#彼女の存在
彼女の存在
二十九歳のクリスマス。我が家に猫がやってきた。
猫の名は、園田あかり。
愛想がなくて、負けず嫌いで、怒らせると手が付けられなくなったりもするけれど、危なっかしくて目が離せない存在。たまにいたずらしてきたりするところも、からかい半分で抱き寄せた時の抵抗の仕方も猫そのもの。
時にひどく従順でなにか別の動物に似ているようにも思えるけれど、どこか幼くて可愛らしい彼女はやっぱり猫と言ったほうがしっくりくるような気がした。
*
気がつけば、彼女と同居を始めて二ヶ月が過ぎていた。
生活にはなんの支障もなく、彼女が記者に見つかることもなく、今のところ俺が彼女にキレられることもなく、そしてもちろん余計なロマンスが生まれることもなく。
あまりに平和すぎて彼女がせっかく芽生えた『危機感』を忘れそうになるから、思い出させるように、定期的にセクハラまがいの発言でからかうのが習慣になったくらい。
「ただいまー……」
誰あてでもない言葉を呟くように口にしながら、リビングにつながるドアを開ける。
時刻は午前一時。事務所を出てから友達と会っていた分、遅くなった。
今は彼女の同意のもとで居所は把握しているけれど、それでも毎日、リビングが明るいことにホッとする。それは例えリビングに姿がなくとも、ちゃんと彼女がこの家に帰ってきているという証拠だから。
仕事や用事で遅くなる日は、給仕係の彼女にも事前に伝えることにしている。
気が向いた時だけでいいと言ったにもかかわらず、彼女は同居開始からほぼ毎日晩飯を作り続けていた。俺が『家賃代わりに』なんて言ったから気を遣っているのかと思ったが、彼女は違うと言う。
『嘘だと思うかもしれませんけど自炊は慣れてますし。それに、こっちのほうが都合いいんです』
どうやら主に経済的な理由らしい。外食したり買ったりで自分の分を用意すれば自腹、ひとり分追加して自炊すれば材料費は俺持ちになる。
記者の居なくなった隙を突いてなんとか荷物を持ち出し、部屋も無事に解約出来たものの、あのアパートで使っていた大物家電のいくつかは大家さんの息子が一時期使っていたものを好意で貸してもらっていたらしく、引っ越しとなると自分で買わないといけないらしい。自分で掃除できない分ハウスクリーニングを頼んだり、持ち出した家電や使っていた布団なんかを置くのにトランクルームを借りたりとなんだかんだで出費のかさむ彼女には、俺の出した条件は都合がよかったんだろう。
「ん?」
違和感に足を止める。
この時間、静まり返っているはずのリビングに、今日は二種類の音があった。
流行りの芸人のメリハリの利いた声。それに呼応する笑い声と拍手。つまりひとつめは、ボリュームを絞ったテレビの音。そして。
「あかりちゃん?」
ふたつめは、ソファの背もたれに深く身を預けたうちの猫が零す小さな小さな寝息だった。
「珍しい、こんなとこで」
テーブルの上には金色の包み紙をまとった丸っこい瓶と、褐色の中身が半分くらい残ったグラスが置かれている。ふと瓶のほうを手に取ると、中身は空に近かった。
昨日までこんな瓶を見た覚えはない。今日買ってきたなら飲み過ぎだ。
なるほど。久々に俺が居ない家で思う存分飲んで、アルコールの影響か単に眠くなる時間だったのかはわからないが――いや、おそらく後者だろうが、とにかくそのまま寝入ってしまったらしい。
――それなら最初から自分の部屋で飲めばよかったのに。
こういうところが迂闊なんだ、と半ば呆れ気味に思う。この分だと、そろそろまた危機感を思い出させないといけなさそうだ。
