Mission 03
*
「あ、そうだ」
一足早くにトーストを平らげ、コーヒー片手にテレビに目をやっていた上司が、唐突に声を上げる。
リビングの片隅へ足を運ぶと、戻ってきた時に持っていたのは仕事用の鞄だった。
彼はその中を探ると、
「あかりちゃん、遅くなったけど」
「……はい?」
まだもぐもぐと口を動かしているこちらに向かって、紙袋を放り投げてきた。
「誕生日おめでとう。日付変わっちゃったけどね」
「――えっ」
「食べ終わってからでいいから、開けてみて」
笑いながらそんなことを言われて、慌てて口の中のものを飲み下す。
丁寧に包装された箱の中から出てきたのは、
「あ……、これって――」
チャコールグレーのカーディガン。色は違うけれど、形もブランドタグも事務所で着ているものと同じものだった。
「気に入ってるみたいだったから。サイズはSにしといたけどそれでも大きいだろうね」
「……いや、もらえませんよ。高いでしょう?」
「俺にとってはそうでもないよ。ちなみにその店返品不可だから、俺にはSだと小さいし君が着ないならゴミ箱行きだね」
上司の言葉に、頬が引きつる。つまり、つべこべ言わずにもらっとけ、ということだ。
「……着ますよ。ありがとうございます」
複雑な気分で箱を紙袋にしまう。
「そういえば、城ノ内さんの誕生日っていつなんですか? お返ししないと」
気にしなくていいと笑いながら、彼はじゃあ一応、と日付を口にした。
「十二月三日」
「ちょ、この前じゃないですか! 私、何もあげてないのに」
上司にしても、兄にしても、今年はもらってばっかりだ。
「そりゃ言ってないからね。三十路前だからそろそろ祝ってほしい年でもないし」
「今からでも、何か用意します」
かといってもらったものに見合うものが用意出来るかは怪しい。私の給料の何分の一なんだ、これ。
どうしたものかと考えを巡らせていると、
「あー、……じゃあリクエストしていいかな」
「……はい?」
あんまり高いものはやめてくださいね! と心の中で叫びながら、上司の発言にこれでもかってほど注目していると、
「朝食足んない。もうちょっと作って」
ちょっと恥ずかしそうな顔で、えらく可愛らしいリクエストがやってきた。
「……喜んで」
どうやら、お気に召したらしい。
キッチンに向かうと、上司とは背中合わせの状態になる。
ボウルの中身をかき混ぜながら、冷蔵庫のジャムを取りに行くついでに彼の様子をうかがう。
テレビをぼんやりと眺めている横顔は、とても穏やかなものだった。柔らかく笑みさえ浮かべて、足をぶらぶらさせるその姿は、とても昨日私を押し倒したのと同じ人物とは思えない。なんだか本当に高校生くらいに見えてしまって、けれど言ったら本当に減給されそうだから、漏れそうになる笑いを必死に抑えた。
シンクの前に戻ると、ジャムの隣に見つけたメープルシロップをボウルの中に隠し味程度に投入する。
「今日、仕事はどうするんですか?」
「休みでいいよ。今さらだし。報告書も急ぎはなかったでしょ?」
「はい、まぁ」
そんないい加減なことでいいんだろうかと思いつつ、雇い主がいいと言っているんだから、と黙って従うことにする。けれどそれをきっかけにまた思い出してしまった疑問が、心に重くのしかかった。
「…………」
急ぎの仕事は、確かにない。でもそれは。
「……城ノ内さん。ひとつ質問していいですか?」
余計なことだと、詮索するべきじゃないことだと、そう思いながら。
「いいよ。答えるかどうかはわからないけど」
上司はいつもと同じセリフで私に応える。結局、疑問は口をついた。
「仕事、なんで断ってたんですか」
「んー?」
ボウルに出来上がった液体にパンを浸し、彼のほうへ向き直る。振り返りもしない後頭部に、言葉を投げかける。
「依頼です。わざわざ宮原に回してまで仕事減らそうとしてましたよね」
「……あぁ」
穏やかだった空気が一瞬にして鋭さを持つ。ぞんざいに頷く声は、低く響いた。
「私、最初は私と一緒に帰るためかと思ってました。でもそうじゃなくて、兄の言ってたように、本当に忙しかったんですよね?」
「……まぁね」
「答えたくないなら、答えなくてもいいです。けど、」
そう前置きして。
上司の頭へ向かって、端的に問う。
「城ノ内さんは、何をしてたんですか?」
これは、推理とすら呼べない、ただの勘だ。
それでも、何故か確信していた。
彼が抱えていた『仕事』は、きっと、自分に関わることだと。
私の質問に、彼は少し考え込むように頭を下げる。
そして、首だけで後ろを振り返って柔らかく微笑むと、
「――君には教えない」
初めて、回答を拒否した。
「……っ」
「ま、どうせすぐにわかるよ」
軽く笑いながら再び前に向き直り、見てもいないテレビに視線を戻す。
「多分、もうすぐ、ね」
はぐらかされているのか、それとも本当にもうすぐわかることなのか。
わかるとしても、彼の言う『もうすぐ』は一体いつのことなのか。
すべてが曖昧すぎて、不満を抑えつけるのには、ため息がいくつか必要だった。
そんな私に、そういえば、と声が投げられる。
「あかりちゃん、俺からもひとつ質問いいかな?」
「はい?」
熱したフライパンにバターを投げ入れつつ、首を傾げると、彼は横向きに座り直した。
「ちょっと考えてみたけど、わかんなくて」
「はぁ。……いいですよ。答えるかどうかはわからないですけど」
ふざけて言ってみた私の言葉に吹き出しながら、上司は言った。
