第三部 七

 目の前の男を見て、カーティスは眉をひそめた。ブリーフィングを行った際、タブレットに映っていたバルタサール・ベネディクトの顔とは似ても似つかない。よく見れば、髪の生え際は金色だ。


「本物はどこだ」


「お前はビッグ・ベンの前に立ち、側を通った人にいま何時ですかと訊くのか」


「本物はどこだ」


 男は自らを指差した。


「ここだ」


「そうか」


 カーティスは腰を落とすと、目の前の男へ突進した。ほぼ同時に、男のホルスターからグロックが抜かれる。カーティスは銃を向けられた方向を読んで体を右にずらした。放たれた弾は、少し前まで彼のいた場所を通り抜けていった。男の右手首を捻り、グロックを手から弾き飛ばした。男は自由な左手で壁を押して勢いづくと、カーティスの足を払った。崩れ落ちる彼を蹴飛ばし、男は距離を取る。カーティスは息を荒げながら立ち上がり、拳銃を腰のホルスターに収めると、代わりに胸の鞘からコンバットナイフを取り出した。


なぶるか。関心しないな」


 男は言った。


「なるべく殺すな、が命令だ」


 カーティスは駆けだすと、順手に構えたコンバットナイフを男の肩目掛けて思い切り突きだした。ひゅんと、空を切り裂く音が鳴る。男はこれを左に避けると、右腕でカーティスの腹を殴った。カーティスは構わず男の額に頭突きをかますと、右の脇腹に渾身の力で拳をめり込ませる。うめく男の胸に足を突き出そうとした瞬間、カーティスは上体をそらした。男の胸の鞘から抜かれたコンバットナイフが、目の前の空間を切ったのである。カーティスの顎にわずかな痛みが走った。後ろへ跳んで距離を取った。地面を蹴り、すぐに間合いを縮める。

 急所を狙おうにも、あと一歩のところでカーティスの拳とナイフは捌かれ、ときに別の部位を掠め、ときに空を突いた。

 戦い慣れた身のこなしに、カーティスは心当たりがあった。バルタサールを補佐しているという、例のボディーガードだった。名が知れたバルタサールに対して、右腕の詳細は不明だ。

 カーティスは左フックを防がれると、後ろへ跳んだ。男の戦闘服にはナイフで切り裂かれた跡や打撃痕がそこかしこに残っているが、それはカーティスも同じだった。


「お前だな、バルタサールの右腕は」


「お前たちがそう呼ぶのなら、あるいはそうなのかもしれない」


 さきに仕掛けたのは男だった。近づくと同時に中段の蹴りが放たれ、すかさず合わせたカーティスの左腕に直撃する。骨が軋む感覚を振り払い、右の拳を突きだすが、カルロスの左手に相殺された。コンバットナイフを持った左手首は、右手によってがっちりとつかまれていた。両手を突き合わせたふたりの体が小刻みに震える。カーティスと男は睨みあった。男の左わき腹を蹴るが、微動だにしなかった。

 押し込み続けていた力を、不意に男は引っ込めた。想定外の行動に体勢を崩したカーティスに対して、両腕をつかんだまま跳躍した敵は両脚でカーティスの胸を全力で蹴る。カーティスは後ずさった。両手を離した男はその場で宙返りをすると、着地と同時にすかさずカーティスに向けて体当たりをかます。彼は吹き飛び、ふたりもろとも棚に激突した。中折れ帽がカーティスの頭を離れ、床に落ちる。

 カーティスは男の上半身をつかんで膝で胴体を思い切り蹴り上げた。口から出たつばや血が戦闘服を汚したが、それでも離さない男を持ち上げると、後方の机に向けて叩き落した。うつ伏せに落下した男は机にぶつかり、床に倒れた。

