第一部 十五
ケンジントン地区の一角。赤い屋根がトレードマークの一軒家を目指し、疲れた体を引きずるようにクライヴは歩いていく。薄手のコートが夜風になびく。
ドアを開けて中に入ったとたん、小さな子どもが廊下の奥から走ってきた。
「おかえり!」
「ケビン、ただいま――」
重大組織犯罪局警部の血を受け継ぐ少年は、クライヴの足に抱きついた。二十二時だというのに、ケビンは父の帰りを待っていた。少しして、リビングから金髪の女性が顔を出した。長いまつ毛に細めの目、うれしそうに笑う唇。
「ただいま、ポーラ」
「おかえりなさい」
足にしがみついたままのケビンを抱っこしてリビングまで運ぶと、クライヴは廊下の階段を上がって自室へ向かった。コートをハンガーに引っかけ、クローゼットにしまい込むと、ネクタイを緩めて第一ボタンを外し、ベッドに横たわった。スマートフォンを取り出し、
『もしもし』
『クライヴだけど、調子はどうだ?』
『元気だぞ。体の具合もすこぶるいい』
『ああ、言葉が悪かった。そっちじゃなくて、アレクシアとの旅行のことだよ』
『そっちか。極めて順調だな。心置きなく
アレクシアと仲良くなれていることを知ったクライヴは、カーティスの今後の予定を訊いて意見を出し合った。二十分ほど話し込んだ末、ひと段落して通話を切る。
椅子に腰かけると、机の上に置かれた一枚の写真を見た。高校卒業のときにカーティスやほかの友だちと撮った集合写真。みな屈託のない笑みを見せながら、ピースサインを正面に向けている。カーティスが押し倒さんばかりの勢いで自分と肩を組んでいる姿を見て思わず笑った。
視線を右にずらすと、カーティスが肩を組んでいるもうひとりの男がいた。クライヴの顔からすぐに笑みが消えた。写真のなかで誰よりも幸せそうに笑っている赤毛の男――チャーリー・オルコット。持ち前の明るさ、優しさを、偶然によって奪われた男。
ロンドンのケンジントンで生まれたクライヴは、旅行会社に務める父、専業主婦の母のもとに生まれたひとりっ子だった。どこにでもいるふつうの男。高校生のときにカーティスと出会い、すぐに意気投合した。世界史を調べるだけでなく高校生らしいこともした。カーティスを始めほかの友だちと授業をサボったり、隠れて漫画を読んだり。
悪友のなかにはチャーリーもいた。お人好しで厄介ごとに首を突っ込みがちなカーティスを止めるため、クライヴとともにストッパーの役割もこなしていた。三人でよく出かけては、グラスゴーの街を歩き回った。
高校生になって迎えた最後の夏休みのことだった。カーティス、クライヴ、チャーリーの三人は、夜遅くまでグラスゴーの街中を歩いていた。すると、街灯が照らす下で、ふたりの警察官と口論になっている不審な男性を見つけた。
割って入ろうとカーティスが身構える。
「止めとけって。あんなのに割り込んだら死ぬかもしれないぞ」
「チャーリーの言う通りだ。ここは警察に任せよう。僕たち素人が介入しても、彼らの足を引っ張るだけだ」
「……それもそうだな」
三人でその場を避けるように通ったところ、不審者が叫んだ。
「助けてくれ、俺は無実なんだ、頼む!」
男は警察官たちの拘束を振り切ってこちらに突っ込んできたかと思うと、そのままチャーリーと派手にぶつかり、お互いに転倒した。カーティスとクライヴがチャーリーを引き起こすと、不審者は腹を押さえながら手錠をかけられ、パトカーとともに去っていった。カーティスがどさくさに紛れて男の腹に拳を一発入れたのだ。
「見たか、あいつの涙目で恨めしそうにした顔。ざまあねえな!」
「スカッとしたよ。ありがとう」
チャーリーは礼を言った。そのまま三人は解散し、夜の闇に消えていった。
一ヵ月後、チャーリーは廃人になった。
不審者は粉末状のヘロインの袋を所持していた。それを警官から奪われまいと、チャーリーにぶつかった瞬間、彼の着ていたジャケットのポケットに忍び込ませた。ほんの百グラム。立ち上がる衝撃のせいで、いつの間にか加わった重さにチャーリーは気づかなかった。無論、クライヴも、カーティスも。
