#実験

実験

 始まりは、ちょっとしたいたずらだった。


「あかりちゃん、今日はカクテル試してみない?」

 いつもの居酒屋。上司とふたりでお品書きを眺めていると、カウンターの向こうで預けたコートをハンガーに引っかけながら、店主の斉藤さんが提案してきた。

「カクテル?」

 そんなもの載ってたか? お品書きをもう一度見直すけれど、やっぱり載っていない。

「いや、まだ練習中だから載せてない」

「メニュー増やすんですか?」

「知り合いがいいみかんジュース作るようになってね。せっかくだから若い女の子向けにどうかなって。まぁ、シェイカーまでは振れないから、合わせるだけで出来るもの限定だけど」

「へぇー。何が出来るんです?」

「とりあえず定番でファジーネーブルとカシスオレンジ。城ノ内くんはみかんジュースそのままストレートでどう? 意見聞かせてくれたらタダでいいから」

「じゃあ、俺はそれで」

「私はファジーネーブルお願いしまーす」

「かしこまりましたー!」

 ニッと笑いながら奥へ引っ込んだ斉藤さんは、少し間を置いて、お盆を手に戻ってきた。お盆の上には鮮やかな液体に満たされたふたつのグラスと、中身が少し減った大きめの瓶。瓶の側面の白い和紙ラベルには筆文字で「生しぼり」と書かれている。

「なんか美味しそう」

 同時に高そう、という言葉が口をつきそうになるが思いとどまる。余計なことは考えず、今はただ純粋に味わうのが礼儀だ。

 ほんの微かに漂うみかんの匂いに、いい予感がする。出来ればメニューに載った時、私でも気軽に頼める値段でありますように。

「どうぞ! 試してみて!」

 満面の笑みとともに目の前に置かれたふたつのコリンズグラスは、空調の効いた暖かい店の空間にカランと涼しげな音を響かせた。

「じゃあ、いただきます」

 無言で、どうぞ、というように手振りする斉藤さんは、よっぽど自信があるのか笑顔のまま、こちらを見つめ続けている。見られてると飲みにくいな、と思いつつ、上司と同時にグラスへ手を伸ばした。


「……美味しい!」

 一口目を飲み下し、思わず顔を上げると、満足そうに笑う斉藤さんと目があった。

「すごい。濃厚なんですね、このジュース。搾ったっていうより潰したみたいな」

 見た目ではあまりわからなかったのに、あらごしなのか口に入れると粒がかなり残っているのがわかる。『どろどろ』の数歩手前のようなその液体は、最初に感じる酸味も、リキュールと絡まり合った甘みもすべてが濃厚。デザート感覚、という表現がぴったりの飲み物だった。

「でしょ? 城ノ内くんはどう?」

「ストレートも旨いです。確かに濃いし、ホントにストレートかってほど甘い。喉が乾いてる時には向かないでしょうけど。これだけ濃いなら炭酸割りとかもいいんじゃないですか?」

「あぁ、なるほど」

 上司の言葉に小さく頷いて、斉藤さんは脇に置いてあった手帳にメモした。メニュー候補に追加されたようだ。

「あ、じゃあこういうのは? この前最後に食べたオレンジ風味のアイス。あの香り付けの代わりにソースとしてこのジュースかけるとか、混ぜ込むとか」

「あぁ、いいね。旨そう」

「それももらっとこう」

 上司の賛同と、また手帳に書き込まれる文字。

「あとは、ヨーグルトとか? 駄目か。混ぜたら濃すぎて喉に詰まりそうだ。分離するかもだし」

「それならみかんジュースのほうをゼラチンか寒天でゆるーく固めて合わせたらどうです? 食べるデザートドリンク、みたいな。牛乳でもいいかもですけど」

「簡単だし見た目も綺麗になりそうだね。おもしろい」

 ふむふむと頷きながら、ペンを走らせる斉藤さん。タダにしてもらった一杯分の恩くらいは返せただろうか。ブレインストーミングの状態で発想は尽きないし楽しいけれど、放っておけばみかん料理屋になりそうだ。区切りをつけるように、もう一度グラスを口へ運んだ。

