絆・猫が変えてくれた人生
@f_yamato
第1話 風
風が、吹いていた。冷たい風が。
うららかな春の日に、突然やってきた、冬の嵐。
道行く人々は、みな上着の襟をかき合わせ、俯き加減に歩いている。
そんな風の中、いったいどこへ向かっているのか、冷たい風などまっ
たく意に介していない様子で、脇目も振らず真っ直ぐ前を向いて、足
早に歩いてゆく男がいた。
その男、善次郎には、こんな風より、世間の風のほうがよほど冷たかった。
つい先日、彼の経営していた会社が、不況の煽りを受けて倒産してしまった。
善次郎が経営していた会社は、世界に名だたる家電メーカーの下請け工場だった。
景気の良い時は、二十四時間フル操業しても生産が追い付かないくらい忙しかった。
メーカーもじゃんじゃん仕事を回すから、もっと機械と人を増やせと要求してきた。
それが、自分の会社の業績が悪くなると、途端に手のひらを返したように冷たくなり、めっきり仕事が回ってこなくなった。
このままでは会社が立ちいかなくなる。
そうなると、社員が路頭に迷ってしまう。
仕事が減ってからというもの、もっと仕事を回してくれるよう、善次郎は何度もメーカーの責任者に仕事を回してくれるよう、頭を下げに行った。
しかし、メーカー側の対応はつれないものだった。
「そんなことは知ったことではない。こちらもリストラを進めているのだ。うちにばっかり頼らず、少しは企業努力をしたらどうだ」
いかにも、善次郎が悪いといった態度だ。
善次郎は初めて、大企業というものの身勝手さを知った。
だが、遅かった。
これまでそこに頼りっぱなしで、他の市場など開拓してこなかった。
その点では、メーカー側の言うように、企業努力を怠ってきたのは事実だ。
メーカーに頼るのを諦めた善次郎は、新規開拓を試みた。
しかしこの不況下で、新しい取引先など見つかるわけはない。
どこへ行っても冷たくあしらわれた。
業績が良い頃は、あんなに借りてくれとしつこく言ってきた銀行も、会社が傾きかけると見向きもしなくなった。
少しばかりの借り入れも断られる始末だった。
あんなに順調だった会社が、潰れる時は実に呆気なかった。
倒産と同時に、妻は三行半を叩きつけ、小学六年生になる子供を連れて出て行った。
親しいと思っていた仲間も、ことごとく離れていってしまった。
今や、善次郎はひとりぼっちだ。
誰ひとり頼る者もなく、相談する相手もいない。
そのうえ、家は借金のカタに取られ、直ぐにも出てゆかねばならない。
新しいところに越そうにも先立つものがない。
善次郎は、全てを失ってしまった。
(どうにでもなれ)
善次郎は自棄になっていた。
(川に飛び込もうか、それとも、銀行強盗でもしてやろうか)
そんなことを考えながら、寒風の中をあてもなく歩いてゆく。
そんな善次郎の耳に、風の叫びに混じって、かすかな猫の鳴き声が聞こえてきた。
足を止め、辺りを見回す。
善次郎は、動物にはまったく興味がなかった。
それなのに、なぜ、声の主を探す気になったのか、自分でもわからない。
鳴き声は、善次郎が立ち止まっている、直ぐ傍の電柱の陰から聞こえてくる。
善次郎が電柱の裏を見ると、そこには、強風に飛ばされまいと四肢を踏ん張り、善次郎の顔を見上げている子猫の姿があった。
電柱の陰とはいえ、風は強い。
こんなに小さいのに、この強風に負けず踏ん張っている子猫の姿に、善次郎はなにやら感動を覚えた。
しゃがんで、子猫の頭を撫でてやる。
子猫が嬉しそうに目を細めて、一際大きな声で鳴いた。
応えるように、善次郎が微笑んでみせた。
親とはぐれたのか、親に見放されたのか、それとも親が死んでしまったのか、いくら野良とはいえ、まだ独り立ちできる大きさとは思えなかった。
どう見ても、生まれて一ヶ月と経ってはいないだろう。
ろくに餌にもありついていないのか、ガリガリに痩せている。
生きているのが不思議なくらいだ。
こんな子猫ですら、必死で生きようとしている.
俺は、踏ん張ったと言い切れるのか?
自問してみる。
まだだ。まだ、頑張りきったとはいえない。
俺は、この子猫にも及ばない。
そう思うと、思わず子猫を抱きあげていた。
子猫は、善次郎の腕の中で震えている。
それでも、善次郎の顔を力強く見つめ、嬉しそうにひと声鳴いた。
「お互い頑張ろうぜ」
善次郎には、そう聞こえた。
こんな子猫に、励まされるなんてな。
善次郎の顔に、自嘲の笑みが広がる。
「腹が減っているのか。よしよし、俺と一緒に行こうな」
そう言って、もう一度子猫の頭を撫でてやった。
子猫が、嬉しそうにまた鳴いた。
子猫を懐に入れて、善次郎はその場を去っていった。
もう一度やり直そう。こいつと一緒に。
子猫の温もりを胸に感じながら、善次郎は生きる気力を取り戻していた。
気が付くと、いつの間にか風は止んでいた。
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