第三部 二十九
グラスゴー大聖堂の北東に、リドリー公園墓地がある。ネクロポリスとは比べるまでもなく静かだが、弔いにはそれが必要だった。
ダークスーツをなびかせ、クライヴはアストンマーティンを降りた。インナーを着ていても若干の肌寒さを感じる。曇りの冬空は、いまにも雪が降りそうだった。
目当ての墓を探していたが、手間はかからなかった。大きな木の下、四角い大理石の前に佇む夫婦を見つけたのだ。ふたりのいる場所こそ、クライヴの求めるところであった。オオアマナの花束を持っていくと、黒服の夫婦は彼を見た。
「クライヴ」
「お久しぶりです」
カーティスの父であるヤスシ・サカキバラは、息子の親友を歓迎した。固い握手を交わす。老眼を気にし始めた話は本当のようで、眼鏡をかけていた。引き締まった体躯とは似合わず、クライヴの顔がわずかに綻んだ。
「あっ、やっぱりこれか」
ヤスシは眼鏡を二度、人差し指で上下させた。
「似合わないのはわかってるんだけど、これがないとタブロイド紙が読めなくて」
「いえ、そんなことは」
「いいの、クライヴ君。がつんと言ってやって。はっきり言わないとわかってくれないから」
カミラ・サカキバラが微笑んだ。ときおり見え隠れする皺は相応の年齢であることを感じさせるが、顔の整った、美しい女性だった。冬風が吹いたかと思うと、彼女の黒茶色の髪を撫でた。
咳払いをしたヤスシは、
「花束、ありがとう」
クライヴは一歩前に出た。跪き、オオアマナの花束を置くと、目を閉じて彼の冥福を祈った。
ブライアン・ロングフェローの墓は陽を受け鈍く輝いていた。第二次世界大戦に身を投じた戦士を前に、クライヴは敬意を表した。
協力隊との壮絶な逃亡劇を演じたカーティスは、アバディーン内のウッドエンド病院に担ぎ込まれた後、三日後に目を覚ました。銃創に切り傷、骨折と失血。大けがを負った男は最低三か月の入院を勧告され、不承不承に呑んだ。
「今日は外出させろ」と医者に怒鳴りつけていたカーティスだが、その思いはもっともであった。十一月二十二日は、ブライアンの命日だったのだ。愛し尊敬する祖父が他界した後、イラク戦争に従事しているあいだを除き、カーティスは毎年リドリー公園墓地に足を運んだ。墓参りに行けない彼に代わり、クライヴはこうしてブライアンのもとへやってきた。
クライヴは、ふたつ目のオオアマナの花束を右の墓に置いた。ブライアンの妻、アミーリアの墓である。
「カーティスの代わりに来てくれたんだろ?」
「はい。それと、これを」
ポケットから取り出した小さな包みを、ヤスシに手渡した。
「これは?」
「前にお伝えした、カーティスの大けがに関わることが入ってます。手紙と、音声データが入ったUSBがひとつずつ。さきにUSBから確認してほしいと。ふたつとも確認したら、ウッドエンド病院にいるあいつに会ってください。病室は二〇一です」
「あいつがそう言ったのか?」
「はい」
※
軽い談笑の後、クライヴはアストンマーティンに乗ると、リドリー公園墓地を出た。土曜の昼下がりにしては、人は少なかった。
数時間かけてロンドンへと到着したクライヴは、イギリス内務省へ向かった。人気のないロビーを抜け、大臣執務室を目指す。病院から動けないカーティスに代わって、エルドリッチに報告をするためであった。重苦しいドアをノックすると「入れ」と返事があった。
「失礼します」
クライヴの視線のさきには先客がいた。エドワードだった。
「局長」
「報告に来たんだろ? アーサーから話は訊いてる」
「はい」
エルドリッチは立ち上がると、エドワードの隣に腰かけた。
「こっちのほうがいいだろう。座りたまえ」
言われた通り、クライヴはソファーに座った。
手元の鞄から二枚の書類を取り出すと、ふたりに手渡した。メキシコから来た協力隊のこと、元連邦警察長官にして、駐英メキシコ大使を務めたアウレリオ・ペルニーアと、カルテルの元頭領であるバルタサール・ベネディクトの関係、そして、協力隊をイギリスへ送り込んだリカルド・サンティジャン、その背後にいたパトリシオ・アルアージョのこと。今回の出来事でわかった事実をまとめ、丁寧に述べていった。
