第9話 深い青色の瞳

 トンと体に小さな衝撃を感じて目が覚めた。


「あっ、起こしちゃった?」


 毛布から出ようとしたエリナの手が、俺の腕に軽く当たったようだ。


 暖かい毛布を抜け出し窓の戸を開けると、薄暗い納屋の中が明るくなる。しかし、天気は昨日と変わらず土砂降りの雨だ。いつになったら止むんだろう……。

 エリナはシーツの上に座ったまま窓の外を見ている。


「えっ………………」


 俺はエリナの顔を見た瞬間、驚きのあまり言葉を失った。

 エリナの深紅の瞳が黒くなっている! 昨日の夕方までは深紅だったのに何で……。


「どうしたの? アーウィン……」


「エリナ……瞳が黒くなってる……」


「ええっ、私の目が……黒く!? そんな……いつもと変わりないのに……」


 エリナは動揺した様子で、目の前に持ち上げた両手をパタパタとひるがえす。


「うん……ちゃんと見えてるし、体も……普通」


 理由は分からないけれど、体調に変わりが無いのならあまり気にしなくてもいいのかな。でも、一晩で瞳の色が変わるなんて不思議だ……。


 改めてエリナに顔を近付け瞳を覗き込むと、その色は真っ黒ではなく深い青色だった。この見た目だと、普通の少女にしか見えない。


「黒じゃなくて深い青だ。でも、特に変わったところが無いなら気にしない方がいいな」


「うん、でも、どうなっちゃったのかな。瞳の色が変わるなんて聞いたこと無いのに……」


 この変化が精霊添い特有のものじゃないとしたら何なんだ。でも、それを聞く相手もいないから知るすべも無い。


「まあ、考えても仕方ないな。エリナが元気ならそれでいいよ」


「そうだね、考えても仕方ないよね……」


 そう言いながらエリナはまだ自分の手のひらを見つめていた。


 しばらく雨音しか聞こえなかった納屋の中に、突然激しく戸を叩く音が響く。


「起きてたか? 昨日と同じだけど食べな!」


 女性はスープを置いてさっさと出ていった。昨日と同じスープだけれど、感謝の気持ち気持ちで余計に美味しく感じる。

 昨日の朝まであまり食べられなかったエリナも、人の優しさに触れたせいかちゃんと食べられるようになった。

 


 天気を気にしながら納屋の中で時間だけが過ぎてゆく。


 昼を過ぎた頃、地面を叩くような激しい雨は穏やかな雨へと変わっていた。もう少しでここを発つ事が出来るかもしれない。そう考えていると、また女性がやってきた。


「これから発ってもラトリーへ着く頃には日が暮れちまう。今夜も泊まっていきな」


 俺達はその言葉に甘えて泊まらせてもらう事にした。明日にはこの雨も上がっているだろう。


「それと、またその野菜をもらえるかい?」


 俺は残った野菜のうちキャベツ1玉、人参3本、玉ねぎ4個を女性に手渡した。




 二人ののんびりとした時間が流れる……


 俺は小さくなった雨音を聞きながら、自分のオドに集中してみた。どんなものか一度分かれば、案外簡単にしっとりとした感触が見つかる。


「俺も精霊の力を借りる事出来るのかな……」


 ふと思ったことが口をついて出た。


「うん、多分ファラエはアーウィンの事が好きだから、火の精霊の力は借りられると思うよ」


「好きとか……精霊にもあるのか?」


「精霊だって嫌いな人の所には来てくれないわ。アーウィンが気に入られたら火以外の精霊も力を貸してくれるんじゃないかな」


 気に入られたら……か。

 じゃ、ファラエは俺をずっと見ていて気に入ってくれたのか。


「精霊の力を借りたい時はどうすればいいんだ?」


「えっと、じゃあね、右手のひらを上に向けて」


 俺は言われた通り自分の前に右手のひらを出した。


「手の上に小さな火がつくのを想像しながら、少しだけ指先からオドを出して……」

 