 さて、話題を変えるのに何を話そうか。

「――ん、」

 そんなタイミングで、狙ったように上司の携帯が振動した。

「ごめん、すぐ戻る」

 仕事の電話だろうか。携帯を手に、ほんの少し真面目な顔をして席を立つ。

 迷惑になるから、と上司はいつも店の外に出て電話をする。それは大部分が小さな店に対する配慮からだったが、今みたいに他に客が居ない時でも同じだった。他人の情報を扱う以上、さすがに斉藤さんが居る前で仕事の話をするわけにはいかない。

 入り口の引き戸が閉まり、上司の姿が見えなくなる。取り残されたみかんジュースのグラスが、寂しがるようにカランと小さな音を立てた。

 

 ――思いついたのは、その時だ。


「……斉藤さん」

「ん?」

「コアントロー、ありますよね」


 のれんに創作料理をうたっているとはいえ、どちらかと言えば和食寄りのこの店。お品書きにないのは知っているけれど、アイスの香り付けに使われていたのはコアントローだった。だからきっとあるはず。

「あるけど。なんで」

 怪訝な顔で返されたその答えに、にんまりと笑みを返す。

「城ノ内さんの酔ったところって見てみたくないですか?」

 私の企みを聞いて、吹き出すように笑うと、

「……見たいね」

 店主はまた奥へ引っ込み、今度はすぐに戻ってきた。手には四角い茶色の瓶。

 はい、と差し出されたそれを受け取ると、わずかに緊張が走る。

 ちらりと入り口の向こうを窺うけれど、上司の姿は見えないままだった。

 手早く蓋を開け、中身を上司のグラスに注ぐ。ほんの少し、1tspティースプーンにも満たないくらい。

「……それだけ?」

 瓶を返しながら、斉藤さんのつまらなそうな声に頷く。

「城ノ内さんがお酒飲まされた後に会ったことあるんですけど、すごく眠そうで。後で飲ませた人に聞いたら飲んだのお猪口一杯だけだったって」

 そんな上司だから、どのくらいが境界線なのかさっぱりわからない。さすがにこんなところで動けなくなってもらっては困る。少なすぎるかもしれないが、それなら次に来た時に増やしてみればいいだけの話だ。

「そんなに弱いの!? ……まずいかも」

「これくらいなら大丈夫じゃないですかね。香り付け程度ですし」

 顔色を変えた斉藤さんに、軽く答える。まぁ、カクテルにするならともかく濃厚みかんジュースにオレンジの香り付けをする意味はまったくないのだけれど。

「あ、吐いたり気分悪くなったりはしたことないそうですから、そういう意味では大丈夫ですよ」

 これは木下徹と橋爪直樹からの情報。どうやら彼らが城ノ内紘を潰した回数は過去二回ではすまないらしい。

「そっか、じゃあ安心だ」

 斉藤さんはふっと微笑むと、次の瞬間、

「連れて帰って世話してくれる子もいるんだしね」

 そう言って、ニヤリと、笑みの質を変えた。

 

「――え?」

 一瞬、その言葉が何を意味するのかわからなかった。

「年末くらいからだよね? 違う?」

 斉藤さんは、敢えて核心を口にしない。けれど、ニヤニヤ笑いが十分すぎるほど心のうちを語っていた。

「……なんで知ってるんですか? 城ノ内さんが?」

 上司がしゃべったのかと思ったが、

「いや。彼からは聞いてないよ」

 あっさりと否定された。謎かけでもしている気分なのだろうか。随分と楽しそうだ。

「じゃあ、なんで……」

「――あれ、まだなんも頼んでないの?」

 眉を寄せると同時、ガラリと入り口が開いて上司が顔を出す。

「って、なんて顔してんの、あかりちゃん」

 反射的に難しい顔をそちらに向けてしまって、事情を知らない上司に笑われた。

「城ノ内さんも話聞いたら同じ顔したくなりますよ」

 悔し紛れに言うと、

「ほう。じゃあ、聞いてみようかな」

 彼は少し目を細めて、そう促した。

「……斉藤さんが、知ってるみたいなんです」

「わかっちゃった。君らの秘密」

「は?」

「さっき、……えっと、年末くらいからだよね、って言われて」

「あぁ、秘密ってそのこと」

 隣の椅子に戻ってきた上司は、驚かないどころかなんだかどうでもよさそうにそう言うと、しずくの浮いたグラスに口を付ける。これとこれ、とお品書きのいくつかに指さしながら。

