Secret 02

 少し早いが仕方ない、と待ち合わせの居酒屋に向かうことにする。

 タクシーを捕まえられる場所まで戻るのが面倒で、私たちは珍しくバスに乗った。

 利用客の少ない路線なのか、一番前の席にお婆さんがひとり乗っているだけ。終点まで行く私たちは、一番後ろの席を陣取った。上司は背もたれに身体を預けると、

「……面倒くさいことにならなきゃいいけど」

 うんざりしたようにそう呟いて、ため息をひとつ吐き出した。

 その表情だけで、考えていることはわかる。


 浅羽宗一郎は、上司について知りたがっていた。だとすれば、調べる理由はなんなのか。

 弱みを握って調査費用を浮かせようとした? 随分と回りくどい。そんなところで探偵の真似事をするくらいなら自分で夫人を調べればいい。

 だからおそらく目的は、城ノ内紘の情報そのものだ。

 ちゃんと調べたわけではないとはいえ、上司の知る範囲で浅羽さんに副収入はない。つまり、他の探偵業者に雇われているわけでもないだろう。

 それならばと、上司のはじき出した答えは、私の時と同じだ。

 つまり、浅羽さんを使っているのは、上司の守備範囲外に居る人間であるということ。彼の実家が――穂積が彼を調べているということだ。


「…………」

 確かに面倒なことになるだろう、もし本当にそうなら。


 ほんの少し赤みの残る手首を撫でる。心を落ち着けるために、ゆっくりと深呼吸。

「怖かった?」

「いえ」

 軽く否定する。言葉通り、怖くはなかった。以前味わった『殺されるかもしれない状況』とは比べものにならないし、GPSのアラートですぐにこの人が来てくれるとわかっていたから。

 だから、この感情の乱れは、ただ。

「ただ、腹が立つだけです」

 奥さんの浮気を疑っておいて、軽々しくああいうことが出来る浅羽宗一郎に。

 そしてそんな本性を見抜けずに、ただ同情していた自分自身に。

「……そう」

 上司は苦笑して、少し乱れた私の後ろ髪を整える。仲間の毛繕いをする猿のような手つきになんだか複雑な気分になっていると、

「まぁ、手間は省けたかな」

 ぼそりと、そんなことを言われた。

「え?」

「飲み会の目的のひとつだったんだよ。随分と同情してるみたいだったから」

 困ったような顔で、さらりと言い当てられる。自覚した直後に言われてしまうと、なかなかに恥ずかしい。

「……すみません。あんまり信用するもんじゃないですね」

「こういう仕事の依頼人は、特にね」

「以後気をつけます」

 ほんの少し熱を持った頬を押さえ、反省の言葉を口にすると、

「じゃあ、ついでにこれも覚えといて」

 上司は整え終わった髪をぽんぽんと撫でながら、

「妙なところに連れ込まれそうになったらすぐ大声上げること。俺待たなくていいから」

 表情から笑みを消して、そうたしなめた。

「……はい」

 正直、相手がお客様ではそれもしづらいのだけれど、ここは素直に、返事をする。

「まったく、君はどうも変なのに好かれるね」

「……城ノ内さんほどじゃないと思いますけどね。そもそも、私は別に好かれてるわけじゃないですし」

 もっとも、この人の場合は変なのばかりに好かれているわけじゃなく、大きすぎる分母に比例して変なのも多いだけかもしれないけれど。


 いつの間にか前の席のお婆さんは降りていたようで、乗客は私たちだけになっていた。


 終点まで、あとみっつ。

 窓の外を流れる街並みは、さびれたビル街からきらびやかな繁華街に変わっていた。


     *


 午後七時半。鳳興産近くの個室居酒屋。

 上司と待つ部屋へ時間通りに現れたのは、ふたりの男性だった。

「よー、久々だな」

「お疲れー。この子がお前の部下? どうも初めましてー」

 軽い挨拶に、こちらも営業スマイルで応える。

 おそらく上司と同年代か少し上。ぶら下げっぱなしの氏名証には鳳興産の青いロゴ。

「あかりちゃん、これ俺の友達で」

 上司が紹介してくれる。細身のくせっ毛が三津井和哉、角刈りの体育会系が水谷翔太。

 三人だと聞いていたけれど、と疑問に思っていると、察したように水谷さんが口を開いた。

「佐伯はやっぱ無理そうだって」

「あ、うん、今メール入った。トラブル?」

「……あいつ営業だから。また誰かさんの尻ぬぐいじゃね?」

 三津井さんは、そう言って乾いた笑いを浮かべた。

 ふたりが上司と言葉を交わしている隙に、少し目を細め、さりげなく氏名証を確認する。三人は互いに友人関係ではあるものの部署は違うらしい。三津井さんは総務部、水谷さんは企画部になっていた。