穏やかに胸元を上下させる彼女は事務所で使っている膝掛けを肩に羽織り、膝から下は寝室用の厚手の毛布に包まれている。膝の毛布の上には開かれた状態で一冊の冊子。足下のラグにも膝から滑り落ちたらしい三冊と何枚かのチラシが散らばっていた。
「……ったく、諦めの悪い」
思わず苦笑する。それらはすべて住宅情報誌だ。
全部まとめてゴミ箱に捨ててやろうかと思ったが、反感を買いそうなのでやめておく。散らばった冊子たちと彼女の膝にある一冊を軽くそろえて彼女の足下へ置き、俺は一旦彼女に背を向けた。寝室に連れて行くのは後でいいだろう。疲れたから、まずは腹ごしらえ。
視線の先、数メートル離れたダイニングテーブルにはいくつかの器が見える。近づくと、ラップをかけられた食事の他にもうひとつ鎮座しているものに気がついた。
「……あぁ、そうか」
置かれていたのは、赤いリボンの掛かった小さな箱。
日付は変わってしまったけれど、そういえば昨日は二月十四日だった。昼間に一件だけとはいえ久々に尾行調査もしたのにすっかり忘れていた。
『いつもありがとうございます。ささやかながら感謝の気持ちです。 あかり』
ひょいと裏返してみれば、リボンの上には原材料表示のシールが貼ってあった。近くのコンビニで似たようなものを見た気がする。確か三百円くらいだ。
隙間に挟まれたメッセージカードの内容も含めて『義理です』と全力で主張するような贈り物に、思わず笑ってしまった。そんなに警戒しなくても勘違いなんてしないのに。
まぁ、警戒してくれるのはいいことだ。こういうところではセクハラ発言も功を奏していると言えるだろう。しかし残念ながら、当の本人は今、警戒の対象である俺とふたりきりの空間で、酒かっ食らって寝こけているときた。そりゃあもう、これ以上なく無防備に。
くっ、と喉が鳴る。
時にはこちらが戦慄するほど強く、時には庇護欲をかき立てるほど弱く。理路整然と『推理』を組み立てたりするのに、たまにこんな風にちぐはぐで。
本当に、見ていて飽きない。彼女はやっぱり面白い。
カタンと、大きな音にならないよう気をつけながら、椅子を引く。
目の前には炊飯器の中にあった炊き込みご飯と、鍋にあった具だくさんの豚汁。テーブルの上にあった器のラップをひとつひとつ剥がしていくと現れたのは鯖の塩焼きにだし巻き、そして――
「う、わ……」
最後の小鉢の中身を、俺は思わず凝視した。小鉢の中には銀餡に浮かぶ、丸い海老真丈。水菜と針柚子まで添えられて、見た目はいつもの居酒屋そのままだった。
「……作れるのか、これ」
彼女の用意する食事は手作りが多いものの、冷凍食品やレトルトを使うこともあるし、スーパーの総菜が並ぶことだってある。けれど何故か、これは既製品ではないと直感した。
なんとなく椅子に座り直して、居住まいを正す。
いただきます、と静かに手を合わせ、まず最初に箸を付けたその球体は、ふわりと柔らかかった。
「……旨い」
作り方はおそらく居酒屋のものとほぼ同じ。一体いつの間に。いや、まぁ、あの居酒屋で俺が席を外したのは一度や二度じゃないから、作り方を聞く隙なんていくらでもあったんだろうけど。
材料はもちろんスーパーで手に入るものだし、鮮度なんか及びも付かないはずだ。ピンと緊張感のある料理屋の味とは違うけれど、その分どこかホッとする、彼女の作る、彼女の味。
「……やられたな」
これが日頃の感謝の気持ちなのか。なかなかのサプライズだ。コンビニチョコの後だったから、なおさら衝撃は大きかった。
結局、なんだかもったいなくて箸が付けられず、他の器を片付けてから最後の最後にやっとその小鉢は空になった。ごちそうさまでした、と小さく呟いて手を合わせる。色々なところが満たされた気がした。