「……」

 ごくりと、目の前の喉が動く。視線を外せないうちに目が合って、心臓が跳ねた。

 慌てて目をそらし、ごまかすように口を開く。

「……で、ですよ。なんで知ってるのかなって」

「どっちかっていうと、話聞きたいのは俺のほうなんだけどね? なんで急に同棲?」

「『同居』です」

 即座に訂正した私に、上司が苦笑する。

「まぁ、ちょっと事情があるんですよ」

「なんだ。じゃあ、まだ手は出してないってことか」

 鍋から取り出したおでん数種をこちらへ差し出しながら、それはそれはつまらなそうに斉藤さんが言うと、

「本格的に口説くには、まだちょっと、命の覚悟が足りないんで」

 上司は笑いながらグラスをあおった。そのセリフはまともに聞いていられるものではなくて。

 私は能面モードに切り替えて、おでんの大根をつつきながらいつものように聞き流した。率直に緊急避難的なものだと言えばいいのに、最近の彼はそうしない。ついこの前まで面倒そうだったのに、私へのからかいも含めてか、こういったふざけ合いが楽しくなってきたらしい。

「道理で。一緒に住み始めた割にはそういう空気が感じられないなぁと思ってた」

「まぁ、それはそのうちね」

 あぁ、もう。そういう冗談を言うから、ろくでもない人間に思われるんでしょうが――

 言いかけた言葉を飲み込む。何を言っても無駄だ。双方素面のくせに酔っ払いより断然タチが悪い。――いや、今回は約一名、既に素面ではないのかもしれないが。


 まぁ、しかしだ。

 上司にまったく驚いた様子がないのはどういうことだ。

 やっぱり彼が斉藤さんに話した? いや、さっきの口ぶりからするとそれはなさそうだ。それに、本当に自分で話したなら、この人は『俺が話したんだよ』と、あっさりそう言うだろうから。

 私個人として不本意ではあるが、別に隠しておくという約束があるわけでもない。例の記者たち以外には知られたところで何の支障もないのだ。だから、話したことを隠す必要もない。

 となると、おそらく上司は本当に話していない。

 なら、斉藤さん独自のルートで知ったのか。この店の形態なら、そこそこの情報網を持っていてもおかしくない。けれど、斉藤さんは上司の仕事については知らないはずだ。今まで色々な話をしたけれど、その一線に関してはこちらが語る範囲のこと以上は絶対に踏み込んでこない。そんな斉藤さんが、こちらの行動を探るようなまねをするだろうか? そもそもなんでそんな必要がある?

 もしかすると、たまたまかもしれない。この店には私たちの他にも何人か常連客がいる。たまたま、そのうちのひとりが、私たちが一緒にマンションに入るのを見て、斉藤さんに話していたら。

――違う。

『年末くらいからだよね?』

 斉藤さんは確かにそう言った。この考えが正解なら、最初に目撃されたのは年末だ。

 けれど、それなら。

 居候を始めた日からずっと、私たちは外出時、常に変装している。事務所と家の中以外で変装していなかったのは唯一、年末にも訪れたこの店だけだ。つまり斉藤さん本人にも言えることだが、この店の常連は、逆に私たちの変装姿を知らない。例え姿を見たとしても、確信を持って私たちだとわかるとは思えない――

