第三部 十八
おぼつかない右手でワインボトルのコルク栓を抜いたパトリシオは、の空になったふたつのグラスをワインで満たした。透明なグラスに真っ赤な酒が注がれていく。
テーブルの側の床には、空き瓶が三本転がっていた。ふたりの話は大いに盛り上がり、饒舌さは喉を乾かせ、酒をすすませた。
イギリスでの出来事は、パトリシオに大うけだった。まんまとメキシコへ舞い戻ったバルタサールと、彼を取り逃がしたイギリスの失態。白い歯を見せながら満面の笑みを覗かせるパトリシオに、バルタサールの顔も綻んだ。
「カルロスのことは残念です」
パトリシオは真面目な口調で言った。酒気を帯びた眼は寂しげだった。
「だが、本人も満足してるだろう」
そろそろ本題に入るべきだと、バルタサールは思った。
「商売の調子はどうだ」
「
パトリシオはワイングラスを右手に持ったまま、両腕を広げた。
「ボスが掲げた旗は、天高くはためいています」
「
パトリシオは低い声で笑った。
「ありえませんよ――」
「リカルド・サンティジャン」
バルタサールはパトリシオの言葉を待たずして言った。ワインの酔いは醒めつつあった。
「その名前に、覚えがあるな」
「連邦警察の現長官ですね。それくらいなら、一般人でも知ってますよ」
さきほどまでのパトリシオの上機嫌な顔が失せた。
「サンティジャンには黒い噂が流れているのも」
「ええ。なんでも、どこぞのカルテルと手を結び、私腹を肥やしているとか」
パトリシオは左手首に巻かれている金色の腕時計を見た。
「そろそろ料理が到着する時間ですね。話は一度やめて、飯にしましょう」
パトリシオが両手を勢いよく叩くと、部屋のドアが開いた。さきほどの黒髪の女性が、二段組みの配膳車を運んできた。七つある皿はどれもクロッシュで覆われており、中身はわからない。
女性はいちばん大きな皿を両手にふたつ乗せると、慣れた手つきでバルタサールとパトリシオがいるテーブルに置いた。クロッシュを取ると、なかからは大きなステーキが出てきた。肉汁がシャンデリアの光を受けきらきら反射している。
「日本の神戸から取り寄せた、最高級のステーキです。黒毛和牛を一頭丸ごと買い取り、ここで調理しました。日本には日本食肉格付協会という組織があり、そこで肉が格付けされます。これは最高ランクのA5だとか」
パトリシオの高尚な説明は、バルタサールの頭に入ってこなかった。というのも、ひとつだけ小さめの皿が気になっていたからだった。
つぎに出されたのは、ワカモーレだった。アボガド、トマト、玉ねぎ、ライムなどをすり潰してつくる、メキシコの伝統的な野菜料理だった。アボガドの懐かしい香りが辺りに漂う。三つ目に出されたのは、シンプルなトルティーヤ・スープ。格式の高いこの場とは不釣り合いだが、この素朴な料理は、バルタサールにとってありがたかった。
パトリシオが右手を出すと、女性は最後の皿を彼の手の平に載せた。バルタサールがずっと気になっていたものだ。
「そして、これが最後の品」
払われたクロッシュから、隠れていた品が顔を出した。
拳銃だった。杖を持っていたバルタサールの右手に、わずかに力がこもる。
女性は皿の上の拳銃を取ると、スライドを引いてバルタサールに向けた。
「これじゃ落ち着いて飯が食えない」
「ご心配なく。最期の昼飯を堪能してください」
バルタサールは用意された食事を口に運んだ。食器が当たる渇いた音だけが室内に響く。数枚に分けられたステーキの一切れをフォークで刺しながら、バルタサールは言った。
「いつからだ」
「ボスがイギリスへ向かわれてからです。あなたがかつて、アウレリオ・ペルニーアと一時的に協力関係を結んだ際、私はリカルド・サンティジャンと密かに手を結びんでいたのです」
バルタサールは肉を口に入れた。
「公権力と結託して金儲けか、堕ちたもんだ」
パトリシオは前のめりの姿勢で彼を睨みつけた。
「ボスが言えた義理じゃないでしょう。ひとり殺そうが百人殺そうが、そいつは殺人犯なんですよ」
トルティーヤ・スープを口にしようとしたところ、バルタサールのスマートフォンが鳴った。
「出ないでくださいよ。さもないと、食事はお開きだ」
六回振動した後、スマートフォンは静かになった。
◆◆
音に訊くA5ランクの肉にご満悦のベルナルドと対照的に、セフェリノの顔つきは深刻だった。電話がつながらないのだ。呼び出し音が六回鳴っても、ボスの声が訊こえることはなかった。
つまり、と彼は思った。作戦は変更された。
「ベルナルド、行くぞ」
「まだ食い終わってねえよ」
「下らないこと言ってんな」
口に運ぼうとしたフォークを、セフェリノは奪い取ると、先端の肉を食らった。
「プランが変わった」
ベルナルドは渋い顔でナプキンを手に取ると、口を拭った。
「やるってわけだな」
うなづいたセフェリノはスマートフォンを取り出し、外で待機している部下のひとりに連絡を入れた。「始めろ」、それだけ言い放つと通話を終えた。
館の門の方角から爆発音が響いた。
