第5話 「わたし」(5)
深いまどろみから現実に引き戻されると、そこは眠りに落ちる前と寸分たがわぬ地下室だった。わたしは強い落胆を覚えながら、これから自分はどうなるのだろうと思った。
携帯は手元に無く、部屋には時計もない。外光が一切入らない、昼か夜かもはっきりとしない空間には、煤けた蛍光灯が一本、あるだけだ。
おかしなもので、ひんやりした空気と耳が痛くなるような静寂の中に身を置くと、一時的に恐怖が薄れ、冷静さが戻ってくる。
――とにかく、従順なふりをしよう。そして隙を見て脱出するのだ。
わたしは床に転がされたままの体勢で、思った。あまりあちこち動き回っては怪しまれる。見つかっても言い逃れができるよう、最小限の動きで使える道具を探さねば……。
視線をさまよわせていると、スチール棚の上に置かれた工具箱が目に留まった。
まず、あそこから物色してみるか。そう思った時だった。
アルミの扉が開き、手に盆を持った小柄な中年男性が姿を現した。男性はやや前傾した歩き方でわたしの方に近づくと、手にした盆をわたしの前に置いた。
「お食事です、サラ様」
唐突に名を呼ばれ、わたしはぎょっとした。わたしの名前、
「どうしてわたしの名前を?」
「そんなこと、知っているに決まってます。それより、温かいうちにお食べ下さい」
男性の物腰は、わたしを拉致したオールバックの男性と違って柔らかだった。
「…………」
盆の上には、数種類の料理が乗っていた。どこで調べたのか、料理はわたしの好物ばかりだった。皿から立ち上る良い匂いに胃がぎゅっとなり、唾が口の中に溢れた。
「後で片付けに参ります、サラ様」
ドアの方に引き返そうとする背中に、わたしは思わず声をかけていた。
「待って。あなたの名前を教えてくれない」
男性は足を止めると、間延びした仕草で私の方を振り返った。
「村木です」
面倒臭げに告げると、村木と称する中年男性はドアの向こうに姿を消した。
わたしはしばらく、湯気を立てている料理を見つめ、食欲との葛藤を続けた。最初の食事に手を付ければ、敵はわたしが空腹に耐えかねてあっさり陥落したと思うだろう。
つまり食事に手を付けるかどうかが、服従を誓うかどうかの分かれ目なのだった。
わたしは目を閉じ、必死で食欲に抗おうと試みた。……が、目を開けた途端、視界に飛び込んできたクリームスピナッチの色とにんにくの香りに、わたしのなけなしの理性は吹き飛んでいた。気が付くと、わたしはクリームスピナッチをほおばっていた。
わたしはあっさりと陥落した自分の弱さに涙しながら、村木の持ってきた「食事」を一心不乱にむさぼった。
〈第六回に続く〉
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