更に彼女は問いかける

「ちょっと遅くなっちゃったな……」


 日曜日の夜、午後十一時過ぎ。

 住宅街を吹き抜ける二月の風が、とぼとぼ歩く私の体を冷たく撫でる。

 友達とのカラオケは楽しかったけれど、帰り道が心細くなるのはどうしても慣れない。


「うー、寒ぅ」


 強がって一人で声を出しても、白く生温かい息が空気に溶けていくだけ。

 さっさと家に帰ろう。ファンヒーターとお風呂、それに布団が私を待っている。

 おのずと私の歩調は速くなる。

 そのとき、目前に迫った曲がり角から、いきなり人影がぬうっと出てきた。

 紫色のドレスを着た女の人だった。


「!?」


 危なかった。ぶつかりはしなかったけど、心臓に悪い。

 急に飛び出してくるなんて。私が車じゃなくてよかった。

 ほうと息を吐き出したとき。ふと、視界の端、上の方にあるカーブミラーを見てはっとする。

 丸く歪んだ鏡面の中には、私一人しか映っていなかった。


「けん、けん、ぱ」


 ドレスの女は無邪気にそう口ずさみながら、片足でぴょんぴょんと跳ねてくる。

 私は思わず後じさりする。


「けん、ぱ、けん、ぱ。けん、けん、ぱ」


「ぱ」と言いながらも、女は両足で地面を踏むことなく私の正面に立った。


「ばあ」


 その足は、一本しかなかった。

 ウェーブのかかったというより、燃えてちぢれたような長い髪を垂らしている。

 タイミング悪く、月明かりがドレス女の顔を照らし出した。

 彼女の素顔が露わになる。右半分が真っ赤に焼けただれた、醜い顔が。

 私との距離を詰めた女は、半分だけルージュの引かれた唇をねじ曲げた。

「私の名前はなあに?」

 声を聞いただけで、全身が総毛立つ。

 その台詞には聞き覚えがあった。さっきまでのカラオケの途中で、友達から聞いた噂話の中に登場する文句だったから。

 そうだ。この女は、自分の噂話を聞いた人の前に現れてこういう風に尋ねるんだ。

 彼女の名前は――


「カシマ……」


「言ってはだめ」


 不意に割り込んだ声と、肩に乗せられた手の感触に飛び上がりそうになる。

 今度こそ心臓が止まるかと思った。


「名前を言ってはだめよ」


 服の上からでもわかる、ひやりとした手。声には感情が籠っているのに、まったく熱は伝わってこない。

 手は私の肩を離れ、後ろから一人の女性が現れた。まるで私の影に潜んでいたんじゃないのかと思うほどに自然に、静かに、そして滑らかに。

 片足のドレス女と私の間に滑り込んだその人は、赤いマフラーと茶色いコートを着て、真っ白なマスクで顔の下半分を隠していた。

 私の方を振り返りながら彼女は喋る。


「カシマさんの名前をうかつに言わない方がいいわよ」


 あなたは言うんかい。

 自分のことを棚に上げ、マスク女は正面に向き直る。


「私の名前はなあに?」


 カシマさんが問いかけた。マスク女は相手を見据え、言い返す。


「ヒント!」


 まさかのヒントを要求した! わかってたんじゃないの!?

 それを受けたカシマさんは、指を三本立てる。


「①カシマレイコ ②ミカミレイコ ③カシワレンコン」


 三択にしてくれた! しかも最後のは人名ですらない!

 マスク女はあごに手を当て、少し考えたのちに宣言した。


「テレフォン!」


 ここでテレフォン!? そんなのあり!?


「……一回だけよ」


 まかり通った! カシマさん意外とノリがいい!

 マスク女はコートのポケットから携帯電話を取り出し、耳に添える。


「もしもし、メリーさん?」


 どこにかけてんの!?

 マスク女は構わず電話を続ける。


「地獄の具合はどうかしら」


 メリーさんにいったい何が!?

