ⅩⅥ 林檎の木の島へ(1)

 その日、新生円卓の騎士団と、彼らによってアーサー王の生まれ変わりにされたアルフレッドの姿はグラストンベリーの街にあった……。


 今日は日曜でもあり、昼下がりのグラストンベリーは多くの人々でごった返している……ただし、それはこの有名な観光地を訪れた旅行客達によるものばかりではなく、何か祭りでも行われているような、そんなわくわくと気分の高揚する喧噪がこの街全体に漂っているのだ。


 ここ、グラストンベリーには1971年以降、ヒッピーが頻繁にやって来るようになり、世界最大の野外ロックミュージックの祭典〝グラストンベリー・フェスティバル〟が開かれたり、非体制的な催し物が盛んに行われるなど、今やロックの聖地、カウンター・カルチャー的な若者のメッカとなっている。


 じつはこの日も昨日からの夜通しで、小規模ながら野外フェスがグラストンベリー・トールという丘の麓で開かれているのである。


 だが、彼らがここへ来た目的は、なにも野外フェスに参加して、窮屈な逃亡生活で溜まりに溜まった日頃の鬱憤を晴らすためなどではない。


 今やブリテン全土で指名手配中の彼らがわざわざこの地を訪れた理由……それは、ここがカムランの戦いの後にアーサー王の運ばれた〝アヴァロン〟の最有力候補地だからである。


 ではなぜ、グラストンベリーがアヴァロンであると考えられるようになったかといえば、グラストンベリー・アビーと呼ばれるこの地にある僧院の廃墟で、なんと、アーサー王と王妃グウィネヴィアの墓が発見されたからである。


 その僧院はアングロ・サクソン、ノルマンの時代を通じて重要視され、宗教改革によって破壊される以前はカンタベリーよりも広い敷地をもった、ブリテン島で最も壮大な大修道院であったらしい。


 三十年ほど前にラレフ・ラドフォードという考古学者が発掘にしたところ、平石を並べた古代の墓地と、おそらくはケルト人の修道院跡だろうと思われる遺構も見付かっている。


 また、6~7世紀のものと思われる地中海産の銅製香炉も出土しており、ローマ教皇からブリトン王へ派遣されたルシウスが建てたとか、アイルランドへ布教に行く前に聖パトリックが建てたなど様々に云われているが、果たして七世紀以前に修道院が存在したかどうかはわからない。


 まあ、いずれにしろ七王国時代にはアーサー王の王国候補であるドゥムノニア王国の支配地域内で、重要な修道院として見られてはいたようだ。


 そんな重要施設だったためか、『ギルダスの生涯』という書物には、メルワス(メレアガンス)がグウィネヴィアを誘拐してグラストンベリーに連れて来たが、ギルダスがメルワスとアーサーの仲をとりもって和睦させたというような話も載っている。


 それはともかくとして、肝心のアーサー王とグウィネヴィア妃の墓であるが、その発見のそもそもの発端は1189年、死ぬ間際のヘンリー二世がブリトン人の吟唱詩人からアーサーの墓の場所を明かされたことだった。


 そこで1191年、ヘンリーの跡を継いだリチャード一世の支援を受けてグラストンベリーの修道士達がその場所を掘ったところ、小さな骨と大柄な男性の骨、黄金の髪の房の入った柩、そして「ここ、アヴァロンの島に著名なるアーサー眠れる」とラテン語の銘の刻まれた鉛の十字架が出てきたのである。


 その後、そのアーサー王夫妻の骨と柩は主祭壇の下に再埋葬され、廃墟となる前までは巡礼の目的地として有名だったそうだ。


 現在、その墓の場所は四角くブロックで囲まれ、解説の書かれた看板が立っている。鉛の十字架の方は所在不明となっており、その姿はウィリアム・キャムデンによるスケッチに窺い知れるのみだが、近年、図案家のデレック・マホニィなる人物が、自分がそれを発見し、再び埋め直したと主張しているという。


 しかし、このもっともらしい故事来歴を持つ墓も、実際には6世紀以降のものであるようだ。


 その発掘自体は本当に行われたらしく、発掘場所から5、6世紀の住居跡も確かに見付かってはいるのだが、巡礼の布施による収益を増やすために当時の修道士達が捏造したというのが多くの者の見解である。