「なんでこの場所がわかった?」
「…………あぁ、」
何を聞かれるのかと内心ビクビクしていたから、そんなことか、と口をつきそうになる。
「あの一件以来尾行は出来なかったはずだけど、実はもっとずっと前に成功してたとか? 宮原にいる『友達』にも聞いたけど依頼は受けてないって言ってたし。それとももっと別の手段を使ったのかな?」
思いも掛けず出てきた宮原の名前に、目から鱗が落ちる。なるほど、尾行に他人を使うことは考えていなかった。まぁ、思いついたところで、プロを雇う金などありはしないのだけれど。
フライパンにパンを落とし終わると、蓋をして、彼のほうに向き直る。
「城ノ内さんには教えてあげません、……と言いたいところですけど」
そんな冗談を言って、一度笑いあう。
「じゃあ、種明かししますね」
小さく頷いて、上司が先を促す。
その瞳は好奇心旺盛な子供のように大きな期待を抱えていて、別に大がかりなことをしたわけでもない私としてはなんだか申し訳なくなってしまう。
「――携帯の、GPSを使いました」
苦笑しながら口にした答えに、彼はきょとんとして、
「それは嘘でしょ? 俺の携帯、GPSは付いてるけど勝手に追跡は出来ないし、妙なアプリも入ってないのは確認してる」
「そうですね。それが出来たら早かったんですけど、城ノ内さん携帯離さないし」
「だったら、どうやって?」
「だからね、使ったのは――私の携帯の、GPSです」
「……君の?」
理解出来ない。そう言いたげに眉を寄せる上司。
「そう。一昨日の夜、タクシーの足下にこっそり置いて帰りました。ブーツの紐、直す振りして置いたんです」
「いや、それは――なおさら無理だ。君の携帯は俺が監視してる。それは君も気付いてたはずでしょ?」
「はい」
「君の家から携帯が二十メートル以上離れたらアラートが上がるようになってる。けど、一昨日はそんな通知なかったし、ログでもずっと家にあることになってた」
「そうでしょうね」
目の前の難しい顔に笑ってみせると、
「…………っ、まさか、」
ほんの少しの間をおいて、彼は答えに気付いた。
推測を口に出せない彼は、何も言わないまま、答え合わせを求めるようにこちらを見る。正解ですよ、城ノ内さん。そう言う代わりにポケットに手をやった。
「馬鹿でしょう? 私」
呆れたようなその顔に返すのは、ミッションクリアと開き直りの笑顔。
「このためだけに、――二台目契約したんです」
引っぱりだしたのは、ネットで契約し、三日前に届いたばかりの新しい携帯。
「時間見計らって、タクシー会社に忘れ物したって電話しておきました。昨日居酒屋まで行くのに呼んだ時持ってきてもらったんです。まさか一回で成功するとは思いませんでしたけどね」
GPSのログと、念のための録音データ。行き先を告げる彼の声と、精算時の音声も確認して、そして私は、この場所を――彼の家を突き止めた。
「運転手さんが『友達』じゃなかったのは運が良かったですね。昨日一旦帰った時の運転手さんとか、『友達』だったらその時点で全部終わってましたし」
「確かに。手を回しとくべきだったよ」
「それは無理ですよ。私、呼ばずに店の前に止まってるタクシーに乗りましたから」
「……ったく、言うこと聞かない子だね。それってタクシー運転手の格好さえすれば簡単に君を誘拐出来るってことだよ?」
「だから、城ノ内さんは心配性すぎるんですよ」
「そうかな? 密室で男とふたりになることにはもうちょっと危機感をもってもいいと思うんだけどね?」
「……っ」
上司の薄ら笑いが私を怯ませる。敢えて口にしない言葉が、視線だけで伝わってくる。
『ちなみに、今も同じ状況なんだけど?』
穏やかな朝の空気に惑わされていたけれど、昨日と状況は何も変わっていない。彼が私を監禁しようと思えば、いくらでも出来るのだ。事務所の比ではない、逃げることすら敵わない完全な彼の支配領域。しかも、彼はもう、眠くない――。
やっと理解した。私には確かに、危機感が足りない。
私の心を読んだように、表情にほんの少しの満足を宿して、
「……そういえば、変装上手くなったね。居酒屋で君が帰る時ちらっと見たけど、全然雰囲気違ったからわかんなかったよ」
静かにコーヒーを口にしながら、上司は話題を切り替えた。
軽い褒め言葉を聞きながら、フライパンの中身をひっくり返し、また蓋をする。
「コートと眼鏡と、前に使ったテールウィッグ無理矢理固定しただけですけどね。即興でしたけど結構な変わりようだったでしょ? うちに戻った時階段でサラリーマンとすれ違ったんですけど、行きと帰りじゃ同じ人間だって気付いてなかったと思います」
笑いながら、自慢を含めてそんなことを言ってみると、
「――――っ」
上司は、急に、言葉を詰まらせた。
「……城ノ内さん?」
「あかりちゃん。君、昨日何時に帰った?」
唐突な質問。椅子からまっすぐに見上げてくるその視線が、何故か鋭い。
――……? なんだ?
急に空気が変わった。
「……え? っと、店出たのが八時半くらいですけど」
「っ、そうか。なるほどね」
「……あの、城ノ内さん?」
「ごめんね、あかりちゃん。俺の計算ミスだ。君がリミットよりそんなに前に帰るとは思わなかった」
彼の話は敢えて肝心なところを省いているようで、要領を得ない。
「なんの、話ですか?」
「君はギリギリのところで運が良くて、俺はやっぱり詰めが甘いって話だよ」
それだけ言って、静かに目を閉じる。
意味がわからない。彼は何を怒っているんだろう?