セフェリノは皿の上に置かれたままのナイフを手に、部屋のドアを開けた。ベルナルドも続く。ドアの左右には黒服の男がひとりずつ立っていた。サングラスをしているため素顔がわからないが、表情には焦りが出ていた。
「おふたりとも、どうかされましたか」
セフェリノは左にいる男の右腕をつかむと、手の平にナイフを突き刺し、壁に固定した。右手に力を込め、鳩尾を殴る。気を失ったのを確認すると、ナイフを引き抜いた。振り返ると、ベルナルドはもうひとりの男を投げ飛ばし、壁に叩きつけていた。さきほどまで肉を食っていたせいか、ベルナルドの顔色は少し悪かった。
ふたりは気絶した男たちから拳銃を拝借すると、地下を目指して走り出した。
客室は一階にあった。バルタサールからの返答がないということは、即ちパトリシオはクロということ。前もって決めた段取りだ。ならば、連絡員のブラスと彼の家族も誘拐されているはず。
L字の廊下を抜けるとエントランスが見えた。身を晒す寸前で踏みとどまる。十数人の護衛が集まり、そのなかのリーダーらしき男が指示を出している。指示が終わると、面々は玄関を開けて外に向かった。両開きの扉から、空を裂く銃撃音が響いた。
「派手にやってるみたいだな」
セフェリノが言った。
「さっさと助け出そうぜ」
襲撃に対応するためか、館内に敵は見当たらなかった。
客室がある場所とは反対の廊下を抜けると、突き当りに階段があった。急ぎ足で降っていく。
地下は、石畳の牢獄といった風だった。豪奢な屋敷とはあまりに違う雰囲気を醸し出している。鉄の扉がついた部屋が一直線に伸びた廊下に数多く続いていて、その手のホテルのようにも見えた。
銃を構えながらセフェリノは奥へと進んでいく。覗き窓から光が差し込んでいる部屋を見つけ、ふたりは駆け寄った。覗いてみると、髭を乱雑に伸ばしたやせぎすの男が部屋の隅で
「ブラス!」
セフェリノの声を訊いた瞬間、ブラスの顔に生気が宿った。おぼつかない足取りで立ち上がると、除き窓まで歩いてきた。
「爆発音が訊こえて何事かと思ったが、そうか、お前たちか」
「ボスが来てる」
「それは心強いな」
セフェリノは拳銃でドアノブを破壊すると、無理やりドアを蹴破った。ブラスを外に出すと、彼の家族が捕まっているという隣の部屋のドアも同様に破壊した。みすぼらしい姿となった父を見た妻は、泣きながら抱擁した。ふたりの娘も父に勢いよく抱き着くと、声をあげて泣き始めた。
「安全を確保するまでここにいろ」
ベルナルドは言い放ち、もう一丁の拳銃を彼に渡すと、セフェリノとともに一階へ戻った。
※
前庭は戦場と化していた。背の高い塀はあちこちが破壊され、バルタサールたちが通って来た門は跡形もなく消し飛んでいる。燃える夕陽が重なり、戦火が一面に広がっているように思えた。
セフェリノたちは館を出ると、前庭の東側面に沿って走り出した。背後からの急襲に倒れていく敵の側を抜け、最前線にいる男のもとへ滑り込んだ。ふたりは倒した敵からM16小銃を手に入れていた。
「セサル、状況はどうだ」
バリケードに隠れていたセサル・アポンテは、
「まだなんと言えんな! このまま押し切れればいいが、警察が来るのも時間の問題だ」
集まった仲間は七百五十四名。パトリシオの配下はゆうに一万人を超える。いまは館内にいる人員だけだが、連絡が広がれば、じき増援も来るだろう。この無謀な戦いに勝つには、頭目であるパトリシオの首を取るしかない。だが、それは先代であるバルタサールの仕事であり、セフェリノたちがおいそれと踏み込んでいい領域ではなかった。セフェリノは館にいるバルタサールの無事を祈った。
セサルが右に走っていったため、何事かと思い彼を視線で追うと、白髪の男が脚を撃たれて苦しんでいた。ホセ・ウルタードだ。昔、セフェリノは彼から経済について学んだことがあった。ホセはTシャツ短パンという、戦場には似つかわぬ格好をしていた。駆け寄ろうとしたセフェリノを、ホセは手を出して拒んだ。
バリケードや車に隠れて応戦する仲間たちは、みな大した武装をしていない。パトリシオの配下のように防弾チョッキをつけているわけでもなければ、無線機もなかった。銃弾と肉体を遮るものは普段着で、通信手段は携帯電話。民兵と見間違われてもおかしくはない。
彼らを動かすのは、矜持と忠誠だった。バルタサール・カルテルの名を背負った理由、バルタサールの背中を追いかけ、肩を並べて戦うことを決めた理由が、金と麻薬を貪る者たちへの強大な怒りとなって吹き出している。
死に物狂いで戦う彼らに、敵は撤退を余儀なくされていた。日本製トラックの荷台に無理やり付けられたM2重機関銃が、圧倒的な弾幕を周囲にばら撒き、敵や障害物を薙ぎ倒していく。ホセを連れ下がっていくセサルを見届けると、セフェリノはベルナルドとともに周囲の仲間たちを鼓舞しながら前進した。
敵の亡骸から武器を奪おうとした瞬間、甲高いサイレンが幾重にも鳴り響いた。
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