第三部 十一


 

 皿に盛られたサンデーローストをおいしそうに頬張るアレクシアを見ながら、カーティスは、カルロスという男が言っていた言葉の意味を考えていた。大英博物館の展示品を網羅したアレクシアの顔は満足げだった。

 なにから「アレクシアを守れ」と言うのだろうか。

 館内にひしめく雑踏を振り払い、思考を巡らせたが、納得のいく答えはでなかった。


「悩み事?」


 アレクシアが心配そうに言った。彼女は、クリーム色のキャミソールに白のフレアスカートという、夏を思わせるにふさわしい出で立ちだった。その手の流行に疎いカーティスは、今日もクローゼットで待機していた数多のジーンズから一着を選び、一週間ほど前に買った、白地に淡い青色のストライプが入ったポロシャツを着ている。


「そうそう。つぎはどこへ行こうかってね」


「海にも行きたいな」


「なら、ボーンマスに行こう。すごく長い砂浜がある。のんびりとした雰囲気で、いい場所だ」


 ポケットに突っ込んでいたスマートフォンが振動し、カーティスは顔をしかめた。上司エドワードからだった。タイミングが悪い。だが、土日に電話がかかってくるのはそう珍しいことでもなかった。急を要するのがカーティスの仕事のつねであり、その緊張感が、彼の身を引き締めていた。

 椅子から立ち上がったカーティスを、アレクシアは不思議そうに見つめていた。


「悪い、仕事の電話みたいだ」


「早く戻ってこないと、あなたの分も食べちゃうから」


「昼飯抜きは困るな!」


 大英博物館のエントランスに出たカーティスは、近くの壁に背中を預けながら、スマートフォンを右耳に押し当てた。


『はい』


『カーティス、急を要する仕事だ』


『いつも急じゃないですか』


『そりゃそうなんだが、今回ばかりは特別だ。いますぐこっちに来てくれ』


『明日ではなく、いまですか?』


『ああ』


 カーティスは腕時計と、彼女がいるカフェを交互に見た。


『……一時間以内には向かいます』


『頼むぞ。ほかの面々にはすでに招集をかけている』


 カーティスの皿の上には、席を立つ前と同じ数のサンドウィッチがのっていた。浮かない表情でカフェに戻って来たカーティスを、アレクシアは察しているようだった。


「仕事?」


「察しがいいな。これからいかないと」


 アレクシアは微笑むと、自分の分をこちらに寄こした。


「仕事なら、精をつけなくちゃね」


 そのひと切れを受け取ったカーティスは、


「ありがとう。つぎは俺の家で会おう」


「うん」


 ※


 人気のない通路を進み、彼は内務省の会議室のドアを開けた。円卓に集った面々が、すでに待機していた。やけに静まり返った雰囲気に、カーティスは今回の仕事の重要さを噛みしめた。

 席に着くと、カーティスは、右に座っているクライヴの異変に気付いた。脇腹と腰回りがやたらと太い。なにかが巻かれているのだ。ギプスだろうか。差し指で軽く叩くと、硬い感触が指に伝わってくる。


「お前、これどうしたんだ?」


「訊いてよ、カーティス。クライヴったら」


「大丈夫、交通事故だ」


 キャロルの言葉に被せるようにクライヴが言った。

 気を失ったつぎの日、カーティスはバルタサールを追ったクライヴに電話をしたものの、つながらなかった。この怪我が影響しているのは間違いないだろう。

 疑問を投げかけようとした瞬間、その流れを断ち切るようにエドワードが咳払いした。


「さて、今回もいつもと変わらん。まずは書類に目を通せ」


 局長はそう言ってひも付き封筒の封を開き、メンバー分の書類を取り出すと、時計回りに歩きながら配っていった。

 クライヴが手にした書面を覗いた瞬間、表情が硬直した。頼りにしていた相棒がじつは殺人事件の黒幕だったと知った刑事のような、とにかく意表を突かれたときの顔だった。カーティスも書類に書かれた内容に目をやった。


 アレクシア・ハバート。一九九〇年、アルゼンチンのブエノスアイレスに生まれる。現在二十七歳。家族構成は、父、母、兄と妹。父は酒癖が悪く、度重なる暴力で母は多量の飲酒に走る。家庭環境は劣悪だった模様。十三歳のとき、ブエノスアイレスを訪れていたバルタサールによって拾われ、以降はバルタサール・カルテルの構成員として活動。カルロス・グレンデスがハバートに訓練を施していた。二十歳のときに、セブリアン・カルテルの関係者が潜むバーを襲って以来、バルタサールがイギリスへ渡るまで、三十一名の敵を射殺した。

 二年前にバルタサールとともにイギリスへ渡英。彼らが最初の事件を引き起こした日から行方をくらましていた。最近の調べで、ロンドンに潜伏していると判明した。


 カーティスの顔から血の気が引いていった。嘘であって欲しいと願った。だが、書類の下面に印刷された、現在よりも少し幼い顔写真は紛れもないアレクシアであり、なんど瞬きしても、羅列された文字が変わることはなかった。