「むー」

 わからない。

「悩んでる悩んでる」

 むくれていると、くすくすと笑いながら上司が言った。

 それは明らかに正解を知っている者の余裕で、思わずムッとしていると、

「城ノ内くんはわかるの? なんで俺が知ってるか」

 心の声を代弁するかのように、斉藤さんが問いかけた。

「確証がないんで言いたくないけど、想像は付いてますよ」

「ほう。じゃあ、その想像を聞かせてほしいね」

「不確かな情報は口に出さない主義です」

「えー? そんなこと言って、わからないだけじゃないのぉ?」

 わざとらしい挑発的なセリフに苦笑して、上司はしょうがないなぁ、というように、ふっと息を吐いた。

「じゃあ、その前にひとつ質問させてください」

「どうぞ?」

 またひとくち、オレンジ色の液体を口にしてグラスを置き、彼はちらりと私のほうを流し見た。薄く笑ったその表情に、なんとなく意味を理解する。

 口に出された質問は、私へ贈られたひとつめのヒントだった。


「斉藤さん、『知ってた』わけじゃないですよね?」


「ははっ」

 その質問に、さもおかしそうに斉藤さんが笑った。

「正解だね」

 短い回答に自分の推理の正解を知った上司が、満足そうな顔をする。

 私は思わず、眉を寄せた。

「どういうことですか?」

「君はカマかけられたってことだよ」

「え? じゃあ、あれは適当だったってこと?」

 さっき言っていた『そういう空気』というヤツだろうか。いやいや、でもそれは感じられないんじゃなかったか。

「いや、そうでもない。今の俺と一緒だよ。確信が持てなかっただけで、想像は付いてたはずだ。そうじゃないかなーって程度にはね」

「それだけの、根拠はあったってことですか?」

「そ」

 色々な考えが、頭を巡る。けれど、それらは纏まることなく、砂のように崩れ去っていく。

 決定的なものが、私には足りない。軽く、ため息を吐く。

「……悔しいけど、わかりません」

 傍らの上司を見上げて、素直に白旗をあげた。

「ん、そうだね。今回、君が推理するのは、まだ無理だ」

「ですね。私には足りませんから」

 そう。私には足りない。上司にあって、私にないもの。

 絶対的に不足しているのはつまり、――斉藤さん自身の情報、だ。


「だから、もうひとつヒントをください」

 人差し指をぴんと立てて、素直にねだる。向けた笑顔は精一杯の強がりだ。

――あなたに勝てないのはわかってます。

 だから、導いてください。すべてをあなたの口から聞くのは悔しいから。


 そんなやりとりを、不思議そうな顔で斉藤さんが眺めていた。

「俺はむしろ、城ノ内くんがなんでわかるのかがわからんよ。ホントにわかってんの?」

 上司は、訝しげな視線に苦笑して、以前と似たようなセリフを口にした。

「斉藤さん、俺ね、友達が多いんですよ」

「ほう」

「例えば斉藤さんが高校ん時同学年だった人、とかね」

「えっ!?」

 驚くのも無理はない。十も年下の相手にそんなことを言われたら。

「同じクラスになったことはないらしいですけどね。水島さんって覚えてます?」

「水島……なんか居たような……瓶底眼鏡のヤツか?」

「今はコンタクトですけどね」

「へぇぇぇ、まさかそんなところで繋がりがあるなんてなぁ。すごい偶然」

 斉藤さんは目を丸くして、心底感心していた。上司に限っては、それを偶然と呼ぶのがふさわしいか、私にはわからなかったけれど。

「だから、知ってるんです。高校時代、斉藤さんがなんて呼ばれてたか」

「……なるほど。それでわかったのか」

 納得したとばかりに何度も頷く斉藤さんに、えぇ、と上司が短く返す。そして、グラスの中身を飲み干しこちらに視線を向けると、私の頭に手を置いて、優しく笑った。

「じゃあ、ヒント。ほぼ答えになっちゃうけどね。斉藤さんの昔のあだ名は――」


 頭に載せられた手に力が込められ、引き寄せられる。

「……おぉっ?」

 斉藤さんのはやし立てるような声が聞こえたのと、座っていた椅子ごと引き寄せられた私が勢い余って上司の胸元に額をぶつけたのと、耳元でふたつめのヒントが囁かれたのは、ほぼ同時だった。