「話は後。とりあえず注文しよう。何飲む?」

「とりあえずビールでいいわ。城ノ内はカルピスでも飲んでろ。お嬢さんは?」

「あ、じゃあ私もビールで」

 上司が苦笑いしているうちに、呼び出しチャイムが遠くで響いた。


「あいつ本当に女癖悪いよな」

「ホントホント、一回痛い目に遭えばいいと思ってたんだよ」

 ほどよく酔いが回ると、滑りの良くなった舌からそんなセリフが流れ出す。特に誘導していたようにも思えなかったが、いつの間にか浅羽宗一郎の話題になっていた。社内でも相当な有名人らしい。……正直、半日前に聞きたかった。

「ミスは全部部下のせいで手柄は全部自分のもの。見た目は好青年だし上司の扱いだけは上手いから世渡りもお上手だけどね」

 人は見かけによらない。使い古されたその言葉をここまで実感することになろうとは。どうも私は、自分で思っていたより人を見る目がないらしい。

 自己嫌悪と、あふれ出る数々の浅羽事例に能面モードが発動しそうになっていると、

「あ、初対面でこんな話ばっかりごめんね。俺ら普段こんな悪口ばっかり言ってるわけじゃないからね」

 うんざりしているように見えたのか、水谷さんが慌てて弁解してくる。

 その無駄に爽やかな口調がおかしかったのか、くすりと笑いながら三津井さんが付け加える。

「城ノ内が誘ってくるなんて珍しいからさ。どうせ聞きたい話があるんだろうって予想してたんだよ。まぁそうなると俺ら三人の間でネタになるなんてあいつくらいしか居ないから。だろ?」

「……さて、どうかな?」

 内面の見えない笑顔でいい加減にはぐらかす上司の肩を、水谷さんが豪快に叩く。

「どうせ浮気調査だろ? あいつの。してるしてる。保証するよ!」

 ちらりと上司の様子を伺う。計算通りといったところだろうか。

「いつか証拠が必要になったら言えよ。協力するから」

 そう言った三津井さんも、やっぱり同じ。

 彼らは調査内容を勘違いしていた。あぁ、本当に浅羽宗一郎が調査対象だったら楽だったのに。このふたりは奥さんの浮気調査とは夢にも思っていない。これ以上の情報を得るのは難しいか。

「ところで、あかりちゃんは城ノ内の助手なの?」

「……えっ?」

 唐突に話を振られ、反応が遅れた。

「尾行とかしてる?」

「あ、いや、私は」

「浅羽の件には関わっちゃ駄目だよ。関わるとろくなことないから」

 えぇ、それは身をもって知っているのですけれど。

「……そんなに、酷いんですか?」

 上司が何も言わない以上、私たちと浅羽さんに直接的な関わりがあることは言うべきではないだろう。

 それに、この流れなら話を引き出すほうに回ったほうがいいような気がした。

「女の子は近づいちゃ駄目。男も違う意味で駄目だけど」

「……だな。佐伯もそろそろやばいぞ。あいつ、ため込むタイプだから」

 水谷さんの茶化したような口調から、三津井さんに継がれたセリフは急に深刻な空気を纏う。

 さらにその空気を受け継いで、水谷さんが視線を落とした。

「あいつ、めぐさんにベタ惚れだったから余計な」

 お猪口を手に、液体の表面を眺める。哀れむようなその目に映っているのは多分、日本酒なんかじゃなくて。

「だからこそ、じゃないのか。面倒ばっか押しつけてるように見えるけど」

「もともと無愛想なのが最近もう無表情になってきてるけど、鬱とか大丈夫かな」

「いや、俺はどっちかっていうと浅羽殴んじゃねーかってほうが心配だよ。なんかちょっと前、意味わからん因縁つけられたとかでキレてたから」

 過去浅羽めぐみに思いを寄せていて、その夫から理不尽な扱いを受けている不憫な同僚。調査対象者の浮気相手としては十分に可能性がある人物なのだけれど。

「…………」

 それは考えたくなかった。だから。

「めぐみさんは、会社に居た頃どんな方だったんですか?」

 日本酒を一口含んで、そう誘導した。

 上司がちらりとこちらを見る。わずかに細めた目は、少し冷めた色をしていた。

 わかっている。警告されたばかりなのに、今度は顔も知らない『佐伯』さんに同情したのだ。それでも――それでも今は、疑いたくなかった。

 口にしたその質問は調査の一環というよりただの興味本位だったけれど、途端にふたりの表情が優しくなった。

「営業業務課の隠れたアイドルみたいな存在だったよ。身なりとか質素なもんだけど、一応資産家のお嬢さんだし、物腰柔らかくて誰にでも優しい。ちょっと……いや大分? 天然なとこあるけど、もうホント癒やし系」