 ――アレクシアを守れ。

 エドワードはと言うと、真剣な眼差しで、うろたえているカーティスを見ていた。彼はカーティスの家を出るとき、アレクシアとすれ違っているはずだ。エドワードは、カーティスの言葉を待っている。


「唐突ですね。しかも、それにしては詳しい」


 クライヴが代わりに口を開いた。思わず振り向いたカーティスとクライヴの目が合う。彼もセント・メアリー病院でアレクシアと会っている。


「メキシコから情報提供があった。正確には、連邦警察長官のリカルド・サンティジャンという男からだ」


「あっちの警察のトップですか」


 クライヴは訝しげに顔をしかめた。


「三十一人という殺傷人数は異常だ。バルタサールとの関係もある。見過ごすわけにはいかん」


 エドワードの言葉は、カーティスに言い訊かせているようにも思えた。ここは相手を殺すかどうかを決める場所裁判所ではなく、標的の情報を共有し、確実に殺すための手段を考える処刑場なのである。エドワードの口調は、この五年で初めて訊いたものだった。


「カーティス、頼むぞ」


 立ち上がったエドワードに肩を叩かれ、カーティスは顔を上げた。動悸が激しい。噴き出た汗がこめかみを伝って顎へと流れた。

 作戦の内容は決まった。まず、ロンドン警視庁の協力を仰ぎ、全域の監視を強化。潜伏場所を絞り込んだら、カーティスは武装し、SCO0が付近を監視。標的の動向をつかんだところで、相手を射殺する。これまでとなんら変わらない。

 三十分ほどで会議は終わった。決行は二日後の朝七時となった。


「カーティスとクライヴは残れ」


 エドワードの言葉通り、呼ばれなかったキャロルたちは会議室を後にした。ドアが閉じる音を最後に静まり返る会議室には、椅子に座り直したエドワードと、カーティス、クライヴがいる。

 カーティスは机の上で手を組むと、重々しく口を開いた。


「局長」


「――わかってる。だが、法を個人の都合で捻じ曲げることはできん」


「書類に書かれていることが正しければ、彼女は子ども兵のようなものです。当時十三歳だった彼女に、まともな判断ができると思うんですか」


「カーティス、俺たちは法執行機関だ。わかるか? 執行するんだ。上が決めたことを実行に移す。重大犯罪対策チームSCO0はそのために存在してる」


「命令さえあれば、局長は誰だろうが関係なく殺すと?」


「正式な手続きを経ているならば」


「それじゃ犯罪者と変わらないだろうが!」


「それを、ほかの連中・・・・・にも言えるか?」


 カーティスは黙った。

 例外を許せば、当然SCO0の信頼は揺らぐ。エドワードは椅子を回転させてふたりに背を向けた。


「局長、リカルド・サンティジャンと言えば、黒い噂が絶えない男です。彼の要請が正式な手続きを踏んでいるのか、あるいは彼自身の身辺は潔白なのか、調べる時間はありませんか」


 右の頬に若干の痣を残したクライヴも、エドワードに食い下がった。


「可能性の話を信じて作戦を遅らせろ、というのは強引だな。悪いが却下だ。とにかく、相手との関係は忘れろ。無駄な感情を出せば状況は悪くなる。いいな?」


◆◆


 アレクシアはタクシーに乗ってパディントン地区の家まで戻った。寝室まで行くと、服も着替えずベッドに身を預けた。うつ伏せで向けた視線のさき、白いカーテンの向こうには、ロンドンの夜景が広がっていた。ぼんやりその光景を見ていたアレクシアの意識は、十数年前に飛んでいた。


 エル・バタン公園を南に下りた近くに、こじゃれたバーがあった。赤い屋根の家を左に折れ、狭い路地を真っ直ぐ向かったさきにある。酒飲みの場としての役目はすでに失われており、店長がセブリアン・カルテルと関係を持ってからというもの、店は麻薬取引の温床になり果てていた。構成員のブラスの話に寄れば、室内のあらゆるところで剥き出しの大麻やコカインの売買が行われ、夢心地の男と女が裸でセックスに耽っているという。部下はみな、バルタサールが鉄槌を下すことに賛成した。

 二十三時頃。闇に紛れるようにして、黒い目出し帽に黒い服を着た男女が、例の店の前に立っていた。


「準備はいいか」


 薄汚い鉄製のドアノブに手をかけたカルロスは、囁くように言った。コートの下に隠した拳銃を取ったアレクシアは、ぎこちなく頷いた。


「焦るな。照準器を覗き、胴体か頭に一発だ。急所を狙えないなら胴体に二発でいい」


「うん」


「行くぞ」


 ドアを開けると、大人ひとりがせいぜい通れるような幅の階段が下へと続いていた。カルロスを先頭に、アレクシアが追う。両手に握った拳銃は、早くも手汗に濡れ始めていた。心臓が激しく脈打つあまり、カルロスに訊こえてしまうのではないかとアレクシアは思った。

 道に沿って右に曲がると、広い通路に出た。赤いカーペットがさきへと続いていて、派手な音楽がくぐもって訊こえる。ふたりはコートのポケットに手を突っ込んだまま進んでいく。左に折れると、やがて両開きのドアが目に入った。スーツを着たいかつい男がふたり、左右に立っている。鋭い視線が、カルロスとアレクシアに注がれた。