「――ちょ、何を……!」

 とっさに離れようとするけれど、後頭部にある手のひらに押さえつけられる。椅子を引っぱったもう片方の手もいつの間にか背中に回っていて、身動きがとれない。

 抱きしめられた状態で、甘いにおいが鼻をくすぐる。目の前の胸元を押して抵抗するけれど、やっぱりびくともしない。毎度毎度思う。この力の差は卑怯だ。

 くすくすと笑いながら、また耳元で楽しそうに声が言った。

「ヒントだよ。大盤振る舞いでしょ?」

 違和感に、ピクリと顔が引きつる。後悔が胸を突く。

――やばい。酔ってる。

「城ノ内くん、仲いいのはいいけど、ここでそれ以上はやめてね」

 呆れたような声が、天の助けのように思えた。内容については少々ツッコミを入れたいところもあるけれど。

「心得てますよ」

 上司は笑い続ける。押さえつけられていた頭が解放されて、代わりに温かい手のひらがゆっくりと背中を撫でた。

「あかりちゃん、まだわからない?」

 力の緩んだ腕の中で顔を上げると、いつもとすら比べものにならないくらい優しく柔らかい笑顔にのぞき込まれる。

 なんだ、この恥ずかしい構図。

 反射的に目をそらして、うつむいたまま、少し考えを巡らせる。


 この人は、正気なのか、そうじゃないのか。

 正気なら、よく恥ずかしげもなくこんなことが出来るものだ。

 そして正気じゃないのなら、

 よくもまぁこんなに的確なヒントを出して来られるものだ――


 耳元で囁かれたふたつめのヒント。斉藤さんのあだ名。

――『ポチ』だってさ。

 それは確かにほぼ答えだった。


「――柔軟剤、です」

 答えを口にして、見上げた上司の顔はとても満足そうだった。

「よく出来ました」

 髪を撫でつける手のひらの重み。正解を告げられてホッとしていると、再び背中の腕に力が込められた。ギュッと包み込まれると、彼のシャツからまた柔軟剤の甘いにおいがする。ポチとあだ名されていたくらい鼻が利く斉藤さんに私たちの同居を知らせる原因となった、この甘いにおい。

「……城ノ内さん。もう、ヒントはいらないですよ」

 頬が熱い。動揺を悟られないように、出来るだけ無感情に言い放つ。

 同居にあたって、スーツと同じくシャツもクリーニングで済ませていた上司の洗濯を引き受けた。触れるたびに香るこの柔軟剤はずっと私のお気に入りで、同居初日の買い出しでも同じものを買っていた。おそらく年末ここへ来た時も、預けたコートにふたり同じ香りが移っていたのだろう。

「じゃあ、これはご褒美ってことで」

 彼は私を抱きしめたまま、くすくすと笑い続ける。離すつもりはないらしい。

――やっぱり酔ってる。

 諦めに似た感情が胸に宿る。小さなため息が口をつく。

「自信家ですね。これがご褒美になるって思えるんですか」

 冷たくあしらおうとするけれど。

「足りないってこと?」

「……っ」

 酔っ払いの戯言たわごとだとわかっていても、またカッと頬が熱を持つ。

――まずい。

 過度なスキンシップ。何を言っても受け流される。前回は不機嫌が上回っていただけで、多分これがこの人の本来の酔い方なんだ。笑い上戸にでもなるのかと思っていたけれど、こっちのほうがタチが悪い。飲ませるんじゃなかった――

「城ノ内くん、さっきの話覚えてるよね?」

 天の声再び。素晴らしいです、斉藤さん。

 これで解放されるかと安心したのもつかの間。

「心得てますって。これ以上はしませんよ、ここでは」

「ちょ、ここではってなんですか! 冗談やめてくださいよ!」

 不穏な言葉に、思わず顔を上げる。とにかくこの腕から逃れないと。

 彼は笑いながら、もがく私の顔を見下ろした。

「自業自得、じゃないの?」

「……え?」

「あかりちゃん、俺のジュースに酒入れたよね? いたずらでもやったことの責任は取ってもらわないと」

 気づかれてた――!!

