第三部 八
アシュフォード地区が静まり返った頃、バルタサールはセフェリノの家で時を待っていた。ソファーに腰かけながら窓の外を見つめる彼を、側のベルナルドがしきりに気にかけている。陽の落ちた外には夜が広がっていた。
二十分ほど前、
杖に両手を合わせ、瞼を閉じたバルタサールは、
この作戦が行われる数日前、カルロスが、警察の動きを察知したときのことである。彼が挙げた最初の提案は、全員の答えを訊くまでもなくバルタサールが退けた。警察の目を引くには暴れるのが手っ取り早い。だが、そのために友人を犠牲にすることはできなかった。カルロスは、身を堕としたバルタサールにとって最初の友なのだ。ほかに手段はないものかと、彼らは必死に知恵を絞った。
東の空が薄っすらと明るみ始めた頃だった。話し合いは、まったく進展を見せなかった。両手に握った空のグラスを見つめていたバルタサールの肩に、カルロスは手を置いた。そして頷いた。
「元気でな」と言って去ってゆくカルロスを、バルタサールたちは静かに見届けた。
カルロスはアジトでどのように戦ったのだろうか。爪痕は激しいほど、あの男は報われるだろう。それが好きに生きた証となる。傷ひとつない清潔な体は、自分たちにはきれいに過ぎる。
「ボス」
ベルナルドが声をかけた。
「……夜明けとともに出発だ。寝坊するなよ」
※
七時頃。バルタサールはリビングのソファーで目覚めると、顔を洗い服を着替えた。高い金を払って拵えたアルマーニの漆黒のスーツ、黒いネクタイを締めた彼は、玄関を開けた。外では数人の仲間たちが車を用意して待っていた。みな一様に黒いスーツを着ている。
「時間ちょうどですね」
セフェリノが言った。朝日を受け、サングラス越しに碧色の瞳が透けていた。
「行くぞ」
ベルナルドが運転席に座り、バルタサールも助手席に座ろうと車のドアを開けた瞬間、複数の車が、家の側の道路を走って来た。四輌の車はいずれも大型で、旅行に向かう一団とは思えない。
先頭車両が道を曲がると、バルタサールたちの元へ近づいてきた。後続車両は脇道で停車している。先頭の車のドアが開け放たれると、男が出てきた。その黒髪に、バルタサールが見覚えがあった。
◆◆
勇ましいエンジン音を響かせながら、ブレンドンはハンドルを右に切った。スコットランドのエルギンからロンドンのソーホー地区までの距離は、約七百キロ。時速八十キロで移動しても八時間以上かかる。
だが、行くしかない。朝日が昇るエディンバラの地を、一輌のアストンマーティンが駆け抜ける。
クライヴは無線で、メキシコ大使館のあるソーホー地区の警備を厳にするよう要請すると、水筒から残り少なくなった紅茶を飲んだ。
「協力隊の奴らが捕まえてくれるのが、いちばん手っ取り早いんだが!」
赤信号で停車すると、ブレンドンが言った。フロントガラスの前では、スーツを着た大人たちが職場を目指して忙しなく行き交っている。
「自分たちの情報を出すのを渋ってたし、結果で貢献してほしいものね」
とキャロル。クライヴは水筒を後部座席に置くと、頭にカルロス・ロンゴリアのことを思い浮かべた。あの男の遺体から一枚の写真をデータ化して協力隊に送ると、しばらくしてカルロス・ロンゴリアという名前が返ってきた。カーティスの推測通り、彼はバルタサールの右腕だった。
「そうなってくれればいいんだが」
クライヴが言うと、アーロンは怪訝な表情をしながら口を開く。
「協力すると言っておきながら実質別行動ですよ? なにをしでかすか分かったもんじゃありません」
「その保険として俺たちが行くんだろう」
ブレンドンがやや被せ気味に言った。
「まあな」
ブレンドンはアクセルを踏み込んだ。唸りをあげるエンジンとともに、車は再びコンクリートの地を走り始めた。
◆◆
バルタサールと目の前の男のあいだに緊張が走った。年相応の皺が刻まれたバルタサールの眉間がさらに険しくなる。腰のホルスターに収めている
「そう邪険にしないでください。
バルタサールの表情から考えを察したのか、
「邪魔者を消しにきたか、レアンドロ」
レアンドロ・アドモはバルタサールに頭を下げた。顔を上げると、
「まさか。お見送りに来たのです」
「パトリシオの右腕のお前がか」
「はい」
「なぜここがわかった」
「ブラスが吐きました」
カルロスと連絡を取っていた旧き仲間、ブラス。
バルタサールはレアンドロを鋭く睨みつけた。
「――拷問をしたのは、パトリシオ本人です。あなたに自身の重大な情報が漏れるのを怖れたのでしょう」
「あいつがそう簡単に
「家族や友人をまとめて誘拐したとか。左手の爪をすべて失くしても毅然としていたブラスが、親しい者の名を出された途端、大人しくなったと」
「お前はその場にいたのか」
杖を持つバルタサールの手に力がこもる。
「……いえ。言伝で訊いただけです」
「信じてやろう。で、お前の目的は? アレクシアか」
レアンドロは遠慮がちに目を伏せると、小さくうなづいた。
「はい。パトリシオ、引いてはリカルド・サンティジャンからの命令です」
「癒着は事実か」
「いまさら驚くことでもないでしょう。それにもはや、
アレクシアと接触した後、どう警察を撒くか話し合っていた席で、カルロスが明かした話。パトリシオとリカルド・サンティジャンのつながり。そして、それを訊いたというアレクシア。だが、
バルタサールは少しばかり黙ると、助手席に乗り込んだ。「出せ」という掛け声とともに、三輌のロールスロイスのエンジン音が鳴り響く。助手席の窓を叩かれ、バルタサールは開閉スイッチを押した。笑顔のレアンドロは、タブレットをひとつ彼に手渡した。画面には、ロンドン全域の警備状況に関するデータが表示されている。
「先代のことですから、きっと必要ないとは思います。が、念のため。メキシコ大使館へ向かうのでしょう?」
バルタサールは渋々うなづいた。
「例の爆破予告を受けて、ロンドン警視庁は人員を各地に散らしました。ですが、シティ・オブ・ロンドンなど中心部は、厳しい警備状況にあります。空港や港はほぼ封鎖されているでしょうが、狭い道や路地は手薄です」
「恩でも売るつもりか」
「私はただ、ロンドンへ行く一般人に忠告をしただけです」
バルタサールは黙った。
「あなたがいた時代を懐かしむ者も多い。いくら金を積もうが、心は買えませんから」
レアンドロたちの車は、ロンドンを目指して出発したバルタサールの車輛を見届けると同時に走り去っていった。
現地の警察の力を借りれば、協力隊は個人の居所などたちまち調べてしまうだろう。アレクシアの家に奴らがたどり着くのは時間の問題だ。バルタサールは、彼女のせめてもの無事を祈った。
朝日を鋭く照り返す三輌のロールスロイスが、猛スピードで駆けていった。
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