「会員証を」


 右の男が言った。


「これでいいか」


 カルロスが言った。

 ポケットから姿を見せた二丁の拳銃は、瞬く間にふたりの男を射抜いた。懐に手を伸ばすまでもなく、見張りは死体となって床に転がった。サプレッサーによって抑えられた射撃音は、騒々しいレゲエにかき消された。


「始めるぞ」


 カルロスは拳銃を左右のショルダーホルスターにしまうと、背中から散弾銃を取り出した。十数発ほど装填可能な、ポンプアクション型であった。減音器はついていない。ドアノブに向けて放った銃声は廊下のそこかしこを反射し、大音量となってアレクシアの耳にも響いた。

 カルロスは散弾銃をしまうと、改めて拳銃を取り出した。右脚でドアを蹴破る。あとに続いたアレクシアは、彼の隣に立っていた。

 ふたりの襲撃者を見つめる者はみな、スーツか裸という極端な姿であった。なかには行為中の男女もいる。左手のテーブル席に座っていたふたりの男が、口をあんぐり開けながら、こちらを見ていた。

 見えるだけで四十人はいるだろうか。アレクシアは思った。誰も、一言も、発さなかった。うるさかったレゲエはいつの間にか消えていた。


「バルタサール・ベネディクトの使いだ。店長のカミロ・アルニスと、その一味を殺しに来た。キリストに一言断りを入れる時間くらいは与えてやる」


 なにが起こっているのか理解できないとばかりに、店内にいる者はみな硬直していた。もしかすると、本当にわからないのかもしれない。テーブルの一角に積まれた、袋詰めのコカインの山を見てそう思った。

 カルロスは側に転がる死体を持ち上げ、目の前のジュークボックスに投げつけた。あまりに勢いがあったせいか、ぶつかった衝撃でジュークボックスから火花が散り、死体の髪の毛に火を点けた。盛る火は顔中を飲み込んだかと思うと、たちまちスーツにも広がった。

 右手のカウンター席に座っていた女がようやく悲鳴を上げた。理性を感じられぬ、獣のような声だった。客たちは口々になにかを叫びながら、カルロスとアレクシアをすり抜けていった。裸のまま逃げる者もいた。

 事前の打ち合わせ通り、逃げようとせず、スーツの懐へ手を伸ばした相手に、アレクシアは弾丸を叩き込んだ。長髪の男は、心臓を撃ち抜かれて死んだ。二発目は必要なかった。

 アレクシアにとって初めての殺人だった。だが、初体験の感触はたちまち銃声と悲鳴に呑まれた。アレクシアはカルロスを真似て、敵を撃ち殺していった。

 三分ほどでバーは静かになった。ジュークボックスの奥、カウンター席を越えたさきに続く廊下には、いくつか部屋があった。会話がかすかに訊こえる。


「ここで見張ってろ」


 カルロスはそう言って奥に向かった。二丁拳銃を構えたアレクシアは、残ったわずかな客たちに目を向けた。聖書の一節をしきりに唱えていた連中は、やがて黙った。抵抗の気配はなかった。レゲエの曲が消えたいま、アレクシアの耳に届いているのは、自分の心臓の鼓動と、不規則に鳴る銃声だけだった。

 

「大丈夫か」


 カルロスはアレクシアのもとへ戻って来た。


「うん」


「最初の相手は」


 カルロスはアレクシアが指さす方を見た。心臓を撃ち抜かれた長髪の男が、力なくソファーにもたれていた。


「上出来だ」


 店の外へ出たふたりを、黒塗りの車が出迎えた。後部ドアが開き、ベルナルドが出てきた。カルロスとアレクシアは、目出し帽を脱いだ。


「アレク、無事で何よりだ」


「ありがとう」


「五人だ」


「そいつは凄い。お前も悠長にはしてられんな」


 三人は車に乗り込み、バルタサール・カルテルのアジトへ向かう。

 カルロスがアレクシアに射撃と護身術を教えたのは、あくまでも、自分で自分の身を守れるようにと思ってのことだった。四年もするとアレクシアは高い技術を身につけた。

 月に一度開かれるバルタサール・カルテルのパーティーに出席した夜、アレクシアはバルタサールに、カルロスの仕事を手伝いたいと申し出た。その頃のカルテルは、セブリアン・カルテルと正面きって戦えるだけの規模を持っておらず、戦える者はみな銃を取って戦った。そんななか、ひとり安全な館で家事に従することに、アレクシアは負い目を感じていた。

 散々揉めた挙句、カルロスと必ず行動をともにするということで話は落ち着いた。あのこじゃれたバーの襲撃こそ、アレクシアにとっての初陣であった。

 

「ねえ」


 アレクシアが言った。


「なんだ」


「さっき、敵の頭と心臓に一発ずつ撃ってたよね。頭に撃つなら、一発でいいんじゃないの?」


 タバコを吸っていたカルロスは、


「びびらせるなら、言葉よりも印のほうがいい」







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