自らを落ち着かせるためか深呼吸のようなため息を吐いて、再び目を開けた彼はふと壁の時計に目をやり、
「――まぁ、とりあえず」
同時にテレビから流れ出したCM明けの軽快な音楽を聞きながら、
「こっちも種明かしの時間だよ、あかりちゃん」
感情の薄い笑顔をこちらに向けた。
*
「――――え?」
聞こえてきた音声に、思わず耳を疑う。
『児童買春の疑いで逮捕されたのは御影市大崎のIT関連会社社長――――容疑者四十八歳です』
不穏な言葉と一緒に、キャスターが読み上げた名前は、確かに聞き覚えのあるものだった。
『――警察では今後余罪を追及する方針です』
それは、一ヶ月前白紙に戻った、結婚話の相手の名前。
短い期間とはいえ曲がりなりにも元婚約者だったはずの私は、実のところ彼の顔を知らない。結局一度も家には戻らなかったし、見合い写真を送ってこようにも実家側は兄を含めて私の住所を知らないからだ。もちろんメールでも届いていない。なのに。
画面に映し出された写真。それに写っていた人物には見覚えがあった。
「――――」
音を立てて、血の気が引いていく。
「あかりちゃん、焦げるよ」
別のニュースになっても画面を見つめたままフリーズしていた私に、彼が声を掛ける。
「――え?」
「フライパン」
「あっ!」
慌てて蓋を開けると、勢いよく上がった湯気に顔を撫でられる。トースト自体は焼き色が少し濃いめに付いた程度で無事だった。ホッと胸をなで下ろしながらIHの電源を切り、皿に盛りつける。
ご注文の品をダイニングテーブルの上に差し出すと、私は彼の前に腰掛けた。
「――――あの人、昨日の、」
テーブルの上に置いた手が震えている。自分の顔が青ざめているのを自覚出来る。
上司は皿に手を伸ばしながら、
「やっぱりか」
と、舌打ちした。
映し出された元婚約者は、昨日、階段ですれ違ったサラリーマンと同じ顔をしていた。
「君が住んでる階にはね、男は住んでないんだよ」
「…………っ」
てっきり住人だと思っていた。住んでいないなら、どうしてあそこにいたのか。私もさすがにその理由が想像出来ないほど、楽観的なわけじゃない。
「テールウィッグに救われたね。俺も正直、昨日は来ると思ってなかった」
「……知ってたんですか」
疑問があふれ出す反面、頭の中でいくつかの事柄がパズルのように組み合わさっていく。
上司が過保護になった理由。危機感がないと私を咎めた理由。そして、おそらく、忙しかった理由も。
「あの件が終わった三日後かな。仕事の話のついでに、宮原さんが教えてくれたんだよ。西園あかりを探すよう依頼があったってね。どうにも怪しいから断ったけど気をつけてって」
家を出てからはずっと園田あかりの名を使ってきた。私の本名を知る人間は、目の前の上司と大家さんを除けば、前の職場で面接してくれた宮原所長だけだ。私の事情を知っていて雇ってくれた所長は、彼の『友達』ではなかったはずだけれど、いつの間にかネットワークに組み込まれたらしい。同業者で商売敵ではあるものの、情報収集に特化した彼と尾行調査が主の宮原では客層もそれほど被っていないし、手を組んで得な部分もあるのかもしれない。
「一応ストーカーとして君の名前で警察にも相談したし、見回りだけは強化してもらった。この街の探偵業者にもすぐ、犯罪絡みの可能性があるから引き受けないように要請した。結局君がとっくに家出てるってのは知らされてなかったみたいだね。『理想』を諦めきれなかったのか、それとも腹いせがしたかったのかは、俺のあずかり知るところじゃないけど」
絶句するしかなかった。先ほど認めたばかりの自分の危機感のなさが、いかにひどいものだったのかがよくわかる。
私に危害を加えようとする人間は、彼が警戒しているのは、父だと思い込んでいた。けれど、プライドを傷つけられたのは父だけじゃない。少し考えれば、思い当たらないわけじゃないのに。
こちらの表情をうかがいながら、彼は新しいトーストを囓った。
「情報はね、収集するのは簡単だけど、制御するのは難しいんだよ。探すことは出来ても、隠すのはそう簡単にはいかない。一応、色々と手は打ってみたけどやっぱり完全には避けきれなくて、ついに君の家が見つかった」
「それが、一昨日の夜?」
思い返せば、あの時も似たような背格好の人とすれ違っている。さすがに顔は覚えていないけれど、彼の肩越しに見た、あのスーツ姿。昨日見た時、見覚えがあったのはそのせいだったのだ。
「正解」
「じゃあやっぱり、わざとだったんですね。足引っかけたの」
「電柱の影にあの男が居るのが見えたからね。恋人でも装って見せつけてやれば諦めるか、興味をなくすと思ったんだけど、甘かったな」
そう言って苦笑する彼に対して、私の心中は複雑になる。
彼はわざと転ばせることによって、『酔って足下がおぼつかない』という、私を抱きかかえる理由を私に対して用意した。つまりそれは、彼は私には事実を話す気がなかったということだ。この時点では既に推測でもなんでもない確かな情報だったというのに、彼が口を閉ざした理由がわからなかった。それさえ知っていれば、いくら私でも危機感を持てただろうに。
「まさか、予約の前に来るほど執着してたとはね」
「予約?」
「そ。九時から今のお気に入りと逢瀬のご予定」
乾いた笑いを含んだふざけた言い回しに、蔑みが滲み出ている。
思わず顔を歪める。やっぱりまだ、例の性癖は健在だった。
「そっちに人取られて見回りが減ってたのも災いしたかな。君が九時まで居酒屋に居てくれたら、ニアミスすることもなかったんだけどね」
先ほどの彼の言葉が思い返される。『ギリギリのところで運がいい』とは、つまりそういうことだ。私が今無事にここに居るのは、変装していたという偶然があったからに過ぎない。
「多少不自然でも『九時には』じゃなくて『九時に』帰るように約束させるべきだった」
まぁ、君が言うこと聞いてくれたかはわからないけどね、と笑いながら、彼は二切れ目に手を付けた。
「……さっきから、捕まるのを知ってたような言い方ですね。忙しくしてたのは、その情報を手に入れるためだったんですか?」