カーティスを病院へ運び、二日の休暇をとってロンドンへ戻った際、ブルーシートで厳重に囲われたテントのなかには、二百九十人の遺体が並んでいた。クライヴは震えあがった。生き残ったのは、オールド・ミリタリー通りでクライヴたちと交戦した部隊だけであった。死体袋が列を成す光景は、クライヴの頭のなかに永遠に残るだろう。
彼らの努力は果たされたのか、それはわからない。というのも、パトリシオ本人は、
エドワードとエルドリッチは、黙ってクライヴの報告を訊いていた。
「以上です。最後に」
クライヴは言った。
「ハワードたちとカーティスを会わせたのは、大臣の引き金ですか」
エルドリッチはクライヴを見つめながら、
「そうだ」
「カーティスが、味方を殺し、戦傷に悩んでいたことも知ったうえで、彼を暗殺者に仕立てた」
エルドリッチは頷いた。
「エルマー・アビントンを殺した件は機密だ。私に情報を開示する権限はない。それでも、あいつを縛るものが必要だった。私がバらす可能性があれば、それだけで効果はある。そんな取り引きをせずとも、当時のあいつは提案に乗ったと思うが」
重苦しい空気が辺りを取り巻く。エドワードは口を固く結んでいた。
「アレン・イングリス、ハワード・フランツェン、ノーマン・カンパーニの3人には、
「手元に置いておくと」
「三人とも乗り気だ」
「
カップに注がれた紅茶に口をつけたエルドリッチは、
「本人次第だ。希望するなら、部下たちと同じ部署へ配属させてもいい。君たちも、面倒な仕事がなくなってせいせいするだろう」
「給料は減りますが」
エルドリッチは笑った。
※
今回の件を受けた記者会見の準備があるということで、エルドリッチは席を外した。クライヴはエドワードとともに内務省を出て、ヴィクトリア・タワー公園で近くのベンチに腰かけていた。雲ひとつない快晴の空の下、サッカーボールを蹴って遊ぶ子どもたちは元気そのもので、国内を揺るがした大騒ぎはすっかりなりを潜め、いつもの日々が戻っていた。
エドワードは腕組をしたままうとうとしていたかと思うと、眠ってしまった。
クライヴは手にしたコーヒーを飲みながら、バルタサールと交わした最後の会話を思い出していた。
「以上だ。カーティスに伝えておいてくれ」
「……わかった」
銃声が鳴り響くオールド・ミリタリー通りの家屋で、クライヴはバルタサールと話していた。彼の話では、カーティスが指定した番号を押してもつながらなかったらしい。
「それと」
「なんだ」
「君が言っていた、チャーリーという男とはまだ縁があるのか」
受話口からはパトカーのサイレンが響いていた。
「ああ」
「最後に会ったのは」
「半年前」
「私も薬物には手を出したことがある。すぐに止めたがね」
「なにが言いたい」
「人には友だちが必要だ」
エドワードは相変わらず居眠りをしていた。
あの言葉にどのような意味が込められていたのか、クライヴは考えた。バルタサールにとって側にいてくれた存在は、カルロスであり、アレクシアであり、その他大勢の仲間だったろう。
悪人である限り、バルタサールという男を認めることはない。だが、多くの者を率い、茨の道を進んだ男の助言は重かった。
◆◆
四日ぶりに吸う葉巻は、いつも以上にバルタサールの肺を潤した。食道を侵す煙を心行くまで堪能すると、空気とともにゆっくりと吐き出していく。黄昏に染まるメキシコの空は美しく、それが、彼が見る最後の空でもあった。
拘置所から刑務所へ搬送される前だった。バルタサールは久しぶりにアレクシアと対面することになった。鎖骨に痛々しい傷跡を残していた彼女がぎこちない笑顔を向けたかと思うと、ふたりはしばらく見つめ合い、腰を下ろした。
三人は拘置所の前の縁石に座っている。
「冷や飯はどんなもんだろうな」
ペルニーアが陽気に言った。
「さあ。まずいことくらいしかわからん」
「サンティジャンにも食わせられないのは残念だ」
リカルド・サンティジャンが自宅で拳銃を使い自殺したという報せを訊いても、拘置所にいたバルタサールはとくに反応を示さなかった。これから待ち受ける非難と中傷を思えば、むしろ賢い選択だろう。
