第3話
僕が立っている場所は、広い荒野じゃなかった。
山肌にあるギリギリ立てるくらいの隙間を、崖に爪をくいこませて、足元を探りながら歩いている。
登るのは無理だ。
落ちるのは簡単だ。
手を離してしまいたい誘惑。
あいつも、あいつも下にいる。
それでも落ちなかったのは、ただの偶然だろうと思う。
気がつけば、なんとか平坦な場所に立っていた。
僕は地方の中小企業に就職して、家を離れた。
つまらない。
いつの間にか、そんなことも考えなくなっていた。きっと頭の中が麻痺してしまったんだ。
社内でなんとなく良い雰囲気になった女性がいた。
気がつけば結婚することになっていた。
みんながおめでとうと言ってくれる。彼女は最高に嬉しそうだ。それを見て僕も嬉しくなった。
僕は正しい道を進んでいる。
その実感は確かにある。
僕は満足していた。
すぐに妻が妊娠した。
だんだん大きくなるお腹を見て、僕はなんとも言えない気分になった。嬉しいというよりも、とまどい、不安な感じだ。
彼女は普通に働いている。年齢は下だけど、専門学校卒で入社しているので先輩になる。僕よりもずっと人脈が広い。そこそこで済ませておけばいい仕事も最後まで全力を出す。そのおかげで上司からも当てにされている。
大丈夫なのかな、と思う。
もっと休めばいいのに。
けれど、何事もなく子供は生まれてきた。
僕は嬉しさよりも、ほっとした気持ちの方が大きかった。
彼女は産休と育休を最大限に活用して、さっさと仕事に復帰した。
家の中はフル回転だった。彼女の指示は的確で、言う通りにしていれば間違いはない。僕も休む間がないくらい忙しくなった。
とにかく忙しく日々が過ぎていった。
子供はすぐに歩きだし、喋りだし、走り出し、対して僕は疲れがとれにくくなり、走れなくなり、息がきれる。幸せだとか不幸せだとか、そんなことを考える時間もなかった。
飛ぶように流れていた時間が、急に止まった。目の前が暗くなり、気がつくと白い天井。病院のベッドの上だった。
頭がぼんやりして何も考えられなかった。言葉が出ない。腕も足も他人のもののようだった。脳の血管に異常があったのだと言われたが、理解できたのは何週間もたってからだった。
体は思うように動かなくなった。記憶もところどころが欠けて、思い出せないことがたくさんあった。
ベッドの上で、息苦しいほどの不安に襲われる。これまでのことを思い出せないのに、これからのことを考えることもできない。
僕は何もできなくなってしまった。
妻は仕事が終わると毎日子供をつれて会いにきてくれる。
涙が出た。
情けなくて。
妻が来るといつも泣いていた。
僕は彼女の重荷になっている。
僕は何度も「別れてくれ」と言った。
妻は「何をバカことを」と言って笑いとばした。
そして僕はまた泣いた。
リハビリを続けて、退院した。なんとか日常生活を送れるくらいには回復した。少しずつ家のことをできるようになっていった。
相変わらずすぐに涙が流れた。いきなり不安になったり、頭がおかしくなりそうなほどイライラすることもある。感情的になるのも、脳の機能障害だと知った。
目の前に光が見えることがある。きらきらと、真っ白な火花が散るように。
視界の中に妻と子供がいる。他愛のない話をしている。
光が現れて、二人を包む。
これほどきれいなものが、他にあるだろうか。
たとえようもなく、幸せな気持ちになる。あまりにも幸福で、僕はまた泣く。嬉しくて泣く。ふたりが笑っている。
「お父さんがまた泣いてるよ」
それも障害なのかもしれない。
だけど、こんなに美しく幸福なものがあるだろうか。僕以外の人には見えていないとは、残念でしょうがないと思うのだ。
僕には天使がみえる まりる*まりら @maliru_malira
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