涙の女王ー参
彼女は彼とのそんな会話を教えてくれた。彼は一人の女性を愛し、そして何より彼女の一ファンでもあった。
薬のせいで覚醒しきっていない彼に映画のオファーがきた事を話すと顔は生気を帯びて「やっぱりね、言ったろう?あの役をやるのは君しかいないよ」と笑っていたそうだ。そして、企画が順調に進み台本の出来上がりを楽しみにしているなか、彼は亡くなった。
「楽しみだね。撮影頑張ってね」
そう言って眠った。否、眠った様に見えたくらい静かに息を引き取ったそうだ。
「沢山泣いた、恥ずかしいくらい泣いたの。そして親しい人たちが集まってくれて葬儀をした。事務所も映画のスタッフもとっても気遣ってくれて。彼も最後に言ってくれたんだから頑張らなきゃって思ったの……本当にそう思ってるのよ……」
そこまで言った彼女は言葉を詰まらせる。その目からは先ほどよりも大きな粒になった涙がぼろぼろと落ちた。
「でも、泣けないの……台本が出来上がって何度も読んだ。役作りのイメージをして、でも、泣けなくて……こんなじゃプロ失格と言われても仕方ない」
今、目の前で彼の事を語る彼女はたしかに泣いている。だが、本物の底知れぬ悲しみを味わった。一人の女性として沢山の涙を流した彼女の、女優としての涙は涸れてしまったのだ。銀幕のスターとしての彼女を知っているわけではないが、そう感じた。
「この映画を最後の仕事にしようって思ってるんです。だから、彼が夢見た役を、最後の仕事をやりきる力を私に貸していただけませんか」
彼女は真っ直ぐに俺を見てそう言った。その芯の強い眼差しに影はなく、覚悟だけが見えた。泣きはらした目蓋は浮いていて、大きなクマまで作っている。きっと食事をとる気にもなれず、身も心も疲れているのにきちんと眠れてなどいないのだろう。そう、俺はその感覚を知っている。
「わかりました。では、ここにアナタの名前を」
彼女の人生と、そのすべてを聞き終えた俺は彼女の手元に、黒い和紙を束ねた宿帳の様な本を開き、深緑の紐でそれに繋がる1本の筆を渡した。
「えと……墨は」
「必要ありません。なにも考えず、ただそこに名前を書いて頂ければ」
真っ白な柄に
「麻乃さん、大丈夫だよ。彼の言う通りに」
戸惑いの目で見つめられた天草が笑顔で彼女を促すと、姿勢を正し名前を書き始める。黒い和紙の上を金の筆が滑るとその部分は淡く光り、白い文字が彼女の名前を記し、やがてその文字はなにも無かったかの様に和紙にゆっくりと沈み消えていく。にわかには信じがたい現象を目の当たりにした彼女は消えてしまった文字を探す様に本を見つめている。
「すごい、こんなこと……これは一体……」
「望む者に涙を生み、要らぬ涙を喰うと云われる物です。信じられませんか?」
彼女を怖がらせぬ様にこりと笑顔作ってから筆を受け取り、本と共に元の木箱に戻す。
「いえ、私はすがる思いでここに来た。そうでなければ、こんな事信じられなかったかもしれないけれど」
「良かった。映画の撮影はいつから?」
「3日後にクランクインするの。あ、ごめんなさい、私ったら貴方の名前も聞かずに」
ちらりと天草を見ると珍しく口をはさむ様子もなく茶を飲みながら座卓に出してあった菓子を食べている。
「
「なんて言うか……その、津江さん、お若いのに貴方はとても不思議な方ね。多葉さんに初めてお会いした時も似たような雰囲気を感じたのだけど、それとはまた少し違う」
色々な人生経験をし、様々な人々と仕事をする彼女ならではの感性がそう感じさせたのだろう。
「見た目より年をくっているだけです。俺とそこにいる彼は同い年ですよ」
普段、客にそんな事を言わない俺の発言に一番驚いてるのは天草だ。茶を飲んでいた手が口元までの道中で止まってしまっている。
「君、どうしたのさ……槍でも降らせる気かい?」
「やかましい」
「ふふふっ、仲が良いのね。さっき信じられない様な事が目の前で起こったばかりだもの。冗談の上手い方ということにしておくわ。それで、その、代金というか」
「いえ、お代は構いません。完成する映画で充分です」
「わかりました。私の女優人生のすべてをお見せできるように」
「楽しみにしています」
彼女を見送りに外へ出ると、すっかり日は沈み空には下弦の月が出ている。先ほどまで泣いていた一人の女性は女優の顔をほんの少し取り戻している様にも見えた。
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