食べ終わった食器を始末してリビングに戻ると、もちろん猫はまだ眠ったままだった。
「あかりちゃん、風邪引くよ」
声を掛けるも眠りが深いのか、反応はない。
「あかりちゃん?」
呼びかけながら、耳元の髪を少しだけ掬う。ほんの少し湿り気を残した髪。
「今日はちゃんと風呂入ったね。偉い偉い」
同居を始めてしばらくは『家主より先にお風呂入るなんて出来ません』とかなんとか堅苦しいことを言って、こちらの帰宅が遅くなる日でもずっと待っていた彼女。いい子いい子と頭を撫でていると、ふと思った。
もしかしたら、彼女は俺の反応が見たくて待っていたんだろうか。
ふっ、と息が漏れる。想像したのは、とれそうなほどしっぽを振ってご主人様を待つ犬。
この猫は、もしかすると犬なのかもしれない。
猫、改め犬は、未だピクリとも動かない。
「……あかり」
もう一度、名前を呼ぶ。妻役の時の呼び方で、今度は起こさないように、小さく。
わずかな距離をさらに詰める。踏みつけた冊子が、足下でクシャリと音を立てた。
そっと頬に触れて、うつむき加減の彼女を少しだけ上向かせる。
遠赤外線ヒーターが近くで動いていたおかげか、その頬は随分と温かかった。火照る一歩手前の肌に冷たさの残る手は心地よかったのか、微かに彼女が頬をすり寄せてきて、俺は『あぁ、やっぱり猫だ』と思い直した。
同居前、彼女を住まわせるのは猫を飼うようなものだと思っていた。
実際、彼女はそれに似ている。華奢な身体にふわりとした髪、仕草ひとつひとつの可愛らしさ。そして、アルファ波でも出しているのかと思うほど眠気を誘うこの幼い寝顔も。
けれど、家族のように思いこそすれ、猫は恋愛対象にはなり得ない。
だから、彼女は猫なのだ、と。
ただひとつの誤算に気づいたのは、同居が始まってからだった。
――どうやら俺も、猫だったらしいのだ。
猫同士なら仕方のないことだ。そう言い訳して。
衝動に任せて、眠ったままの彼女に触れるだけのキスをする。
「…………甘」
三度目のキスは、チョコレートリキュールの味がした。
「…………」
口唇から微かな余韻が消える前に彼女から身体を離し、足下のラグに腰を下ろす。
「……はぁ――」
ソファの脚を背もたれにして脱力すると、長いため息が口を突いた。
頬の熱さに、頭を抱える。なんというか、とんでもなく、うしろめたい。
「小学生か、俺は」
いや、二ヶ月前の彼女たちと比べればそれ以下か。
いい年こいて、そこまで純情な人間でもあるまいに。
落ち着こうとしても、どうにも上手くいかない。
わかっていた。今の自分はただ、海老真丈とあいつの言葉に惑わされているだけだ。
「……結婚かぁ」
耳から入ってきた自分の独り言が、さらに頭の中をかき乱す。
「……あ―、くそ」
ぐちゃぐちゃの思考を振り払うように、テーブルの上のグラスに手を伸ばす。
冷めてくれない頬の熱さをごまかすように、口唇に残る甘さを上書きするように、彼女の飲み残しを一気に飲み干した。
大丈夫。きっと、一晩寝たら落ち着く。
だから今はただ
* * *
目が覚めたら、妙なところにいた。
まず目に映ったのは、毛布に覆われた自分の膝。しょぼしょぼと瞬きを繰り返していると、五感はゆるやかに活動を始め、鈍い頭も自分の状況を把握し始める。
首と肩の痛みと柔らかいソファの感触。ほのかに香るのは加湿器に仕込まれたオレンジのエッセンシャルオイル。ここはリビングだ。
ぼんやりとした記憶を辿る。十二時過ぎに使い切った牛乳のパックを捨てたところまでは覚えている。そのあと冊子をめくり始めて――それから?