 おぼつかない足取りで後方へ下がったカーティスは、激突した棚に背を預けて座り込んだ。


 ◆◆


 朦朧とする意識をはっきりさせたカルロスは、右の脇腹に強烈な違和感を感じ取った。目を下に見やると、銀色に輝くナイフが刺さっている。直径七センチほどの小さな刃の半分が、カルロスの腹に沈み込んでいた。隙間から血が滲んでいる。カルロスは思わず笑いながら、咳き込んでいる男を見た。

 体当たりをかましたときか。

 戦闘服の男はコルトガバメントを取り出した。立ち上がったカルロスは、その場で右に大きく転がると、落ちていたグロックを拾い、部屋の曲がり角まで下がった。歯を食いしばり、刺さったナイフを抜く。緑と茶、黒が入り混じった迷彩服が、みるみる赤く染まっていった。銃声が轟き、弾丸が、カルロスが隠れている角を大きく削った。

 カルロスは背を預け、斜め右に見える棚を見た。ガラスを反射してベッドと棚が見える。男の頭部が見えた瞬間、棚に向けて数発の銃弾が撃ち込まれた。ガラスが散らばった。相手の攻撃が収まったのを見て、カルロスも応戦した。

 予備のマガジンは、男がいる場所に集中していた。長期戦になればこちらが不利だが、それでいい。しぶとく生き、惨たらしく死ぬ。カルロスは、かつてこれほどの昂ぶりを感じたことがなかった。

 用意した拳銃の弾倉の数が残りふたつになったとき、ベッドの方から声が訊こえた。


「この戦いに、なんの意味がある。俺を殺しても、外に出れば蜂の巣だ」


「お前には無駄でも、俺には重要だ」


 額に浮かんだ汗はカルロスの顔を伝って流れ落ち、フローリングの床に落ちた。


「命が惜しくないのか」


「仲間さえ生きていれば構わん」


「囮か」


「もう遅い。ここに来た時点でな」


 カルロスは吐き捨てるように言った。

 メキシコから来た協力隊だけが気がかりだが、イギリスで派手な動きは取れないはずだ。警察の注意を引ければ、それでいい。


「どうしても投降するつもりはないのか」


「これ以上の問答は無意味だ」


 カルロスはグロックを角から出して適当に撃つと、同時に飛び出した。男のいる方へ全力で走る。気付いた男は手にしたコルトガバメントの引き金を引いた。二発の四十五口径弾が、カルロスの上半身に迫った。一発は防弾チョッキが防いだが、二発目は貫通し、カルロスの胸を穿った。痛みと衝撃が身体を襲った。

 彼は走った。真っ直ぐ見据えていたはずの視界は、とたんに下を向いた。右の太ももを撃ち抜かれたのだ。体勢を崩したカルロスは両の膝をつくと銃を捨て、腰に備わっていた三つの手榴弾に右手を伸ばした。

 カルロスはなにかが失くなる感覚を味わった。あるはずのものが消え失せる感覚だった。それが自身の右手であることを理解するのに、時間はかからなかった。中指にピンがはめられた右手は、鈍い音とともに床に落ちた。

 目の前の男はピンの抜けた手榴弾を撃ち、後方へ弾き飛ばしたが、手遅れだった。カルロスと手榴弾のあいだに、遮るものはなにもない。両の膝をついたカルロスをしり目に、戦闘服の男は近くの棚を横倒しにした。

 カルロスは左腕を伸ばし、残った手榴弾のピンをすべて抜いた。

 

 ◆◆


 耳を覆いたくなるほどの爆音が炸裂した。

 金属片が棚やベッドをズタズタに引き裂き、木材は新たな破片となって室内を暴れまわった。嵐が過ぎると、外からは喧噪が訊こえ始めた。カーティスは、コルトガバメントを右手で握ったままベッドの影から起き上がった。

 バルタサールの右腕は、息も絶え絶えに床に伏せていた。背中に刻まれたおびただしい数の裂傷は、男が着ている服が迷彩柄かどうかすらも、うやむやにしていた。首にはひと際大きな木片が突き刺さっている。血だらけの男は満足げに目を細めると、伏せていた顔から右目だけを、立っているカーティスに向けた。虚ろな茶色い瞳は、どこも見ていなかった。