 どうしよう、すごく気になる。


「うん、うん……そう。ならいいわ。ありがとう。でもあなた、もう死んでるってことを忘れないでね」


 いったいどんな会話が繰り広げられているんだろう。

 終始謎に包まれた通話を終えたマスク女は携帯電話をしまい、はっきりと言う。


「ミカミレイコでお願いします!」


 それ除霊する側の名前! さっきカシマさんって言ってたくせに!


「ファイナルアンサー?」


 小首をかしげるカシマさん。


「ファイナルアンサー」


 即答するマスク女だけど、考え直した方がいいと思う。何のためにテレフォンを使ったのかわからない。

 カシマさんは最後の確認を終えたあと、しばしうなり、


「残念、不正解!」


 と叫びながら飛びかかってきた。うん、知ってた!

 迫りくるカシマさんの両腕をつかむマスク女。

 そのままお互い膠着状態に陥る。一時停止ボタンを押したかのように、誰も動けなかった。もちろん、私も。

 気まずい沈黙が夜道に広がる。誰でもいいから、早く再生ボタンを押して。

 二人の女の腕の筋肉と骨がぎりぎりと悲鳴を上げるなか、カシマさんは口を開く。


「手をよこせ!」


 この状況で!?

 マスク女は答えた。


「今使ってます!」


 ですよね!

 カシマさんはさらに腕に力を込める。


「脚をよこせ!」


 だからなぜ取っ組み合いの最中に!?

 マスク女は両腕をつかんだまま、自分の足でカシマさんの両足を払った。


「ぎうっ!?」


 体勢が崩れてひるんだカシマさんの腹に、真っ赤なハイヒールが突き刺さる。


「今っ、」


 腹部に鋭い蹴りを叩き込まれ、勢いに負けて後ろへ吹き飛ぶカシマさん。そんな彼女へマスク女は言い放つ。


「必要です!」


 すごい有言実行だった。

 数メートル後方、ちょうど外灯に照らされる位置に追いやられたカシマさんは、器用に一本の足で立ったままお腹を押さえ、マスク女を睨みつける。


「名前、名前、私のなまままままえええ! 私の足はどこおおおおおおおお!?」


 頭を掻きむしりながら半狂乱になって叫ぶカシマさん。二月の夜風も涼しく思えるほどの、底冷えするような響きだった。


「カシマさんのカは仮面のカ」


 何となしに、マスク女がそんなことをつぶやいた。それを聞いたカシマさんの動きがぴたりと止まる。


「カシマさんのシは死人のシ」


「やめて……」


「カシマさんのマは悪魔のマ」


「やめろ!」


 苦しむカシマさんに、滔々と語りかける。


「レイコのレイは幽霊の霊、レイコのコは事故の故」


「ぐうううう……」


 マスク女は人差し指をカシマさんに突きつけた。


「つまりあなたは、キラキラネーム」


 どうでもいいよそれは!

 対抗呪文が一言多いよ!


「ああああああ!」


 両手で顔を覆い、絶叫するカシマさん。

 効いてる! ……ひょっとして、気にしていたんだろうか。

 指の隙間から目だけを覗かせて、カシマさんはマスク女を凝視する。込められた恨みと憎しみが目に見えるような、重苦しい視線だった。


「その話を、誰から聞いた……!」


 呼吸も荒く、すでに満身創痍のカシマさんは尋ねる。果たして、マスク女は答えた。


「ラジオネーム“恋するメリーさん”より」


 あのテレフォン、ちゃんと意味があった!