「いや。もちろんあの男の動向に関しては注意してたけどね。あの男自体の情報にはそれほど時間は割いてない。それに、それで捕まるのを知ったって思ってるならちょっと違うね」
「……どういうことですか?」
「『予約』の件は、俺が警察に教えたんだよ」
「…………っ」
「嘘くさい不起訴の件で元々要注意人物だったからね。『友達』に手を回したのも確かだけど、あっさり動いてくれたよ。現場さえ押さえてしまえば、別人ってことには出来ないからね」
笑顔で語られる内容は、私以外のすべてが彼の思惑通りに動いていたことを示していた。
「……なんで、言ってくれなかったんですか?」
震えの治まらない手をテーブルに押しつけて、投げかけた声はわずかにかすれた。
「動揺させたくなかったんだよ。まだカウンセリングの途中だしね」
困ったような声。不意に、頭に重みが掛かる。
テーブルの向こう側から身を乗り出すようにして伸ばされた手は、いつもよりほんの少しだけ優しかった。
「あとは、俺のプライドかな。君に気付かれないまま全部終わらせられたら合格、ってね」
「……じゃあ、合格ですね。おめでとうございます」
そのセリフは、どこかぶっきらぼうな言い方になってしまった。
知らないうちに守られていた事実が、悔しくて。
隠されていたとはいえ、何も知らなかった自分が、恥ずかしくて。
「ま、なんとか及第点かな。これでやっと、君を解放してあげられる」
「ありがとうございます。正直、ウザかったので嬉しいです」
苛立ちまかせに笑顔で口にした率直な言葉は、紛れもない本音。けれど、あっさり解放されて、どこかぽっかりと穴が空いたような感覚に陥っていることに、戸惑いも感じていた。
「はは、なかなか辛辣だね」
目の前の顔が、苦笑する。
「いえ、褒め言葉ですよ」
彼はただ笑ったまま、またマグカップに口を付ける。
「そう思うように仕向けたんでしょう? 私が、気付かないように」
べったり堂々とはりついてくるストーカーが目の前に居れば、玄関チャイムを押すことすらしない控えめなもうひとりのストーカーには気付かない。だから、上司は敢えて必要以上に過保護にしていたのだ。
「ま、間違ってはないね。心配だったのも本当なんだけど」
最後の切れ端を口に入れると、上司は空になった皿に、カランとフォークを置いた。
「ごちそうさま」
いつか、ランチの賭けで私が牛丼をおごった時見せたのと同じ、幸せそうな顔で手を合わせる。
「お粗末様でした」
リクエストに応えられたのはいいが、さすがにこれだけではこちらが納得いかない。
そのうち何か渡そうと心に決め、皿を手に取って立ち上がる。シンクに向かう私に、彼が声を掛けた。
「あぁ、置いといていいよ。食洗機あるし。自分でやるから」
「いや、それくらいやりますよ」
「そ? じゃあお願い」
「洗い物終わったら、帰りますね。うち、電気点けっぱなしなんです」
「ん、了解」
短く返事をすると、彼も席を立つ。
「城ノ内さん」
コーヒーの残ったカップを片手に、リビングへ移動しようとする背中を呼び止めた。
「ん?」
「ありがとうございました」
「……どういたしまして」
振り向いた彼は、一瞬面食らったような顔をすると、また表情をゆるめて小さく肩をすくめた。
シンクに視線を戻し、フォークにスポンジを滑らせながら、まだ背後に居るままの上司に話しかける。
「今度は、起訴されますかね」
「されるよ」
「でも初犯扱いでしょう? 罰金だけで済むかもしれないんですよね」
「いや、それはない」
「……なんでです? 不起訴になった分はいくら嘘くさくても罪に問えないでしょう?」
「それがなくても、今のお気に入りは十三歳未満だ。ここまで事が大きくなれば、親にはもうバレてるよ。今はまだみたいだけど、近いうちに必ず告訴される。法定強姦が付いてくると罰金じゃすまない」
「でも、告訴されなかったら? されてもまたお金積んで取り下げなんてことになったら、結局児童買春の初犯扱いになるんじゃないですか?」
残念ながら、あの男には、そういう意味では潤沢な資金があると言える。
そもそも合意の上で事に及んでいるのは確かで、被害者面するのにも罪悪感があるかもしれない。その状況で普通の一般家庭が莫大な慰謝料を提示されたら、心が動かないとは言えないんじゃないか。
強姦は親告罪だ。取り下げられたら意味がない。
犯罪者への嫌悪感と、芽生えたばかりの危機感が、自分の口調を荒くしていた。彼に対してけんか腰になっても仕方ないのに。
くすりと、彼が息を吐いた。
笑われたと認識すると同時、
「――――っ」
驚きで身体が跳ねた。
いつの間に近づいていたのか、彼の右腕が乱暴に私の頭を捕らえる。こめかみの位置に巻き付いた腕が、視界の半分を遮った。
「君ね、俺がそんなに甘いと思ってる?」
左耳に、低音が響く。
「……え?」
のしかかる腕の下からわずかに見上げると、おかしそうにこちらを見下ろす彼と目があった。
「あかりちゃん、推理の時間だよ」
「は?」
「俺は、一体何をしてたでしょう?」
「だからさっきからそれを聞いてたんじゃないですか。教えないって言ったくせに」
「ヒントはあげたよ」
「少なすぎてわかりませんよ」
「じゃあ特別にもうひとつ。――『少ないなら増やせばいい』んだよ」
試すように私の顔を見つめる不愉快な視線に、眉を寄せる。
増やせばいい? どうやって? これ以上何も言う気がないくせに。そんなのヒントになっていないじゃないか。
「何、言って――」
不服を訴えようとして、言葉が途切れた。
――違う。そういう意味じゃない。
答えに、気付く。
「――まさか、調べてたのって」
「はは、さすが名探偵」
彼は、どこか満足そうに笑うと、私の髪をくしゃりと乱した。
「――正解。あの男と関係を持った女の子のうち、児童買春時効前の五十六人と連絡取った」
「――――っ」
「告訴合戦が始まる。あとは警察に任せるけど、強姦の時効はもっと長いし、可能性は低いけど強姦致傷にあたる子も居るかもしれない。時効になってる子もいるだろうから、連鎖的に民事も始まるだろうね。あのロリコンはもう終わりだよ」
一瞬、どこか違う世界を見るように細められた目は、凍り付くような冷たさを宿していた。
――……ごじゅう、ろく……?
