第一部 十四



 カーティスたちはローマ帝国の威光を示す場所に立っていた。五賢帝のひとりに数えられるローマ皇帝・アントニヌスが、スコットランド人の侵入を防ぐために築き上げられた長城。いまとなっては面影は微塵も見られないが、わずかに残った瓦礫が蛇のように細長く続いている姿からは、ヨーロッパを支配した国の力強さが感じられる。


「ここから南にずっと下り、スペインを過ぎ、ジブラルタルを越え、地中海を挟んでアレクサンドリアまでを、ローマが支配していたんだ」


 彼が熱弁を振るうさきには、新調したブラウスに身を包んだアレクシアが立っていた。長く若干ウェーブがかかった茶髪を風に揺らし、アントニヌスの長城を見つめている。青空と陽射しのおかげで、彼女の表情までよく見れた。


「教科書でしか知らなかったけど、実際に見るとすごいね」


「だろう? 年端も行かない子どもだったときに初めて見に来たんだが、スケールの大きさに興奮したよ」


 世界史を学んでいたカーティスは、なによりもさきにこの長城を見せたかった。独りよがりになっていないだろうかと気にしたときには、ロンドンを発ってから五時間が経っていた。現地に降りたアレクシアの表情はいきいきとしていたので、カーティスは心の中で胸をなでおろした。


「少し歩かない?」


 アレクシアが言った。


「もちろん」


 カーティスは彼女のもとへ駆け寄ると、ともに並んで歩き始めた。杖は家に置いてきていた。体の痛みは引いていて、日常生活を送るには問題ない。アレクシアは回復が早く、すでに体に活気をみなぎらせている。ふたりは側を流れるケルビン川に沿って西へと歩く。少し前に死にかけた男女の足取りは軽く、芝生を力強く踏みしめた。長城の前方では、カーティスたちと同じ目的で訪れたであろう家族連れやカップルが見えた。


「連れ出してくれてありがとう。正直な話、冗談だと思ってた」


「イギリス人はジョーク好きだが、戦争と恋愛では手段を選ばない。約束はきっちり守る」


「自分の目で見ると全然違う。生って大切ね」


「アントニヌスの長城も大したもんだが、まだまだ序の口だ。まだ昼だし、ホテルに戻るまでにグラスゴーも回ろう」


 ふたりは景色を存分に楽しんだ後、車を止めた駐車場へと歩いていき、グラスゴーへ向かった。グラスゴー大聖堂、グラスゴー美術学校、ケルヴィン・グローヴ博物館。スコットランドの歴史を示す多くの建築部を巡る。入院中から密かに読み込んでいたスコットランドのガイドブックのおかげで、カーティスは行く先々でたくさんの歴史やエピソードを語り、この地に息づく過去の一端に触れては、アレクシアはときに笑い、悲しみ、喜んだ。

 女性との旅は、イラク帰りのカーティスにとってはあまりに新鮮なひとときだった。クライヴやほかの友だちと馬鹿なことをやっては、先生に怒られていた高校の日々をふと思い出すこともあった。ふつうの生活を送れていれば、いまごろ所帯でも持って、ふつうの仕事につき、不特定多数の人々とならんら変わらぬ人生を過ごしていただろう。だが、それはもう叶わない。

 ホテルで夜を明かした翌日。ふたりは車に乗り込み、エディンバラ、チェスター、リヴァプールを巡る。別のホテルの予約が思うように取れず、車中泊をする日もあった。痛む節々に不快な顔をしていたカーティスも、おはよう、とあいさつするアレクシアを見ると、自然と痛みが和らいでいく気がした。最初はぎこちなく言葉を紡いでいたカーティスとアレクシアだったが、旅は少しずつ、確実に、ふたりの仲を深めていった。


 ※


 スコットランド、イングランド北部を巡る一週間の旅を終え、ふたりはノッティングヒルに戻ってきた。この後は、ロンドン周辺を回る。カーティスはアレクシアを連れ、自宅にやってきた。近所の人たちとあいさつを交わし、玄関のドアを開ける。自分の家に女性を招くのは、高校生のときに付き合っていたジェーン以来だったので、カーティスは緊張していた。リビングの散らかった物を片付けていく彼を見て、アレクシアは大丈夫だよ、と言って笑うと、その顔をキッチンへと向けた。


「トースター、かなり使い込んでるのね」


「あまり料理はやらないんだ。だから、食パンを買い込んで、トースターで焼いては、目玉焼きとかウィンナーをのせて食ってる。皿もほとんど汚れないから、洗うのもかんたんだ」


「野菜は食べてるの」


 カーティスは冷蔵庫まで歩いていき、取っ手をつかんで中身を見せた。自分でも悲しくなるくらいに殺風景な有り様だった。冷凍させた食パンや、リンゴ、バナナなど、どれもほとんど調理せずに食べられるものばかりである。

 アレクシアはバッグを床に置くとカーティスを脇にどかし、わずかばかりの野菜と牛肉、卵をキッチンにのせると、食材を見つめ出した。邪魔してはいけない空気を感じ取り、カーティスは中央のソファーに座るとテレビをつけた。

