第三部 二十七
クライヴは運転席から周囲を見渡した。まだティリーフーリーを通過した程度だ。アバディーンまではまだ距離がある。アクセルを踏む足に自然と力がこもった。
「心配いらねえよ」
助手席に座っているハワードが言った。
「カーティスと君たちのことを訊いたよ。イラク戦争のことも」
「ならわかるだろ」
バックミラー越しに映るノーマンもアレンも頷いた。
スマートフォンが振動し、彼は画面を確認した。
「まさか」
彼は思わずつぶやいた。
番号は知っていた。しかし、自分に直接かかってくることは、本来ないはずの相手だった。
『こんばんは、クライヴ君』
『……内務大臣、お久しぶりです』
この国の警察を統括する男、アーサー・エルドリッチ。彼と言葉を交わすのは、
『じつは、メキシコ大使のアウレリオ・ペルニーアから、君の番号を訊かれた』
バルタサールが自分の電話番号を知っていたのは、ペルニーアに探らせたからだ。クライヴの頭に渦巻いていた疑問がひとつ晴れた。
『バルタサール・ベネディクトは知っているかな』
『はい』
『彼とペルニーアは昔、一時的な協力関係にあった。カルテルを潰すためのな。彼はバルタサールをメキシコ大使館に引き入れ、彼の帰国を幇助した容疑をかけられた。現在、警察の取り調べを受けている』
エルドリッチは一度咳払いをすると、
『供述のなかでペルニーアは、リカルド・サンティジャンとパトリシオ・アルアージョの癒着関係を暴露した。一般人なら妄言としてあしらうが、元警察省長官の証言だ。私が進言した結果、我が国の首相が、メキシコ大統領に直接連絡した。メキシコ軍が動くそうだ。今頃、パトリシオとバルタサールは逮捕されているだろう』
『ペルニーアはどうなるんですか』
『バルタサールと彼の関係は、昔から影で言われていた。今回の帰国幇助がその証明とも言える。辞任は免れないだろう』
クライヴは話題を切り替えた。
『大臣、アバディーンに派遣するSCO19を増やしていただけませんか』
『協力隊に関しては心配いらない。警察に武力排除も許可している。近場の警察にも掛け合って事態の収拾にあたらせている最中だ。アバディーンにはカーティス・サカキバラがいるのだろう?』
『はい。それと』
クライヴは少しためらったが、力強く言った。
『
大それた言い分であることは承知の上だった。そもそも、クライヴはオールド・ミリタリー通りでアレクシアたちを助け、ともに戦っている。命令違反を犯したのは事実だった。順調に進んでいた自分のキャリアは、ここで終わるかもしれない。エドワードのように閑職に追いやられ、暇な毎日を過ごすことになるかもしれない。
それでも、後悔はなかった。
『容疑者からの要請は、取り消せねばならないな』
クライヴは息をついた。
『ありがとうございます』
『だが』
エルドリッチは釘を刺すように低い声で言った。
『
『……分かっています』
◆◆
残り少ない弾数を数えながら、カーティスは撃ち続けた。敵の車輛が高火力の銃器を持っていないのは救いだった。駐車場の車に身を隠したカーティスは、的を絞らせないよう移動しつつ応戦した。アレクシアは、スケートリンクの南西にある室内プールの壁に、身を潜めている。
カーティスは右耳の違和感を気にしている暇もなかった。幾度となく響く銃声が、彼の耳に少なからず悪影響を及ぼしていた。
小銃のマガジンを取り換えた瞬間、右腕に痛みが走った。近くで破裂した手榴弾によって吹き飛ばされたガラスが、二の腕に突き刺さった。ジャケットの上からたちまち赤い染みが広がっていく。カーティスは構わず撃ち続けた。極限の状態が生み出す衝動が、彼の体を戦いに駆り立てていた。
スケートリンク東に展開していた敵は、カーティスが負傷したことを悟ったのか、壁に沿って移動を始めた。床と車体の隙間からそれを認めたカーティスは、すかさず手榴弾を投げた。左手での投てきは慣れておらず、敵の数メートル手前で破裂した。それでもけん制にはなった。M16を断続的に撃ちながら、アレクシアのもとへ向かう。先頭を走る敵が倒れると、後方の者は退避した。
十メートルほど走り、カーティスは疲労で思わず片膝をついた。偶然見た車窓による反射で、彼は左肩の肉が削がれていることに気付いた。
盾にしていた車が無数の音を立てた。敵の銃撃によって砕かれた無数のガラス片はたちまち凶器と化し、隠れるカーティスの背中を、首を引き裂いた。スリングで吊っていたM16を捨て、彼は左手でホルスターからコルトガバメントを引き抜く。
祖父のブライアンより受け継いだ銃。カーティスにとって祖父の形見であり、自身の生き方を象徴する存在でもある。磨かれた漆黒のスライドに額を押し当てた。蛾がたかっている街灯の光を受け、グリップのメダリオンが光った。
足音に気付いたカーティスは、ナイフを突き刺そうと迫る隊員の腕を右腕で捌くと、空いた胸を撃った。敵はすぐ右にまで接近していたのに、まったく気づかなかった。それほど右耳は弱っていた。敵のホルスターからベレッタを抜き取ると、二丁の拳銃を使って迫り来る脅威を払っていく。駐車場には無数の遺体と、おびただしい血が広がっていた。
傷口に響く拳銃の反動に耐え切れず、カーティスは右手からベレッタを力なく落とした。最後の手榴弾を敵のいる方角へ投げつけると、全速力でその場を離れ、アレクシアのいる場所へ滑り込む。
想定外の損害を出したからか、敵は撤退した。だが、アバディーンに響く銃声は止まない。部隊を再編すれば、再び攻撃を仕掛けてくるだろう。
「無事だな。建物の多い南に行こう」
コルトガバメントを床に置くと、ふたつ残ったマガジンの片割れを左手で軽く差し込む。グリップを持つと、出っ張った部分を床に押し付けて、無理やり装填した。
アレクシアの状態を見ようと振り返った彼は、額に冷たい物体を押し当てられた。
「もう、やめて」
アレクシアは泣いていた。涙は両の頬を伝い、大地に染み込んだ。護身用に渡していたリボルバーは、ほかでもないカーティスに向けられていた。
「大丈夫だって」
「そんな状態を大丈夫なんて言わない」
アレクシアの鋭い剣幕を、カーティスは初めて訊いた。右に張られた大きなガラスに映る自分の姿は無残であった。負傷した右腕はもちろん、左肩からも血は流れ、背中と首は切り傷が埋め尽くしている。オールド・ミリタリー通りで切った額の傷は治りつつあったが、新たな傷口から出血していた。なにより、疲労と戦傷にまみれた顔が哀れだった。
「カルテルがどんな連中が知ってる? 標的だけじゃない。必要なら、標的に関わるすべての存在を消すの。一度捕まったら、もうおしまい」
カーティスはアレクシアをただ見ていた。
銃声は変わらず鳴り響いている。
「腕や足を切断することなんて当たり前。生首や首なしの遺体を街路に投げ捨てられる。骨と筋肉だけになった顔を、本人の皮といっしょに並べられる。銃弾の的にされて、ただの肉塊になったら、市街地のどこかに見せしめに吊るされる。カルテルに理性なんてない。権力と富を貪るだけの獣。バルタサール・カルテルだって、そんな連中と同類なの。あなたがそんな目にあうくらいなら、ここで殺すわ。そして私も死ぬ」
カーティスは、カルテルという存在を資料のなかでしか知らない。麻薬組織が跋扈するメキシコを生き抜いてきた彼女が言うのなら、間違いないのだろう。麻薬が身の毛もよだつ代物であることは、十二分に承知している。大切な友人が、かつてその毒牙にかかったのだから。
「クライヴたちが来てくれる。増援が到着すれば、協力隊なんざ蹴散らせる」
「それまでもたないわ」
「ふたりとも生き残る道を探すべきだ」
「私が協力隊のもとへ行く。その隙に、あなたは逃げて」
「ダメだ」
アレクシアはリボルバーの撃鉄を引いた。
「あなただって、戦争に行ったのならわかるでしょう! ときには残酷にならないといけないの」
犠牲を厭わない。それは、兵士なら、国旗を前にして誰もが覚悟することであり、軍隊の強さでもある。命令に忠実に動く武装集団が、戦争最大の武器だ。だが、どんなに絶望的な状況でも、アメリカ軍が味方を見捨てないように、強固な連帯感、自分の命を仲間に預けられる安心感が、極限の世界に臨む者たちの手足を動かす。
カーティスはイラクで、自分の目でそれを見てきた。仲間を死なせないという思いがあったからこそ、彼は五人の部下を率いて、イラク軍機甲部隊を食い止めた。イギリスの戦車小隊を救うために走った。
仲間を救って、ジョナサンは死んだ。国を愛し過ぎたゆえに、エルマーは狂った。あの戦争で散った四千八百四人の兵士たちは、それぞれがなにかを信じて死んだ。
「諦めの悪さが取り柄なんだよ。だからいまもこうして生きてる」
アレクシアの背後に銃を構える敵が見えた。
カーティスはアレクシアを払いのけると、コルトガバメントの引き金を引いた。ふたつの銃口が光った。四十五口径の弾は敵のヘルメットを貫通し、バイザーを真っ赤に染めた。カーティスの顔は苦痛に歪んだ。弾が右肩を貫通していた。アレクシアを連れ出してからというもの、まともに銃弾を受けるのは初めてであった。肉を穿った鉛玉は、耐え切れぬ痛みだけを残した。焼けるように熱い感触が、脳を激しく揺さぶった。
死んだ隊員が壁の角へと引きずられていくの見て、カーティスは二発の銃弾を撃ち込み、健在を証明した。ホルスターに銃をしまい、左手で引き上げたアレクシアに向けて微笑んだ。
「行こう」
闇夜に紛れ、アレクシアはカーティスの左手を握った。ふたりは、アバディーンを南へ走り出した。
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