ぞくりと、背中を冷たいものが駆け抜けて、思わず彼から目をそらす。言葉が、出てこない。
この一ヶ月ほどの間に、闇に隠れた交友関係を洗い出したあげく、五十六人もの人間と連絡を取って説得した?
正気の沙汰じゃない。仕事は減らしたとはいえ、完全に断っていたわけじゃない。通常業務と両立して出来ることとは思えないのに、彼は私に勘付かせないまま、平然とやってのけた――
「まぁ無理だろうけど、例え資産全部突っ込んで全部の告訴を取り下げさせたとしても、児童買春は残る。それだけでも上手くいけば七年超は塀の中だ」
彼は、私の頭の上に置いた腕を降ろす様子もなく、言葉を続けた。静かで深いため息が、耳に響く。
「――なんで、」
「ん?」
「馬鹿じゃないですか。増やすにしても、そんな大人数と連絡取る必要なんかないでしょう。無理してまで、なんでそこまでしたんです。そこまで正義漢でもないでしょう?」
洗い終わった皿を布巾の上に置いて、傍らの男を見上げると、
「出来るだけ長い期間で実刑食らわせてやりたかった。まぁ、意地になってたのは確かだけどね」
そう苦笑しながら、先ほどとは対照的なほど柔らかい視線を投げかけてくる。
彼はやっと腕を下ろし、困ったような顔で、もう一度私の前髪を梳くように撫でた。
「俺はね、自分のおもちゃに手を出されて黙っていられるほど、大人じゃないんだよ」
「……私があなたのおもちゃだったとは、初耳です」
口から出たのは、そんなセリフ。見下ろしてくる視線に耐えきれず、思わず目を伏せる。自分が彼の庇護下にある事実が、少し悔しい。
彼はまたくすりと笑って、私の頭を撫でていた手を後頭部に回し、
「じゃあ、ちゃんとおもちゃ扱いしてみようか」
――そのまま力任せに、自分のほうへ引き寄せた。
彼の胸に顔面をぶつける。パーカーのファスナーが頬を掠めた。
「――っ!?」
こんな構図は前にも経験があるけれど、泣いているのを慰められたあの時とは状況が違う。
彼の言う『おもちゃ扱い』が何を表すのかはわからないが、嫌な予感しかしないのは確かだ。今こそ学習した『危機感』を覚えるべき時だと、心臓が鼓動の大きさで訴えてくる。
「ちょ、冗談やめてください……!」
慌てて身を離そうと、目の前の胸を押す。
文句を言おうと顔を上げた瞬間、
「…………っ、な」
――彼の口唇が、額に触れた。
芝居がかって見えるほど柔らかく微笑む上司と、触れた部分に残る柔らかい感触。
自分が何をされたかを理解するまで、随分と時間が掛かった。
「な、なに、何して……!!」
頭の中は混乱してまともな言葉が出てこないのに、鈍い頭とは対照的に、こんなにも早く血がのぼるものなのかと不思議に思うほど、頬が熱かった。
「お気に入りのぬいぐるみに、よくこうしてたんだってね?」
柔らかな表情はそのままに、視線にからかうような色が混じる。
「……っ! 幼稚園前の話です」
つまり彼は、言葉通り『おもちゃ扱い』をしたのだ。それも、過去の私に倣って。
誰から聞いたかは考えるまでもない。あの馬鹿兄貴、何余計なことしゃべってんだ。
色々な羞恥心が涙腺を刺激して、自分が涙目になっているのがわかる。
そんな私にまたくすりと息を漏らすと、彼は私より少し大きな手で、私の頬に触れた。
「……っ」
ひやりとした感触が熱の冷めない頬を滑り、親指がごく軽く下唇をなぞる。口元の笑みはそのままなのに、その目には先ほどまでのからかいは見えない。まっすぐに見下ろしてくるその目から、視線が外せない。身の危険を察知した心臓の音が頭の中にまで鳴り響いているのに、指一本動かせなかった。
「続きがしたいところだけど、やめとくよ」
数秒後、ふっと息を吹き出して、彼が表情の質を変えた。
「君のそういう反応見てると安心する。ここしばらく、女性不信になりそうだったからね」
冗談の終了を告げるように、いつものように、私の頭に手を置いて。
本当に冗談だったのか、それともそれ以外の何かだったのかは、私にはわからなかった。ただ金縛りが解けたように全身から力が抜けるのを感じて、彼に知られないように小さく息を吐く。
「……帰ります」
「了解。送るよ」
あっさりと身体を離して、彼がリビングへ足を向ける。
なんだか急に疲れを感じて、その場に突っ立ったまま、ぼんやりと彼の背を眺めた。
――でも、これで終わったんだ。
帰ったら、お風呂に入ってちょっとだけ寝直そう。色々と混乱気味だから頭を切り換える必要がありそうだ。
明日からまた平和な日常が始まる。困ったお客さんに振り回されることはあっても、上司は仕事を断る必要もなく、私の送り迎えも必要ない。あの一件より前の、本当に大切だった日常が、また始まるんだ。
「あかりちゃん、はい。……って、どうかした?」
ごく近い未来に思いを馳せていると、いつの間にか身支度を済ませた彼から鞄とコートを渡された。
「いえ、何も。ちょっと疲れたみたいです」
ごまかすように笑って、答える。
「そ? 無理しないようにね。あぁ、これ貸すよ。今日寒いってさ」
BGMにしていたニュース番組からの情報だろうか。そんなことを言いながら、マフラーを手渡された。
「あ、じゃあお借りします。ありがとうございます」
こういうところはさすが友達多いだけあるよなぁ、と気遣いに感心する。
首に巻き付けたマフラーからは、ほんの少し防虫剤の匂いがした。
*
廊下へ促され、肩を並べて玄関の前へ到着した時だった。
ブン、と低い振動音が響いて、ポケットから財布を取り出そうとしていた彼の携帯が着信を知らせた。
「あ、ちょっと待ってね」
彼は携帯を取り出して画面を操作しながら傍らのミニテーブルに財布を置き、片手で器用にカードキーを取り出して、
「ん」
ドア横のカードリーダを指差しながら、こちらに差し出してきた。
カードを受け取ると、彼は画面に視線を戻す。どうやらメールの着信だったらしい。
何かよくない情報だったのだろうか。彼は十秒ほど画面を見つめると、何か考えるような仕草をしたあと、何も言わずに携帯をポケットに戻した。そして、
「あかりちゃん、何やってんの」
「……え?」
「鍵渡したでしょ? 開けて」
「あぁ、はい。でもこれだけじゃ――、……っ!」
彼の視線に、思わず口を押さえるけれど。
「へぇ?」
駄目だ。もう遅い。引っかかった。
――油断した……!