 右手の上に意識を集中して、小さな火……蝋燭のような小さな火……揺らめく火……そしてオドを少しだけ……。


 オドを出した瞬間、俺が意識を集中していた何も無い場所に、音もなく小さな火が灯った。蝋燭の火のような、想像したままの火だ。もう消えてもいいと思うと、火はすぐに消えた。


「今のが火の精霊の力。使い方でいろんな事が出来るし、オド次第で凄い威力も出せるんだよ」


 火が消えた後も、俺の手は驚きで指先が震えている。この信じられない力はどう使えばいいんだろう。


「火の精霊の助けがあれば……火打ち石はいらないな」


「フフ……」


 エリナが小さく笑った。


 気が付くと雨は上がり、茜色の薄い雲が空を染めている。閉めたままの戸を開けると、少ししてボウルを両手に持った女性が入ってきた。

 受け取ったスープは昨日のキャベツ、人参、玉ねぎに加えて、麦と豆が入り、器の縁までなみなみと注がれている。


「ありがとうございます。すごい量ですね……」


「若いんだから、この位食べなきゃだめさ。雨上がってよかったね」


 女性は相変わらず表情を変えないまま、少し言葉を交わしただけでそそくさと出ていった。


 受け取ったスープには麦が入っているので、少しとろみがある。具だくさんというより具ばっかりだ。これもやっぱり旨い。昨日の倍はありそうなスープを平らげると、完全に満腹だった。


「もう、お腹いっぱい……」


 そうつぶやいたエリナを見ると、俺と同じだけ平らげて少し苦しそうだ。こんなに食べたのはいつぶりだろう……。


 明日はいよいよオイローのいるラトリーだ。エリナの深紅の瞳を隠しながらの旅を覚悟していたのに、まさか瞳の色が変わるなんて思わなかった。理由が分からなくて素直に喜ぶ気にはなれないけれど……。



 俺達は明日に備えて早めに眠りについた。





「おい、起きてるかい」


 女性が一気に戸を開け、朝の日差しが納屋の中を明るく照らした。


「ほら、昨日と同じだけどメシだよ。後でまた来るからね」


 そう言い残し女性は出て行った。今日のスープも……すごい量だ。ボウル一杯のスープをなんとか平らげ、シーツと毛布を片付ける。荷物といえば野菜しかないけれど、これはラトリーまで持っていく必要はないだろう。

 ここを出る準備と言っても、特にする事は無い。


 何も無い空っぽの納屋。二日も過ごしたここを後にする前に、ぐるりと見回していると、そこへ女性がやってきた。


「あんたらの服洗っておいたよ。あと、妹の服の破れたとこ繕っておいたから。それにこの袋もやるよ」


 女性は二人分の服の入った、大きな紐付きの布袋を俺に手渡した。


「兄ちゃん、頑張って、二人で生き抜くんだよ……」


 ずっと無表情だった女性の顔が少しだけ優し気な顔に変わった。


「本当に、ありがとうございました。この野菜はもらって下さい」


「おばさん、ありがとうございました……」


 家を後にしてグレナ街道へ戻っていく間、女性は開けたままの戸からずっとこちらを見ている。

 俺は感謝の気持ちと一緒に少しの心苦しさを感じながら、女性が見えなくなるまでエリナの手を引いて歩いた。


「アーウィン、すごく優しい人だったね……」


「ああ、いい人だったな……」


 俺たちはグレナ街道をラトリーへ向かう。足取りは軽く、このまま行けば昼過ぎには着けそうだ。


「あっアーウィン! あれって……海!?」


 ラトリーに入る手前で、遠くまで続く海と地平線が一望出来る丘に出た。穏やかな海面がキラキラと輝いている。エリナは海を見るのも初めてのはずだ。


「これが海……すごい、こんなに大きいの……ねえっ、すごいねアーウィン!」


 眩しい海を眺めながらエリナの瞳が輝く。エリナが初めて見せる笑顔に、俺も自然に口元が緩んだ。

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