 にっこりとこちらに向けてくる笑顔は、いつも以上に、とてもとても優しいもので。

 それでいて、捕らわれた身体が戦慄を覚えるには十分すぎるものだった。

「いやいや! だってティースプーン一杯くらいでそんなに酔うなんて思わないじゃないですか!!」

「……ふぅん」

 半泣き状態の私の声に優しく微笑むと、彼はちらりと、カウンターに視線をやる。そして、何故か目をそらした斉藤さんに軽くため息を吐いて、私を腕で囲ったまま、立ち上がった。

「ま、とりあえず、お暇しますかね。どうやら狸に化かされたみたいなんで」

「了解。面白いもん見せてもらったから、今日は木の葉のお金でいいわ」

「当然だよ」

「いいきっかけ作ってやったと思ってんだけどね?」

「余計なお世話です」

「ま、頑張って」

 対峙する二人がよくわからない会話を交わす。

 ふたり分のコートを手渡しながら斉藤さんが浮かべた笑みは、随分と意味深に見えた。

 ぴくりと眉間にしわを寄せ、苛立たしげに大きく息を吐くと、上司は私を店から押し出し、店の中を振り返る。そして普段あまり聞くことのない低い声で、笑いながら言った。


「今度やったら、常連に黒歴史バラ撒いてやる」


「ちょ、」

 顔色を変えた斉藤さんが何か言いかけた瞬間、扉は閉ざされた。



 いつの間に呼んでいたのか、店の前で止まっていたタクシーに乗り込み、上司が自宅の住所を告げる。

 静かに走り出した車の中、上司が口を開いた。

「あかりちゃん」

「……はい」

「実験は、もうやめてくれる?」

「すみませんでした」

 だって、まさか、あれくらいで酔うなんて思わなかった。

「酔わないよ」

「……え?」

「俺もさすがに、1tspじゃ酔わない」

「……っと、じゃあ、なんで」

「斉藤さんだよ。最初あのジュース持ってきた時違和感はあったんだよね」

「……?」

「なんでわざわざ奥で作ってきたんだろうって。瓶ごと持ってくるなら俺らの目の前で注いだほうがそれっぽいと思わない? 特に、俺のほうは注ぐだけなんだから」

「――っ! それじゃあ」

「そ。君が1tspを入れる以前に、俺に出されたのはコアントローオレンジだったってこと。みかんの濃さに気ぃ取られてたとはいえ、気づかない俺の舌も馬鹿だけど。道理で甘かったわけだ」

『そんなに弱いの!? ……まずいかも』

 青ざめた斉藤さんの顔を思い出す。あれはそういう意味だったのか。

「ま、君が共犯なのは確かだけどね」

「……わかってますよ。反省してます」

 もう飲ませたりしない。飲ませれば、こちらが身の危険を感じる羽目になることはよくわかったから。

 また、くすくすと彼が笑う。その笑い声が聞こえなくなると、左肩に重みがかかった。

「城ノ内さん?」

「……限界。共犯者は責任持って被害者を、連れて、帰る、ように」

 途切れ途切れの言葉を言い終わると、もたれかかってくる彼の頭は重みを増し、小さく規則正しいリズムを刻み始める。

「…………」

 少し身体の位置を調整して、ゆっくりと彼の身体を倒す。自分の膝へ頭を降ろすと、そのまま、寝息を立てる彼の髪に手をやった。さらりと撫でてみるけれど、起きる様子はない。

「……ホントに弱いなぁ」

 苦笑する自分の声は、まるで上司のそれのように優しく響いた。


 家まで約二十分。

流れる夜景を眺めながら、被害者が起きてくれなかったら一体どうやって部屋まで連れて帰ろうか、と共犯者はそればかり考えていた。

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