Ⅳ 展覧会で巡るアーサー王文学史(3)

 さあ、ここからがいよいよ待ちに待ったフランスの出番だ。


 なぜ、フランス系の王朝がジェフリーの偽史を支持したかといえば、アーサー王という人物が、自分達の支配するイングランド人――アングロ・サクソンではなく、ブリトン人の王だったことに加え、ジェフリーの説くアーサーの王国の版図は、まさに自分達の支配を望む領土の範囲とかぶっていたからである。


 つまり、この伝説の王の偽りの事績を、自らの支配権を正当化する道具として利用したというわけだ。


 他方、そんな思惑から権力者の後ろ盾を得たことにより、ジェフリーへのまっとうな批判はことごとく掻き消され、当時の公用語であるラテン語で書かれたこの自称〝歴史書〟は、アーサー王伝説の正統派テキストとして全世界に広まっていくこととなる。


 言うなれば、このアーサー王伝説の骨子となる書物が広く読まれるようになったのからしてフランス人による功績なのだ。


 もしも当時の王朝がジェフリーを認めていなかったとしたら、ここまでアーサー王という人物が偉大な王として語られることもなかったかもしれない。いや、それどころか、アーサー王という名を知る者自体、もっと少なかったことだろう。


 だが、フランス人の果たした役割はこれだけに留まらない。


 さらにはこのイングランドとフランスの双方に跨るフランス人の王朝――プランタジネット朝の宮廷において、ブリテンの王の偉業を記した伝説は、今日見られるような円卓の騎士達の活躍を描くロマンスへと、新たな進化を遂げていくこととなるのである。


 もっとも、その初期に橋渡し役をしたのは、ブリトン人が移り住んだブルターニュ地方の、竪琴に合わせて歌われる叙事詩――〝レイ〟であったりもするのだけれど……このブルターニュの吟遊詩人達がレイで謳うアーサー王の活躍をもとに、宮廷に仕える〝学のある男女トルヴェール〟と呼ばれる作家達は〝ブリテンもの〟という物語を作っていったのだ。


 最初に〝アヴァロン〟や〝円卓〟、〝ケルト神話〟などの要素をフランス文学へ持ち込んだのは、そんな宮廷詩人の一人、ノルマン人のロベール・ワースであった。


 彼は1150年頃にヘンリー二世の妻アキテーヌのエレアノールへ『ロマン・ド・ブルート(ブルータス物語)』を献呈し、ジェフリーとブルターニュの語り部達によって伝えられてきたアーサー王の記録を、宮廷騎士物語――つまりは騎士道や騎士達の恋愛、宮廷の風習などが語られる騎士達の物語へと近付けることとなる。


 そして、続く12世紀後半、同じくフランスの宮廷詩人クレティアン・ド・トロワと、シャンパーニュ公伯夫人にして女性詩人マリ・ド・フランスの二人によって、完全なる宮廷騎士物語へとアーサー王伝説は昇華するのである。


 クレティアンとマリの才能溢れるコンビは、アーサーに仕える円卓の騎士達の物語を次々に生み出していった……。


 マリが提供した題材を用い、『ランスロ(『荷馬車の騎士)』で〝ランスロットとグウィネヴィア妃の密通〟や〝キャメロットの宮廷〟を初めて描いたのはクレティアンである。


 さらに彼は円卓の騎士エレックとその妻エニードの愛を描いた『エレックとエニード』や、円卓の騎士イヴァン――即ちユーウェインがライオンとの旅で妻の愛を取り戻す『イヴァン(ライオンをつれた騎士)』を著し、また、アーサー王との関わりはあまり強くないが、トリスタンの物語に似た、伯父の妻フェニスに恋する騎士の物語『クリジェス』なども生み出している。


 一方、マリは妖精に恋した若い騎士を描く『ランヴァル』や、その頃、フランス圏へも伝わった〝トリスタンとイゾルデの物語〟をもとに、お互い相手がいないと生きられないスイカズラとハシバミに二人の悲恋を例えた『スイカズラ』などの作品を著した。


