第三部 九


 車窓から吹き付ける風はクライヴの茶髪を撫で、眠気を覚ました。清々しい空の下、車はエンジンを鳴らし駆けていく。一度ガソリンスタンドで給油を行った後、ブレンドンに代わってアーロンが運転し、ここまで走ってきた。

 チグウェルからロンドン北部へ入り、ソーホーを目指す。閑静な住宅地に響き渡るエンジン音と猛烈な速度、かき鳴るサイレン。人々が気付いて振り返っては、小さくなっていった。


「いまチグウェルだな!」


 クライヴが言った。


「はい。A12からストラトフォードに入り、A501を通ってソーホー地区へ向かいます!」


 アーロンが大声で話しながらハンドルを切る。

 大英帝国博物館を過ぎた一行は、制服を着た警官たちの多さに気付いた。クライヴの要請は通ったようだった。

 黄緑色の発光ベストを着たロンドン警察員数人が、クライヴたちの乗る車とすれ違った。

 A501を左折し、A400を南下する。右折してA5204に入ると、コンゴ共和国の大使館が目に入った。西へ進み、キャヴンディッシュ広場公園の手前にある交差点を左折する。

 マーガレット通りを過ぎ、ロンドンパレイディアム劇場が見えた瞬間、車が急停車した。前のめりになったクライヴの体を、シートベルトが引き留めた。


「どうした、アーロン」


 前方を見ると、オックスフォード広場にバリケードが敷かれていた。行き交う車に遠回りするよう促しているふたりの男は、黒づくめの戦闘服に身を包み、防弾チョッキと、拳銃とサブマシンガンで武装している。ロンドン警視庁や重大組織犯罪局SOCAに、あのような制服はない。


「こりゃなんの騒ぎだ?」 


 ブレンドンが言った。


「わからない。彼らに訊いてみよう」


 アーロンは勘ぐられないよう、徐行しつつ車を滑らせていった。道中に見えた細い路地のいずれにも、警備の人間が配されている。クライヴは後部座席から降りると、戻ろうとする車の隙間を縫うようにして、男のもとへ走った。


「重大組織犯罪局のクライヴ・エインズワース警部だ。なにがあった?」


 クライヴを見た男は口を開いた。


「メキシコ大使館当てに脅迫状が届いたと連絡が入りまして、本日から明後日まで警備のレベルを引き上げることになりました」


「脅迫状?」


「ええ。なんでも、大使殺害をほのめかす内容だったと」


「本人から話を訊きたい」


「それはできません。メキシコ大使館周辺には、関係者を除いてひとりも通してはならないと厳命されています」


 話していると、男の背後から黒塗りのロールスロイスが三輌、角を曲がって出てきた。別の警備員の先導で先頭車両が止まった。男は運転手と話しているようだが、メートル以上は離れているせいでまったく訊き取れない。だが、男はリラックスした態度で話しており、少なくとも脅迫状とは関係ないように思えた。


「あの車は?」


 男は背後を振り返ると、


「関係者の車ですね。ロールスロイスが三輌、今日の八時から九時のあいだに到着すると連絡を受けています」


 クライヴはふと不安に感じた。警察官として得た、経験と直感によるものだった。あそこにベネディクトが乗っていたら、二度と逮捕する機会は訪れない。このままチャンスを逃すのか。そもそも、このタイミングで道路を封鎖されること自体が怪しい。

