小さな体で、強風にも負けず、生きようと必死に四肢を踏ん張っていた。
その姿に、絶望の淵にいた善次郎は、生きる勇気を貰った。
だから、活と名付けた。
雄だったのもある。
活は、黒猫だ。
だが善次郎は、そんなことは気にもしていない。
活と出会うまでは、黒猫を見ると縁起が悪いと思っていた。
今にして思えば、愚かなことだ。
黒猫が縁起悪いなんて、ただの迷信に過ぎない。
現に、自分は黒猫に、活に救われた。
黒猫だって、立派に生きている。
それを縁起が悪いと忌み嫌うのは、人間のエゴ以外のなにものでもない。
一番縁起の悪い生き物は、人間ではないか。
善次郎は、今ではそう思っている。
いや、縁起の悪いどころではない。
自分たちの欲望のためなら、どんなことでも平気でやってのける。
罪もない動物たちを絶滅させ、限りある資源を、将来のことなど少しも考えずに、浪費しまくっている。
そのくせ、綺麗事ばかり並び立てている。
動物や植物にとって、これほどタチの悪い生き物はいない。
自然界、いや、地球にとって、人間が一番ろくでもない生き物なのだ。
そんな人間が、黒猫を縁起が悪いとは、よく言ったものだ。
活を見ていると、善次郎は、これまでの自分の傲慢さを思い知らされる。
欲を捨てる。
活から、それを学んだ。
欲といっても、生きるために必要な欲は捨てない。
逆に、生きるためには貪欲になったような気がする。
金銭欲、物欲、権力欲、そういった類の、生きていくためには必要のない欲である。
必要でないばかりか、却って邪魔になる。
人間社会では、そういったものがなければしんどいだろう。
くらだない欲を持ったものがいい目をし、欲のない者が損をする。
それが、人間社会というものだ。
六畳一間の部屋、きつい仕事、安い賃金。
それでも、善次郎は幸せだ。
寝るところがあって、毎日ご飯が食べれる。
これ以上、何を望むというのか。
それを、活が教えてくれた。
受験戦争や出世競争。それらは、決して生きていくために必要なのではなく、より良い生活をするために必要なのだ。
そのために、鬱になったり過労死したりすることもある。
なんと、本末転倒なことか。
それだけでも大変なのに、さらに、見栄というやっかいなものが存在する。
これも、一種の欲であろう。
自慢したい、恰好をつけたい、人と差をつけたい。
自分もそうだった。
そういった欲が人一倍強かったから、会社を興して社長になったのだ。
なんと、くらだないことだ。
今ではそう思っているし、大切な時間を棒に振った気にさえなっている。
限られた人生なのに、もったいないことをしたものだ。
どんなに長生きしても、楽しまなければ価値がない。
将来を考えて苦しい思いをしても、明日死ぬかもしれないのだ。
だったら、今を楽しまないでどうする。
不思議だが、活を見ているとそんな気になる。
そんな善次郎の気持ちを知ってか知らずか、活がニャアと鳴いた。
餌をくれと催促しているのだ。
善次郎は苦笑した。
生きる欲。
これだけはしっかり持っておこう。
活に餌をやりながら、善次郎は、いつもそう思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます