第9話 「わたし」(9)


 再び目を覚ますと、犬の姿は室内から消え失せていた。

 村木が連れて行ったのか、それとも勝手に出て行ったのか、仔細はわからなかった。


 薄気味の悪さは残ったものの、犬に食われて終わるという最悪の結果だけは回避できたらしい。何一つ状況が好転していないにも関わらず、わたしはほっと胸を撫でおろした。


 それにしても、なぜ犬は私を襲わなかったのだろう。たまたま満腹だったのだろうか。


 なんにせよ、こういった嫌がらせが続けば、いずれわたしの神経は参ってしまうに違いない。わたしは思った。ここを脱出するとして、いつが絶好のタイミングだろう。


 わたしは壁のベニヤ板を見た。以前、あれを剥がしてからどのくらい経つだろう。三日?五日?


 いずれにせよ、もう一度くらい、やってみる価値はありそうだ。仮にばれたとしても、外でも見なければ頭がおかしくなると言えばいい。実際、暗い室内には昼も夜もなく、わたしの精神は限界に達しようとしていた。


 もう一度、板を剥がしてみるか。


 立ち上がり、作業台の方に向かおうとした、その時だった。


 ドアの向こう側から、複数の人間の声が聞こえてきた。甲高い、わめいているような声と、なだめるような口調の声がなにやらやりとりをしていた。

 声は次第に大きくなり、やがてドアが勢いよく開いたかと思うと、二つの人影が追い立てられるように室内に入ってきた。現れた人物の顔を見て、わたしは思わず声をあげそうになった。


――愛莉。雄介先輩。


 わたしは自分の目を疑った。なぜよりによってこの二人が、ここに?


 ドアの所には、村木が立っていた。愛莉は村木に悪態をつきながら、ドアの外に戻ろうと抵抗した。が、村木に突き飛ばされ、床の上に崩れた。よく見ると、愛莉と雄介の手にはわたしと同様、手錠がはめられていた。


「ただでさえ、お前たちの捕獲は予定外なんだ。これ以上手こずらせるなら、こんなものでは済まないぞ」


 よほど手を焼いたのだろう。村木は吐き捨てるように言うと、乱暴にドアを閉めた。


「信じられないっ。なんでこんな目に遭わなくちゃいけないのよ」

 愛莉は小刻みに肩を震わせながら、絞り出すような声音で毒づいた。


「大丈夫、我慢して待っていれば必ず、助けが来るよ」

 雄介がなだめるように言うと、愛莉のまなじりがきっと吊り上がった。


「助けって?それっていつ、どこから来るの?何を根拠に大丈夫だって言えるの?」


 雄介は答えに窮し、黙りこんだ。無責任ななぐさめが、愛莉の怒りに火を注いだらしい。憧れの先輩も、ここでは無力なただの男子に過ぎなかった。

 それにしても、と、部屋の隅で二人の様子をうかがいながらわたしは思った。


 ――二人とも、わたしに気がつかないのだろうか。


 確かに捕われる前と比べて、やせ細った今のわたしは病的な外見なのかもしれない。

 だが、やつれているとはいえ、これほど近くで見てもわからないものだろうか。


「愛莉」


 そっと声をかけると、愛莉の肩がぴくりと動き、ゆるゆると顔をこちらに向けた。


「……いやああっ!」


 私がいることに気づかなかったのか、愛莉はいきなり悲鳴を上げた。


「わたしよ、愛莉。わからない?」


「……もしかして、沙良?」


 愛莉の目が驚きに見開かれた。わたしの存在を認めたにもかかわらず、愛莉はこちらに視線を向けたまま、ひるんだように後ずさった。


「沙良なの、あなた。……何でこんなところに」


「鳥海さん……?まさか」

 雄介も、ようやくわたしの存在に気づいたようだった。


「あなたたちも……つかまっ……たのね」


 監禁の間、ほとんど声を発しない生活を送っていたせいか、わたしの発声は虫のようにか細いものになっていた。


「沙良……あなたいつから、ここにいるの」


 愛莉が怯えた表情を崩さぬまま、問いを発した。わたしは「わからないわ」と短く返すと、床の上に横たわった。

 わたしの答えを聞いた途端、二人の顔に失望の色が広がった。どうやら逃げられそうにないことを悟ったらしい。しばらくすると、村木が食事の乗った盆を手に姿を現した。盆の上にはフライドチキンやピザが乗っていた。


「あ……」


 匂いに反応したのだろう、雄介が喉を鳴らす音が聞こえた。


「おいし……そう」


 愛莉も同様に、鼻をひくつかせた。おそらく、盆に乗っている料理はわたしの時と同様、二人の好物なのに違いない。一体、どこで調べてくるのだろうとわたしは首を捻った。


「近くの店で買ってきたものだ。心配しなくても、毒などは入っていない」

 村木は諭すような口調で言うと、盆を床の上に置いた。


「後で片付けに来る。、残さず食べたほうが身のためだ」

 冷淡な口調でそう言い置くと、村木はドアの向こうに消えた。


 愛莉は警戒するような、それでいて物狂おし気な目でしばらく料理を見つめていたが、やがてまなじりを決すると唐突に

「こんなもの!」

 と叫んで皿の一つを手でひっくり返した。中身が床にぶちまけられ、料理の匂いがわたしの鼻先にまで届いた。


 愛莉の顔は怒りと屈辱に赤く染まっていた。やがて目に涙を浮かべたかと思うと、

「なんでこんな思いをしなくちゃいけないのよ!」

 とむせびながら床を拳で殴り始めた。取り乱し、手が付けられなくなった愛莉を雄介は持て余すかのように呆然と眺めていた。


 しばらく黙って俯いていた愛莉は、やがて意を決したように唐突に顔を上げた。


「なによ、こんなもの。食べればいいんでしょ」

 そう言い捨てると、愛莉は皿の上の料理を手づかみで口に運び始めた。


「た……食べて大丈夫なのかい、それ」


 雄介が震える声で、言った。愛莉は料理をほおばったまま、無言で雄介を見返した。相手になんの期待もしていない目だった。


 皿の上の料理をあらかた平らげた愛莉は、しばらく怒りに燃える目で床にぶちまけた料理を睨み付けていた。そしてちっと舌打ちをくれたかと思うと、やおらこぼれた料理を舐め始めた。


 狂気めいた仕草に恐怖を覚えたのか、雄介が怯えたように身を引くのが見えた。怯えた気配を察したのか、愛莉は一旦食べるのをやめると、雄介を睨み付けた。


「どうしたの?食べないの?……死ぬわよ」


 愛莉の鬼気迫る口調に、雄介はいやいやをするようにかぶりを振った。

 雄介の反応に、愛莉は見限ったようにふんと鼻を鳴らすと、前にもまして一心不乱に床の食べ物を舐め始めた。


 わたしは愛莉の気持ちが少なからず理解できた。どうせ手も足も出ないのなら、毒であれ何であれ、食べるしかない。服従以外に選択肢のない最悪の状況の中で、捕虜ができる唯一の抵抗は「生きる」ことだ。チャンスを待ち、屈辱を晴らすまではどんなことをしてでも生きねばならない。


 そのことを理解できず、子供のようにただ助けが来るのを待つだけの雄介は、残念だがこの中の誰よりも早く死んでしまうに違いない。死にたいほどの辱めを生への執着に変える愛莉。その姿を見てただ怯えるだけの雄介先輩に、生き延びるチャンスは無いに等しい。


 床に体を横たえ、ぼんやりと天井を眺めているわたしの耳に、ぴちゃぴちゃという皿を舐める音がいつまでも聞こえ続けた。


               〈第十話に続く〉

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