 音量を小さめにしてBBCのニュースを見ていると、まな板に包丁を振り下ろす音が訊こえてきた。少しすると、オーブンの肉を蒸す音が室内を満たす。昼だったこともあるせいか、カーティスの腹は食べ物を切に求め出した。

 料理を作り終えたアレクシアは、二枚の皿を手にカーティスのもとに来ると、テーブルに置いた。一枚目の上には、レタスやトマトなどが味付けされたサラダと、スクランブルエッグが、二枚目には、野菜とローストビーフを挟んだサンドウィッチが三つ。肉は多めに焼いたのか、余った分は薄切りされて取り分けられていた。自分の分を持ってきたアレクシアは、カーティスの右に座った。


「すごいな。レストランにでもいる気分だ」


「レシピをいくつかメモに残しておくから、今度は自分でもつくってみて」


 夜になると、ノッティングヒルに静けさが舞い降りていた。カーティスはアレクシアを別の部屋に案内し、シャワールームやトイレの位置を教えた。

 ふたりはリビングで戻りると、『ノッティングヒルの恋人』を観始めた。いっしょに映画鑑賞でもしようと持ち掛けたカーティスが、『アラビアのロレンス』、『山猫は眠らない』、『プライベート・ライアン』、という数多の誘惑を押しのけ、恋愛映画の名作を手に取ったのである。『ノッティングヒルの恋人』はカーティスの好みではない――そもそも恋愛映画自体好きではない――が、ジェーンと付き合っていたときに思いつきで買ったものだった。


「すごくよかった」


 エンドロールを最後まで見終え、オレンジジュースをひと口飲んだアレクシアが言った。


「観るのは二回目だったけど、まさかこんなにいい映画だったとは。俺も大人になったよ」


「……現実もこんな風にいけばいいのに」


 ぼそっと彼女が呟いた。思っていたことが口から滑り落ちてしまったかのような言い方だった。


「事実は小説より奇なりっていう言葉がある。強く願って、行動すれば、きっとアナのようになれる」


 カーティスの言葉に、アレクシアは笑顔を向けた。


◆◆


 深夜。

 ベッドに横になっていたアレクシアは、なかなか寝付けないでいた。カーティスとの旅はすごく楽しかった。こんなに純粋になにかを楽しんだのはいつぶりだろう。これからも楽しみにしてる。

 だが、胸の中に残った一抹の不安は彼女の心を蝕んでいた。

 バルタサールたちが、アレクシアを放っておくわけがない。腹を撃たれたのが警告だとするなら、きっとつぎはないだろう。もう一度カルロスと出会ったとき、それが自分の最期だ。

 二年前、イギリスへ向かう飛行機のなかで、アレクシアは、裏社会の人間が組織を抜け、一般人として生きていくことは可能かと訊いた。バルタサールは、


「不可能じゃないだろうが、ほぼ無理だろう。裏社会で生きていくと決めた時点で、そいつは裏の人間になる。どれだけ聖人君子に生まれ変わろうが、けっきょくは裏で生きていた人間・・・・・・・・・なんだ」


 イギリスに降り立って、スコットランドの街並みをバルタサールたちと歩いたとき、アレクシアの目には、父と母に両手をつながれて、笑いながら歩く小さな子どもの姿が映った。周囲には、幸せそうに手をつないでいる老夫婦、公園で鬼ごっごに興じる子どもたち。初々しい様子で並んで歩く男女。そして、それらを取り巻く優しい空気。

 幼いときに自分が捨てた未来。光に包まれているかのような、温かく、優しい感触に、彼女は立ちつくした。ライターで家族の写真を焼いたときのことが脳裏に浮かび上がる。お父さんも、お母さんも、兄妹たちも、みんなどうしてるんだろう。子どものときは、父が憎くてしょうがなかった。なにもできない自分が悔しかった。だから、力を持つ者たちにすがり、自分もその一員になることで、心の穴を埋めたはずだった――あのまま家に戻っていたら、あんな風になれたのかな。

 新天地で仕事をこなすたび、捨てたはずの光が現れて自分から一歩ずつ離れていく気がして怖かった。

 アレクシアは何度目かもわからない寝返りを打った。組織のアジトを抜け出した日も、こんな眠れない夜だった気がする。

 どれだけ貢献していようが関係なく、裏切れば相応の結末が待っている。それが組織だ。アレクシアもよくわかっている。中途半端だった覚悟のせいで、カーティスやクライヴとつながりができてしまったことも、彼女には罪悪感として重くのしかかった。バルタサールたちがその気になれば、ふたりのことなどかんたんに調べられるだろう。命の危険がおよぶかもしれない。

 貴重な情報を持っていることが唯一の武器だが、それと引き換えに、バルタサールがカーティスたちを見逃すとも限らない。そもそも、あれが重要かもわからない。

 考えることにも疲れたアレクシアは、そっと目を閉じた。少しすると強烈な眠気が押し寄せてきた。不安はそのままに、彼女はまどろみに体を委ねた。

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