着信の内容に気を取られて、彼の仕掛けた罠に気付かなかった。
「…………っ」
顔が引きつる。嗜虐心全開の目に、蛇に睨まれた蛙の気分を味わう。あぁ、今後の人生でそんな場面に出会うことがあったなら、相手がマムシだろうがハブだろうが、蛙を助けるとここに誓おう。だから、誰か助けて!
上司が笑顔のままで、ゆっくりと距離を詰める。後ずさって距離を取ろうと努力するけれど、すぐにドアに追いつめられた。ドアに腕をついて至近距離から見下ろされるこの構図は一部の女性の夢らしいけれど、実際今この人にやられると怖い怖い怖い!
青ざめる私に、日本語の苦手な外国人と話すみたいにゆっくりと、彼は言った。
「あかりちゃん、パスワードがいること、なんで知ってんの?」
カードキーをリーダにかざさない限り、パスワード入力用のテンキーは表示すらされない。つまり、今私がカードキーをかざさなかったことは、私が一度外に出ようとした証明になってしまったのだ。何も考えずにかざすだけかざしておけば、問題なかったのに……!
「いや、逃げようとしたわけじゃなくて……!」
野菜を! 野菜を買いに行こうとしただけなんです! 必死に弁解しようとする私の言葉を遮って、彼が笑う。
「いいよ、もう」
「……え?」
許してもらえるのかと、耳を疑った直後、
「気が変わった。あかりちゃん、やっぱり帰さないって言ったらどうする?」
柔らかい笑顔から降ってきた絶望的な言葉に、もう一度耳を疑った。
「嫌ですっ! もう約束破りませんから……言うこと聞きますから家に帰らせてください……!!」
意地もプライドもかなぐり捨てて、本気の涙目で訴えかける。ドアの向こうに聞こえたら凄まじく不審に思われるであろうセリフ。やっと解放されると思ったのに、ふいにしてたまるか。
「信用出来ると思う?」
こちらの懇願に、優しい声が冷たく響く。
「なんでそんなに嫌かな? 何も不自由はさせないのに」
「行動範囲が不自由すぎます」
「それだけでしょ?」
「大きすぎる問題なんですっ!」
駄目だ。話が通じてる気がしない。
そもそも密室で男性とふたりきりの状況に危機感を持てと言ったのはあんただろうに。
上司相手に良心が咎めるが、それならいっそのこと――
「……帰らせてくれないなら、ここで大声出しますよ」
彼がしたように脅してみる。ただし彼とは違って、場合によっては本気で助けを求める覚悟だ。扉一枚隔てただけのこの場所なら、外に誰か居れば聞こえるはず。上手くいけば隣の部屋にだって……!