――失態だ。
情けないことに、どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
で、ここからが、さらなる問題で。
何故か傍らに自分以外の気配がある。
――なんでだ。
誰か、は考えるまでもない。ここは彼の家だ。
呼吸音が規則正しいリズムを刻んでいるということは、眠っているのだろう。
――なんでこんなところで。
痛む首を押さえながら恐る恐る顔を上げると、そこに疑問の答えと思われるものがあった。
「……あぁ」
テーブルの上のグラス。全部は飲んでいなかったはずのカクテルが、空になっていた。
酒に弱い上司はこれを飲んで寝てしまったわけだ。同じテーブルに瓶がある以上、酒だとわかっていただろうに、人の飲みかけをなんで勝手に飲んだのかはわからないけれど。
少し視線を動かして、彼の姿を確認する。Yシャツの上にVネックのセーター。職場での服装から上着を脱いだだけということは、当然風呂も入っていないだろう。
帰ってきた時間も遅かったようだし、よっぽど疲れていたんだろうか。
「んー……」
一度伸びをして、時計を確認する。
時刻は七時前。上司はいつも私より早く出勤するけれど、それでもまだ時間がある。もう少し寝かせておいてもいいだろう。アルコールが入っているなら、もしかすると起こしても起きてくれないかもしれないけれど。
「……いしょっと」
妙な姿勢で眠ってしまったせいで固まった身体を、勢いよくソファから引きはがす。
せっかくだ。起きる時間が違うせいでいつもはともにすることのない朝食を、用意してみることにしようか。
キッチンに足を向けると、まずダイニングテーブルが綺麗に片付いていることに気づく。食洗機は使わなかったのか、シンクのかごにひとり分の食器が立てかけられていた。
――食べてくれたんだ。
上司が食事を残したことなどないのに、今日はそんな当たり前のことが少し嬉しい。けれど強いて言えば。
――見たかったなー……
我ながら頑張って作った海老真丈。
驚いた顔が見たかった。口にする瞬間を隣で見ていたかった。感想が聞きたかった。
仕方ない。寝てしまった自分が悪いのだ。
――まぁ、いいか。まだ残ってるし。
サプライズの反応を見られなかったのは残念だけれど、感想は今日聞いてみればいい。
そこまで考えて、これじゃあ恋する乙女だと、思わず苦笑した。
――やっぱり、駄目だ。
対等になりたいと願ったはずなのに、時が過ぎるごとに依存が強くなるのを自覚する。
この家での生活は思った以上に快適なものだったし、セキュリティに関しても安心出来た。雇い主で家主の城ノ内紘は、今や私の生活のすべてを握っていると言っても過言じゃない。
けれど依存の原因は、意外にもそこにはなくて。
自分でも笑ってしまいそうだけど、自分が作ったものを満足そうに食べてくれる人が居る――ただそれだけのことが、こんなに嬉しいとは知らなかったのだ。
――早く。
早くここから出て行かないといけない。この居心地のいい空間から逃れられなくなる前に。
そのためにはまず、保証人になってくれる上司のお眼鏡にかなう物件を見つけるという無理ゲーをクリアしないといけないんだけれど。
朝食の準備を終えてリビングに戻ると、上司の傍らにしゃがみ込む。
「城ノ内さん」
頬にかかった前髪が差し込み始めた朝の光に透けて、さらに薄い色に見える。呟くような呼びかけには、反応は返ってこなかった。
口元が無意識に笑みを零す。そういえば、弟のようだと思ったことがあったっけ。眠っている時のこの人は、本当に子供みたいだ。
――こういうところが母性本能をくすぐるのかなぁ。
さらさらと彼の前髪を弄びながら、私は昨日のことを思い出していた。
夕方突然事務所に来た女性は上司の知り合い――私が初めて会う、彼の『友達』だった。
沢村怜と名乗った彼女は、よりによって上司が十数分不在になったタイミングで事務所を訪れた。
まっすぐで艶のある髪にすらりとした長身。そして何より化粧映えのする整った顔立ちが圧倒的な存在感を醸し出していて、自信に満ちた表情には威圧感すら覚えた。
『あぁ、あなたが新しい子ね。紘はいないの?』
『申し訳ございません。今は郵便局に行っていて……すぐに戻りますので、よろしければ中でお待ちいただけますか?』
じゃあ遠慮なくと応接スペースに腰を落ち着けた彼女は、緑茶に口を付けながら、何故かジロジロと私を見た。
『あの、お約束がありましたか?』
『あぁ、大丈夫よ。今日会う予定だけどここで会う約束ってわけじゃなかったから、居なくても仕方ないわ』
彼女はそう言って肩をすくめ、ふっと嘲笑うように目を細めた。
『でも、ちょうどよかったかも』
直後、彼女が口にしたのは、私にとって非常に不本意な『宣戦布告』だった。
言われたセリフを思い出して、もう一度苦笑する。
その後すぐ帰ってきた上司は彼女の相手をすることなく仕事に戻ってしまったけれど、怜さんはそのまま定時まで応接スペースに居座った。私もすぐに報告書の作成に戻ったし、定時後はひとりで帰ってきたから、結局上司には言いそびれてしまった。今日は隙を見て相談してみよう。余計な恨みは買いたくないものだし。
さて、それじゃあ本格的に起こしにかかるか。
「城ノ内さん」
再び名前を呼ぶ。今度は少し強く。
「城ノ内さん。起きてください」
まだ反応はない。そういえばクリスマスの日はお猪口一杯飲んで起きたのが十時だったっけ。ってことは、こんな生っちょろい起こし方では駄目なんじゃ?