「あがああ……」


 テレフォンの効果か知らないけれど、カシマさんはとうとう一つしかない膝をつき、崩れ落ちた。

 そこへマスク女がゆっくりと歩み寄り、カシマさんを見下ろすように背をかがめて顔を近づける。


「今度はこっちが尋ねる番ね」


 その指が、マスクのひもにかけられる。


「ワタシ、キレイ?」


 マスクがするりと外された。私からは後ろ姿しか見えないけれど、目と口を見開いて固まったカシマさんを見て、それがどれほどおぞましい顔なのか――想像したくないのにできてしまった。


「口裂――っ!」


「ばくん」


 彼女の名前を言い終える前に、カシマさんは目の前の女に覆いかぶさられた。

 マスク女のコートが不自然に広がり、こっちからは何が行われたのかわからない。

 ただ、コートが閉じられたとき、そこにはもうカシマさんの姿はなかった。

 くちゃくちゃと何かを噛む音だけが、夜道に木霊する。

 やがて、ごくりとマスク女の喉が鳴り、音は止んだ。


「大丈夫? けがはない?」


 背中越しに投げかけられる言葉が私に向けられたものだと、理解するのに時間がかかった。


「……はい」


 かろうじて返事をすることができた。飲み込む唾もとっくに涸れ果てて、喉が痛い。


「そう、それはよかった」


 マスク女は振り返る。いや、その顔にはもうマスクはかかっていない。

 下を俯いているから口元までははっきり見えないけど、赤黒く染まっていることだけはわかる。


「ありがとう、ございます」


 自分でも驚くほどかすれた声が出た。決して、カラオケで歌いまくったせいじゃない。

 心臓がどくどくと警鐘を鳴らす。

 違う。私が今言うべきことは、ありがとうなんかじゃない。


「お礼なんていいのよ。カシマさんにどこも取られなかったのなら」


 ぎょろりと二つの目が私を捉える。

 気づけば、私は彼女に背を向けて走り出していた。

 夜の住宅街の景色が私の視界の両側を目まぐるしく通り抜ける。白い息が空中で次々と千切れていく。

 やがて、カーブミラーのある曲がり角に差しかかった。

 あそこを曲がれば交番がある。

 そこまで行けば――


「ねえ、あなたの答えを聞かせてくれない?」


 耳元で、彼女がささやいた。


「人間って、どこが一番美味しいと思う?」


 正面のカーブミラーに映っていたのは、私を背中から飲み込もうとする、大きく真っ赤な口。

 やっぱり、ありがとうなんかよりもっと言うべきことがあった。

 この化け物め。




 ……どん底の恐怖を感じて、納得はできないけど食われる覚悟を決めてから数秒経った。

 それでも、私にかぶりつく口はやってこなかった。

 もうとっくに食べられていてもおかしくはないはずなのに。


「…………?」


 思わず力の限り閉じていた目を、そうっと開いて後ろを見る。


「はい、カット。お疲れ様でした」


 後ろには、マスクをした女の人が立っていた。私に食らいかかってきたのが嘘のように、平然と。

 嘘。そうだ、嘘だったんだ。

 この人のマスクの下の口が裂けているのも、不気味な片足の霊に出くわしたのも。

 全部、夢のようなものだったんだ。


「あなた、もしかして夢だったんだ~って安心してない?」


 マスク女が半眼で尋ねる。


「夢オチにされては困るのよね。ちゃんと覚えていてもらわないと、ほら」


 べろんとマスクが剥がされる。彼女の口は、まごうことなく真っ赤に裂けていた。


「ひっ!」


 一瞬にして恐怖が蘇る。脊髄を鷲掴みにされているような不安と悪寒が全身を駆け巡る。


「ああそうそう、それそれ」


 マスクをかけ直し、女は目尻を下げる。


「都市伝説というのは面倒くさいものでね、たまにこうやって人々に恐怖を刻みこまないと忘れられて消えちゃうのよ」


「消え、ちゃう?」


「ええ、跡形もなく」


 マスク女は肩をすくめた。


「カシマさんは脅かすだけじゃ飽き足らず、もっと『ひどいこと』をしようとしていたからとっちめちゃったけど」


 線引きはしっかりしないとねえ、とマスク女はこぼす。

