因縁果の法則の因は、言葉と行いと心から成り、言葉は耳に聞こえ、行いは目に見えますが、心は目にも見えず、勿論聞こえたりもしません。

 ですが、あるかと問えば誰でもあると答えます。心は種の中では中心であり、一点であり、生命なのです。


 心は智情意の3つに解れ、或いは怒り或いは泣くのです。


 心が怒れば言葉は激しくなり、身体は青くなって身震いします。心が笑えば言葉は朗らかになり、手足は踊り出します。心が泣けば言葉は涙にむせび、肉体は萎えます。


 この通り心の持ち方が言葉に肉体に現れてきますが、言葉にも行いにも現さず、ただ心の中で思い詰めている事を思念と言います。


 古語にも「精神一到何事か成らざらん」とあります。

 これは思念し続けているとその間に色々な障害物に出会いますが、そこを屈せず思念し続けていると一つ一つと条件が揃って来て、最後は思念通りに実現していくと言う事です。


 米が欲しいと思念していると、米を買わないかと言う人が寄ってくる。家が欲しいと思念していると、家の話を人が持ってくる。

 しかし、思念だけでは手に入らない。やはり言葉で誓約が成立し、金の取引で手に入るのですが、必要なものを思念しているとそのものが寄ってくる事は明らかなのです。


 次に思念は如何なる遠隔の人の心にも自由自在に活躍します。思念は時間と空間の2次元に支配されないのです。

 例えば、東京に行こうと思えば、心だけは汽車にも乗らず、時間も掛からず、直ちに飛んでいく事が出来ます。


 そんな思念が一番相手に作用するのは夜、しかも丑満時の午前2時から4時までが最も通じます。キリスト教、回教の祈りはこの時刻に行われます。

 日本でも丑の刻参りと言って、相手を呪う為に神社にお参りして人形に釘を打ちつけます。これは昔からよくきくと伝えられています。


 これは思念が乱れず集中するからで、この思念が集中持続する事を精神統一と言います。この精神統一の出来る人は人を呪い殺す事も出来ますが、反対に人の病気災難を助け上げる事も出来ます。


「人を呪わば穴二つ」と言って人も倒れ、続いて自分も倒れます。逆に人を助けようと願えば我が身助かる、とも言えるのです。


 神様にお祈りしなくても心の中で相手を呪っていると、相手は神経痛、リュウマチなどの病気による不動の金縛りになります。

 最も不思議な事は母胎の妊娠中、父母の遣った心遣いの通りの運命の子が生まれてくる事です。


 結婚に恵まれない人に「あなたの妊娠中、父と母は夫婦別れをしようと思っていた」と言えば百発百中です。

 その人の性格と運命は妊娠中の父母の心遣いによるものなのです。

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