第2話 ぼくと半分
昔からぼくは、なにをするにも半分だった。
たとえば小学生のとき。
ぼくはなぜか下級生を取りまとめて遊ばせるような立ち位置にいて、毎日休み時間になると大勢を連れだし、鬼ごっこやらドッヂボールやらと遊びまわっていたものだった。
楽しかったかと言われれば楽しかったし、楽しかったこと自体は偽りではないのだろう、多分。
だが、そんな自分を上から見下ろしている自分にも薄々感づいていた。
「そんなものの何が楽しいんだよ」と嘲笑わう自分の存在は、歳を重ねるごとに濃くなっていくばかりだった。幼い頃はそんな自分が嫌いで仕方なかったが、今はもう抵抗すら放棄している。
これも自分であるらしいのだから仕方ない。
こんな感じで、ぼくのこころには、嫌になるくらい『明』と『暗』がくっきりと住み憑いていた。
自分の子供がこんなことを言い出したら、両親が慌てふためいて心配するのは目に見えているから、親にも話したことはない。
大人と呼ばれる類の人たちにどこまで分かってもらえるかと試したことはあるが、それすら無駄だった。子どものぼくを子供と割り切っている。
「たかが子供の言う事」という考えがもろに透けて見えてしまって、絶望にも似た諦めとともに「大人」に期待するのをやめた。
だが、大人でさえ理解できないのだ、況んや子どもをや、である。
規律破りを何かの勲章かのように思っているらしい人達、昨日まで仲良しごっこをしていたのにも関わらず呆気無く崩壊していく「友達」、誰々が先生に媚を売っているだとか誰彼は誰それが嫌いだとかいうどうでもいい噂、そんなくだらなくて幼稚なことで騒いでいる同級生たちを見て、諦め、というか最早軽く引いていたのはきっとぼくだけなんだろう。
どうでもいいよそんなこと、放っておいたらいいじゃん、なるようになるよ、という苛立ちを30倍くらいに希釈し、物腰の柔らかさにご丁寧にも微笑みまで加え、熨斗に包んで伝えてやったところで彼らに通じるわけもなく。
幾度となく繰り返してはがっかりしを繰り返して、彼らはそういうことが理解出来ない人達なのだという考えに落ち着いた。故に、もう理解すら求めることもなくなった。
こんな感じでぐだくだと18年も生きてれば、嫌でも自分のほうが異質だということに気づいてしまう。
正しいか間違っているかには言及せずとも、ぼくのような考え方がかなりの少数派であることはきっと確かである。
画面の向こうの貴方や貴女は、これを読んでどう思うのだろうか。意味がわからないと思うだろうか、はたまた手前如きがなにを高尚なことを語っているんだと思うだろうか。
どちらにせよ構わない。ぼくは、ずっとこうして生きてきたのだから。きっとこれからも変わることはない。
どんなに辛くとも苦しくとも、こうして生きていくより他に道はないのだな、と考えては諦観達観傍観の波に溺れる18と3ヶ月の夏である。
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