チャーリーの母親の話では、その日以降の彼は明らかに様子がおかしかったという。学校はよく休んでいたし、外出もしていた。いつしか黒い噂も立ち始めた。
三週間後。彼の自宅に警察の捜査が入り、中南米から流れる麻薬を捌いている業者とのつながりが判明した。チャーリーの部屋の引き出しに隠されていた例の袋はズタズタに引き裂かれていて、本人の指紋が大量に見つかったが、そのうち複数の小さな穴には、指紋を始め作為的に開けられた証拠が出なかった。
警察は、最初の吸引は偶然だったと判断した。袋に空けられていたわずかな穴からヘロインが漏れ出し、空中に舞っていたところを、
一年経ち、クライヴはカーティスを連れてチャーリーのもとへ行った。ふたりは驚いた。チャーリーはふつうの生活を送っていたのだ。朝起きて、三回の食事とともに、同棲者たちととりとめのない会話をし、外で汗を流す。
だが、一般人にとっての常識こそ、チャーリーの苦痛にほかならなかった。一日のリハビリを終え、弱々しい笑顔で話すチャーリーに胸を締め付けられる思いだった。
あの日、三人の前に出てきた不審者の狙いは、チャーリーではない。突っ込んださきにチャーリーがいただけだった。彼は運悪く無差別犯罪の被害に遭った。それだけだった。チャーリーの位置にカーティスがいればカーティスが、クライヴがいればクライヴが、快楽を求めて終わりのない地獄をさまようことになっていた。被害者にならなかったことに対する安堵よりも、あの男への復讐心と怒りが勝っていた。警察が業者を逮捕したという報せが入ったとき、悔しかった。自分の手で連中を断罪できないことが。
高校を卒業し、カーティスはイギリス陸軍に入隊し、クライヴは警察に入るため大学への進学を決めた。カーティスは外敵から国を守るため、クライヴが犯罪から国を守るため、それぞれが正義感を携えて道を歩みだした。
クライヴは立ち上がり、夕飯を食べるために自室を出て階段を降りた。ケビンはすでにベビーベッドですやすやと眠っている。息子を起こさないよう慎重に移動しながら食卓につくと、待っていたポーラとともに遅めの夕食をとった。
※
つぎの日の昼時。気持ちよさそうに寝ているケビンと、側で彼をあやしていたポーラにキスをし、クライヴは自宅を出た。駐車場に停めてある車に乗り込むと、東を目指してロンドンを発つ。行き先は、カンタベリーにあるカンタベリー大聖堂であった。
◆◆
大英博物館を見終えたカーティスとアレクシアは、休憩のためトラファルガー広場を訪れていた。空はあいにくの曇りだったが、ロンドンを歩く人々の活気に変わりはない。広場にも多くの人がいて、写真撮影や世間話に興じている。
「あなたの言う通りだった。全部見回ろうなんてしなくてよかったわ」
敷居が高そうという理由から大英博物館にはまだ行っていなかったようで、お供を連れたアレクシアは意気揚々と館内へ続く入口をくぐった。全部じっくり見ると言い張っていた彼女だが、パンフレットを読み始めるとみるみる血相を変えていった。仕方なく、今回は一階の西側だけを制覇することにしたのだが、それでも、十時に入場したのが、いまは十六時になっている。あたりは日が沈みかけており、広場に立っているネルソン提督像の輪郭も判別しにくくなっていた。
「また今度見に来よう」
ふたりはベンチから立ち上がると、大英博物館から南東、ブラックフライアー駅の側にあるパブ・ブラックフライアーに向かった。テムズ川を東に少し進み、店のドアを開ける。時間帯によってはすぐ満員になるこの店だが、今日は平日で、しかも早い時間だからか、活気づいている店内は、空間に少し余裕があった。空いている席を見つけ、ふたりで座る。カーティスはサンブルクとビーフリブパイをふたり分頼んだ。
「ここは有名どころだから、いろんな人が集まる。だから外国人でも気楽に入れるんだ」
「アルゼンチン人も?」
「もちろん。たしかめたことはないが」
カーティスとアレクシアは、店員が届けてくれたジョッキを手に取って乾杯した。アレクシアは勢いよくジョッキを傾けると、喉仏が忙しなく上下に動き出した。
一方のカーティスはジョッキを持ったまま、中に注がれているビールを見つめていた。ジョッキをテーブルに置いたアレクシアは、