「もうちょっとそっち行って」
アレクシアに言われ、バルタサールは少し左にずれた。
「おい」
「なに」
「イギリスはどうだった」
「楽しかったよ。すごく」
「そうか」
たどたどしい会話だった。にやけ顔でふたりを見つめていたペルニーアは、バルタサールの鋭い視線を感じるとすぐに顔をそむけた。
「なんで私を弁護させたの」
「カルテルに人生を翻弄された女には、酌量の余地くらいある」
バルタサールは短くなった葉巻を地面に落とすと、靴で踏みにじった。五年は長いが、自分と比べればマシだろう。
「人生をやり直せ。それと」
「それと?」
「もう二度と、家族の写真は焼くな」
取り出した家族の集合写真をライターで炙る幼いアレクシアの姿は、十年以上経ってなお、バルタサールの脳裏に焼き付けられていた。
アレクシアは頷いた。それを見たバルタサールは、ポケットから一枚の写真を取り出した。
「これ」
イギリスへ渡る直前、組織の幹部たちを集めて撮った集合写真だった。カルロスや、セフェリノ、ベルナルドにパトリシオたちが、みな笑いながらこちらを見ている。中央に佇むバルタサールの横には、みなと同じく、優しい顔のアレクシアがいた。
アレクシアはそれを黙って受け取った。
刑務所へ向かう時間が近づいていた。生まれてこの方、刑務所という場所に厄介になったことのないバルタサールだが、不思議と悲観はしていなかった。むしろ胸のつかえが取れたような気分だった。どんな理由があろうとも、麻薬を捌き、人を殺した事実は揺るがない。美しく、優しい言葉が後に続いても、それはただの虚飾である。
つぎに彼が思ったのは、約八千キロ離れた地にいる協力者のことだった。
カルロスを殺し、アレクシアを救った男。結局、再び彼と話す機会は訪れなかった。大切な女性を守り抜いてくれたことに礼を言うべきなのか、友を殺したことを糾弾するべきなのかを考えあぐねていたバルタサールにとって、それは幸運でもあった。
ぼんやりと空を見上げていると、ベルナルドとセフェリノが拘置所から出てきた。時右手からエンジン音が鳴り、一同は顔を向けた。
バルタサールは眉をひそめた。犯罪者を輸送するには似つかわしくない車が姿を現した。ただのトラックだった。運転席から出てきた男は、帽子のつばを掴んで上にずらすと、辺りを見回した。
「おい、邪魔だ!」
武装した軍人が叫んだ。
「あの、アレクシア様にお届けものがありまして」
「誰からだ」
「さあ。ただ、イギリスからということしか」
「そのような話は訊いてないぞ」
男は軍人に近づくと、ゆっくりとした動きで懐から一枚の手紙を出した。それを軍人に手渡す。中身を読んだ彼は、
「……時間がない、急げ」
「ありがとうございます」
アレクシアは手を挙げた。運転手は彼女の姿を認めると、急いで荷台に回った。紙袋を両手いっぱいに取ると、笑顔を浮かべながらアレクシアのもとへ駆けていく。
「中身はなんなの?」
「分かりません。ただ、ドライアイスが入っていますので、火傷しないよう気を付けてくださいね」
荷物を届けた運転手はそさくさと車へ戻り、来た道を走っていった。
アレクシアは白いテープを丁寧に剥がし、袋詰めされたドライアイスを外にどけた。すると、彼女の表情が一変した。
「どうした」
バルタサールが言った。アレクシアは中からラップに包まれたものを取り出す。
「サンドイッチ? 送り主は」
「書いてない」
ラップを剥がし、アレクシアはサンドイッチを頬張った。ドライアイスのせいで冷たかったが、やや歪に挟まった牛肉やレタスの味が口いっぱいに広がった。少し前に、あり合わせの食材で作ったものと同じ味。
「どうしたんだ」
アレクシアは泣いていた。
「なんでもない」
心配して見つめるバルタサールをしり目に、彼女はあっという間にひと切れを食べ終えた。
「うん、おいしい」
バルタサールはアレクシアからひと切れを受け取り、勢いよく食いついた。たしかにうまかった。
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