涙の女王ー終

 店のレジカウンターに座り、本を読んでいると天草が入ってきた。20時の閉店に合わせて来たのだろうが少し気が早い。

「やぁ、そろそろ閉店でしょ?君の好きな冷やし中華買ってきたよ。一緒に食べよう」

「お、良いな。閉店まであと15分ある。うちで待っててくれ」

 天草にそんな事を言っていると店の戸が開いた。


「こんばんは。まだ大丈夫ですか?」

「いらっしゃい。大丈夫ですよ」

 時々やってくる青年だったので笑顔で出迎える。本が好きらしく何度か文庫談義で話し込んだことがある。休日にクロスバイクとか言うえらくカッコイイ自転車に乗ってやってくる事もあったが、仕事帰りのスーツ姿だった彼は目星を付けていたらしい3冊を買って帰って行った。


 暖簾を仕舞い玄関に鍵をかけ、店の中を抜けて部屋に上がると天草が冷やし中華を広げ、グラスに茶を淹れてくれていた。

「はい、おつかれ」

「さんきゅ」

 座卓をはさんだ向かいに座り一緒に麺をすする。冷やし中華は実に美味い食い物だ。

「そうそう、麻乃さんからお誘いがあったよ。撮影現場を見に来ないかって。順調で、もうじき撮影が終わるんだってさ。見届けてあげようよ」

「そうだな」

 彼女は今撮影している映画を最後の仕事にするつもりだと言っていた。



 ―――数日後。


 店に臨時休業の張り紙を貼っていると天草が車で迎えにやって来た。しばらく車で走り撮影所に着くと、あらかじめ渡されていた入館証を首からぶら下げて警備員のチェックを受ける。敷地の中に入って行くと、大きな四角い建物がいくつも並んでいて、大きなセットの一部らしい物がスタッフの掛け声と共に俺たちの隣を抜けていく。沢山の人がそれぞれの仕事をこなしながら所狭しと走り回り、実に活気に満ちている場所だった。


「すごいな……」

「ね!こんなこともなきゃ映画の撮影現場なんて見られないよ」

 彼女が撮影を行うという建物に入るとそこは明治時代の裕福な家庭を模した家のセットが組まれており、タイムスリップをした様な、俺たちには少し懐かしさを感じる場所だった。

「多葉さん、津江さん!来てくださったのね」

 セットの端でメイク直しをされている彼女が俺たちに気付き声をかけてきた。


「麻乃さん今日もキレイだね!」

「招待してくれてありがとう。撮影順調みたいで良かった」

「ええ、あなた方のお陰様で」

 笑顔でそう言った彼女はすっかり女優の顔をしている。


「根岸さん、そろそろ本番です」

「ありがとう。すぐ行きます。ゆっくり話せなくてごめんなさいね。今からラストシーンの撮影なの。最後まで見ていってくださいな」

 映画のスタッフに呼ばれ彼女はセットの中に入っていく。セットの中に入ると先ほどまでとは別人の様で、これから演じるべき人間になりきっていた。スタッフやカメラも配置につくと照明が彼女を照らし、周りの空気は一気にぴりっと締まったように感じて思わず背筋を伸ばす。


 掛け声と同時に撮影が始まると、しばらく呼吸を忘れそうな時間が流れる。役者たちの台詞が交差したのち、周りに沢山の人間がいるとは思えないほど静かな空間の中、彼女の涙が流れた。少しの沈黙のあとカットの声が響き、誰からともなく拍手がおこった。

 普段テレビを見ない俺が言っても説得力はないかも知れないが、至極簡潔な一言で言うならば「すごいものを見た」「魅せられた」とか「鳥肌が立った」とでも言えば良いだろうか。とにかく彼女の演技はそういうものだった。大勢の拍手に囲まれ、撮影の終了を祝う花束を渡される彼女は笑顔でとても輝いていた。関係者らしき人たちと一通り話し終えた彼女が俺たちのもとへ歩いてきた。大きな仕事をやりきった晴れやかな表情は抱えている花束すら霞んで見える。


「麻乃さん、お疲れ様ー」

「二人とも本当にありがとう。なんてお礼を言えばいいかのかわからない。最後に大きな華を咲かせることができたって思っています。思い残す事はないわ」

 そう言って微笑む彼女の目に噓はない。が、俺のもどかしいとも言える感情はすでに口から出ていた。

「俺は……次はアナタの笑顔が見たいと思った。スクリーンの中で笑うアナタを。きっとご主人やファンもそう思ってる」

「ねぇ君さ、槍の次は地球を爆発させる気?」

「やかましい、お前を見習って思った事を言っただけだ」

「ふふふっ、ありがとう」

 そう言って微笑んだ彼女はマネージャーの女性に呼ばれ控室に戻って行った。


「さて、地球が爆発する前に冷やし中華でも食べて帰ろっか」

「しつこいなお前。冷やし中華は賛成」


 その日食べた冷やし中華はなんだか特別美味いように感じた。



―――終。

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