「辞めるってなった時は大変だったよ。仕事の代わり探すのもだけど、佐伯がな。俺、この年になって同期が泣くところ見るとは思わなかった」

「女子も含めて、何人か説得に行ったらしいぞ。みんなまさかあの人が浅羽と結婚するとは思わなかったからなぁ。残念ながら、説得は通じなかったみたいだけど」

「確かにあいつが手ぇ出すの派手な女ばっかだったからな、めぐさん見た目結構地味だから俺も意外だった」

「…………」

 誰からも好かれている女性なら浮気相手のひとりやふたり居てもおかしくないのかもしれない。けれど、ふたりが懐かしむような口調で語る浅羽めぐみの人物像は、とても夫を裏切るような人間には思えなかった。例えその夫がろくでなしであったとしても、だ。

 なのに。

「派手っていえば、俺ちょっと前休みの日に佐伯見たんだけどさ」

 唐突に、引き戻された話題。

「髪の毛切りに行くのに店の前ですれ違って。遠目だったら絶対気づかなかったわ、あいつ――」

 三津井和哉の目撃談は、


「なんかすげぇ金髪にしてて」


 私の頭の中を、真っ白にしてくれた。


     *


 帰路についたのは、午後十一時を過ぎてからだった。


 この数時間で色々なことがわかった。

 浅羽宗一郎がめぐみさんの退職後、少なくとも四人の女性と関係していること。

 そのうちひとりは、めぐみさんとの結婚が発表されるまで周りから本命だと思われていたが、何故かつい最近別れたらしいということ。

 資産家というのは本当で、結婚後住んでいるマンションはめぐみさんの親が買い与えたということ。

 めぐみさんの退職は夫である浅羽宗一郎の希望だったこと。

 彼女と彼女の仕事の一部を引き継いだ佐伯さんはもともととても仲が良く、退職後もしばらく頻繁にやりとりしていたこと。

 しかし一ヶ月を過ぎたくらいの頃から彼女からの連絡がぱったりとなくなったこと。

 同時に誘いを何度か断られたことから、仲の良かった同性の同僚とも疎遠になっていたということ。

 その中で、優子――佐倉優子は彼女と仲が悪いわけではないものの、そもそも業務的にあまり関わりがなく、親しいというわけでもなかったということ。

 そして、三津井和哉のあの証言。


 憂鬱な気分を押し殺して、笑顔を作る。

 店の前にいたタクシーに乗り込んで、見送ってくれるふたりに軽く会釈する。

「じゃあ、また」

「次は城ノ内抜きでね」

 ニヤニヤと笑われ、どういう意味なのかと問い返そうとしたけれど、

「運転手さん、出してください」

 妙に不機嫌な上司の声が遮った。

 ゆっくりと進み始めた車の傍らで、

「また何かわかったら連絡するから。彼女の力になってやって」

 酔いが覚めたような真面目な顔で、三津井和哉と水谷翔太は揃って頭を下げた。


「……佐伯さんってどんな人なんですか?」

 静かな車の中で、ぽつりと尋ねる。

 胸にあるのは、罪悪感。彼女の力になりたいと話してくれたふたりを、私たちは実質的に裏切っている。

「佐伯健治三十歳。五月二十日生まれ。身長一五四センチ体重六十キロ、視力は左右とも〇.二で黒縁の眼鏡着用。家族構成は両親と姉がふたり、妹がひとり。携帯の機種はHSー50Aで料金プランは」

「もういいです」

 まるで手元にある紙を読み上げるように、目を閉じてプロフィールを並べ立てていく上司の声を、慌てて遮った。知りたいのはもちろんそういうことじゃない。というか、まさか『友達』ひとりひとりの情報を今みたいなレベルで把握しているのか、この人は。

 小さくため息が漏れる。

 私の言いたいことはわかっているくせに。なんだかよくわからないが機嫌が悪いらしい。

――佐伯さんが、『ユウコ』ってことですよね?