「どうしたの? 具合悪い?」
「いや、違うんだ」
――過去を秘密にしているという事実が足枷になっているのです
ローレンス神父の言葉が脳裏に浮かぶ。
まだ付き合いの浅い彼女になら話せるかもしれない。カーティスは意を決し、大きく深呼吸した。
「昔、イギリス陸軍にいたんだ」
喉から出かけた言葉を、彼はどうにか外へ引っ張り出した。難儀したのは最初だけで、あとはスラスラと口が動いていった。
「陸軍に? すごいじゃない」
「イラクにも行った」
アレクシアは、左に座っている物憂げな表情のカーティスを見つめていた。カーティスがなにを言いたいのか、彼を見つめる碧眼は見通しているようだった。
「軍隊時代のこと、教えてくれるの?」
「
アレクシアはうなづいた。
「うん。訊かせて」
◆◆
夕日を受けたカンタベリー大聖堂は、優雅で威厳ある姿を堂々とさらけ出していた。近場に車を止めたクライヴは、ゴシック様式の入口をくぐる。聖堂内には観光客たちと話す神父の姿があった。ローレンス神父だ。こうして神父の顔を見るのは、高校生のときにカーティスに写真を見せられて以来だったが、十数年前とほとんど変わっていない。穏やかそうな人だった。
観光客たちが彼の側を離れたときを見計らい、クライヴは近づいた。彼に気付いた神父は優しく微笑んだ。
「ローレンス・アンカーソン神父ですか?」
「はい。大聖堂について、なにか訊きたいことが?」
「……いえ、自分はカーティスの友だちでして、クライヴ・エインズワースと言います」
「彼から話はよく訊いていますよ、クライヴさん。スーツに目がないかっこつけ野郎だと」
ローレンスは笑いながら言った。
神父様にそんなこと吹聴していたのか。クライヴは密かに悪態をついた。
「……カーティスのことについて訊きに来たのですか?」
「あいつは、イラク戦争に従軍していたときのことをあまり話そうとしないのです。日曜学校時代から彼のことを知っている神父様ならと思いまして」
「知っています。あなたがたがカーティスとともに
「そこに関しては、自分から言えることはなにもありません」
「それは私も同じです。本人が話そうとしないなら、彼の過去について私から話せることはなにもありません」
ローレンスが断ることをクライヴは予想していた。だが、ここで引いたら二度目はない。カーティスを変えた出来事、そこにつながる唯一の手がかりなのだから。
クライヴはスーツの胸ポケットに手を突っ込むと、警察手帳を取り出した。
「重大組織犯罪局所属の警部として、カーティス・サカキバラについての情報提供を求めます。これは、私たちの組織がより連携を深め、振りかかる危険を少しでも回避するための必要な措置です。もちろん、法的拘束力はありませんので、任意になりますが」
ローレンス神父はクライヴをわずかに睨みつけた。彼は祭服をなびかせながら後ろを振り向くと、礼拝堂の奥に向けて祈りを捧げた。長い沈黙がふたりを取り巻いた。
「――大切な友人なんです。どうか、お願いします」
ローレンスは振り向くと、
「もうそろそろ閉館です。私の自宅においでください」
カンタベリー大聖堂が静けさに包まれた後、ローレンス神父に連れられ、クライヴは彼の自宅を訪れた。妻のアマンダにあいさつをし、夫の自室へ向かう。室内には、聖書や神学を中心に、歴史学、民俗学などの書物を納めた本棚、作業用のための机のみ。質素な部屋だった。
ローレンスはクライヴを招き入れ、クッションがのせられた椅子をふたつ持ってきた。机の前に置き、クライヴとローレンスは腰かけた。縦長の窓枠から見える外は暗く、すぐ前の街灯が地面に月を描いている。
「カーティスは、イラク戦争での経験を事細かに話してくれました。それも、一度だけではありません。よほど辛かったのでしょう」
クライヴは黙って訊いていた。
「お話をする前に、ひとつだけ約束をしてください」
「なんでしょうか」
「このことはカーティスに言わないでほしいのです。彼自身のために」
クライヴはうなづいた。
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