 マリ以外でも、このトリスタン物語はやはり人気が高かったらしく、1175年頃にはブリテンのトマが古フランス語の八音節二行連句による、より洗練された大人のための宮廷愛物語『トリスタン』を作り、他方、ベルールという人物は、トリストラン(トリスタン)とイズー(イゾルデ)が嫉妬するマルク王を騙すなどの喜劇的要素のある、騎士物語というより中世の猥雑な韻文笑話〝ファブリオ〟に近いアングロ・ノルマン語の詩作品『トリストラン』を書いていたりもしている。


 少し時代は下るが、13世紀中頃にそれまで関係の薄かったアーサー王伝説とトリスタン物語を完全に結び付けて書かれた『散文トリスタン』と呼ばれる作品も、やはりフランス語によるものだ。


 また、こうしたフランスでの展開とは別に、ドイツにおいても〝トリスタンとイゾルデ〟を扱った作品がいくつも生み出されいるのだが……マリアンヌとしてはあまり興味ないので、そこら辺は省く。


 ともかくも、今挙げた怒涛の作品群を見てもおわかりの通り、プランタジネット朝で生み出された詩作品は皆、愛と騎士道の矛盾や宮廷愛をテーマとして描かれたものである。


 このような傾向は、おそらく当時の宮廷がアキテーヌのエレアノールのような有力な女性達によって支配されていたことによる影響であろう。いつの世も女は色恋の話やスキャンダラスな噂が大好物なのだ。


 一説に、実際、こうした作品は知る者が読めば誰が元ネタなのかがわかる、現実世界を反映したゴシップ小説だったという話まであるほどだ。


 しかし、そんな下世話な方向を志向した半面、〝聖杯物語〟をアーサー王伝説に組み込んだのもまたクレティアンだったりする。


 クレティアンは彼の絶筆にして未完の作品『ペルスヴァル、または聖杯の物語』で〝聖杯探究〟の冒険とその冒険に成功する円卓の騎士パーシヴァルを初めて登場させ、13世紀初めには、この未完の作品を完結させるべく作者不明の『ディド=ペルスヴァル』や『ペルレスヴォ(聖杯の高貴な物語)』などの古フランス語で書かれた続編が生み出された。


 こちらも、トリスタン同様、ドイツやウェールズなどでも続編作品が書かれているが……やはりフランスに関係ないので、マリアンヌはあまり関心がない。


 で、それらの物語はいずれもアーサー王伝説をよりキリスト教と関係深いものへと変えていったが、中でもブルゴーニュの聖職者ロベール・ド・ボロンの詩作品三篇『アリマタヤのヨセフ(聖杯の歴史の物語)』・『メルラン』・『ペルレスヴォ』は、聖杯を異教的・魔法的な物体からイエス・キリストに繋がる聖遺物へと完全に変化させ、こうしたキリスト教化の流れは主流となっていく。


 1215~1235年頃には、このロベールの作品をもとにした『流布本物語群サイクル(散文ランスロット)』が、続いて1230~1240年頃には、さらにそれを発展させた『後期流布本物語群(サイクル)』が世に送り出されるのであるが、作者はおそらくシトー修道会の聖職者と考えられ、キリストの死からアーサーの死までという、極めてキリスト教色の強い構想を持ったものとなっている。


 また、この作品群ではパーシヴァルに代わって、よりキリスト教的道徳心を持った完全無欠の円卓の騎士ガラハッドが聖杯探究の主役となるとともに、もう一人の聖杯探究を成功させる円卓の騎士ボールスも登場し、アーサー王伝説のキリスト教化はここに頂点を迎えるのである。


 そうして、アーサー王と円卓の騎士達の冒険譚がフランスでキリスト教的に再解釈されいく中、他方、オランダ、ノルウェー、スペイン、イタリア、ギリシャ、チェコ、アイルランドなどのヨーロッパ諸国でも、13~14世紀を通してアーサー王伝説の翻訳本やオリジナル作品がそれぞれに作られ、そもそもの伝説の故郷、ご当地英国においても、1400年代頃になるとジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』やミッドランド地方北西部の詩人による『サー・ガウェインと緑の騎士』、同じくガウェインが主人公の『アーサーのターン・ワザリング冒険』などのような中英語で書かれた物語が出てくる。


 社会的背景としては、この頃、オウエン・テューダーによりテューダー家が王家と結び付き、1485年にはその孫ヘンリー七世が王に即位したことで、イングランドの支配者はプランタジネット朝からテューダー朝へと変わっている。しかし、そうした王朝の交替があっても、権力者のアーサー王伝説好きは変わらなかった。