 核心をつく質問は、何故か口に出来ない。

 薄く開いた目から片隅に投げかける上司の視線は、随分と鋭いもののように見えた。


     *


 数日後。完成した浅羽夫人の浮気調査報告書は、やっぱり新しい真実など語ってくれなかった。

 浅羽めぐみは指定されたその日、ベランダで洗濯物を干し、掃除機をかけ、夕方まで窓際で新聞を読んで過ごした。部屋から出たのは、夫宛の宅配便を受け取った時と、マンションの郵便受けを確認しに行った時だけ。

 浅羽宗一郎にとって、六回目の空振り。そして、これが最後だ。


 その日の午後、浅羽さんは外回りついでに事務所に来ると、報告書を静かに受け取り、肩を落として帰っていった。

 色々と余計な情報を得てしまったためか、その光景は気分のいいものではなくて。

 もやもやした感情は定時が迫る時間になっても消えずに、重くのしかかっていた。


 上司に聞こえないよう、小さくため息を吐き出す。

 上司の情報が目的だったのは、最初からではないだろう。おそらく本当に妻の浮気を疑っていたのだ。

 髪飾りの件は、最初の依頼の後だったと、最初はなんとなくだったと、そう言っていた。

 浅羽夫人は本当に浮気をしているんだろうか。やりとりをしているのが佐倉優子でないなら、誰と。やはり佐伯健治なのか。三津井さんの証言を考えれば髪飾りを買ったのは佐伯健治の可能性が高いし、理由はわからないがおそらく同じように彼を疑ったから、浅羽宗一郎は『因縁をつけた』のだろう。状況的に見れば、確かに彼が一番怪しいのだ。――それでも。


 人は誰しも秘密を持って生きている。

 それは今までの経験から十二分にわかっているつもりだし、否定するつもりもない。人は嘘をつく。誰が何を考えているかなんて私にはわからない。

 あぁ、もう認めてしまおう。

 それでも私は、浅羽めぐみを、佐伯健治を、疑うことを拒否している。


 佐伯健治は実はバンドをやっていて、その日はライブだった、とか。浅羽夫人は本当に佐倉優子とメールをしていて、佐倉優子は評判の悪い浅羽宗一郎を警戒して知らないふりをした、とか。

 現実逃避のように、そんな無理矢理な設定を考えて苦笑する。馬鹿か。だったら髪飾りは誰が渡したんだ、と。

 その時。


――あれ?

 結果ありきの理論組み立てに、ひとつ、抜け道を見つけてしまった。


――めぐみさんは、相手をわかってたんだろうか?


 存在する確かな情報は、浅羽夫人が誰かとメールをしていて、そしてその相手に髪飾りをもらったと言っている、ということだけだ。それなら、浅羽夫人が相手を知らないということもあるんじゃないのか。

 佐伯さんが自分を『ユウコ』だと偽って夫人と連絡を取り合っていたとしたら、髪飾りを『ユウコにもらった』と素直に言ってもおかしくない。本当に相手を佐倉優子だと思い込んでいるんだ。そうじゃないなら、同じ会社で簡単に佐倉優子と接触出来る夫にとって、そんな嘘何の意味も無いんだから。


――それなら……!


 六回の調査すべてで、彼女は誰とも会っていない。ただタイミングが悪かっただけの可能性だってあるけれど、誰とも会わずに過ごしたその間に彼女の所持品が増えていたとしたら、考えられるのは郵送だ。


 それなら、やっぱり浅羽夫人は、浮気なんてしていない――


――とも、言い切れないか。

 だって、それが本当なら、随分と脆い計画じゃないか。

 彼女が気まぐれに電話一本かければすべてが終わってしまう。


 それに、それならそれで、疑問が残る。なんで佐伯さんがそんなことをする必要がある?

 なんで会いもしない彼女の髪飾りを買うためだけに髪まで染める必要がある?

 好きだった彼女とただ連絡を取りたかったから……喜ばせたかったから? 随分と健気だ。ストーカーと呼びたくなるくらいに。それに、悪いことをしているわけじゃないとはいえ、そんな執着が浅羽宗一郎にバレたら今より酷い目に遭うのは明白。あまりにハイリスクノーリターンだ。

 なら、何か、別の目的があったのだろうか――?