「やってみる? このフロア俺んち以外空き部屋だけど」
「…………」
どうしよう。せっかくの覚悟が一瞬で無駄になった。
あとは、どう言えば説得出来るのか。もう、見当も付かない……。
よっぽど悲壮な顔をしていたのか、数秒後、堪えきれないというように彼が吹き出した。
少し身体を離し、こちらの頭に手を置いて、
「ごめん。からかいすぎた」
「え……じゃあ」
私、帰っていいんですか? 視線だけで問う。
「いや、残念ながら、家に帰せないのは本当なんだけどね」
あっさりともう一回、絶望の淵にたたき込むような言葉を口にすると、彼は、はい、とポケットから取り出した自分の携帯を私に渡した。
「……っ、嘘」
画面に表示されていたのは、簡潔なメール文。
『記者らしい人間が来てる。あかりちゃんと連絡取れない。一緒にいるなら伝えて』
それは、大家さんからのメールだった。
添付されていたのは、カメラや何かの機材を持った男数人が、私の部屋のドアを叩いている写真。
部屋の明かりが点いているからか、私が部屋にいると思っているらしい。
「思ってたより早かったな。内々で終わってたはずの結婚話を知ってるってことは記者の中にあの男の知り合いが居たんだろうけど、本人とは違って随分優秀らしいね。君の名前が割れて住所がバレるまでに、荷物取りに行く時間くらいはあると思ってたんだけど」
「……そこまで、予想してたんですか」
「そりゃね」
逆に私が家に居たらどうするつもりだったんだと言いそうになったが、考えてみれば普通なら今の時間は事務所にいる。どのみち問題なかったわけだ。それにしても。
「『荷物取りに行く』ってことは、最初から帰すつもりなかったってことですか?」
「嫌なら取材に応じる? 一時的に婚約者だったってだけだから、どうせ今回のことでコメントくれって程度だよ。『戸惑っています』みたいに答えとけば十分。ま、タチ悪そうだから応えたら応えたで家を出た理由とか色々根掘り葉掘り聞かれるだろうし、写真とか撮られるだろうし、下手すりゃ『お嬢様の悲惨な人生!』みたいな記事になるだろうけど。まぁ、君の自由だよ。余計面倒なことになるから俺は付き合えないけどね」
「…………城ノ内さんって、性格悪いですよね」
例えそれが真実だとしても、彼の言葉は既に脅しだ。綺麗に選択肢を潰しておいて、自由だと言われても困る。
「褒め言葉としてもらっておくよ」
「そんなんでよく大量の『友達』作れましたね」
「猫被るのは得意だからね」
そう言って、私の嫌みにそつのない笑顔を返した彼は、
「だから、君が貴重なんだよ」
もう一度私の頭に手をやり、撫でるというよりは抑えつけるように力を込めた。
手のひらに押されてうつむくと、少し乱暴に髪を乱される。
いつもの優しい口調に、ほんの少し照れたような声。
「だから、守ってくれたんですか? 無理してまで」
下を向いたまま、問う。彼の言葉は、純粋に嬉しかった。けれど、同時に罪悪感が胸を突く。彼の種明かしの衝撃が大きすぎて忘れていたけれど、それなら結局、私の存在が彼の仕事を邪魔したことに変わりはない。
彼は考えるように、少し時間をおいて、
「いや、守るだけならここまでしてないだろうね」
私の問いかけに否定を返した。意外な返答に思わず顔を上げる。
「じゃあ、なんで」
「んー……単に、ムカついたから腹いせ?」
若干恥ずかしそうに、彼はほんの一瞬、目をそらした。
『自分のおもちゃに手を出されて黙っていられるほど、大人じゃないんだよ』
今さら、冗談めかして口にされたあの言葉が、彼の本音だったことを知る。彼が意地になったのは、犯罪を許さないとか、少女達を守るとか、そういうご立派な理由じゃないし、私を守るためでもない。元婚約者はただ、部下という名の彼の
それは、『腹いせ』の内容に対して、あまりにも単純で幼い理由で。
「…………」
「呆れた?」
だから君が気にすることじゃないんだよ、と苦笑するその顔に。
何故かはわからないけれど。
――あぁ、私は、
城ノ内紘は、本当に、目的のためには手段を選ばない。
その手段が回りくどかったり、とても時間の掛かるものだったとしても、執念深くやり遂げる。
例えその目的が、『依頼人であるご婦人に嘘を吐くこと』や『私をランチに誘うこと』みたいな小さいことや、くだらないことだったとしても。
部下として、仕事のパートナーとしては、本来の仕事をおろそかにしてまですることかと怒るべきなのかもしれない。
けれどきっとそれらはすべて、彼にとって等しく遂行すべきミッションなのだ。
――この人には、敵わない。
漠然と、どこか納得するように、そう思ってしまった。
一瞬の後、悔しさが胸を襲う。一生彼には勝てないと、自分自身が認めてしまったようで。
やり場のない思いに、八つ当たりのように頭の重みを払った。
「あんまり頭触んないでください。お風呂入ってないんで」
私の不機嫌なセリフに肩をすくめると、彼は素早く私の手からカードを奪い、ドアを開けた。
「じゃ、行こっか」
開け放たれたドアの向こうから差し伸べられる手に、戸惑う。
「……え? どこへです?」
「買い物。着替えとか一通りいるでしょ?」
「あぁ、はい」
言われて気付く。そうか。家に帰れないなら確かに買い揃えないと。
こんな経験はさすがに初めてで、どうしたらいいのかわからない。
不安を頭に巡らせていると、はやく、と言うように彼の手が私の手を取る。部屋の外へ引っ張り出され、そのまま手を引かれて、エレベータに乗り込む。階数表示がカウントダウンを始めると、彼は私の肩に掛かった鞄からひょいといくつかのものを取り出した。
「一応、変装しとこう。ちょうどいいもの持ってるんだし」
テールウィッグを頭に載せ、帽子を被せられる。借りたマフラーのおかげで、首筋は痒くない。
鞄の内ポケットに引っかけておいた伊達眼鏡まで抜き取られていたらしく、髪を整えると同時に、はい、と渡された。
「面白いな。ホントに別人みたいだ」
眼鏡を掛けると同時、感心したように彼が頷く。コートのポケットから見慣れない黒縁眼鏡を取り出して、レンズにふっと息を吹きかける。
「初めて見ますね」
「一応、俺も念のためにね」
彼は笑いながら、つるを耳の上へ差し込み、一度ブリッジに指を当てる。その仕草に、あぁ、と思わず頷く。なるほど、眼鏡だけでも随分と印象が違って見えるものだ。スーツ姿だったならさぞかし仕事の出来るビジネスマンに見えたろう。
