第10話 「わたし」(10)


 ぐったりと壁にもたれた二人を横目に、わたしはまたも眠りに落ちていた。

 ひと晩丸々眠ったのか、鳥の声で目覚めるとなぜか室内から二人の姿が消えていた。


 ――どこへつれていかれたのだろう。


 貢が二人を解放したという考えは、どうしても浮かばなかった。わたしは昨日の出来事を強引に頭から振り払った。人の事より、まずは自分の事だ。


 わたしは立ち上がるとベニヤ板の下に移動し、耳を澄ませた。光は入らなくとも、微かな朝の物音が板の向こう側から伝わってくるのだ。それは鳥の声だったり、遠くの車の音だったりした。


 しばらく壁に持たれていると、わたしの耳に今までに聞いたことのない音が飛び込んできた。草地を踏み鳴らすような靴音。それも早い動きだった。

 なんだろう。激しい胸騒ぎを覚えたわたしは、外の様子をうかがうべく、壁際に作業台を動かした。


 幸い、工具箱にはドライバーがそのまま収納されていた。わたしは作業台によじ登ると、以前、やったのと同じ手順でベニヤ板を外した。金網は思った通り、ネジの他に樹脂セメントのようなもので固められていたが、今は取り合えず外の様子が見られればよかった。


 金網越しに見る庭は、丈のある雑草が邪魔をしてひどく見えづらかった。それでも目を凝らして眺め続けていると、少し離れた場所に、奇妙な物体が認められた。

 

 ――なんだ、あれは?


 わたしはその禍々しさに思わず、息を呑んだ。物体に焦点が合った時、私は恐怖の叫び声をあげていた。


 ――嘘っ


 物体は、犬の死骸だった。昨夜、この部屋に現れた大型の犬だ。死骸はただの死骸ではなく、横たえられた身体からネズミや鳥の死骸同様、内臓がごっそりえぐられていた。

 わたしは作業台から降りると、目を閉じてゆっくりと呼吸を整えた。


 ――もう限界だ。こんなところ、一秒だっていたくない


 わたしはスチール棚に歩み寄ると、錆びついたスパナを手にした。どうせ殺されるなら、せめて最後の悪あがきをを試みよう。こうなったら、殺すか、殺されるかだ。


 わたしはスパナを後ろ手に持つと、ドアを見据えた。もうじき、村木が食事を持ってくるに違いない。その時がラストチャンスだ。わたしが頭の中で、スパナを振りかざすタイミングをイメージしようとした、その時だった。


 ドアの外で、足音が聞こえたかと思うと、いきなりドンドンと外から扉を叩く音がした。


 おかしい。貢や村木なら、いちいちノックなどしないはずだ。わたしが返答をためらっていると、再びドアが強く叩かれた。わたしはスパナを手に身構えた。やがてドアノブがゆっくりと回り、扉が開け放たれた。


