第三部 十二
「夕陽に反射するテムズ川は、いつ見てもきれいだ」
執務机の椅子から腰を上げたアーサー・エルドリッチはペンを置いて歩き出すと、前の応接用のソファーに座った。対面には
「年を取ると、身を守ることばかり考えていかんな」
「アレクシア・ハバートのことか」
「リカルド・サンティジャンの噂は、お前も知ってるはずだ。なぜそんな奴からの頼みを受け取った。
「依頼者がどうであれ、ハバートがメキシコで多くのカルテル構成員を殺したのは事実だ。この国に内在する脅威はすべて排除する。それが私の務めだ」
「バルタサールを取り逃がして焦ってるのか」
エルドリッチは顔をしかめた。あと一歩というところで、バルタサール本人は再び行方をくらました。その出来事をひとつとっても、彼は各所から手厳しい評価を受けている。
「それもあるかもしれん。だが、狙いはほかにある」
「それは」
「メキシコから来た協力隊だが、バルタサールのアジトを襲撃したつぎの日から消息を絶っている」
「――なんだって」
「三百人全員だ。彼らはサンティジャン長官の提案によって渡英してきた。出来過ぎていると思わないか？ サンティジャンに連絡しても、イレギュラーな話で自分たちはわからないの一点張りだ」
三百人の協力隊は、捜査に協力するだけであって連携は取らなかった。バルタサールのアジト襲撃に当たっても、場所を突き止めたのは
「奴らを泳がせ、白日の下に晒す必要がある。多少の犠牲は諦めるべきだ」
エドワードの表情が一段と硬くなった。
「今回の標的は、カーティスと親しい人物だ。もしかすると、あいつは離反するかもしれない」
エルドリッチは、自分にカーティスを止める資格はないと思った。戦傷に苦しみ、戦いを貪っていた男を引き込んでおきながら、本人が得た安息を奪うことなどできない。離反がカーティスの意志ならば、エルドリッチはそれを尊重する。彼を脅威と認識したうえで、ふさわしい対処を取る。
「……カーティスがどのような行動をとったとしても、SCO0のトップはお前だ。だから、
少しの間を置いて、エドワードは不敵に笑った。若い頃、ひったくりの犯人を捕まえるため、クラーケンウェルの通りを逆走していたときと同じ顔だった。皺と頬のたるみが目立つエドワードの顔が、ほんの一時だけ、二十代に戻ったように見えた。
自分たちはいつまで経っても
「だが、カーティスが俺たちを裏切れば厄介なことになる。少なくとも、協力隊が我が国の脅威と判明するまで、あいつの回りは敵だらけだ。ひょっこり現れた協力隊がアレクシア捜索を手伝うと言えば、こちらもうかつに手出しはできない。それに、カーティスが抵抗すれば戦闘になる可能性も――」
その懸念を吹き飛ばすように、エルドリッチは老獪な笑みを浮かべた。
「カーティスには頼れる友がいるはずだ」
◆◆
カーティスの家は、いまやふたりの家と言うにふさわしかった。リビングのソファーに座り、カーティスが近くのレンタルショップから借りてきた映画を観る。その後はアレクシアの料理を食べ、談笑をしたり、酒を嗜みながら、ふたりで濃密な時間を過ごす。
互いの距離が縮まったことで、内務省で訊いた事実はより大きな衝撃となってカーティスにのしかかっていた。
「ちょっといいか」
明日の朝食の下ごしらえをしているアレクシアに、カーティスが声をかけた。シャワーを浴びたばかりの彼女の髪は真っ直ぐ地面へと伸びていて、いつもとは違う美しさがあった。髪をなびかせながら振り返ると、寝巻姿のカーティスを見た。
「お腹すいた？」
「違う違う」
カーティスは大きく息を吐くと、アレクシアの側に立ち、窓のブラインドを指でこじ開けた。ノッティングヒルの一日は、落陽とともに終わりつつある。
「大事な話があるんだ」
ソファーに座って手招きすると、アレクシアも洗っていた食器をシンクに置いて歩み寄ってきた。照明がリビングを照らすなか、秒針の音が静かに響く。
「じつは、君にひとつだけ言っていないことがある」
アレクシアはカーティスを見た。
「それって？」
「……警備会社に勤めていると、前にそう言ったよな」
「うん」
「あれ、嘘なんだ」
誹謗中傷、罵詈雑言を想定して身構えていたカーティスだが、彼の耳に入って来たのはクスクス笑う声だった。
「やっぱり」
「知ってたのか」
「確信はなかったけど。だって、こんな簡単に休みが取れる仕事なんて、絶対ふつうじゃないわ。ノッティングヒルに住んでるから、貧乏ってわけでもないだろうし」
警備会社というのはクライヴと考えた即席の理由なわけだが、ひょっとすると、『グロヴナーベーカリー』のシンディーや舞にも気づかれているかもしれない。
「たしかに」
「嘘をついたのは怒ってるよ。でも、本当のことを教えてくれたら機嫌が直るかも」
できることなら言いたくなかった。だが、ここで真実を告げなくては、アレクシアは二日後、パディントン地区で死ぬ。
「イギリス内務省管轄の組織に所属してる」
冗談と本気の狭間に揺れるアレクシアをしり目に、カーティスは立ち上がった。リビングの角に立てかけられているテーラードジャケットのポケットに手を突っ込むと、なかから長方形のカードを取り出した。アレクシアに手渡す。
「それが証明手帳だ。
アレクシアの顔が露骨に強張った。
「その、SCO0の仕事は？」
「国内に潜む凶悪犯罪者たちの暗殺」
アレクシアの顔色が変わっていく様を、カーティスは黙って見ていた。言葉の意味を、自分が本職を明かしたことの意義を、みなまで言わせないでくれと言わんばかりに。
「相手が誰でも？」
「そうだ。相手がどれだけ自分と親しい間柄でも。その人に好意を寄せていたとしても」
ソファーから立ち上がったアレクシアは、カーティスに証明手帳を返した。彼の側を通り過ぎ、キッチンに立つ。ブラインドを開けると、しばらく立ったまま動かなくなった。
限りなく重い空気がふたりを取り巻いた。
「私もひとつ嘘ついてた。きっと、もう知っているでしょうけど」
彼女は振り向いた。カーティスは頷いた。説明は要らなかった。
「私を殺すのね」
生唾を飲み込んだカーティスは、沈黙の末に口を開いた。
「SCO0とロンドン警視庁による合同作戦の決行日は」
「殺していいよ」
「え？」
アレクシアは両手をいっぱいに広げた。
「いつか報いを受ける日が来るのはわかってたから。あなたの手で殺されるのなら本望だわ」
ふだん元気いっぱいに輝いていた彼女の目はなりを潜め、暗く淀んでいた。感情のいっさいを感じさせない視線は、この世界を達観しているように思えた。
嘘であって欲しかった。自分はカルテルの一員ではなく、どこにでもいるふつうの女性で、旅行でイギリスへ来たのだと。
「……作戦の決行は明後日だ。だから、その日が来るまでは動かない」
アレクシアは弱々しく笑うと、両腕を広げたままカーティスに近づき、抱きついた。薄く、甘い香水の匂いが、カーティスの鼻をくすぐった。彼はアレクシアの存在を確かめるように、腕を腰に回した。
「じゃあ、明日はまだ時間があるのね」
「そういうことだ」
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