「時間なくなっちゃいますよ。城ノ内さーん?」
とりあえず、肩を叩きながら耳の近くで呼びかけてみる。
「……城ノ内さん?」
そこでやっと違和感に気づいた。――ほんの少し、呼吸が荒い。
そうだ。なんで気づかなかったんだろう。エアコンは効いていたとはいえ、この寒い季節。ヒーターからは遠く、毛布もなかった。風邪を引いてもおかしくない状況じゃないか。
ぺたりと頬に触れる。ついさっきまで水を使っていた手は冷たかったのか、ぴくりと小さく眉が動いた。熱を確かめようともう片方の手を額に持って行くと、さらに眉間に皺が刻まれる。
「……ぅ」
「城ノ内さん」
もう一度名を呼ぶ。
上司は眩しそうに顔を歪めつつ、ゆっくりと目を開いてくれた。
* * *
「……さん」
遠く、聞き慣れた声が聞こえた。
「城ノ内さん」
その声が自分の名を呼んだのだと認識した瞬間から、意識が急速に覚醒する。深い海から浮上するような感覚と同時に味わったのは、不自然な身体の痛みと、額に触れた冷たい感触。
「……う」
重いまぶたを無理矢理持ち上げると、同居人がこちらの顔をのぞき込んでいた。
「……っ、あかりちゃん」
十数センチの近い距離に、心臓が跳ねる。同時に甘ったるい味の記憶と罪悪感が蘇って、無意識に思い切り身を引いていた。
ガタン、とソファが動く音。ぶつけた背中の痛みと自分のミスを自覚して顔を歪める。
しまった。これでは不審を買う。
「おはようございます」
慌てて視線を戻すと、彼女は無表情に近い観察する表情で棒読みの挨拶を口にした。
「おはよ。何……? びっくりしたぁ」
そんなセリフで、今のはあくまで至近距離で驚いたからだと主張してみる。とっくに吹っ飛んだ眠気をいいわけに追加するために、子供みたいに目をこすりながら。
「ちょっと近かったですね。でもそんな驚かなくても」
なんとかごまかしは成功したようで、彼女がくすりと笑う。
「今のだとなんか、すごい怖がられてるみたいじゃないですか?」
冗談めかした不満を漏らしながら、一度離れた手のひらがもう一度、そっと額に触れる。水気を含んだ冷たさが心地よくて、昨日、無意識に頬を寄せてきた彼女の気持ちがわかった気がした。
「んー、熱はあんまりなさそう、かな? さっき、なんか息苦しそうでしたよ」
「……え?」
「あ、やっぱりちょっと鼻声ですね。こんなとこで寝てるからですよ」
「あー……、そっか」
俺もあのまま、いつの間にか寝てしまったらしい。道理で身体の節々が痛いわけだ。こんなところで寝てるから、ってのは彼女には言われたくないセリフだったけれど、不平は飲み込んだ。何故か目の前の彼女が、息を飲むほど優しい微笑みを浮かべていたから。まるで子供の世話を焼く母親のように。
「とりあえず、朝ご飯出来てますから。食べて薬飲んでください」
「……はい」
「随分素直ですね。どうしたんですか?」
彼女はおかしそうに笑って、キッチンへ戻る。重い身体をなんとか起こして、その背を追った。
ダイニングテーブルにはウインナー、納豆と昨日の残りのだし巻き。そしてまた、あの海老真丈が用意されていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
炊き込みご飯の茶碗を手渡され、穏やかな朝食が始まる。
途中、温めていた鍋の中身が沸騰したようで、俺の傍らに豚汁の椀が追加された。猫舌の彼女のほうには同じ椀が最初から置いてある。こちらだけ後から出てくるのは、後のほうで汁物に手を付ける癖を知っているからだ。熱すぎる豚汁は、手を付ける頃にはちょうどいい温度になっているだろう。優秀すぎる給仕係に、思わず笑みが零れた。
朝の情報番組と互いが立てる食器の音をBGMにして、ふたりとも黙ったまま箸を進める。言葉はなくとも、息苦しくはなかった。ゆっくりと味わいながら食べ進め、時折身体の状態を確認する。
食欲はある。寒気や頭痛はない。熱も彼女が言ったように、おそらくない。
症状は、なんとなく身体がだるいのと、鼻が利かなくて味がわかりづらいことくらい。
仕事はどうするかとぼんやり考えていると、彼女が唐突に口を開いた。
「昨日の夜は、何してたんですか?」
「……っ、げほっ」
想定外の発言に、ご飯粒が妙なところに入った。
それは妙に冷めた声で、意味を図り切れない。まるで何かに怒っているようで、まさか、と心臓が動きを速める。
――もしかして、起きてた?