 十字架もその銘文の文体から見るに、12世紀よりは遥かに古いものだが、さすがに六世紀までは遡らないそうだ。


 墓の発見の背景には、当時、イングランドを治めていたのが征服者のプランタジネット朝であり、アングロ・サクソンに打ち勝ったアーサー王をシンボルとして利用したかったということもあったかもしれない。


 また、そこには敵対していたフランスのカペー朝がシャルルマーニュ大王を崇めていたことへの対抗心というのも少なからず含まれていたことだろう。


 ところが、例えその墓が偽物であったとしても、アヴァロン=グラストンベリー説は依然として揺るがぬ人気がある。


 アビーの南東にはグラストンベリー・トールと呼ばれる、等高線のような段の付いた小高い丘があるのだが、アーサー王が運ばれ、埋葬された場所はこちらの丘だというのだ。


 現在は中世後期に建てられたセント・マイケル教会の塔の残骸が頂に立つのみだが、中世初期には周囲を沼に囲まれていたそうだ。確かにそれならば〝島〟と呼ばれてもおかしくはない光景である。


 こちらも科学的な発掘調査の結果からいうと、1960年のフィリップ・ラーツの発掘では、木造建築物跡、料理に使われた動物の骨、坩堝のような金属加工に使う道具の他、ローマのタイル、地中海産のアンフォラ、大陸ケルト風に作られた頭部像など、準ローマ時代―即ちアーサー王の時代にこの地で人間が活動していた証拠が発見されている。


 遺跡の性格としては、異教徒の神殿、キリスト教隠者の庵、弱小族長の砦、サクソン人の侵入を知らせる信号塔などの可能性が考えられているが、もしも宗教的な施設であったならば、王の遺体が運ばれる場所としては相応しいかもしれない。


 ちなみに、グラストンベリーを含むサマセット州は国内有数のリンゴの産地であり、今でもリンゴを原料に作られた酒〝シードル〟が特産品であるが、このリンゴもやはり〝林檎の島アヴァロン〟を連想させるものである。


 アヴァロン〈Avalon〉という名は、おそらくは〝リンゴ〟を意味するケルト語の〝abal〟からきているものといわれ、そこは美しいリンゴで名高い楽園であったとされているのだ。


 それに加えて近年、アーサー王伝説とはまた別の観点からも、グラストンベリーは古代の、そして現代の〝聖地〟としてある種の人々から崇められている。


 例えば、神秘家のディオン・フォーチュンはグラストンベリーをエネルギーの中心であると唱え、現代に復活したドルイド教団はここを古代ドルイド教の神殿だと信じて巡礼している。


 かつて〝西の教長区カソリケイト〟と称するカトリックの一派があったが、これを率いていたのも〝グラストンベリーの族長〟と称する宗教家であった。


 そうしたここを異教の聖地と関連付ける考え自体は古くからあり、ジョン・オブ・グラストンベリーによると、マーリン以前に生きたメルキンなる人物の著した予言書がグラストンベリー僧院にあり、難解なラテン語なので解釈は困難だが、凡そ「グラストンベリーは異教徒の埋葬場所であり、ここでアリマタヤのヨセフの墓が発見されるであろう」というようなことが述べられているらしい。


 また、「ノストラダムスを根拠としたレイライン理論」の信奉者達は、風水・ダウジング・UFOの目撃なども根拠に、サマセットの土地直径17キロの円形の範囲内を十二宮になぞらえ、グラストンベリーはその一つであり、その他の有史以前の遺跡も偉大な地の力を結ぶ直線上にあるのだと主張している。


 十二宮といえば、K・モルトウッドも『グラストンベリーの星座案内』で、グラストンベリー周辺の風景には天の十二宮に対応した巨大な図像が隠されており、それが〝聖杯の探究〟のエピソードに関連していると指摘する。その図像の存在は学問的に認められていはいないものの、支持する者は割と多い。


 一方、直線云々の方はいわゆる〝レイライン〟と呼ばれる聖地、パワースポットを結ぶ大地のエネルギーが流れる線のことで、特にカンタベリー、ストーン・ヘンジ、グラストンベリー、セント・マイケルズ・マウントを結ぶ直線は〝聖マイケルライン〟または〝太陽の道〟と呼ばれる重要なものなのだそうだ。


 さらには、グラストンベリーはあらゆるレイラインが交差するセンターだと唱える輩もいるらしい。


 後半の方はなんだか怪しい話になってきたが、確かにここまで色々あると、グラストンベリーこそがアヴァロンであると考えるのもわからなくはない話である……。

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