第二部 八 二〇一七年七月十三日

 クライヴは額に浮き出た汗をハンカチで拭った。

 高校生以来の友人が戦場で経験したことは、彼の想像を越えていた。

 尊敬し、慕っていた祖父の教えを実践できず、救うはずだった者たちからは怒りを、ときに銃を向けられ、いつ来るかもわからぬ脅威に神経いのちをすり減らす。それでも戦い続けたカーティスは挙句の果てに、狂った戦友を戦場から解放した・・・・


「イギリス軍は、カーティスの罪を不問としました。その後、四回の派遣で、カーティスは三年間イラクで戦い続けています」


 ローレンス神父が言った。


「第二十二歩兵分隊はどうなったんですか」


「エルマーの死亡とアレンの負傷を機に解散となりました。カーティスたちはそれぞれ別の部隊に編入されたと。それ以来、顔は合わせていないらしいです」


 クライヴにはまだ訊くべきことがあった。それでも、これから口にする内容が、果たしていいものなのか。

 難しい顔をしていた彼の心中を察したのか、ローレンスは、


「私の知る限りなら、なんでもお答えしますよ」


「……カーティスは、何人の敵を射殺したのですか」


 神父はカップを手に取り、紅茶を飲み干した。軽く息を吐くと、


「九十八人」


「九十八ですか」


「敵だけです」


「それはつまり」


「すべて含めれば百二十三。そこから一般人を除くと九十八、ということですね」


 五月の温かな風が、開け放たれた窓から吹いてくる。クライヴの全身に寒気が走った。


「狙撃手なら誇るべき数字かもしれません。ですが、カーティスは語らなかった」


「僕はかねてから、SCO0でのカーティスの行動に疑問を持っていました。殺すべき相手と、なぜ正々堂々戦うのか。もしかすると――」


「きっと、警部あなたの推測通りだと思います」


 イラクで絶望したカーティスは、自分が望む戦場をイギリスに求めている。


「いつ殺されてもいい。でも、騎士道に則った戦いを、弱き者を助け、守るための戦いをしたい。そのために生きなくてはならない。彼は矛盾しているのです」


 クライヴはじっと神父の顔を見ていた。


「SCO0が創設されたとき、カーティスは取引したと言っていました」


 クライヴのなかでは相手の素性は見当がついていた。イギリス内務省、内務大臣。重大組織犯罪局SOCA重大犯罪対策チームSCO0を実質的に率いている男。


「相手はアーサー・エルドリッチですね」


「ええ」


 エルドリッチは複雑化する国内犯罪を徹底的に潰すべく、あらゆる手を行使している。そこで、優秀な兵士だったカーティスに目を付けたのだろう。


「どのような取引をしたのか、そこまでは話してくれませんでした。ただ、カーティスの過去に関わることが出たのは間違いないでしょう」


「カーティスはそれを了承した」


 フェルディナンド・ダーマー、ウォルター・ウィリアムズ、ムネノリ・チュウジョウ。これまでにカーティスが殺してきた相手が、クライヴの脳裏に浮かんだ。彼らと同じ土俵に立つことで、カーティスは正々堂々と戦える。同時に、自分を追い込み、命を危険に晒すことができる。


「カーティスは……心的外傷後ストレス障害PTSDなのでしょうか」


「わかりません。ただ、医師から精神状態がよくないと言われ、しばらく病院で療養していたとか」


 ローレンス神父は窓の外を見た。クライヴも顔を向ける。外はすっかり暗くなり、月が出ていた。部屋の時計は二十一時を指している。


「ずいぶん長く話し込んでしまいましたね」


「興味深い話、ありがとうございました」


 神父は微笑むと、


「こちらこそ、老人の長話に付き合っていただいてありがとうございます……よければ、夕食を召し上がっていきませんか?」


 クライヴもにっこりと笑った。


「ぜひ」


 テーブルを片付けたクライヴは、ティーセットを持ってキッチンへ向かった。アマンダに渡し、ローレンスとともにテーブルの席につく。食欲をそそる匂いが辺りに満ち、クライヴの腹から情けない音が鳴った。


「客人が来ると、妻はいつも張り切って料理を多めにつくってしまうんです。好きなだけ食べていってください」


「ありがとうございます。申し訳ないのですが、もうひとつだけ、お訊きしてもよろしいですか」


「もちろん」


「エルマー夫妻は、彼の死因を知っているのでしょうか」


「いいえ。意図的に伏せられたようです。それが正しいのかどうか、私にはわかりません」


 色とりどりの料理を囲み、三人は和やかに談笑しながらひとときを過ごした。今日は車で来ているから酒は飲めないと伝えると、アマンダは三つのグラスに水を注いだ。

 食事を終えたクライヴは、ローレンスとともに玄関に向かう。ドアを開けて外に出て、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 月光がカンタベリーの街を青白く映し出していた。木々は風を受けて優しくそよぎ、遠くでは虫の鳴き声が訊こえる。のどかな風景。

 ローレンス神父と分かれ、停めていた車に乗り込む。エンジンを吹かし、帰路につこうとした矢先、クライヴのスマートフォンが振動した。


 ◆◆


 重大犯罪対策チームSCO0に関する情報をうっかり漏らさぬよう用心しつつ、カーティスは落ち着いて過去を振り返っていた。三杯目に頼んだジョッキの中身はほとんど減っていない。アレクシアは両手をテーブルの上で組み、彼の言葉に耳を傾けていた。


「私、なんて言えばいいのか」


 アレクシアの反応は当然だった。事情を知らぬ相手に対して適切な言葉を選ぶのは難しい。鳥に魚の気持ちはわからない。


「最初に言っただろう、訊いてほしいと。だから、それでいいんだ」


「うん」


 カーティスはジョッキを手に取り、口をつけた。長く語って渇いた喉を潤していく。小さく息を吐き、テーブルにジョッキを置いた。

 イラクを占領しても、けっきょく大量破壊兵器は見つからなかった。イラクと戦火を交えることとなった最大の理由が、嘘だった。あれから、イギリスではイラク戦争の是非を問う論争が巻き起こった。不確かな情報に基づいた作戦や、不安定な戦後の占領計画。おまけに、フセインを失ったイラクの治安はいまも混乱している。

 あの戦いが間違いだったのなら。

 ジョナサンはなんのために死んだのか。狂ったエルマーを殺した意味は。彼らは冷徹な独裁者から人々を守るために戦った。


「……部下の人が言ったように、カーティスの行動は正しいと思う。軍人としての責務をまっとうしたんだから」


 ジョッキのなかのビールを見つめていたカーティスは、自分を嗤った。

 砂嵐のなか、殺した相手の身元を安易に確認しようとしなければ、ジョナサンは死なずに済んだかもしれない。

 エルマーと撃ち合ったとき、彼の銃を破壊すれば、もっと話し合えたかもしれない。より正しい判断を下せていれば、帰国できたかもしれない。このブラックフライアーこじゃれたパブに溜まり、閉店時間ギリギリまでともにビールを飲み交わすこともできただろう。

 ずっと、なにか選んできた。それが正しいと信じて進む。だが、こうして考える時間を与えられると、あのときの決断はよかったのかと、思い悩む日もある。

 

「……だといいな」


「あまりこういうのは訊くべきじゃないのかもしれないけど、エルマーさんのご両親は、彼の死因を知ってるの?」


「知らない。軍内部で戦死扱いになったんだ。この事実を知ってるのは、第二十二歩兵分隊のメンバーと、軍上層部、そして君だ」


「やっぱり訊くべきじゃなかったわね」


 ビーフリブパイを口に含んだままアレクシアが言った。


「情報が漏れればまっさきに疑われるのは俺だから、気にしないでいい」


 食べかけのビーフリブパイをカーティスが食べようとした瞬間、ジーンズのポケットに入れていたスマートフォンが振動した。通話がきたときの揺れ方だった。手に持ったパイを皿に戻すと、スマートフォンを取り出した。画面にはクライヴの名前が表示されている。


『もしもし』


『クライヴだけど――なんかうるさいな』


『アレクシアを連れてブラックフライアーに来てるんだ。お前もどうだ?』


『遠出から帰ってる途中なんだ、また近いうちにな。それより、少し前に局長から連絡があった。仕事がきたぞ。明日の朝九時に、いつも通り会議室に集合だ』


 酔っていたカーティスの顔が険しくなる。


『わかった。いつもなら局長がかけてくるのに』


『奥さんとふたり、サヴォイ・グリルで夕食を取ってるそうだ』 


 コヴェントガーデン地区にある、高級ホテル・サヴォイホテル。そのなかにあるのサヴォイ・グリルは言わずと知れた高級レストランであり、格式高いことはあまり好まないカーティスも知っていた。

 ブラックフライアーのあるテンプル地区は、コヴェントガーデン地区のすぐ東だ。


『ずいぶんとリッチなことで。サヴォイ・グリルならここから近いな』


『頼むからその状態で突入しないでくれよ。局長も、くだらないことで始末書を書きたくないだろうしな』


『馬鹿言え』


 クライヴとの会話を終え、カーティスはスマートフォンをポケットにしまった。


「仕事?」


「ああ。明日の朝からだ。そろそろ切り上げないと」


 アレクシアの分の料金も支払い、カーティスたちは店を出た。冷たい空気が顔をそっと撫でた。ふたりはブラックフライアーズ駅のタクシー乗り場に向かうと、適当なブラックキャブを探し、彼女を乗せた。右手をつかみ、カーティスは財布から取り出した二十ポンド紙幣を数枚、アレクシアに握らせる。


「乗らないの?」


「散歩しがてら帰るよ。歩くのが好きなんだ。明日に備えて酔いも冷ましたいし」


 鏡越しに手を振るアレクシアを見送り、カーティスは、再びブラックフライアーの前に戻った。六キロ以上さきにある我が家を目指し、彼は、ゆっくりと歩き出した。



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