「けほっ、何が?」
引きつった顔を悟られないように咳を続けつつ、尋ね返す。
「……えっと、野暮でした? いや、城ノ内さんが女性とふたりで会うのって珍しいなって」
「……あぁ、そのこと」
半端なくホッとする。脱力が表れたようで、意図せず呆れたような口調になる。
「別に、喫茶店で話してただけだけど。それがどうしたの? 嫉妬?」
「いや、まさか」
俺の軽い冗談を、即答で否定して。
「えっと、……仲いいみたいなんで、私お邪魔なんじゃないかと」
愛想笑いでちらりと一瞬視線をそらしたのは、無粋な発言をしたと思っているのか、それとも自分の下心からか。
「……自分は出て行くから連れ込めって言いたいの? あれとそういう関係だと思われるのは勘弁願いたいんだけどね」
「でも、昨日事務所で言われましたよ」
困ったような、そこから先を口にするのを迷っているような。微妙な顔をした彼女に、
「なんて?」
反射的に聞き返す。
沢村怜は、確かに昨日いきなり事務所に来た。俺が、出来上がったばかりの報告書を郵便局へ持って行っているその間に。呼び出したのはこちらだが、別の場所で待ち合わせのはずだったから、なんで居るんだと驚いた。あいつわざわざ事務所に来て、彼女に何を言ったんだ。
「『紘に手を出したら許さないから』って。あれって宣戦布告でしょう? 目が笑ってなかったし、それまで話してたのと全然違うすごい冷たい声で……あれは絶対本気でしたよ」
なんだそれ。気持ち悪い。
よっぽど嫌な顔をしていたのか、彼女が少し不思議そうな顔をする。
「いいじゃないですか。怜さん綺麗だし。今度は不倫でもないでしょう?」
あぁ、ここでちょっとでも嫉妬が見えたなら痴話げんかみたいで微笑ましかったのに。
多分、出て行きたい一心なんだろうが、精一杯おすすめされて複雑な思いに駆られつつ、少し考えを巡らせる。
『宣戦布告』の意味。思い当たることは、ひとつしかない。
――なるほどね。
導き出した答えに苦笑する。それならば、彼女に正解を教えるわけにはいかない。
さて、どうごまかすか。
「それ、からかわれたんだよ」
「そんな風には見えませんでしたよ」
「また騙されてる」
「何がですか」
「あれとはそんな関係じゃないから」
「わからないじゃないですか。城ノ内さんがそう思ってても、相手はそうじゃないかもしれないですよ。そうやって否定するから言えないのかもしれませんし」
諫めるように、諭すように、そんなことを言ってくる。言いたいことがわからないわけじゃないし、状況が状況なら正論なんだろうが、正直ちょっとウザい。面倒になってきた。
「あのね、あいつにはちゃんと相手が居るから」
「……そう、なんですか?」
俺の言葉に、面白いほどテンションが下がった彼女。畳み掛けるように、言葉を続ける。
「そ。結婚間際の、目に入れても痛くないくらい溺愛してる、可愛い可愛い『彼女』」
とどめの一言。彼女は最後の単語にきょとんとして、次の瞬間、眉間に深い皺を刻んだ。
「…………今、なんて?」
「言ってなかったけどね、あいつ男だよ」
「えっ!?」
「あんな
「……女装趣味ってことですか?」
「大学時代に学祭で女装したのがきっかけだったらしいけど、仕事上そっちのほうが都合がいいんだと。保険屋でね。あの通り女装すると美人だから、おっさん相手だとそっちのほうが契約取れたりするんだってさ。結果主義とはいえ寛容な会社だよね」
「……はぁ」
彼女にとっては衝撃の真実だったらしい。まだ微妙に疑いの入った目で、難しい顔をしている。
「で、俺んとこにも定期的に勧誘来るの。一回話聞いたらしばらく来ないから世間話ついでに聞いてやるんだけどね」