 クライヴは辺りを見回した。大通りには前と後方の二ヵ所にバリケードが張られていて、それぞれにふたり警備員が立っている。


「……わかった、引き上げるよ。最近、メキシコから来たカルテルの連中が暴れてる。気を付けてな」


「ええ。そちらも」


 クライヴはキャロルたちが待つアストンマーティンへ戻った。さきほどの会話の内容を三人に伝える。


「あの車を捕まえるなら、早くしないと。靴屋のある通りを曲がったみたいだけど、そこからだとメキシコ大使館まで数百メートルしかない」


「わかってるさ。アーロン、オックスフォード通りを西へ向かい、ハノーヴァー広場の前で停めてくれ」


「わかりました」


 車はオックスフォード広場を右折し、クライヴの言った通りハノーヴァー広場に止まった。

 彼の予想通り、ここも警備員がバリケードとともに道を塞いでいた。周囲の人が訝しげに彼らを見つめていた。

 クライヴはネクタイを取り、ワイシャツの第一ボタンを外した。


「まさかとは思うが」


 ブレンドンが言った。クライヴは後部座席のドアを勢いよく開けると、


「心配するな、十年前はMFミッドフィルダーだったんだ」


 彼は勢いよく車の外へ飛び出た。


 ※


 ふたりの警備員のうち、右にいた男が若い男性の一般人と話していた。側には連れと思しき女性が、困惑しつつも状況を見守っている。男はどうやら広場へ行けないことに怒っているようで、鋭い剣幕がクライヴの耳に刺さった。

 左の警備員がそっぽを向いているのを見計らい、クライヴは全力で駆け出した。口論していたふたりとすれ違い、バリケードを飛び越えると、ヘアウッドプレイスを直進する。間もなくして、後方から怒号が飛んできた。


「おい、止まれ!」


 ハノーヴァー広場に差し掛かったクライヴは、右から迫って来る警備員二名を撒くため広場の中へと入った。斜めに交差した道と、そのあいだに敷き詰められた芝生と木々が、建物でごった返す街に悠然と映えていた。

 全速力で走っていたクライヴは背後を見た。二名だった警備員は三名に増えている。みな必死の形相でクライヴを追っていた。

 広場を越えようとした瞬間、銃声が響き、クライヴは反射的に地面に伏せた。弾が付近を通過したような音はない。警告射撃だ。つぎはない殺されるかもしれない。

 荒い息と激しく脈動する心臓を制しながら彼は起き上がると、中央から正面に向けて駆け出した。ウィリアム・ピット像を横切って柵を飛び越える。着ていた背広の裾が引っかかり、派手な音を立てて裂けた。

 前にはさらにバリケードが敷かれていた。警備員がいないことを確認し、中央の隙間を抜けようとしたクライヴだが、左から男が二名飛び出してきた。駐輪所付近の遮蔽物に身を隠していたのだ。

 ひとりから激しいタックルを受け、クライヴは地面に倒れ込んだ。すかさず立ち上がろうとするも、別の警備員に羽交い締めにされ再び地面に押さえつけられる。


「大人しくしろ!」


 怒号が頭上から飛んでくる。顔を上げると、数十メートル前方にメキシコ大使館があった。その奥に並ぶ三輌のロールスロイスも見えた。悲鳴を上げる体を無理やり起こして前に進もうとするも、屈強な男ふたり分の体重を跳ねのけるには、クライヴの肉体は弱かった。

 彼は前方にくぎ付けになった。ロールスロイスの車両のドアが開き、なかから黒服の男たちがぞろぞろと出てきたのだ。そのひとりを見て、クライヴの顔は悔しさに歪んだ。

 後ろへ流した黒髪、負傷した右脚をかばうためにいつも携帯している杖。その男を護るように、左右と背後に立つ黒服の男たち。


「ベネディクト!」


 地面に両方の手を押し付けたクライヴは、立ち上がろうとしつつ全力で叫んだ。こちらの存在など気にも留めないかのように、バルタサールは警備員と穏やかに話している。

 クライヴは上半身を思い切り捻り、馬乗りになっていた警備員の顔面に強烈な裏拳を見舞った。脳を揺らされた男は素直に地面へ伏した。無線で連絡を取っていた別の男の腹に蹴りを入れ、彼は再び走り出した。だが、後方に待機していたであろう三人目に背後からタックルを受け、再び地面に体を打ち付けた。

 朦朧とする意識のなか、彼は顔を上げた。ぼやけた視界の先で、ひとりの男が、複数の人間を連れて近づいてきた。

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