俺の親父の顔
左手を顔に翳し、仮面を消した理奈。ソファに座る。横顔が夕日に照られていた。笑っている。よかった。機嫌は直ったみたいだ。
「服、汚れちゃってんじゃん」と俺。
「安物だし。それにどうせ明日から寮生活だから制服に戻るし」
お互いのことだった。明日から俺も理奈も高校に入学して、対クリーゼ戦に向けた訓練を受ける。だからこの探偵事務所も今日で終わりだ。
階段を上ってくる足音が聞こえる。
「もしかしてお化け?」と怯える理奈。既にソファの後ろに飛び込んで、頭だけ見せて泣きっ面だ。さっき俺を殺そうとした癖して、お化けだけは昔から苦手だから笑える。
「親父だよ」
わかっていたこと。「今夜来るって言ってたんだ」
俺が十二歳でこの事務所を借りれたのも、親父の名義だったから。俺が今まで、一切の報酬を受け取らずに探偵を続けてこられたのも親父が金を出してくれてたから。
「そっか。お化けじゃないんだ。よかった。じゃ私、帰ろうか」
「また明日」
理奈の背中。ロングスカートが振れて、揺れる。俺から離れていく赤い斑点のついた白いブラウスを着た理奈。もう手は届く範囲にいない。
探偵事務所の扉が開いた。鈴が鳴る。
「あ、麻切さん。こんにちは」
俺の親父の顔。お辞儀をして倒れる理奈の上半身。
「こんにちは。綺麗になったね」と親父。理奈に対して馴れ馴れしいけど、かつては家族ぐるみの付き合いだったわけで、まぁしょうがない。
「麻切さん、ネクタイがほんの少しだけ曲がってます」
曲がってなんてない。理奈め。俺が嫌がるのをわかってて、わざとやってるんだ。
「もう帰るの?」
「はい。今夜は両親と食事があるので」
「そうか。じゃまた明日」
「はい。また明日」
扉が閉まる。鈴の音が再び。俺と親父。探偵事務所に二人っきりだ。
「CLOSEの札を掛けておいた」
親父は事務所の中を見渡している。勝手にしやがって。
「掃除は完璧だろ」
「理奈ちゃんは良い子だな」
俺がやってないことはバレているらしい。「お前は昔から掃除が嫌いだった。苦手じゃないのに」
「護衛は?」と俺。
「死んださ」
「クソつまんねーよ」
「若者の冗談に合わせたつもりだったんだけどな」
俺は親父が嫌いだし、親父も俺が嫌いだ。面と向かって言い合ったことなんてないけど、絶対にそのはずだ。
「三年間はどうだった」
「最高」
「好きにさせたからな」
「好きにするだけの資質もあったしね、俺は」
「探偵事務所を与えた。生活費も与えた。一人暮らしもさせた。義務教育だってお前にとっては義務じゃなかった。殺人をしても揉み消すどころか、お前には殺しの免許まで与えた」
偉そうに講釈を始める親父。資質があったのは自分だ、と言わんばかり。だけど確かにそうだ。俺はただただ不死身なだけで、法的には未成年。物件とか銀行から金だって借りれない弱い存在に違いない。「そこに座っていいか?」
「隣は無理。前に座って」
親父は黙って従ってくれた。
「それもこれも企業国家連合体三条桜重工、取締役の私がいたから出来たことだ」
「自慢ですかぁ?」
「お前は自分にどれだけの価値があるのかまだ本当にわかっちゃいない」
「みんな限りある尊い命を持ってるのに、俺のは限りがないんだ。俺なんて全然尊くないクソ生物だよ」
名前の分からない虫が親父の向こうにある壁を這っている。油光りする黒いボディ。触覚が左右に揺れて、日焼けした壁を斜めに上っていく。親父の声が遠くになった。声の輪郭がぼやけて、焦点がずれていく。スーツの胸ポケットから煙草とライター。着火すると白い煙が立った。香りが届く。嫌いじゃない。給湯室の換気扇を回しにいくか、それとも窓を開けるか、どちらかを実行しなくてはと思ったが、もうどうでもよかった。煙草はいつか俺も吸おう。だけど今は駄目だ。親父の真似みたいに見られるのが嫌だ。
意識は漂う。
それくらいに親父の話は、退屈だった。
「何しに来たんだよ」と俺。
「親子水入らずしに」
「それもクソつまんねーよ」
「耕平、準備は出来てるのか?」
「もう出来てるよ」
ずっと前からわかってたこと。「それを吸い終わったら行こう」
「入学は明日だぞ」
「あんたの力でどうにでもなるだろ。企業国家連合体三条桜重工の取締役で、対クリーゼ戦特能兵士育成専門の学校、<<FAMUSES>>の学長に出向中のあんたなら思いのまま」
たっぷりの嫌味のつもりなのに、親父は眉一つ動かさないで、煙草を吸うだけだ。そうだよな。この国を経営してる三条桜重工の取締役だもんな。大昔で言うなら閣僚だよ。こんな嫌味なんて比にならないくらいの罵詈雑言を浴びながら、仕事してるんだよ、この人は。
「わかった」
何が親子水入らずだよ。
親子の関係なんて耐えれない。
早く生徒と学長の関係になりたかった。
「もう一本、いいか」と親父。
だからどうしてなんだよ。どうして親子の時間を引き延ばそうとするんだよ。俺たちはとっくのとうに終わってるじゃないか。
名前の分からない虫は、もういなかった。
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