これは嘘。沢村怜は普段大企業相手に仕事をしている。客候補として目を付けられているのは本当だが、敢えて俺だけに付くほど暇じゃない。今回俺と会ったのは、あくまで、電話ではまだるっこしくなったこちらが呼び出したからだ。
「……なんだ」
落胆したように、彼女が呟く。その声にほんのわずかな安堵が混じっているように思えたのは、残念ながら俺のうぬぼれだろうけど。
軽く自嘲して、止まっていた箸を再び動かし始める。
豚汁はちょうどいい温度になっていた。煮崩れて溶けそうなくらい柔らかくなった大根の魅力に、お代わりを頼みそうになるけれど、思いとどまる。大事にとっておいたメインディッシュが控えているから。
最後に向けた箸の先には海老真丈。さすがに昨日ほどの衝撃はなかったものの、その優しい味に自然と笑みが漏れる。鼻が詰まっているのが非常に惜しい。
ゆっくりゆっくり、最大限に味わって箸を置く。ふと視線を上げると、自分の分を食べ終わり、じっとこちらを見ている彼女と目が合った。慌てて目をそらした彼女に、やっぱり反応が知りたかったんだ、と確信する。
「ごちそうさま」
空になった器を前に、笑って手を合わせる。満腹感と同時に、幸福感に包まれる。
「お粗末様でした」
何事もなかったかのように、器を手にシンクに向かう彼女。
「薬用意しますね」
「あぁ、あかりちゃん」
立ち上がりながら、敢えて業務連絡的にその背を呼び止める。
「はい?」
薬の話だと思ったのだろう。
わずかに首を傾げながら、くるりとこちらを振り返った彼女へ、
「サプライズありがとう。今まで生きてきた中で、一番旨かった」
まっすぐに、最大級の感謝と賛辞を贈った。
目を丸くしてしばらく固まっていた彼女は、
「…………大げさです」
ふわりと頬を染め、照れたように、ぽつりとそう零した。
「そうでもないよ。ホワイトデー期待してて」
「えっ、ちょっ、何もいらないですよ!」
「なんで」
「……なんか高額なモノ考えてそうで怖いです」
「だって俺料理とか出来ないし。金使うなってんなら『プレゼントは俺自身』とかになるけど?」
ふざけたセリフに彼女は思い切り嫌そうに顔を歪め、その反応に俺は思わず吹き出してしまった。
「いりませんっ」
「じゃあ何がいい?」
「だから、何も――あ、いや」
こちらの質問に、彼女が唐突に言葉を止める。
「ん?」
一瞬視線を下げて、浮かべたのは随分と真面目な表情。それからもう一度まっすぐにこちらを見て、彼女は言った。
「――なんでもいいなら、『情報』と『許可』が欲しいです」
くすりと息が漏れる。やっぱりそう来たか。意図するところはもちろん、彼女が必死に探している新しい住処の話だ。
「却下。君も元探偵ならちゃんと自分で探しなさい」
「その探してきた物件に難癖つけまくるくせに……」
「ボロアパートの一階やら繁華街の近くやら事故物件やら、そりゃ却下するよ。ま、どんなに探してもこの街じゃここが一番安全だと思うけどねぇ」
「一番危ないのもここですけどね」
不機嫌になり始めた顔から、ちくりと嫌みっぽいセリフが零れだす。だが残念ながら、そのセリフの選択は誤りだった。目を細めながら、彼女に近づく。
「そりゃあ危ないだろうさ。男とふたり暮らしなのに、リビングで爆睡するような危機感のない子にはね」
「……う」
短くうめいて目をそらした彼女の手から皿を奪い取り、軽くすすいで食洗機に入れた。
「警告忘れてない? 普通さ、何かされたかも、とかちょっとは思わないかね?」
矛盾している。こんなことを言ったら、彼女は余計逃げたくなるに決まっているのに。
けれど、目を覚ました時から彼女の様子はごく普通で、その点に関しては疑う様子もなく。信頼されているという意味では喜ばしいことなんだろうが、面白くないと思う自分も確かに居たのだ。嫌みのひとつも言ってやりたくなるくらいに。
「何か、したんですか?」