 戸口から現れた人物の姿を見たわたしは、思わず目を瞠った。立っていたのは、制服を着た警官だった。


「これはいったい?」


 警官はわたしの姿を認めると、絶句した。わたしは「助けて」と叫ぼうとしたが、すっかり弱ったわたしの声帯はわずかな音しか発することができなかった。


「なぜ、ここにこんな……」


 驚愕の表情でわたしを見ていた警官は、次の瞬間、驚くべき行動に出た。片手をゆっくりと下し、腰のホルスターから拳銃を抜いてわたしにつきつけたのだった。


「やめて……」


 わたしは思わず後ずさりした。警官が狙いを定め、引き金に指をかけたその時だった。轟音が室内に響き渡り、警官の後頭部から血煙が上がった。


「えっ……?」


 呆然とするわたしの前で、警官はスローモーションのようにゆっくりと頽れて行った。


「やはりこういうことになるのか」


 警官の背後から姿を現したのは、貢だった。貢は手にしたライフルを、倒れている警官の上にほうった。ライフルの銃口からは、煙が立ち上っていた。


「ひ……人殺し」


 わたしは思わずそう口にしていた。もう機嫌を損ねようがどうしようが関係ない。どのみちわたしも、そこに倒れている警官と同じ運命をたどるのだ。


「人殺しだと……誰のせいでこうなったと思っているんだ」

 貢はわたしに歩み寄ると、今まで見せたことがないような悲痛な表情を浮かべた。


「わたしのせいだっていうの?」

 わたしは声を絞り出した。ふいに得体の知れない衝動がわきあがるのをわたしは感じた。


「……まだ思い出さないのか、サラ」

 貢は震え声で言うと、わたしの目を覗き込んだ。それは全てに絶望した人間の目だった。


「わたしは……わたしは」

 身体の奥深くで、形を成さない何かが首をもたげるのがわかった。それは、わたしであってわたしでない「なにか」だった。


「近頃、目覚めている時間が長くなったから、もう少しで本来の「サラ」に戻ってくれるものとばかり思っていた……だがやはり甘かったようだ。この女に心も身体もあらかた乗っ取られてしまったんだな、サラ」


 わたしの中で、何かがはじけた。明滅する意識の中に、わたしの知らない光景が映し出された。見知らぬ少年が、しきりにまとわりついてくる姿。それは、「わたしではないもの」の遠い昔の記憶だった。記憶の中の少年には、目の前にいる男性の面影があった。


「乗っ取るって、どういうこと?本来の「サラ」って、いったい何のこと?」

 わたしは混乱していた。自分の中で、信じていた何かが崩壊しつつあった。


「思い出せないのなら、今ここで見せてやろう」


 貢はポケットから携帯を取り出すと、何やら操作を始めた。しばらくすると、携帯から音声が流れ始めた。わたしは内容を聞きとろうと聴覚に神経を集中させた。

 

 ――うわああああっ!


 聞こえてきたのは、雄介の悲鳴だった。悲鳴に続いて聞こえてきたのは、ぼきりという固いものが折れる音、そして厚みのある物をめりめりとむしりとるような音だった。


――やめてっ。やめて沙良っ!


 愛莉の声だった。次の瞬間、封印されていた忌まわしい記憶がわたしの深いところから突然、意識の表面に浮かび上がった。そのあまりのおぞましさにわたしは戦慄した。


「よく見るがいい。自分の姿を」


 貢が携帯の画面を私の方に向けた。画面に映っている光景を目にした途端、わたしの喉から恐怖の叫びがほとばしった。


 画面の中に、三メートルほどの爬虫類に似た生物が二本足で立っていた。


 生物は全身がぬらぬら光る暗緑色のうろこで覆われていた。胎児を思わせる丸みを帯びた頭部にはほとんど目らしき物がなく、トカゲのような巨大な口だけが異様に目立っていた。生物はその口に、太い枝のような物を咥えていた。それは人間の――少女の腕だった。


「いやあああっ!」


 強引に噛み千切ったのだろう、血に塗れたぎざぎざの断面からは赤黒い筋肉の繊維と白っぽい脂肪とが絡みあった糸のような物が伸び、肩口から先のない胴体へとつながっていた。腕を失い、苦痛と恐怖の叫びをあげているのは、愛莉だった。


「沙良……ひどい」


 すでに喉も食い破られかけている愛莉は、血のごぼごぼという音が混じった声で言った。

 およそこの世の物とも思えない怪物は少女の腕をばりばりと噛み砕いた。


「やめてっ」


 わたしは映像に耐えきれず、叫び声をあげた。その声には「ぐるるる」という、獣の唸り声に似た響きが含まれていた。


「わかったかい、これが今の君だ。君はこの町の守り神である「サラ」の身体を乗っ取っているんだよ」


 貢が冷酷に言い放ち、わたしはあらためて自分の身体を見た。てらてらと粘液で光る緑色の身体から、なぜか唐突にか細い少女の腕が二本、生えていた。


 この腕はわたしの……「沙良」の腕だ。そしてこの身体は……「サラ」の身体。

 衝撃とともに、わたしの脳裏に「ほこら」で起こった出来事が鮮やかによみがえった。


             〈第十一話に続く〉

 

 

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