第二部 九 二〇一七年五月十四日


 バスローブに身を包んでいたバルタサールは、朝日が差し込む窓の前、机の椅子に腰かけている。

 右手に持っているのは、セフェリノから送られてきた今月の収支報告書。二万五千ポンド(約三百六十八万円)という利益は、メキシコでカルテルを率いていた頃と比べて十分の一ほどだったが、いまを考えれば十分であった。

 彼は机に置かれたカップを手に取り、コーヒーを飲んだ。風味と酸味が、彼の眠気を洗い流した。

 自室を出たバルタサールは、杖を取ると階段を降りて一階のリビングに向かった。革張りのソファーの前に置かれたテレビを、カルロスが見続けている。


「いい朝だな」


 カルロスは振り返ると、


「イギリスに、メキシコからの麻薬捜査隊が来るそうだ。それも三百人。メキシコ政府がイギリス政府に協力を申し出たらしい。見ろ」


 カルロスに促され、ソファーに座ったバルタサールもテレビを見た。「メキシコの麻薬捜査に特化した協力隊、明日にもロンドン・ヒースロー空港に到着か」というテロップが画面下に流れている。


「お縄につく日も遠くなさそうだ」


「呑気だな」


 ――バルタサール・ベネディクトが、イギリスで麻薬ビジネスを行っている。

 国内の麻薬戦争で未だに決着をつけられないメキシコ政府がメンツを保つためだろうか。それとも、今後のイギリスとの外交や貿易を見越しての戦略的な動きなのか。今後はより慎重に動く必要がありそうだ。

 バルタサールはテーブルに置かれたケースから葉巻を取り出した。シガーカッターで先端を切り落とし、ライターで炙る。濃厚な煙が喉を満たした。吐いた息に煙りが混ざり、リビングに靄がかかった。


老兵・・はどうしてる?」


 バルタサールが言った。半月ほど前、カルロスはある顧客を尋ねていた。


「新しいおもちゃ・・・・は気に入ってくれたみたいだ。スポーツハンティング用に偽装するためにどれほど時間をかけたことか」


「客の我がままに付き合うのも仕事だ。あの男の行く末、見守ろうじゃないか」 


 ◆◆


「タイガーだ!」


 アメリカ軍の一兵卒が叫んだ。天気の悪い日だった。

 戦況は連合軍に傾いていた。ドイツ軍は反撃の余力など残しておらず、降伏は時間の問題だと、誰もが思っていた。だが、一介のイギリス軍兵士の視界には、霧を裂いて迫るタイガー重戦車と、ドイツ軍兵士の群れが見える。白い迷彩服を着直し、慌ててタバコを雪でもみ消した。

 西部戦線におけるアルデンヌは平穏な場所だった。鬱蒼と茂る木々は天然の要害として、連合、枢軸両軍の進撃を拒んだ。だからなのだろう。アメリカ軍はこの場所に、練度の低い、あるいは戦闘で損耗した部隊を中心に配備させた。戦争が始まって間もない頃、ドイツ軍がフランスの大要塞を突破した際に利用した地は、まさにここであった。


「相棒、とっとと起きろ!」


 ヒューズは寝ぼけまなこを擦りながら、彼を見た。


「どうした、クリフォード」


「ドイツ軍だ! 奴らまたここを通ってきやがった」


 ヒューズは流れるような手つきで、側に置いてあったリー・エンフィールド小銃を取った。前に撃たれた左肩が痛むのか、弾を装填していく動作は重かった。


「四年前と同じか」


「撤退するぞ!」


「待て」


「なんだ」


「味方が逃げるための時間を稼ごう」


 地面を掘ってつくられたたこつぼ豪で、クリフォードは大声を上げた。野戦砲や戦車の砲撃、幾重にも重なる銃声のせいで、声が聞き取りにくかった。


「あれは斥候じゃねえ、主力部隊だ。ほかの連中はとっくに逃げ始めてる。俺たちも行かねえと死ぬぞ!」


「ここならドイツ軍とはまだ距離がある。できる限り歩兵を倒して進軍を遅らせる」


 クリフォードは大きくため息を吐いた。


「十分経ったら、首根っこ捕まえてでも連れていくぞ」


 ヒューズは頷いた。

 クリフォードは小銃を構え、ヒューズとともにドイツ軍を狙った。雪が降り積もる森のなか、前進しているひとりに狙いを定めた。


「いつも通りお前に合わせる」


 スコープの調整をしてからヒューズが引き金を引くまでは、二十秒とかからなかった。機関銃を持っていた男が倒れたのを見計らい、クリフォードも仕掛けた。木陰に逃げ遅れたひとりの胸を撃つ。アメリカ軍の反撃は弱々しく、こちらの攻撃はすぐにドイツ軍の注意を引いた。

 クリフォードが小銃に込められた弾丸を撃ち切る前に、たこつぼ豪から十メートルほど左に砲弾が落ちた。轟音に耳鳴りがした。無数の銃弾がたこつぼ豪の周りを通過していく。


「まだ遠い」


 ヒューズがつぶやいた。連合軍が航空機を投入できない悪天候の日を狙い、敵が攻撃を仕掛けたのは想像できる。代わりに、野戦砲の命中精度も落ちているようだった。

 二度目の砲撃。距離は縮まっている。舞い上がった土と雪が体にかかった。

 銃声がとどろき、薬莢が雪に埋まっていく。ふたりは戦い続けた。ヒューズが放った弾丸は、ことごとく敵に命中していた。照準器から敵を見据える顔は、恐ろしいほど冷静だった。


「おい!」


 撤退を考えたクリフォードが、腕時計を確認していたときだった。背後から声をかけられとっさに銃口を向けた。


「ダン、後ろから急に声かけるなよ」


「撤退命令が出た! アメリカ軍の後方部隊と合流するぞ」


 三人はたこつぼ豪を出た。背後に迫る音から逃れるように必死で走った。

 ほどなくしてヒューズが立ち止まった。クリフォードが息を切らせながら振り返り、


「今度はなんだ、足止めならしないぞ!」


「負傷兵だ」


 ヒューズの視線のさきには、雪原にうつ伏せで倒れているイギリス兵がいた。逃げ遅れたのだろう。


「死んでるんじゃないのか」


「いや、生きてる。助けに行くぞ」


 クリフォードとダンは、全速力で駆け出したヒューズを追った。ヒューズが担ぎ上げたイギリス兵は、腹から血を流していた。顔色が悪い。足取りも重く、水分で足がやられているのかもしれないと思った。

 ぬかるんだ地を長く踏んでいると、染み出した水がブーツの隙間から入り込んでしまい、足の凍傷や壊死を招く。塹壕足と呼ばれたこのやまいは、第一次世界大戦でも多くの兵士を苦しめた。親指のさきが腐っただけで、足首から下をすべて失った兵士を、クリフォードは知っていた。


「もう大丈夫だ」


 ヒューズは負傷した兵士を励ましながら歩き続けた。ドイツ軍の攻撃が止む気配はない。なるべく木々のあいだを抜け、敵と自分たちのあいだに遮蔽物をつくっていく。クリフォードは小銃を構えながら、敵がいないか辺りを見回していた。

 

「ありがとう」


 負傷兵が掠れた声で言った。頭を打ったのか、意識は朦朧としていた。


「名前は」


 ヒューズが声をかけた。


「……ブライアン」


 クリフォードはブライアンの腰に収まっていた拳銃を見た。ホルスターから覗かせるグリップから、コルトガバメントだと思った。


「囮になってたら、野戦砲にやられちまった」


「そいつは運が悪かったな」


 ヒューズは笑った。


「いや、そうとも言えないな。お前は生きてる。しかも五体満足で。ともに生きてブリテンへ帰ろう」


「ああ」


 敵は追跡を諦めたのか、少なくとも自分たちへ向かう銃声は訊こえなくなった。代わりに響いてきたのは、戦車の音である。腹底に響く駆動音に、クリフォードは安堵の息を漏らした。

 アメリカ軍のM4シャーマンであった。上り坂の頂上から緑色の車体が見えると、クリフォードは精一杯手を振った。

 ブライアンはたどたどしく言った。


「シャーマンか」


 するとヒューズは、


「ついてるぞ。ダン、乗せてもらえないか訊いてくれ」

 

「わかった」と言い、ダンは戦車へ駆けていった。クリフォードはヒューズとともに、ブライアンを近くの木にもたれかけさせた。彼は相変わらず顔を俯かせていた。


「この寒さじゃきついだろうが、耐えてくれ。バストーニュに行けば治療してもらえるし、毛布に紅茶もある」


 クリフォードは小銃を構えて辺りを警戒しながら、ふたりの会話を背中越しに訊いていた。


「アフリカの熱さに比べれば大したことない」


「北アフリカにいたのか?」


「ドイツとイタリア軍が撤退するまで」


「歴戦の兵士だな。ヴィクトリア十字章が待ってるぜ」


「あんたはいつから戦ってる」


「ノルマンディーからだ。ここまで一年足らずだが、仲間もずいぶんやられちまった。最初から部隊にいるのは、俺と、そこで警戒している奴と、シャーマンまで走っていった奴だけだ」


「平和なロンドンが恋しい」


「こじゃれたパブでエールでも飲みてえな」


 他愛のない会話はしばらく続いた。

 笑みを浮かべたダンが戻って来たのを見た相棒は、ブライアンを担ぎ上げた。

 バストーニュにたどり着いたクリフォードたちは、ブライアンを野戦病院に運ぶと、少しばかりの休息を取り、反撃の準備に取り掛かった。援軍のアメリカ陸軍第一〇一空挺師団とともに、進撃するドイツ軍を迎え撃つのである。こうしているあいだにも、北西から銃声がまばらに響いていた。


「訊いた話じゃあ、この前攻撃してきたドイツ軍は三個軍規模だったらしいぞ」


 たき火を囲みながら、クリフォードは隣でコーヒーを飲む相棒に言った。ダンはバックパックを枕に寝ていた。ときどきあくびが訊こえる。


「あのまま残ってたら死んでたな」


「馬鹿のおかげで死にかけた」


 クリフォードは夜空を見上げ、物思いに耽った。

 ノルマンディー上陸作戦から、必死で戦った。上陸用ボートに乗っていた男たちのほとんどは、波打ち際で死んだ。血に染まった赤い浜で。ドイツ軍のMG42機関銃の銃声が、いまでも耳にしがみついて離れない。

 パリ解放作戦で隊長はドイツ兵に撃たれて死に、ヒューズがその任を継いだ。補充要員として配属された若いイギリス兵たちに、彼は優しく、厳しく接した。誰よりも仲間の死を嘆き、戦果を喜んだ。従軍記者に声をかけられると、自分より戦友の功績を熱心に語った。

 あまりに多くの人を犠牲にした戦いは、もうすぐ終わる。ブリテンに帰れる。クリフォードが熱を入れて話すと、ヒューズはいつも嬉しそうに頷いた。

 クリフォードが目をやると、彼は小銃の手入れをしていた。

 

「今回ばかりはやばいかもな」


「どうした」


「ここまでしぶとく生き残ってきたけど、あの規模のドイツ軍を防ぎきれると思うか?」


「やってみなきゃわからない」


「失敗したら終わりさ」


「挑まなければ失敗すらしない」


 ヒューズはそう言って、小銃の手入れを終えた。残ったコーヒーを飲み干すと、両手をこすりながら火に近づけた。


「爆撃されるロンドンは、もう見たくない」


「同感だ」


 クリフォードは残った戦闘糧食を胃にしまい込んだ。ドーバー海峡の向こうにいる人たちを思えば、まずさも気にならなかった。



 陽が東を照らす頃、男はベッドから起きた。簡素な机に置かれた部品を手に取り、念入りに確認した。部品は、骨ばった手により本来の形を取り戻していく。説明書はアメリカ英語だったので読むのに手間取ったが、どうにか覚えた。巨大な弾丸の入った弾倉を差し込み口に入れ、レバーを引いた。銃身に取り付けられたスコープが、朝日を受けて光った。


「クリフォード、ダン、行くぞ」


 ◆◆


 重大犯罪対策チームSCO0の面々は、会議室で円卓に座り、エドワードに渡された書類に目を通していた。会議が始まってからすでに十分が経過していたが、誰も発言しない――今回の標的は、このなかの誰もが想像していなかっただろう。

 重苦しい沈黙が流れるなか、カーティスが最初に口を開いた。


「局長、ここに書かれている内容は正確なのですか?」


「間違いない。現在までに警官が七人やられている。一般市民を殺していないのだけが救いだな」


 エドワードの短い返答を訊き、それでも信じられない様子でカーティスは視線を再び書類に落とす。


 マクシミリアン・ヒューズ。一九二四年生まれ。九十三歳。男性。スコットランドのグラスゴー在住。イギリス陸軍第三歩兵中隊の狙撃手として一九四一年より第二次世界大戦に従事。最終階級は少佐で、西部戦線において九十九人の敵を射殺している。戦後は後進の育成に力を注ぎ、一九八五年に軍を退役。以降は趣味の家庭菜園をしつつ年金で暮らす。一九九三年に妻のアリスを亡くして以来、精神に異常を来たし、ナチス・ドイツや当時のイギリス政府、西部戦線など、あたかも第二次世界大戦中にタイムスリップしたかのような言動が目立つように。退役軍人の友人の強い勧めで病院で診察を受けたところ、中程度の認知症であることが判明する。現在に至るまで、薬物投与を含めた治療を行っていた。

 ヒューズが捜査線上に浮かび上がったのは、二〇十七年五月十日から五月十二日までのあいだ、彼が大きなアタッシュケースを抱えて南西方向に出かけたという目撃情報があったため。さらに、以前にスポーツハンティング用と言って銃を購入していたとの情報も入っている。

 五月十日の夕方ごろ、スコットランド南西、ロック・ロモンド・アンド・ザ・トロサックス国立公園内のトロサックス、デュークス・パスで警察官2名が遺体となり発見された。いずれも心臓部を撃ち抜かれており、貫通した銃弾を付近に発見。倒れた位置からして北東のグレン・フィングラス貯水池が射撃地点だと思われる。

 五十口径弾が使用されており、狙撃銃のL96A1を改良した、アキュラシーインターナショナル AW50が使われたと考えたものの、陸軍当局は銃の流出は確認されていないと伝達。現場を詳しく調べた結果、なにかの欠片を発見。鑑定にかけると、アメリカ合衆国で製造された狙撃銃・マクミランTAC-50であると判明した。

 五月十二日の深夜、アタッシュケースを大事そうに抱えながら、ヒューズは自宅に戻ったという。スコットランドの警察が自宅を訊ねたときにはすでにもぬけの殻で、目撃情報にあったアタッシュケースや、退役記念にもらった軍服が消えていた。その後、公園付近でヒューズのものらしき車も発見されており、事態を重くみたスコットランド警察はイギリス政府、および内務省に連絡。公園に危険動物が出たという情報を流し、自然部分への立ち入りを一時封鎖――


「うかつに相手の射程範囲に入れば、間違いなく攻撃される。同じ狙撃手であるお前の出番というわけだ。今回ばかりは、正々堂々と戦わざる・・・・・・・・・得ない・・・


「書類には軍からの流出は確認できないとありますが、どうやったら、この老人がアメリカ製の最新鋭対物狙撃銃を所持できるんですか?」


 クライヴが疑問をていする。カーティスも同様だった。

 マクミランTAC-50は、アメリカのマクミラン社が作った、五十口径の弾を使う対物狙撃銃だ。対人ではなく、対物。装甲車などの軍用車に対して、あるいは超長距離からの狙撃などに使われる。

 エドワードはマグカップを傾けてコーヒーを一口飲むと、


「現在、アメリカ政府、製造元のマクミラン社に問い合わせているところだ。結果がわかるのは、早くても一週間後だと」


「問題は――」


 カーティスが言った。


「この男をどう仕留めるか、だろう」


 クライヴの前に座っていたアーロンが地図を開いて公園の地形を確認していた。少しすると顔を上げて口を開く。


「射撃地点がグレイ・フィングラス貯水池付近とあるが、すぐ南西に山岳地帯がある。ここからデュークス・パスにいる警官を撃ったとなると、距離は二キロ近いぞ」


「本当に九十三歳なんだろうな? 三十九歳と間違えてないよな?」


 ブレンドンが悪態をつく。


六十三・・歳かも」


 とカーティス。


「はいはい、年齢談義はあとでね」


 キャロルの一声で一同はちょっとした脱線から復帰した。エドワードの咳払いに、部下たちは視線を彼に合わせる。


「書類には書いていないが、アシストスーツの類をつけているのかもしれない」


 クライヴが言った。


「私たちはいつも通りサポートに徹するが、観測手はどうする? 狙撃手には必要なのだろう」


 エドワードの問いにカーティスは、


「ドローンで代用しましょう。小型ドローンを使って偵察し、地形や風速などのデータを無線で俺に伝えてください」


「わかった。エルドリッチ内務大臣が、イギリス軍と話をつけている。必要な装備を言ってくれれば、明日中には揃えられるだろう。作戦開始は明後日の陽が落ちた後、二十時以降を目安とする。十九時には、全員スコットランドのコムリーに集合だ」

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