 その仕草がただの仕事疲れのOLにも見えて、私の鼓動は少しずつ落ち着きを取り戻していった。


「まあ、知名度を上げるためのPV撮影に付き合わされた、とでも思ってもらえればそれで」


「はあ……」


 ええー……。

 そういうものでいいのかな。都市伝説業界も結構大変らしい。


「さて、じゃあそろそろ帰ろうかしら」


 唐突に、マスク女は腕を上げた。

 とたんにどこからともなくエンジン音が住宅街に響き、徐々に近づいてくる。

 正面からライトが迫り、私とマスク女を照らした。

 ぶおんぶおんとエンジンをふかしながら、一台のバイクが私たちの前に停まる。

 バイクにまたがっている男はノーヘルだった。

 というより、そもそもヘルメットをかぶる頭そのものがなかった。


「さすが、速いわね」


「姐さん、人使い荒いっすよ」


 頭のないバイク乗りは喋った。どこから声を出しているのかは知らないし知りたくもない。


「いいじゃない、運んでもらうくらい。代金はちゃんと払うから」


 首なしタクシー!?

 運転手はない頭をかくような動作をした。


「確かに、最近はガソリン代も馬鹿にならないから稼がないと厳しいっすけど」


 原油高騰の影響が都市伝説界にまで及んでる!


「まじでこれ以上高くなったらバイク手放すことも視野に入れてますわ」


 それだけはだめでしょ!? 経済情勢が原因で首なしライダーのアイデンティティーが危ない!

 マスク女は眉をひそめた。


「もしバイクを売ったらどうやって移動するのよ」


「徒歩しかないっすね」


「それじゃ首なしウォークマンになるじゃない」


 音楽が聴けそうな名前!


「んなこといいから、さっさと行きましょう姐さん。あんまりここにいると近隣の住民に迷惑っす」


 騒音にならないよう気を配ってる! この首なしライダーさん、ライダーの鑑だった!


「それもそうね」


 バイクの後ろに乗るマスク女に向かって、私はつい声をかけた。


「あの、」


 彼女は私を見、首をかしげた。


「何かしら」


「私は、助かったんですよね」


 きょとんと目を丸くし、それからマスク女は不敵に笑う。


「果たしてそうかしら?」


「えっ」


 体を強張らせる私に、彼女は続けた。


「ええまあ、あなたがそう思うのなら助かったんでしょうね。……ただし、これからはワタシの噂を拡散していってちょうだい。じゃないと、このライダーくんみたいになくなっちゃうわよ」


 どこが、とは言うまでもなかった。

 彼女を語り継いでいくこと。

 それが、生き残った私の、見逃してもらった私の生きる条件だ。


「二十歳を過ぎたらもういいけど、それまではお願いするわね」


「わかり、ました」


 うなずくしかなかった私を満足げに見やり、女はライダーの腰に手を回す。


「姐さん、どちらまで?」


「イルカ島のきさらぎ駅まで」


 バイクがうなり、夜の住宅街に排気音を置き土産にして遠ざかっていく。

 あとに残された私は、ぽつねんと立ちつくしていた。

 夜風が吹き、私の胸を通り抜けていった。

 私は、今夜のことを忘れない。

 少なくとも成人するまでは、ずっとこの恐怖を心に抱えて生きていかなくちゃならない。

 もしそうしなかったら、今度こそあの口がやってくる。

 それは、あるいは地獄だった。

 二十歳まで続く地獄。

 震える肩を抱いて押さえつける。

 帰りたい。

 一刻も早くこの場を離れたくて、私は家に向かって歩きだした。

 この寒気は、果たしてファンヒーターやお風呂や布団で取れるだろうか。

 頭の片隅でささやく不安を追い払うようにスマホをいじる。

 ふと思い立って、ツイッターで彼女のことをつぶやいてみた。

 三分後、三人にリツイートされた。

 そのうちの一人はお気に入りもしていて、口藤くどうミサキというユーザー名だった。

「それでいい」と言わんばかりに、ハートマークが私のつぶやきに添えられていた。

 血まみれの口を思わせる、真っ赤なハートだった。

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