ちらりとこちらをにらみ上げてくる彼女をよそに、シンクに転がる食器のすすぎ洗いを続ける。
「ま、昨日は何もしてないから安心して。次は保証しないけどね」
牽制を兼ねた言葉で、昨日の出来事を嘘に変える。止まっていた手を動かし始めた彼女は、ため息をひとつ吐き出した。安心したような、呆れたような響き。
「そういうこと言うから逃げたいんですよ……」
「まだまだ逃がしてあげられないよ。優秀な給仕を失うのも惜しいしね」
会話の内容はさておき、ふたり並んでする後片付けはとても穏やかで、何かを勘違いしそうになる。最後にすすぎ終わった小鉢を彼女から受け取り、食洗機のスイッチを入れると、不意に見上げてきた彼女と目が合った。
「じゃあ、これも忘れないでくださいね」
彼女はそう言って、濡れた手をタオルで拭い、
「給仕は毒仕込むことも出来るんですよ」
ひょいと傍らの棚を指さした。
そこにあったのは、赤い液体が満たされた細い瓶。不吉な髑髏のキーチェーンが付いているそれは――以前警告された某激辛ソース。
「うげ」
本当に買ってきてたのか。バレてなくてよかった。
「穏やかな食事を楽しみたいなら、疑われるような行動は慎んでくださいね」
ぴくりと引きつったこちらの顔に、自らの優位を感じ取ったのか。彼女がそんなことを言いながら、にっこりと笑いかけてみせる。生意気な。
「その時は道連れにしてやる」
冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを持ってきた彼女は、笑いながら傍らに伏せてあったグラスを取る。半分くらいまで水を注ぐと、いつの間に用意していたのかPTP包装の風邪薬と一緒に押しつけられた。
「今後一切、城ノ内さんの手に触れたものは口にしないことにします」
すました顔で、そんなことを言う彼女に、
「……なら、口移しで」
苦笑しながら、わずかな反撃を試みる。
彼女は一瞬、虚を突かれたような顔をした後、くすりと笑うと、
「やってみますか?」
こちらを見上げて、俺の口唇に人差し指をごく軽く押し当てた。
めっ、と、小さな子供を叱るように。
いつもより大人びた表情で、ほんの少し目を細めて。
「その場合、ダメージ受けた後にもう一回口に入れなきゃですけど」
そう言って一歩下がった彼女は、普段通りの幼い笑顔に戻っていた。
はは、と笑い声が漏れる。
「それはやだな。残念」
その時脳内で響いたのは、昨日の投げやりな怜の声。
――もう結婚しちまえよ。
生命保険の受取人に同居人を指定することが出来るかと質問した俺に返ってきた答えは、ぐだぐだと長ったらしいものだった。理由は、同居期間は、住民票の記載は――
ただ、今俺に何かあったら彼女はどうなるのかと心配になっただけなのに。
色々と話をして、面倒くさそうに遺書でも書けと言われた後、さらに言われたセリフがこれだった。
確かにそれが一番手っ取り早いんだけど、実現できそうにないから相談したのに。
――遺書か。
それもいいかもしれない。
思いつきで生命保険なんて回りくどい方法を考えたもんだから、話がややこしくなったのだ。
そのおかげで彼女は『宣戦布告』を受けることになってしまった。
今日喫茶店で話をするまで、怜は俺の保険加入の希望を彼女に言われてのことだと思っていたから。
『手を出したら許さないから』
だから、あのセリフはつまりそういう意味だ。
上手くいかないものだと、ひとり肩をすくめる。
――保険金殺人を疑われていたと知ったら、彼女はどんな反応をするだろうか?
色々と問題はあるけれど、今はただ、この日常を逃したくない。
猫が猫を口説けるようになるにはまだまだ時間が掛かりそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます