第8話 「わたし」(8)
気が付くと、わたしはどこかの家の裏庭にうずくまっていた。
子供の頃、遊ばせてもらった親戚の家に似ている気もしたが、はっきりとは思い出せなかった。
――お母さん、どこ?
わたしはそう呟きながら、狭い裏庭をぐるぐると歩き回った。歩き回っているうちに、わたしはふと、あることに気づいた。
――この庭、出口がない!
うろたえるわたしの耳に突如、禍々しい唸り声が飛び込んできた。振り返ると、黒い大型の犬が黄色い目を光らせ、わたしを威嚇していた。
――来ないで。こっちに来たら駄目!
黒い犬は歯をむき出すと、姿勢を低くして身構えた。とにかく刺激せずに離れなければ。
後ずさろうとした瞬間、何かに足を取られ、わたしはあおむけに転倒した。次の瞬間、ひときわ大きな唸り声が聞こえたかと思うと、黒い塊がわたしの上に覆いかぶさった。
「いや――っ!」
自分の叫び声で目を覚ましたわたしは、闇の中で思わず上体を起こした。
夢を見ていたのだ、そう理解してもまだ、わたしの周囲には不穏な気配が漂っていた。
なぜあんな夢を?
闇の中で呼吸を整えていると、どこからかぐるるる、という低い唸り声が聞こえてきた。
――嘘。夢じゃなかったの?
わたしは闇に目を凝らし、声の出どころを探った。くろぐろとわだかまった闇の、ひときわ濃い部分に、何か得体が知れぬものの気配があった。ゆっくりと身じろぎをした「それ」が、不意にわたしの方を向いた。黄色く光る目を見た瞬間、わたしは凍り付いた。
犬だ。それも尋常じゃない大きさの。
大型の犬は、わたしの怯えを見透かすかのように大きく口を開けて見せた。唸り声の主は、熊ほどもあるこの犬だったのだ。私は恐怖のあまり全身の毛穴が開くのを感じた。
いったい、これはなんなの?新しいお仕置き?それとも、わたしはこの怪物の餌になるために捕われてきたの?
混乱した頭であれこれ思いを巡らすわたしに、犬がゆっくりと近づいてきた。獣臭い息がふっと鼻先をかすめ、恐怖を倍加させた。犬との距離が数十センチに縮まり、口からだらりと垂れさがった舌と、したたり落ちる涎とがはっきりと見えた。
――いっそのこと、ひと思いに喰い殺したら、どう?
わたしは犬を睨み付けた。抵抗したところで、こんな化け物にかなうはずはない。
目の前に迫った大きな口と、むせ返るような獣臭に耐えきれず、私は目を閉じた。
――どこから、噛まれるのだろうか。
わたしは闇の中で、身を固くした。……だが、いつまで経っても一向に犬の歯がつきたてられる気配はなかった。恐る恐る目を開けたわたしは、予想外の光景に目を瞠った。
犬が、わたしの前でゆっくりと向きを変えようとしていた。
――これはいったい、どういうこと?
わたしは闇に向かって問いを放った。犬はのっそりとした動きで部屋の反対側へと移動した。距離が開いたことでほっとする半面、わたしの頭の中は疑問符であふれた。
犬は部屋の隅にうずくまり、黄色い目だけをこちらにむけていた。
――どういうつもり?わたしを食べるんじゃなかったの?
わたしは心の中で、挑発的な言葉をつぶやいた。距離が開いたからと言って恐怖が去ったわけではなく、怪物が同じ部屋にいることで、新たな恐怖が生まれようとしていた。
わたしと犬は部屋の両端で、闇を挟んで睨みあっていた。やがて根負けしたわたしは、異様な状況にもかかわらず、深いまどろみの中に落ちていった。
〈第九話に続く〉
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