「勝ち逃げか」


 カーティスが言った。


「俺が死に、あいつが生きる。十分だ」


右腕を捨てる・・・・・・とはな」


「――違う。俺が提案し、あいつがそれを了承しただけのこと」


 直後、インカムに連絡が入った。カーティスは左耳を指で押した。


<カーティス!>


<声がでけえよ>


<爆発があったが、そっちは大丈夫か>


 <どうにか。バルタサールはいない。どこかに行ったようだ。部屋にいた男は、さっきの爆発で重体だ>


 <囮だったのか>


 <ああ。すぐ医療班をよこしてくれ>


「カーティスと言うのか、お前は」


 男は掠れた声で言った。カーティスは彼の声を訊くため無線を切り、片膝をつくと、ハーフマスクをずらした。


「そうだ。カーティス・サカキバラ」


 男の表情が一変した。思案に耽るように眉間に皺を寄せると、やがて口を開いた。


「アレクシアを守ってくれ」


 カーティスは動揺した。なぜそこで彼女の名前が出てくるのか。訊きたいことは山ほどあったが、疑問を払拭できるだけの時間はなかった。


「どうしてお前は――」


「いまさら生き方を変えるなど、馬鹿げたことかもしれん。だが、あいつは、アレクシアは、ふつうの女なんだ……頼む」


「わかった」


 医療班を呼ぶと、カーティスは室内を探り始めた。被っていた中折れ帽は細切れになっており、使い物にならなかった。名残惜しそうに帽子の側を通り過ぎると、彼は机に目をやった。空のマガジンが無造作に放置されている。引き出しをひとつずつ調べたが、どれも取り留めのない書類や小物ばかりで、バルタサールにつながる情報はなさそうに思える。彼は戦場となった室内を一巡すると、うつ伏せの亡骸を通り過ぎ、玄関へ向かった。

 ドアのない入口の手前で、駆けつけた医療班たちとすれ違う。玄関を一歩跨いだ瞬間、現場を照らすための照明が、カーティスの顔をありありと照らした。彼は目を細めた。通りで警察とやり取りをしていたメディアの連中の顔は、一斉にカーティスに向けられた。現場の人間の一言一句を聞き漏らさんと奮起していた表情は、殺し合いから生き延びた男の、悲哀にも似た視線に一蹴された。殺しの訓練を施され、それに特化した顔は、あまりに無機質だった。

 ひとりひとりの顔を見ていくと、やがてカーティスは若い男と目が合った。アジトに突入する前、猛烈なスピードで迫る車に乗っていたカメラマンだった。ふたりはしばしのあいだ見つめ合うと、カーティスは黙ってそこから立ち去った。精悍な顔つきで歩く後姿を、カメラマンは黙って見送った。カーティスに向かって焚かれたフラッシュは、ひとつもなかった。

 負傷した銃器専門司令部SCO19の面々を労いながら、家の敷地内の一角で関係者と話し込んでいたクライヴに近づく。足音に気付いたクライヴは、傷だらけになったカーティスの体を見た後、大きく息を吐いた。


「どう見ても無傷じゃないが、無事でよかった」


「バルタサールがどこに行ったか、検討はついてるのか」


 クライヴは真剣な顔つきのまま、


「ちょうどそのことについて話してたんだ。海路も空路に使う施設は、捜査隊が完全に押さえてる。ないとは思うが、念のため海峡トンネルもな」


「ネズミ一匹、通すつもりはないと」


「ああ。だが、どんなに完ぺきな捜査を行っても、限界はある」


「法か」


 クライヴはうなづいた。


「急がなくちゃいけない。奴らはもう向かっているはずだ。お前にも来て欲しいが――無理そうだな」


「悪い」


 カーティスはふらふらとクライヴの隣まで歩いていくと、その場に座り込んだ。頭にこだまするサイレンを訊きながら、眠りに落ちた。

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