 テューダー朝を開いたヘンリー七世は、伝説上のアーサーと同じブリトン人の――ウェールズの君主の血を引いていた。そのため、ブリトン人の王朝のシンボルとして、プランタジネット朝同様、偉大なる王アーサーを求めたのである。


 そして、頭韻詩とスザンダ詩による『アーサー王の死』などの英語作品を経て、これまでの編年史、フランスの騎士物語、トリスタン物語、聖杯探究など、すべての要素を含むアーサー王文学の集大成―サー・トマス・マロリーの『アーサー王の死』がついに誕生するのだ。


 版元が間違えたためにこんな限定的な名前となってしまったが、この本のもともとの題名は『アーサー王と高貴な円卓の騎士の本』といったらしく、それまでに存在した様々なアーサー王関連の物語を取捨選択し、一つの長大なストーリーにまとめ上げたものとなっている。


 現代、一般に知られているアーサー王像は、このほぼすべてを網羅した傑作によって形作られたと言ってもいいだろう。ただし、初期の歴史書に見るバドン山の戦いやアングロ・サクソンの撃退などには一切触れておらず、現在、アーサー王に5、6世紀のイメージがない一因はそこにあるのかもしれない。


 この作品がそれほど大きな影響を与えた理由には、1485年に英国初の出版業者ウィリアム・カクストンが出版したために、より多くの者の目に触れやすくなったということもある。


 いずれにしろ、このアーサー王伝説の金字塔は、イタリアでルネッサンスが勃興し、フランスを含むヨーロッパ諸国でもギリシャ・ローマの美徳が称えられているというこの時代において、アーサー王的中世騎士道文化への憧憬を英国人に抱かせることとなった。


 プロテスタントが幅を利かせた17~18世紀に顧みられないこともあったが、それ以降もアーサー王の伝説は概ね好評を博し、英国ではマロリーを下敷としてその時代に即した新たな作品がなおも生み出されていった。


 例えば、16世紀のエリザベス朝においては、アーサーの最終目的がエリザベス一世をモデルとした「栄光グロリア」との結婚である、エドマンド・スペンサーの『妖精女王』、ヴィクトリア女王の夫君アルバート公をアーサー王として描く、19世紀ヴィクトリア朝の桂冠詩人アルフレッド・テニスンによる『国王牧歌』などのように……。


 その傾向は現代も変わらず、その他多くの小説達が独自の視点でアーサー王の物語を書き直していたり、『ナルニア国物語』のC・S・ルイスや『指輪物語』のJ・R・R・トールキンなど、多くの幻想小説ファンタジー作家達もアーサー王伝説の影響を多分に受けている。


 いやそれどころか、今、この時点においても、アーサー王伝説は増殖し続けているのである……。


 それぞれの作品の初版本や、映画化された『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』のマーリンがモデルともいわれるガンダルフの映ったパネルなどが飾られた最後の展示室で、マリアンヌは9世紀~現代に至るアーサー王伝説発展の歴史と、その中でフランス人が果たしてきた大きな役割について改めて思い返す。


 確かに起源はブリテン島だし、骨子はジェフリーだし、集大成はマロリーであるが、宮廷騎士物語的な要素も、有名な円卓の騎士達の多くも、そして物語の主要な筋である聖杯探究の冒険も、みんなフランス文学の中で生み出されてきたものなのだ。


 それに、これも今回、マリアンヌは初めて知ったことなのだが、北フランスのブルターニュ地方には、ランスロ(ランスロット)が湖の貴婦人に育てられたという城や、魔法使いメルラン(マーリン)が弟子の女性ヴィヴィアンヌ(ヴィヴィアン)に閉じ込められたという森など、アーサー王伝説所縁の地がいろいろとあったりなんかもするらしい。


 そうして祖国フランスとアーサー王伝説がなかなかに深い繋がりだとわかってくると、俄然、アーサー王に関するお宝も欲しくなってくるというものである。


 そこで、マリアンヌは前言をあっさりと撤回し、一応、本物の〝エクスカリバー〟と伝えられる剣と、その他アーサー王所縁の品とされる他財宝一式を謹んで頂戴することに決めたのであった。

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