「伊達ですか? そんなの持ってたんですね」
「いや、免許の更新用なんだよ。今はペーパーだけどね。日常生活には支障ないけど、運転するにはギリギリだから」
「なるほど」
まぁ、あれだけ毎日携帯とパソコンの画面ばっかり見てたら視力も悪くなるだろう。ひとり納得して、視線を階数表示に戻す。数秒の後、ポンと音を立て、ドアが開いた。
ふたり並んで足を踏み出すと、エントランスには昼前の強い陽射しが満ちあふれていた。広い空間には警備員以外誰もいない。自動ドアを通り抜けると、雪の残る道を駅に向かって歩く。陽射しは暖かいものの、天気予報通りなのか風は凍えるほど冷たかった。
彼は私と歩調を合わせて、小さな声で言った。
「一応、お兄さんには出版社に圧力掛けてもらうように言っとくけど、落ち着くまではしばらく掛かるかもね。二週間くらいは覚悟して」
「あぁ、はい。…………え、っと」
返事をしてから、妙な予感に首を傾げる。何か、嫌な方向に話が動いている気がした。
「どのみちそのまま住んでるわけにもいかないし、引っ越さなきゃだね。出来ればこのまま住んでくれると面倒もないし、余計な心配しなくていいから助かるんだけど」
「……あの、城ノ内さん?」
「部屋余ってるから、好きに使えばいいよ。大丈夫、ちゃんと鍵はかかるから」
「ちょっと待ってください。なんの話ですか?」
「君をうちで監禁するって話」
「なんでそうなるんですか……!」
「まぁ、他に行く当てがあるならいいけど? 君あんまり友達居ないよね?」
「……ぐっ」
失礼な、と言いたくなったが、今の言い方は推測じゃない。調べたな。一体いつの間に。
確かに友達と呼べる人は居ない。学生時代は西園という枷のおかげで一歩引いた付き合いしかしてもらえなかったし、私も積極的に関わろうとはしてこなかった。園田姓でやってきた宮原では良好な関係は築いてこられたけれど、だからこそ西園あかりのトラブルに関しては話せない。実家には戻れないし、結婚寸前の兄の新居へ押しかけられるほど図々しくも、野暮にもなれない……。
「ちなみに、この辺のウィークリーマンション二週間で七万近くするよ。水道光熱費もかかるし、二重家賃だし、携帯も二台分請求来るし大変だね」
途方に暮れた私へ、笑顔で追い打ちを掛けてくる上司。
「……ほんっとに性格悪いですね。私に対しても、もうちょっと猫か羊の皮あたり被ってくださいよ」
「気が向いたらね」
くっと笑いながら口にするいい加減な答えに、湧き上がる苛立ちを必死に抑えていると、ふと帽子の上から重みが掛かった。
「そろそろ諦めて監禁される気になってくれると助かるんだけど」
「……監禁は、嫌ですっ」
「そう。じゃあこれ」
「……?」
さらりと手渡されたのは、一枚のカードキー。彼はさらに顔を近付けて、囁くように言った。
「パスワードは5639」
「……え?」
すぐに離れていった顔は、私の表情を観察すると、ふっと笑顔を作った。
「これで自由に出入り出来る。監禁じゃなくなったけど?」
「――――」
カードキーを手に、唖然とする。
何を言っているんだろう、この人は。本気で私を居候させる気なのか。
何か言いたいところだけれど、結局何も思いつかなかった。
選択肢は、何も残されていない。
「……甘えて、いいんでしょうか」
「居候に気兼ねするなら、条件付けようか」
「聞けることなら」
にっこりと笑う彼の顔に、眉をひそめる。この一点の曇りもない笑顔が、実はとんでもなく信用ならないものだということは、そろそろわかってきた。身体でも要求されるのではと、思わず身構える。
「休みの日とか、気が向いた時でいいから、なんか料理作って。今日みたいに」
「…………は?」
本日二度目の拍子抜けに、思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。
「君の食べたいものでいいし、朝でも昼でも夜でもいい。材料費はもちろん俺が持つから」
「……はぁ。まぁ、構いませんけど」
ここしばらくは精神的に参っていてコンビニに頼ることも多くなっていたけれど、その前までは毎日ちゃんと自炊していたし、なんの問題もない。逆に、そんなことでいいのだろうかと不安になるくらいに。
けれど私の返答に、彼は意外なくらい嬉しそうな笑顔を返してきた。
うぬぼれなのかもしれないけれど、つまり彼は、私の料理がお気に召したのだろうか。
何の変哲もない、誰にでも出来るフレンチトーストでやけに幸せそうな顔をしていた。それはとても光栄なことなのだけれど、相手が彼の場合、考え始めると、給仕を手に入れるために同居する流れに持ってこられたんじゃないかとまで思えてくる。さすがに疑心暗鬼というものかもしれないが。
「……っと、じゃあ、しばらくの間よろしくお願いします」
「よろしく。しばらくじゃなくてもいいんだけどね」
そんなセリフを聞き流して、先に改札をくぐる。
振り返って、追ってきた上司を見上げた。
なんでこんなことになったんだろう。
ついさっきまで、日常が帰ってくると思ってたのに。
そもそもかくまわれているはずなのに、逆に危険に身をさらしているような気になるのは気のせいか。
「……一応、兄との約束は守ってくださいね?」
「善処するよ」
兄の時と同じセリフを即答で返して、やたらと爽やかに笑う上司。
「……そこは素直にYESと言うべきなんじゃないですか?」
「一応、俺も男なんでね。ここでYESと言ってあんまり無防備にされても困る。最低限の危機感は持っておいてほしいから」
「しませんよ。無防備になんて」
「そう?」
「……城ノ内さんこそ、覚悟しておいてください」
「ん?」
首を傾げて見下ろしてきた彼の顔に向けて、にっこりと力一杯の笑顔を作る。
「何かしようとしたら、食事にデスソース仕込みますから」
雇い主である上司は、さらに家主にまでなってしまった。
どんどん逃げられなくなっていく状況。けれど、私も逃げる気はさらさらない。
心に決めた新たな目標は、彼の庇護下から抜け出して、まずは対等な存在になること。
新しい生活が始まろうとしている。
彼の目が見開かれた一瞬後、伸びてきた手が乱暴に、けれど限りなく優しく頭を撫でる。
「これだから、このおもちゃは手放せないんだよ」
城ノ内紘の笑い声は、光を反射しつつ滑り込んできた電車の音に掻き消された。
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