「……うーん」

 行き詰まった。思わず声が漏れる。


――……やめよう。もう終わりなんだから。

 この案件は終了した。なら、もう考える必要もない。

 この世の中で納得出来ないことなんて腐るほどあるんだから、気にしていては切りがない。

 いくら違和感が残ろうと、秘密も、嘘も、私には関わりのないことだ。

 感情切り替えのため息は、少し大きなものになった。


「浮かない顔してるね」

 くすりと、上司が笑う。

「……色々と納得いかないことが多くて」

 上司の表情に、曇りはない。

 この違和感の正体を、この人は知っているんだろうか。

 それとも、深入りしないよう割り切っているだけなんだろうか。


 事務所の電話が鳴る。


「はい、城ノ内探偵事務所です。はい、調査のご依頼ですね。ありがとうございます」

 営業用の明るい声を出した次の瞬間、

「――――」

 言葉に詰まった私をちらりと見て、上司が笑った。


――あぁ、やっぱり。

 確信する。

 この人は全部、わかってたんだ。


「――いえ、失礼しました。それでは、お待ちしております」


 受話器を置く。

「城ノ内さん、三十分後に依頼に来られます」

「了解。あかりちゃん、ちょっと残業出来る?」

 上司が目を細める。

「――えぇ、もちろんです」


 電話の相手は、

 浅羽めぐみと、名乗った。


     *


「主人が、浮気をしているみたいで」

 お茶を入れて応接スペースに向かう。足を踏み入れたのは、意を決したように夫人がそう言った瞬間だった。夫婦揃ってタイミングが悪い。

「あの、もともと帰りは遅いので特に気にしてなかったんですが……えっと、」

 慣れない場所で、知らない人間に事情を話す戸惑い。言葉に詰まりながら懸命に話そうとする浅羽夫人に、上司はいつも以上の優しい笑顔を向けている。

「浅羽さん、ゆっくりで構いませんよ。落ち着いて、お茶でもどうぞ」

 そんな言葉で促され、彼女の前にお茶を置く。彼女の夫の時と同じように、笑顔を作って。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 わずかに微笑んで礼を言うその声は、微かに震えていたように思えた。

 上司に手招きされ、脇の椅子に腰掛ける。

 不安そうな表情に同情心が沸き起こったのを、目を閉じて押さえつけた。

「通帳が、落ちてて、」

 ひと口、お茶で喉を潤して。再び彼女が口を開く。

「私が結婚前に貯めたお金も一緒に入れてた口座なんですけど、ここ一ヶ月くらいで、すごく減ってて」

 こっちが心細くなるようなその声に、心が締め付けられる。

 今すぐ、教えてあげたい。口座のお金はどんな風に使われたのか。そして、浅羽宗一郎がどんな人間かを。

「それで、どうしていいのかわからなくて、友達に相談したら、絶対浮気だよって」

「お友達というのは?」

「あ、私、結婚前に主人と同じ会社に勤めてて、その時の、鳳興産の同僚で……ここを教えてくれたのも彼女なんですけど」

 彼女が答えようとする、その人物には心当たりがあった。

 上司が、笑みを深める。一見優しげで、どこか含みのある笑い方。

「――佐倉優子さん?」

 その問いかけにハッと顔を上げて、夫人は上司の顔を見る。

「あ、はい。お知り合いなんですか?」

 そう言った彼女は、どこか安心したような表情で。


――違う。

 直感した。やっぱり彼女は、『ユウコ』の正体を知らない。


「……特にそういうわけではないんですけどね」

 苦笑する上司に、彼女は首をかしげる。

 上司はいくつか形式的な質問をし、最後に夫人に向き直った。

「浅羽さん。確認しておきたいことがあります」

「はい」

「もしご主人が浮気されていた場合、どうされますか?」

「……え?」

「ただ事実が知りたいだけなのか、離婚するつもりで証拠が必要なのか、ということです」

「そう、……ですね」

 それは、彼女にとって意外な質問だったのか、その表情には困惑がにじみ出ていた。どうしようかな、と。そう小さく小さく呟いて、目を閉じる。自分がどうしたいかを、自分の内側へ問うように。

 そして、しばらく悩んだ後、まぶたを開いた彼女の答えは、

「離婚、したいです」

 私にとって、安堵したくなるものだった。


「――承りました。必ず、お役に立ってみせますよ」


 くすりと、上司が笑う。

 それは我が事務所が、数時間前まで客であった浅羽宗一郎に対して、はっきりと敵に回った瞬間だった。


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